「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

文字の大きさ
16 / 28

16

しおりを挟む
審査員たちの前歯が、黄金色のクッキーに触れたその瞬間。
広場全体を支配していたざわめきが、嘘のように消え失せました。

――パキィィィンッ!

それは、まるで冬の朝に張り詰めた薄氷が、清らかな音を立てて割れるような……。
あるいは、熟練の剣士が名刀を鞘に収める時のような、鋭くも心地よい衝撃音でした。

「……っ!? な、なんだ、この音は!?」

一番端に座っていた、王都でも名高い美食家として知られる老伯爵が、目を見開いて絶句しました。
彼の口内では今、クッキーが砂時計の砂のようにサラサラと解け、それと同時に濃厚なバターの香りが爆風となって鼻腔を駆け抜けています。

「……信じられん。噛んだ瞬間に、生地の中に閉じ込められていた『空気』が弾けたぞ! この軽さ、そして後から追いかけてくるこの圧倒的な小麦の旨味……!」

「ああ、見てください! 断面に、まるで蜂の巣のような微細な空洞が幾層にも重なっている! この空洞こそが、この奇跡の食感を生み出しているのか!」

審査員たちが、涙を流しながら次々とクッキーを口に放り込みました。
彼らはもはや審査など忘れ、ただの「飢えた子供」のように、チップのクッキーを奪い合っています。

「素晴らしい……! これぞ、焼き菓子の真理だ! これに比べれば、他の職人たちが作った凝った細工のケーキなど、ただの重たい泥の塊に過ぎない!」

「優勝だ! 文句なしの優勝だ! 伝説の塩は、この乙女に捧げられるべきだ!」

会場中がチップを称える歓声に包まれようとしたその時。
「異議あり!」という鋭い叫びが、広場に響き渡りました。

人混みを割って現れたのは、フリルが過剰についた白い調理服に身を包んだ、金髪の男でした。
彼は自身の作品である、宝石のように着飾られた「三十六層の極彩色タルト」を掲げ、チップを指差しました。

「待て! 審査員諸君! そんな子供騙しの焼き菓子に、この由緒あるコンテストの栄冠を譲るなど、私は認めないぞ!」

「……あら。どなたかしら、私のサクサクの余韻を邪魔する不躾な方は」

チップは、手にした麺棒をくるりと回し、冷ややかな視線を男に向けました。

「私は王立菓子職人団の筆頭、クロワッサン・ド・ショコラだ! お嬢さん、貴様の作ったそれは、ただのクッキーだろう? 菓子作りとは、美しさと複雑さ、そして高貴な素材の調和だ。そんな地味な茶色の円盤が、私の芸術に勝てるとでも思っているのか!」

「ショコラ……? 名前だけは美味しそうですわね。でも、貴方のそのタルト……見た目ばかりに気を取られて、肝心の『魂』が死んでいますわよ」

「魂だと!? 何を無礼な!」

チップは一歩前に踏み出し、クロワッサンのタルトを指差しました。

「貴方のタルトの底面……湿気でふやけていますわね? その上に乗っている重たいフルーツのせいで、生地が悲鳴を上げているわ。そんな『ふにゃふにゃ』なものを、私の『サクサク』と同じ土俵に上げようなんて、百万年早くてよ」

「ふ、ふやけてなどいない! これはしっとりとした食感を楽しむための……」

「いいえ、それはただの計算ミスですわ。素材の水分量を把握できず、見た目の派手さに逃げた。菓子職人として、これ以上の恥辱があるかしら?」

チップの言葉は、まるで鋭いナイフのようにクロワッサンのプライドを切り裂きました。
ガレット辺境伯が、背後から一歩前に出ました。
その圧倒的な武人の威圧感に、クロワッサンは腰を抜かしてその場にへたり込みました。

「……おい、派手な男。この女の言葉は、この領地の騎士たちの言葉と同じだ。俺たちの胃袋は、嘘をつかない」

「ひ、ヒィィッ! 辺境伯様……!?」

「審査は決まった。この女の勝ちだ。……チップ、さっさとその『塩』を受け取ってこい。俺の胃が、次の新作を待っている」

ガレット辺境伯の促しに、チップは満足げに頷きました。
司会者が震える手で、木箱に入った伝説の塩「千年の涙」をチップに差し出しました。

「優勝は、チップ・チョコラート殿! 伝説の塩は、貴女のものです!」

チップは木箱を受け取ると、中に入っていた結晶を一つ摘み、陽光にかざしました。
その輝きは、ダイヤモンドよりも美しく、彼女の瞳に情熱の炎を灯しました。

「……ああ、なんて愛おしいのかしら。このエッジの効いた結晶構造。これさえあれば、私の『塩キャラメル・クッキー・極』は完成するわ!」

チップは塩を抱きしめ、うっとりと頬ずりをしました。
周囲の観衆からは、戸惑い混じりの、しかし割れんばかりの拍手が送られました。

「おめでとうございます、お嬢様! これで私たちの勝利ですわ!」

「ええ、アナ。でも、これは始まりに過ぎないわ。この塩のポテンシャルを引き出すには、今度は『月の光で育ったカカオ』が必要になるかもしれないわね……」

「……まだ続くのか、その旅は」

ガレット辺境伯は深い溜息をつきましたが、その顔には、どこか誇らしげな色が混じっていました。
こうして、焼き菓子コンテストはチップの圧倒的な勝利で幕を閉じました。

しかし、広場の隅で、その光景を苦々しく見つめる影がありました。
王都から密かに派遣されていた、シュガー・ベリーの放った密偵です。

「……報告しなければ。チップ・チョコラートは、もはや一国の軍隊に匹敵する『胃袋掌握能力』を手に入れた、と」

チップのサクサクとした野望は、もはや誰にも止められない領域へと突入していたのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

何も決めなかった王国は、静かに席を失う』

ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、 表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。 だが―― 彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。 ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。 婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。 制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく―― けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。 一方、帝国は違った。 完璧ではなくとも、期限内に返事をする。 責任を分け、判断を止めない。 その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。 王国は滅びない。 だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。 ――そして迎える、最後の選択。 これは、 剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。 何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

枯渇聖女は婚約破棄され結婚絶対無理ランキング1位の辺境伯に言い寄られる

はなまる
恋愛
 らすじ  フレイシアは10歳の頃母と一緒に魔物に遭遇。その時母はかなりの傷を負い亡くなりショックで喋れなくなtったがその時月の精霊の加護を受けて微力ながらも魔法が使えるようになった。  このニルス国では魔力を持っている人間はほとんどいなくて魔物討伐でけがを負った第二王子のジェリク殿下の怪我をほんの少し治せた事からジェリク殿下から聖女として王都に来るように誘われる。  フレイシアは戸惑いながらも淡い恋心を抱きジェリク殿下の申し出を受ける。  そして王都の聖教会で聖女として働くことになりジェリク殿下からも頼られ婚約者にもなってこの6年フレイシアはジェリク殿下の期待に応えようと必死だった。  だが、最近になってジェリクは治癒魔法が使えるカトリーナ公爵令嬢に気持ちを移してしまう。  その前からジェリク殿下の態度に不信感を抱いていたフレイシアは魔力をだんだん失くしていて、ついにジェリクから枯渇聖女と言われ婚約を破棄されおまけに群れ衣を着せられて王都から辺境に追放される事になった。  追放が決まり牢に入れられている間に月の精霊が現れフレイシアの魔力は回復し、翌日、辺境に向かう騎士3名と一緒に荷馬車に乗ってその途中で魔物に遭遇。フレイシアは想像を超える魔力を発揮する。  そんな力を持って辺境に‥    明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。少し間が開いてしまいましたがよろしくです。  まったくの空想の異世界のお話。誤字脱字などご不快な点は平にご容赦お願いします。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。他のサイトにも投稿しています。

【完結】公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...