婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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「ヒッ……ヒィィィィッ!!」

「ば、バケモノだぁぁぁ!!」

私の目の前で、山賊たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

無理もない。

彼らのリーダーは、今まさに遥か彼方の空の星になったのだから。

後に残されたのは、静寂と、土埃と、そして規格外の「狂犬」。

バルトアン帝国大公、マクシミリアン。

彼は巨大な鉄塊のような剣を、まるで小枝のように片手で担ぐと、つまらなそうに鼻を鳴らした。

「チッ。口ほどにもねぇ。準備運動にもなりゃしねぇな」

その声は低く、地底から響く雷鳴のようだった。

彼はゆっくりと振り返る。

血のように赤い瞳が、私を捉えた。

普通の令嬢なら、ここで悲鳴を上げて卒倒するか、命乞いをするところだろう。

だが、私は違った。

私の脳内で高速回転していたのは、恐怖ではなく「損益計算書」だったからだ。

(素晴らしい……!)

私は眼鏡の奥で目を輝かせた。

(あの初撃。無駄な予備動作が一切なく、最短距離で敵を排除しました。しかも、威嚇効果により残存兵力も戦わずして無力化。コストパフォーマンスが最高です)

私が銃を使っていたら、弾丸代と私の靴のすり減り、そして精神的疲労というコストが発生していた。

それを彼は、タダ(筋肉)で解決してくれたのだ。

「おい」

マクシミリアンが私に歩み寄ってくる。

一歩近づくごとに、地面がズシン、ズシンと揺れる気がする。

彼は私の目の前で立ち止まり、見下ろした。

デカい。

身長は優に一九〇センチを超えているだろう。

威圧感が凄まじい。

「女。怪我はねぇか」

「はい、おかげさまで。指一本触れられておりません」

私はスカートの埃を払い、優雅にカーテシーをした。

「助太刀感謝いたします、マクシミリアン殿下。おかげで弾丸三発分の経費、銀貨十五枚を節約できました」

「……は?」

マクシミリアンが、怪訝そうに眉を寄せた。

「銀貨……なんだって?」

「弾薬代です。あのまま私が応戦していたら、確実に三発は消費していました。貴方様の迅速な暴力……いえ、介入のおかげで、私の資産は守られたのです」

「…………」

彼がポカンとしている。

おや、感謝の意が伝わらなかっただろうか。

私はさらに言葉を重ねた。

「特に、あのリーダーを空へ射出した一撃。あれは物理法則を無視した素晴らしい投擲でした。人体があのような軌道を描くのを初めて拝見しましたわ。大変効率的なゴミ処理です」

「……お前、俺が怖くねぇのか?」

「怖い? なぜでしょう」

私は首を傾げた。

「貴方様は害獣(山賊)を駆除してくださった益獣(ヒーロー)ではありませんか。怖がる理由など、非論理的です」

「……益獣て」

マクシミリアンの口元がヒクついた。

その時だ。

「で、殿下ぁぁぁぁッ!! 置いていかないでくださいよぉぉぉ!!」

森の奥から、ゼーハーと息を切らせた騎士たちが十数名、転がり出るように現れた。

彼らは皆、疲労困憊で鎧がガチャガチャと音を立てている。

「まったく、殿下は足が速すぎるんです! 馬より速く走る人間がどこにいるんですか!」

「うるせぇ。テメェらが遅いんだよ」

マクシミリアンは面倒くさそうに騎士たちを一喝した。

騎士の一人が、私と逃げ去った山賊の痕跡を見て、状況を察したようだ。

「あちゃー……またやったんですか殿下。死体がないってことは、また彼方へ飛ばしましたね?」

「殺してねぇよ。ちょっと星を見せてやっただけだ」

「それが一番タチ悪いんですよ! ……おや、そちらのご婦人は?」

騎士たちの視線が私に集まる。

私は再びカーテシーをした。

「通りすがりの旅行者です。殿下に助けていただきました」

「旅行者? こんな国境の危険地帯に、女性一人で?」

騎士隊長らしき男が不審そうに私を見る。

当然の反応だ。

私はあらかじめ用意していた設定を口にした。

「はい。実は、実家が破産しまして。借金取りから逃れるために、新天地を求めて参りました」

半分嘘で、半分本当だ。

「ほう、ワケありか……。しかし、無事で何よりだ。さあ、嬢ちゃん。ここは危険だ。俺たちが近くの街まで護衛してやるよ」

騎士隊長は人の良さそうな笑顔を見せた。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」

私がそう言って馬車に戻ろうとした、その時。

ガシッ。

太い腕が、私の腰を抱き寄せた。

「きゃっ!?」

次の瞬間、私の視界が反転した。

気がつけば、私はマクシミリアンの肩に担がれていた。

まるで米俵のように。

「ちょ、殿下!? 何をなさいますか!?」

「うるせぇ。決めたぞ」

マクシミリアンは、私の抗議など意に介さず、私を担いだまま歩き出した。

「お前、気に入った」

「はい?」

「俺を見て悲鳴を上げねぇ女は初めてだ。それに、さっきの『効率的』って言葉、悪くねぇ」

彼はニヤリと笑った。

その笑顔は、野獣が獲物を見つけた時のそれだった。

「俺の城に来い。俺の『秘書』になれ」

「はぁぁぁ!?」

私は肩の上で声を上げた。

「お断りします! 私はスローライフを希望しているのです! 就職活動はしておりません!」

「拒否権なんざねぇよ。命の恩人の頼みは聞くもんだろ?」

「それは頼みではなく脅迫です! それに、労働基準法はどうなっているのですか! 雇用契約書は!? 福利厚生は!?」

「なんだそりゃ。俺がルールだ」

「一番ダメなワンマン経営者の発想です!! 下ろしてください! セクハラで訴えますよ!」

私がポカポカと彼の硬い背中を叩くが、彼は痛痒も感じていないようだ。

「ハッハッハ! 元気があっていいな! おい野郎ども、撤収だ! 面白い『土産』ができた!」

「ええええ……殿下、また変なものを拾って……」

騎士たちが頭を抱える中、私は米俵スタイルのまま、国境の砦へと連行されていくことになった。

「計算外です……完全に計算外です……!」

揺れる視界の中で、私は遠ざかる自分の馬車(と、中に置き忘れたおやつ)に涙ながらに手を伸ばした。

私の優雅な隠居計画は、バルトアン入国からわずか十分で、崩壊の危機に瀕していたのである。
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