はい?婚約破棄、承りました!

萩月

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「――カイルぅぅぅ!! 我が愛しの弟よ!! 元気にしておったかぁぁぁ!!」

平和が戻ったはずの王宮に、ジュリアン殿下の騒音とはまた種類の違う、腹の底に響くような爆音が轟いた。
執務室の窓ガラスがビリビリと震える。
私は反射的にカイル殿下を庇うように立ち上がったが、殿下は既に白目を剥いて魂が抜けかけていた。

「……(……帰りたい)」

「殿下、諦めないでください。敵は物理攻撃ではなく、音波攻撃の使い手のようです。
それにしても、この暑苦しい声……もしや」

扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開け放たれた。
そこに立っていたのは、カイル殿下を二回りほど大きくしたような、熊のような体格の大男だった。
顔立ちは殿下に似て整っているのだが、満面の笑みと、筋肉でパンパンに膨れ上がった服のせいで、高貴さよりも「圧」が勝っている。

レオンハルト王国第一王子、テオドール殿下である。

「おお! いたいた! 心配したぞカイル!
隣国のバカ王子が乗り込んできたと聞いて、俺は居ても立っても居られず、北の国境警備(という名の筋トレ)から戻ってきたのだ!」

テオドール殿下は、ドスドスと床を鳴らして歩み寄ると、カイル殿下を万力のような力で抱きしめた。
カイル殿下の背骨から、メキメキという嫌な音が聞こえる。

「……(ぐふっ……! は、離せ……筋肉ダルマ……!)」

「カイル殿下が瀕死です! テオドール殿下、直ちにリリースしてください!
貴方の愛情表現は、法医学的には『絞殺未遂』に分類されます!」

私が扇でテオドール殿下の二の腕(岩のように硬い)を叩くと、彼は「ん?」と不思議そうに私を見た。

「おや、そこにいるのは噂の『通訳嬢』か?
カイルが公衆の面前で『私の心そのものだ』と叫んだという……。
ガハハ! 聞いたぞ聞いたぞ! あの無口なカイルが、そこまで熱くなるとはな!
兄として感無量だ!」

「……情報は光の速さですね。そして声がデカいです。
カイル殿下が無口になった原因の八割は、貴方のその騒音にあると推測されますが、自覚はおありで?」

「細かいことは気にするな!
それより嬢ちゃん、名はミナ言ったな。
俺はカイルを溺愛している。この国の王位などどうでもいいが、カイルの嫁選びには妥協せんぞ!
貴様ごとき細腕の令嬢に、我が弟の繊細なメンタルと、この国の荒波が支えられるか!?」

テオドール殿下は、私の目の前で仁王立ちになり、威圧するように見下ろした。
なるほど。弟を愛するがゆえの査定、というわけか。
面倒くさい兄弟だ。だが、嫌いではない。

「……細腕、ですか」

私は扇をパチンと閉じ、ニッコリと笑った。

「テオドール殿下。筋肉の量で物事を判断するのはおやめなさい。
脳みそまで筋肉になっていると誤解されますよ?
私はこれでも、元国では国家予算という『数百トンの重み』を一人で支えておりました。
物理的な腕力は貴方に劣るかもしれませんが、この国を回す『知力』と、カイル殿下を守る『胆力』においては、貴方のその大胸筋よりも分厚いつもりです」

「な……っ!? お、俺の自慢の大胸筋よりだと……!?」

テオドール殿下が、自分の胸を触って動揺する。
私はさらに畳み掛ける。

「それに殿下。貴方、帰還早々、執務室の床に泥をつけていますね?
北の国境の土でしょう。掃除をするメイドの労力を考えたことは?
筋肉を鍛える前に、まずは『気遣い』という繊細な筋肉を鍛えてはいかがですか?
カイル殿下は、その点において貴方より遥かに『マッチョ』な精神をお持ちですよ」

「……」

テオドール殿下は、ポカンと口を開けて私を見つめた。
そして、次にカイル殿下を見て、また私を見た。
……沈黙。
カイル殿下は、息も絶え絶えになりながらも、私に向けて「よく言った」と親指を立てている。

「……ガハハハハ!!!」

突然、テオドール殿下が爆笑した。
鼓膜が破れるかと思った。

「面白い! 気に入ったぞ、ミナ!
俺の筋肉論破に真正面から挑んできた女は、母上以来だ!
カイルが惚れるのも無理はない!
よし、認めてやろう! 貴様は今日から『俺の妹(予定)』だ!」

「お断りします。お兄様と呼ぶには、貴方は少々暑苦しすぎます。
夏場は半径五メートル以内に近づかないでいただけますか?」

「ガハハ! 遠慮がないな!
いいぞいいぞ! カイル、いい嫁を見つけたな!
これなら俺も安心して『隠居』できるというものだ!」

「……は?」

私とカイル殿下の声が重なった。
隠居? まだ二十代後半の、エネルギーの塊のようなこの男が?

「うむ。俺は決めたのだ。
王位継承権は全てカイルに譲る。俺は王宮を出て、夢だった『筋肉トレーナー』として世界を巡る旅に出る!」

「……(……はぁ!?)」

カイル殿下が、再び白目を剥いた。
私は頭痛を堪えながら、テオドール殿下の極太の腕を掴んだ。

「お待ちなさい。勝手なことを言わないでください。
カイル殿下は『補佐官としての私』は必要としていますが、『王様』になるなんて一言も……」

「いや、俺は本気だ!
書類仕事は大嫌いだし、玉座は窮屈で尻が痛くなる!
カイル、お前ならできる! ミナがいれば無敵だ!
俺は旅立つ! さらばだ!!」

テオドール殿下は、言いたいことだけを叫ぶと、台風のように窓から(!)飛び出して去っていった。
ガシャーン! というガラスの割れる音と共に、庭の植え込みに着地する音が聞こえる。

「……」

執務室に残されたのは、割れた窓ガラスと、泥だらけの床と、放心状態の私たち。
カイル殿下は、ゆっくりと顔を覆い、深く、深くため息をついた。

「……(……ミナ)」

「はい、殿下」

「……(……殺してくれ。今すぐ、あの筋肉を)」

「お気持ちは分かりますが、死体処理が大変そうです。
……それより殿下。どうやら私たちは、とんでもないものを押し付けられたようですよ」

「……」

カイル殿下は、割れた窓から入ってくる風に銀髪を揺らしながら、遠い目をした。
王位継承。
それはつまり、私たちがこの国の「頂点」に立ち、逃げ場のない責任を負うということだ。

「……(嫌だ。私は、お前と静かに暮らしたいのに)」

「奇遇ですね。私も『王妃教育』なんて面倒なものは御免です。
……ですが、殿下。
あの筋肉バカ……いえ、お兄様が王になるよりは、殿下がなった方が、この国の『美的景観』は守られると思いませんか?」

「……(……否定は、できない)」

カイル殿下は、諦めたように苦笑した。
元婚約者の次は、自由すぎる兄。
私の「再就職先」は、どうやら私が思っていた以上に、ブラックで、やりがいのある職場のようである。

「さあ、殿下。まずは窓の修理の手配と、お兄様の『捜索願(捕獲命令)』を出しましょう。
王位を譲るにしても、退職金代わりに『国中のプロテイン』を巻き上げてからにしませんと」

私は腕まくりをして、散らかった部屋の片付けを始めた。
次期国王候補とその婚約者。
新たな称号を手に入れた私たちの毎日は、まだまだ静寂とは程遠いようだった。
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