悪役令嬢は婚約破棄に笑顔で去った。

萩月

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「いやぁぁぁ! ここはどこぉ!? 暗い、狭い、カビ臭いぃぃ!」


リゾートの地下、最奥部。

普段は『キノコ栽培室』として使われている、湿度が高く薄暗い部屋に、ミナの悲鳴がこだました。

彼女は椅子に縛り付けられているわけではない。

ただ、部屋の中央に置かれたパイプ椅子に座らされ、周囲を屈強なドワーフたちと、殺気を放つ元近衛騎士たち(豚汁の恩義によりステファニー派)に囲まれているだけだ。


カツ、カツ、カツ。


静寂の中、足音が響く。

現れたのは、冷たい微笑みを浮かべた私――ステファニーと、不機嫌そうなクラウス大公だ。


「ごきげんよう、ミナ様。……いえ、この呼び方はもう不適切かもしれませんね」


私は手元の資料に目を落とし、ゆっくりと彼女を見下ろした。


「な、なによ! 私は男爵令嬢ミナよ! 将来の王妃よ! こんな扱いをして、タダで済むと思ってるの!?」


ミナはまだ虚勢を張っている。

そのピンク色の髪はボサボサで、エプロンは薄汚れているが、瞳だけはギラギラと欲望に燃えていた。


「男爵令嬢、ですか。……では、この書類をご覧いただけますか?」


私はマリアから一枚の羊皮紙を受け取り、ミナの目の前にかざした。

それは王国の中央戸籍管理課から取り寄せた(取り寄せさせた)、男爵家の家系図だ。


「『ミナ・フォン・バーグ』。確かにバーグ男爵家にはミナという娘がいました。……ですが、彼女は五年前、流行り病で亡くなっています。死亡診断書もここにありますわ」


「っ……!?」


ミナの顔が強張った。


「そして、貴女が社交界に現れたのは一年前。バーグ男爵が『隠し子がいた』と公表して引き取ったことになっていますが……奇妙なことに、その時期、男爵家には多額の借金がありましたが、貴女が現れた直後に完済されています」


「そ、それがどうしたのよ! 偶然よ!」


「偶然? いいえ、必然です。貴女が金を持って現れ、男爵に『戸籍を買った』のでしょう?」


私はズバリと言い放った。

戸籍売買。

没落寸前の貴族が、金持ちの平民に名前を売る犯罪行為だ。


「貴女の正体について、隣国の諜報機関にも協力してもらって調べ上げました。……本名『ミヨ』。下町の貧民街出身。かつては大商人の屋敷でメイドをしていましたが、主人の財布を盗んで解雇。その後、数々の商家を渡り歩き、偽名を使って詐欺を繰り返していた……通称『ピンクの女狐』。違いますか?」


「……」


ミナ――いや、ミヨの顔から血の気が引いた。

図星だ。

彼女は貴族でもなんでもない。

ただの、口が上手くて演技力のある、小悪党の詐欺師だったのだ。


「はっ……! だから何よ!」


開き直ったミヨは、椅子を蹴飛ばして立ち上がろうとしたが、ドワーフに肩を押さえつけられて座り込んだ。


「そうよ! 私はミヨよ! それがどうしたの! 平民が夢を見て何が悪いのよ!」


彼女は叫んだ。

その声は、もはや猫なで声ではなく、ドスの利いた地声だった。


「あんたたち貴族は、生まれた時からドレス着て、美味しいもの食べて、温かいベッドで寝てる! 私は残飯あさりながら生きてきたのよ! だから自分の力でのし上がってやろうと思ったの! 金で名前を買って、バカな男をたぶらかして、国一番の玉の輿に乗ってやるってね!」


「……バカな男とは、ギルバート殿下のことですか?」


「あんなチョロい男、初めてだったわ! 『可愛い』って言えば何でもくれるし、『貴方が正しい』って言えば喜ぶし! 最高のカモだったのに……あんたさえいなければ!」


ミヨは私を睨みつけた。

その目は、純粋な悪意と嫉妬で濁っている。


「あんたみたいな、冷たくて可愛げのない女より、私の方が殿下を幸せにできたはずよ! だって私は、彼が欲しい言葉を全部言ってあげたもの!」


「……なるほど。それが貴女の『愛』ですか」


私はため息をついた。

彼女は、ある意味では被害者なのかもしれない。

貧困が生んだモンスター。

だが、だからといって、国を滅茶苦茶にしていい理由にはならない。


「貴女のついた嘘と甘言で、国庫は空になり、多くの民が苦しみました。貴女が欲しがったドレスの一着で、何人の子供がパンを食べられたと思いますか?」


「知らないわよ! 私が幸せならそれでいいの!」


「……救いようがないな」


それまで黙って聞いていたクラウス大公が、吐き捨てるように言った。


「俺はてっきり、隣国のスパイか、あるいは何らかの政治的意図を持った工作員かと警戒していたが……。蓋を開けてみれば、ただの強欲な詐欺師か。……つまらん」


大公の冷ややかな視線は、ミヨをゴミ屑のように見下ろしていた。

ミヨはその美貌に一瞬見惚れたが、すぐに恐怖で震え上がった。


「さあ、罪状は確定しました」


私は裁判官のように宣言した。


「詐欺罪、公文書偽造罪、王族に対する不敬罪、国家転覆未遂、そして……私のリゾートへの放火未遂。これらを合わせると、通常なら極刑ですが」


「い、嫌! 死にたくない! 許して! 私、まだ美味しいもの食べてない!」


ミヨが泣き叫ぶ。

本当に、欲望に忠実な生き物だ。


「安心してください。私は効率主義者です。死刑は労働力を無にするので採用しません」


「ほ、本当?」


「ええ。その代わり、貴女には『更生』していただきます」


私は一枚の地図を広げた。

指差したのは、北の果てよりもさらに北。

極寒の孤島にある、一つの施設だ。


「『北限の修道院』。そこへ行っていただきます」


「しゅ、修道院……? なーんだ、お祈りするだけ?」


ミヨが安堵の表情を浮かべた。

甘い。


「そこは『沈黙と清貧』を旨とする、大陸で最も厳しい矯正施設です。一日のスケジュールは、朝四時起床、五時から農作業(雪の中)、昼食は黒パンと水のみ、午後は機織り労働、私語は一切禁止。破れば断食の刑です」


「はぁぁぁ!? 無理よ! 私、寒いの嫌い! 美味しいもの食べたい! お喋りしたい!」


「貴女に選択権はありません。……マリア、護送の手配を」


「御意。屈強なシスターたちが、すでに迎えに来ております」


「いやぁぁぁ! ギルバート様ぁ! 助けてぇぇぇ!」


ミヨが暴れるが、ドワーフたちに担ぎ上げられる。

そこへ、タイミングよく(あるいは悪く)、トイレ掃除用具を持ったギルバート元殿下が通りかかった。


「……え? ミナ?」


ギルバートは、鬼の形相で連行されていく元恋人を見て、ポカンと口を開けた。


「ギルバート様! 助けて! 私、本当は貴方のこと愛してたのよ! 嘘じゃないわ!」


ミヨが必死に叫ぶ。

だが、ギルバートは彼女の「地声」と、その醜悪な形相を見て、何かを悟ったように一歩下がった。


「……君、誰?」


「えっ?」


「僕の知っているミナは、もっと可愛くて、か弱くて……そんな、酒焼けしたような声で叫ぶ女じゃない……」


ギルバートは首を振った。


「君は……僕の幻想だったんだね……」


「ふざけんなこの能無し王子ぃぃぃ! あんたなんか金づるだったんだよぉぉぉ!」


最後には本性を爆発させ、罵詈雑言を撒き散らしながら、ミヨは闇の奥へと消えていった。

残されたのは、静寂と、少しのカビの匂いだけ。


「……終わりましたわね」


私は手元の資料を閉じた。

これで、王国の騒動の元凶は全て排除された。

スッキリしたかと言われれば、まあ、胸のつかえが取れた程度には爽快だ。


「……ステファニー」


ギルバートがおずおずと話しかけてきた。

その目は、どこか憑き物が落ちたように澄んでいる。


「あいつ……ミナは、本当に詐欺師だったのか?」


「ええ。貴方はただのカモにされていただけです。……高い授業料でしたね、国を一つ傾けるほどの」


「そうか……。僕は、何を見ていたんだろうな」


ギルバートは力なく笑った。

その笑顔は、かつての傲慢な王太子のそれではなく、失敗を知った人間の、弱々しくも人間味のあるものだった。


「さあ、感傷に浸っている暇はありませんよ、ギルバートさん。三階のトイレ掃除は終わりましたか?」


「あ、ああ。今から行くよ。……なんか、掃除をしてると無心になれて、少しだけ気が楽なんだ」


「それは結構。労働は裏切りませんから」


ギルバートはバケツを持って去っていった。

その背中は小さかったが、以前よりは地に足がついているように見えた。


「……さて、閣下」


私はクラウス大公に向き直った。


「これで私のリゾートを脅かすものはなくなりました。……祝杯でもあげますか?」


「ああ。だがその前に」


クラウスは私の手を取り、指先に軽く口付けた。


「お前が無事でよかった。……あの女狐に、傷一つ付けさせなくて本当によかった」


「……大袈裟ですわ」


私は少しだけ顔を赤らめて、手を引っ込めた。

この男は、時々こうして不意打ちで心拍数を上げにくるから油断ならない。


ミナ――もといミヨの正体は、拍子抜けするほど俗物的なものだった。

隣国のスパイでも、闇の組織のエージェントでもない。

ただの「欲深い人間」。

だが、それこそが、最も厄介で、そしてどこにでもいる「悪」の正体なのかもしれない。


「(まあ、修道院のシスターたちに鍛え直してもらえば、少しはマシな人間になるでしょう……たぶん)」


私は地下室を後にした。

地上では、今日も多くのお客様が笑顔で温泉を楽しんでいる。

その平和を守るためなら、私は何度でも鬼になり、計算機になり、そして――最強の管理人であり続けるだろう。
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