婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……ジェイド様」

「なんだ?」

「私の記憶が確かならば、貴方はプロポーズの際、『全部俺がやるから、君は当日立っているだけでいい』と仰いましたよね?」

「言ったな」

「では、目の前にあるこの物体はなんですの?」

私は執務室の机に積み上げられた、色とりどりの紙の山を指差した。

「招待状のサンプルだ」

ジェイド様は爽やかな笑顔で答えた。

「紙質だけで五十種類、インクの色が二十種類、封蝋のデザインが三十種類ある。……さあ、好きなものを選んでくれ」

「……帰っていいですか?」

私は白目を剥いた。

選ぶだけ、と言うが、その「選ぶ」という行為が最もカロリーを消費するのだ。

「どれでもいいです。一番高いやつにしておいてください」

「ダメだ。俺たちの結婚式だぞ? 紙の質感一つにも、二人の愛の重みを表現したいんだ」

「重みなら、金の延べ棒でも送りつければ十分伝わります」

「それは賄賂だ」

ジェイド様は譲らない。

彼はこの結婚式に、並々ならぬ情熱を注いでいる。

王都の貴族たち、実家の父、そして元婚約者のカイル殿下……全員に対して「イーロアは俺のものだ」と誇示するための、一大イベントなのだ。

「……はぁ。わかりました」

私は諦めてサンプルを手に取った。

「では、一番手触りが良くて、枕の下に敷いても違和感のない、この『最高級羊皮紙・シルク仕上げ』にします」

「よし、採用だ。……次は封蝋のデザインだが、家紋にするか、二人のイニシャルを絡ませたデザインにするか……」

「リリィ!」

私は助っ人を呼んだ。

シュタッ。

天井裏からピンク色のメイドが降ってきた。

「お呼びでしょうか、イーロア様!」

「この封蝋のデザイン、貴方の『直感』で選びなさい。三秒以内で」

「了解です! ……これ! 『絡み合う二匹の蛇』のデザイン! 執着深そうで素敵です!」

「採用」

「えっ、蛇?」

ジェイド様が少し引いているが、私は無視して決定印を押した。

「次は?」

「……引き出物の選定だ」

ジェイド様が分厚いカタログを出してくる。

「皿、時計、タオルのセット……定番はいろいろあるが」

「金貨でいいのでは?」

「だから賄賂になる。……もっとこう、貰って嬉しくて、記念に残るものがいい」

「では、当領特産の『魔物除けのお札』はどうでしょう? 実用的ですし」

「呪いのアイテムだと思われるだろうが」

議論は平行線をたどる。

私は思考を放棄し、ソファに沈み込んだ。

「……もう疲れました。糖分が足りません」

「仕方ないな」

ジェイド様は苦笑し、ベルを鳴らした。

すぐにワゴンが運ばれてくる。

今日のおやつは、結婚式で出す予定のウェディングケーキの試作品(ミニサイズ)だ。

「わぁ……」

私の目が輝く。

三種類のケーキが並んでいる。

A:濃厚なチョコレートムースとフランボワーズ。
B:純白の生クリームとたっぷりのイチゴ。
C:香り高いピスタチオとアプリコット。

「どれにするか、試食して決めてくれ」

「これなら幾らでも働けます!」

私はフォークを構えた。

パクッ。

「……んんっ! Aは濃厚! 口溶けが罪深いです!」

「そうか。Bはどうだ?」

「王道にして至高! スポンジが空気みたいに軽いです!」

「Cは?」

「……大人の味ですね。ワインに合いそう」

私は至福の表情で三つとも完食した。

「……選べません。全部採用しましょう」

「全部?」

「はい。三段ケーキにして、一段ごとに味を変えるのです。……そうすれば、ゲストも私も飽きずに最後まで楽しめます」

「……なるほど。合理的かつ強欲な案だ」

ジェイド様は感心したようにメモを取った。

「よし、料理に関しては君に全権を委ねよう。……メインの肉料理も、スープも、君が『美味しい』と思ったものにする」

「任せてください。私の舌は正直です(高いものしか美味しいと言いません)」

最大の難関である「食事」が決まり、私は安堵した。

だが、最後にラスボスが待っていた。

「……最後に、誓いのキスのリハーサルだ」

「は?」

ジェイド様が真顔で言った。

「当日の段取りを確認しておきたい。角度とか、長さとか」

「いりませんよそんなもの! ぶっつけ本番で十分です!」

「ダメだ。失敗して君の鼻にキスしたら、一生の恥だ」

「中学生ですか貴方は!」

「リハーサルだ。……ほら、目を閉じて」

彼が顔を近づけてくる。

逃げようとするが、ソファの背もたれに追い詰められる。

「リリィ! 助けなさい!」

私は叫んだが、リリィは「キャー! 見ちゃダメですけど見ます!」と言いながら、指の隙間からガン見している。

役立たず!

「……んっ」

唇が重なる。

軽く触れるだけのバードキスかと思いきや、ジェイド様は私の後頭部に手を回し、深く、濃厚な口づけをしてきた。

「……んぅ……!」

息ができない。

甘い。ケーキの味と、彼の熱が混ざり合って、頭がクラクラする。

長い。

リハーサルにしては長すぎる。

ようやく唇が離れた時、私は顔を真っ赤にして息を切らしていた。

「……っ、バカ! 窒息させる気ですか!」

「すまない。……君が可愛すぎて、つい」

ジェイド様は、満足げに唇を舐めた。

「……本番は、もっと長くするから覚悟しておけよ」

「欠席します!!」

私はクッションを投げつけた。

こうして、ドタバタと騒がしい準備期間は過ぎていった。

面倒くさいことばかりだったけれど。

不思議と、「やめたい」とは思わなかった。

(……まあ、美味しいケーキも食べられたし)

それに、あんなに楽しそうに準備をするジェイド様を見ていると、私の「面倒くさい」という感情も、少しだけ「幸せ」という感情に上書きされていくような気がしたのだ。

……あくまで、少しだけだけど。

次回、『結婚式』。

……いよいよ本番。立つだけでいいって言いましたよね?
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