「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

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「……見なさい、アナ。あれが今回の私の獲物よ。あれを手に入れるためなら、私はたとえ火の中、オーブンの中、あるいは公爵家の地下牢にだって戻ってみせるわ!」


バニラ領の隣国で開催される、年に一度の大規模な「聖ミカエル焼き菓子祭」。
その中央広場の壇上には、厳重な警備に守られた一つの小さな木箱が鎮座していました。


「お、お嬢様、落ち着いてください! 鼻息で小麦粉が舞ってますって! あ、あれが噂の優勝賞品……『千年の涙』と呼ばれる伝説の塩ですね?」


「そうよ! 北の凍てつく海から百年に一度しか採れないという、奇跡の結晶。あの塩特有の、まろやかな旨味とエッジの効いた塩分濃度……あれをクッキーの生地に一振りすれば、甘みの奥に無限の宇宙が広がるはずよ!」


私は、まるで国宝でも見つめるような恍惚とした表情でその木箱を凝視しました。
隣に立つガレット辺境伯は、重厚な鎧姿で腕を組み、呆れたようにため息をつきました。


「……貴様、そのためだけに俺に軍隊を動かさせたのか? このコンテストの警備と、貴様の『クッキー運搬車』の護衛で、我が領の精鋭たちが汗を流しているんだぞ」


「何を言っているのですか、辺境伯様。これは立派な『領土防衛』の一環ですわ。最高の塩を手に入れ、私のクッキーがさらに進化すれば、騎士様たちの士気は現在の三倍、いや十倍には跳ね上がるはず。実質的に、城の壁を三メートル高くするのと同じ効果がありますのよ?」


「……詭弁もそこまでいくと清々しいな」


ガレット辺境伯は眉間を押さえましたが、その手にはしっかりと、私の予備の麺棒が握られていました。
彼もまた、私の狂気に毒され、いつの間にか「クッキー補助官」としての役割を完璧にこなすようになっていたのです。


「さあ、出場者の皆様! 調理開始の鐘が鳴ります! 制限時間は二時間! この広場に集った百名の職人の中から、最も『奇跡』に近い一品を焼き上げた者に、伝説の塩を授与します!」


司会者の高らかな宣言と共に、広場中に一斉に火が灯りました。
周囲の職人たちは、王都の有名店から来た者や、隣国の宮廷菓子職人など、そうそうたる顔ぶれです。


「ふん、見なさいよ。あんな煤だらけの娘が混じっているわ」


「辺境の田舎者が、この芸術の祭典に何の用かしら。クッキー? そんな子供のオヤツで、この繊細なマカロンやタルトに勝てると思っているのかしらね」


周囲から嘲笑の声が聞こえてきましたが、私には一ミクロンの影響もありません。
私の視界には、今、計量器と、最高級のバター、そして私の魂である小麦粉しか映っていないのですから。


「……アナ、温度計。室温二十二度、湿度四十八パーセント。完璧なコンディションよ。さあ、私に従いなさい、素材たち! 貴方たちの存在意義を、この私が今、証明してあげるわ!」


私は流れるような動作でバターを練り始めました。
その速度は、もはや人の目では追えないほどの高速回転。
「メレンゲ攪拌機・プロトタイプ二号」の技術を応用した、私の腕の動きが真空状態を作り出します。


「な、なんだあの動きは!? バターが……バターがまるで、生きて踊っているようだ!」


「……見て、あの小麦粉のふるい方。一粒のダマも残さないどころか、粉自体が光り輝いているわ!」


周囲の野次馬たちが、ざわつき始めました。
私は一切の無駄を削ぎ落とし、ただひたすらに「サクサクの極み」を目指して生地を成形していきます。


「……チップ。火の準備はいいか」


ガレット辺境伯が、まるで戦場に赴くような真剣な面持ちで、特製オーブンの火加減を調整します。


「ええ、辺境伯様。四分三十秒後に最高温度へ。そこから徐々に熱を逃がし、最後の一分で『黄金の余熱』を閉じ込めるわ。一秒の狂いも許されませんわよ」


「……心得た。我が大剣にかけて、この火は守り抜く」


辺境伯領の主が、オーブンの前で火の番をしている。
その異常な光景に、審判団たちも冷や汗を流しながら見守っています。


「……来たわ。この香ばしさ、そして生地がわずかに膨らむこの『呼吸』……。これが、伝説を冠するに相応しい、私の最高傑作の産声よ!」


私がオーブンの扉を開けた瞬間、広場全体に、他の職人たちの香りをすべてかき消すほどの、暴力的なまでに甘美な香りが吹き荒れました。


「……ッ!? なんだ、この匂いは……! 嗅いだだけで、これまでの人生の悩みがどうでもよくなるような……!」


「体が……体が勝手に、あのオーブンの前へ引き寄せられるわ……!」


広場にいた数千人の観衆が、一斉に私の元へと詰め寄ろうとしました。
それをガレット辺境伯が威圧感だけで押し留めます。


「下がれ。これはまだ、完成していない。この女が『よし』と言うまでは、一欠片も触れさせん」


私は慎重に、焼き上がったばかりのクッキーを網の上に乗せました。
湯気と共に立ち上る香りは、もはや神々しさすら感じさせます。


「……ふぅ。これで、準備は整ったわ」


私は自信満々に、審査員席へと歩み寄りました。
私の手にあるのは、見た目は極めてシンプル、しかしその内部に無限の空洞とサクサク感を閉じ込めた「究極のプレーン・クッキー」です。


「……さあ、食べてご覧なさい。貴方たちのこれまでの『食』の概念が、音を立てて崩れ落ちる瞬間を」


審査員たちが、震える手でクッキーを手に取りました。
彼らの口が開き、その前歯が黄金色の縁に触れた瞬間――。


広場全体に、奇跡の音が鳴り響こうとしていました。
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