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「……ようやく、私の番が来たようだな」
行列に並び続けること三時間。
王太子カッサン殿下は、額の汗をシルクのハンカチで拭いながら、ようやく「サクサクジェネレーター二号」のカウンターの前に辿り着きました。
その目の前では、かつての婚約者であるチップが、特注の耐熱ゴーグルを額に上げ、真剣な眼差しで計量器の目盛りを睨んでいました。
「チップ。久しぶりだな。……随分と、忙しそうではないか」
カッサン殿下は、王族特有の「上から目線」の微笑みを浮かべました。
彼は確信していたのです。
これだけ繁盛していても、所詮は野外での立ち仕事。
公爵令嬢として育った彼女なら、そろそろ王宮のふかふかのベッドと、傅(かしず)く使用人たちが恋しくなっているはずだと。
「……三、二、一。はい、計量完了。アナ、この配合で第二陣のミキシングを開始して! 一ミリグラムの狂いも許さないわよ!」
「了解ですわ、師匠!」
「……おい、無視するな。私が来たのだぞ。この王国の次期国王たる、カッサン・ド・ラ・プランスがな」
カッサン殿下がわざとらしく咳払いをすると、チップはようやく顔を上げました。
しかし、その瞳に映っているのは愛しい元婚約者ではなく、彼の後ろにある「煙突の排煙効率」であることは明白でした。
「あら。殿下、まだ並んでいらしたの? 熱中症にでもなって倒れられたかと思いましたわ。……それで、ご注文は? お一人様、二袋までとなっておりますけれど」
「注文などどうでもいい! チップ、私は貴様に大事な話をしに来たのだ。……聞きなさい。貴様がいなくなってから、王宮の朝食は実に味気ないものになった」
カッサン殿下は一歩詰め寄り、声を低くして続けました。
「……認めてやろう。貴様のあの不気味な菓子には、確かに、何かしら人を惹きつける……魔力のようなものがある。シュガーもあんな風になってしまったことだしな。……そこでだ。チップ。特別に、貴様への追放令を解除してやってもいいと考えている」
チップは、ボウルの中の小麦粉を混ぜる手を一瞬止めました。
「……追放令を、解除?」
「そうだ。公爵家への復帰も、そして……私との婚約の継続も、検討してやらんでもない。どうだ? 今すぐその煤けたエプロンを脱ぎ捨てて、私と共に王宮へ戻るがいい。貴様には、王宮の地下に特設の『クッキー研究所』を作らせてやろう。そこで一生、私のために最高の一枚を焼く名誉を与えてやる」
カッサン殿下は、これ以上ない「慈悲」を与えたと言わんばかりの表情で、チップに手を差し出しました。
周囲の貴族たちが、その劇的な展開にどよめきを上げます。
しかし、チップの反応は、カッサン殿下の予想を斜め上どころか、成層圏を越える勢いで裏切るものでした。
「……お断りしますわ」
「……は?」
カッサン殿下の手が、空中で静止しました。
「今、何と言った? 聞き間違いか? 私は、戻ってきてもいいと言っているのだぞ?」
「耳はお悪くないようですわね。お断りします、と申し上げたのです。……殿下、今、何時だと思っていて?」
チップは、腰に下げた精密な銀時計をチラリと確認しました。
「……十時四十五分。それがどうした」
「最悪のタイミングですわ。今、このジェネレーターの予熱が、理想的な二百二十度に到達したところなのです。この熱を維持できるのは、あとわずか九十秒。この瞬間に生地を滑り込ませなければ、クッキーの内部に『黄金の空洞』が生まれないのですわ!」
チップはカッサン殿下の差し出した手を、ゴミを払うような動作で退けました。
「殿下と王宮に戻る? そんなことに時間を費やしている間に、このオーブンは冷めてしまいます。私にとって、貴方のプロポーズ……いえ、復縁の申し出とやらは、湿気った湿布(しっぷ)ほどの価値もありませんわ。……邪魔ですわよ、どいてくださいな。予熱が入ったオーブンは、王太子よりも待ってくれないのです!」
「な、ななな……ッ!? 私を予熱と比較したのか!? この私を、ただの熱気より下だと言うのか!」
「当然ですわ。熱気はクッキーを産みますが、殿下はクッキーの在庫を減らすだけですもの。……シュガー! 第一陣、投入用意!」
「はいっ! 殿下、危ないですからそこを退いてください! 今から私の情熱(物理的な熱風)が通りまーす!」
シュガーさんが巨大な天板を抱え、カッサン殿下を体当たり同然に弾き飛ばしました。
カッサン殿下は再び地面に転がり、呆然とした表情で、オーブンの中に吸い込まれていく黄金色の生地を見つめました。
「……信じられん。……フラれた。この私が……オーブンの予熱に、負けたというのか……」
カッサン殿下のプライドは、チップの鳴らしたオーブンのタイマー音と共に、粉々に粉砕されました。
チップはもう、殿下の姿など視界に入っていません。
彼女の全神経は、石扉の奥で膨らみ始めた「究極のサクサク」へと注がれていました。
「……ふふ、いいわ。最高の焼き色ね。殿下、復縁したいなら、せめて私のオーブンの火加減を十時間ほど無言で見守る根性を身につけてからいらして?」
「……チップ……貴様という女は……!」
カッサン殿下は、悔しさと、そしてどこか「やはり彼女はこうでなくては」という歪んだ感嘆を抱きながら、砂埃にまみれて立ち上がりました。
チップの心は、もはや王宮の権力などという狭い場所にはありませんでした。
彼女の愛は、オーブンの炎の中にあり、その情熱は、すべての壁をサクサクと食い破るために存在していたのです。
行列に並び続けること三時間。
王太子カッサン殿下は、額の汗をシルクのハンカチで拭いながら、ようやく「サクサクジェネレーター二号」のカウンターの前に辿り着きました。
その目の前では、かつての婚約者であるチップが、特注の耐熱ゴーグルを額に上げ、真剣な眼差しで計量器の目盛りを睨んでいました。
「チップ。久しぶりだな。……随分と、忙しそうではないか」
カッサン殿下は、王族特有の「上から目線」の微笑みを浮かべました。
彼は確信していたのです。
これだけ繁盛していても、所詮は野外での立ち仕事。
公爵令嬢として育った彼女なら、そろそろ王宮のふかふかのベッドと、傅(かしず)く使用人たちが恋しくなっているはずだと。
「……三、二、一。はい、計量完了。アナ、この配合で第二陣のミキシングを開始して! 一ミリグラムの狂いも許さないわよ!」
「了解ですわ、師匠!」
「……おい、無視するな。私が来たのだぞ。この王国の次期国王たる、カッサン・ド・ラ・プランスがな」
カッサン殿下がわざとらしく咳払いをすると、チップはようやく顔を上げました。
しかし、その瞳に映っているのは愛しい元婚約者ではなく、彼の後ろにある「煙突の排煙効率」であることは明白でした。
「あら。殿下、まだ並んでいらしたの? 熱中症にでもなって倒れられたかと思いましたわ。……それで、ご注文は? お一人様、二袋までとなっておりますけれど」
「注文などどうでもいい! チップ、私は貴様に大事な話をしに来たのだ。……聞きなさい。貴様がいなくなってから、王宮の朝食は実に味気ないものになった」
カッサン殿下は一歩詰め寄り、声を低くして続けました。
「……認めてやろう。貴様のあの不気味な菓子には、確かに、何かしら人を惹きつける……魔力のようなものがある。シュガーもあんな風になってしまったことだしな。……そこでだ。チップ。特別に、貴様への追放令を解除してやってもいいと考えている」
チップは、ボウルの中の小麦粉を混ぜる手を一瞬止めました。
「……追放令を、解除?」
「そうだ。公爵家への復帰も、そして……私との婚約の継続も、検討してやらんでもない。どうだ? 今すぐその煤けたエプロンを脱ぎ捨てて、私と共に王宮へ戻るがいい。貴様には、王宮の地下に特設の『クッキー研究所』を作らせてやろう。そこで一生、私のために最高の一枚を焼く名誉を与えてやる」
カッサン殿下は、これ以上ない「慈悲」を与えたと言わんばかりの表情で、チップに手を差し出しました。
周囲の貴族たちが、その劇的な展開にどよめきを上げます。
しかし、チップの反応は、カッサン殿下の予想を斜め上どころか、成層圏を越える勢いで裏切るものでした。
「……お断りしますわ」
「……は?」
カッサン殿下の手が、空中で静止しました。
「今、何と言った? 聞き間違いか? 私は、戻ってきてもいいと言っているのだぞ?」
「耳はお悪くないようですわね。お断りします、と申し上げたのです。……殿下、今、何時だと思っていて?」
チップは、腰に下げた精密な銀時計をチラリと確認しました。
「……十時四十五分。それがどうした」
「最悪のタイミングですわ。今、このジェネレーターの予熱が、理想的な二百二十度に到達したところなのです。この熱を維持できるのは、あとわずか九十秒。この瞬間に生地を滑り込ませなければ、クッキーの内部に『黄金の空洞』が生まれないのですわ!」
チップはカッサン殿下の差し出した手を、ゴミを払うような動作で退けました。
「殿下と王宮に戻る? そんなことに時間を費やしている間に、このオーブンは冷めてしまいます。私にとって、貴方のプロポーズ……いえ、復縁の申し出とやらは、湿気った湿布(しっぷ)ほどの価値もありませんわ。……邪魔ですわよ、どいてくださいな。予熱が入ったオーブンは、王太子よりも待ってくれないのです!」
「な、ななな……ッ!? 私を予熱と比較したのか!? この私を、ただの熱気より下だと言うのか!」
「当然ですわ。熱気はクッキーを産みますが、殿下はクッキーの在庫を減らすだけですもの。……シュガー! 第一陣、投入用意!」
「はいっ! 殿下、危ないですからそこを退いてください! 今から私の情熱(物理的な熱風)が通りまーす!」
シュガーさんが巨大な天板を抱え、カッサン殿下を体当たり同然に弾き飛ばしました。
カッサン殿下は再び地面に転がり、呆然とした表情で、オーブンの中に吸い込まれていく黄金色の生地を見つめました。
「……信じられん。……フラれた。この私が……オーブンの予熱に、負けたというのか……」
カッサン殿下のプライドは、チップの鳴らしたオーブンのタイマー音と共に、粉々に粉砕されました。
チップはもう、殿下の姿など視界に入っていません。
彼女の全神経は、石扉の奥で膨らみ始めた「究極のサクサク」へと注がれていました。
「……ふふ、いいわ。最高の焼き色ね。殿下、復縁したいなら、せめて私のオーブンの火加減を十時間ほど無言で見守る根性を身につけてからいらして?」
「……チップ……貴様という女は……!」
カッサン殿下は、悔しさと、そしてどこか「やはり彼女はこうでなくては」という歪んだ感嘆を抱きながら、砂埃にまみれて立ち上がりました。
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