婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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翌朝。

私は小鳥のさえずりではなく、野太い男たちの掛け声で目を覚ました。

「イチ! ニ! サン! シ!」

窓の外を見ると、砦の中庭で筋肉ダルマたちが朝の鍛錬を行っている。

むさ苦しい。

実にむさ苦しい光景だが、昨日の「大掃除」のおかげで、私の寝室だけは天国のように快適だった。

「……ふあ」

私は欠伸を噛み殺し、身支度を整える。

鏡に映る自分は、完璧な「仕事のできる女」の顔をしているが、今日こそはここを出て行くつもりだ。

昨日は勢いで経理と厨房を制圧してしまったが、あくまで一時的な緊急避難措置。

私の目的は、この国のもっと奥地、温暖な地方都市でのスローライフなのだから。

「おはようございます、クリスティーン様!」

廊下に出ると、すれ違う兵士が直立不動で敬礼してきた。

「おはようございます」

「あ、あの! 昨日のシチュー、最高でした! 今日の朝食も期待しております!」

「朝食は当番制にしました。レシピは壁に貼っておきましたので、文字が読める者が作ってください」

「は、はい! 勉強します!」

兵士たちは私を見ると、まるで女神か上官かを見るような目で道を開ける。

どうやら、たった一日で「胃袋」と「寝床(清潔さ)」を掌握した効果は絶大だったようだ。

私はコツコツとヒールの音を響かせ、執務室へと向かった。

マクシミリアン殿下に別れの挨拶と、昨日の労働対価(コンサル料)を請求するためだ。

***

「入ります」

ノックもそこそこに扉を開ける。

執務室は、昨日私が整理整頓した状態を保っていた。

書類は分類され、床は見え、空気は澄んでいる。

その中央、執務机にマクシミリアン殿下は座っていた。

「……来たか」

彼は書類から目を離し、私を見た。

その表情は、いつになく真剣だ。

手には、私が昨日作成した『砦財政健全化計画書』が握られている。

「おはようございます、殿下。昨晩はよく眠れましたか?」

「ああ。おかげでな。……ベッドにダニがいないというのは、悪くねぇもんだ」

「それは重畳。では本題ですが、私はそろそろ出発させて……」

「待て」

殿下が低い声で遮った。

彼は立ち上がり、ゆっくりと机を回り込んで私の前に立った。

その威圧感に、私はわずかに後ずさる。

「……なんでしょうか。追加料金ですか?」

「クリスティーン。お前に話がある」

殿下は私の真正面に仁王立ちし、赤い瞳で私を射抜いた。

そして、いきなり言った。

「俺の女になれ」

「はい?」

時が止まった。

思考回路が一瞬ショートする。

俺の、女?

それはつまり、愛人契約? それとも現地妻?

「あの、言葉の意味を定義していただけますか? 『女になれ』とは、雇用契約の話でしょうか、それとも肉体関係の話でしょうか」

「両方だ」

「はぁ!?」

殿下は悪びれもせず、腕組みをした。

「お前は使える。頭が切れるし、度胸もある。飯も美味い。俺の隣に置くのにこれ以上の人材はいねぇ」

「人材評価としては光栄ですが……」

「だから、俺の『秘書』になれ。ついでに『妃』の席も空いてるから、そこにも座っとけ。そうすりゃ、この砦の全権をお前にやる」

なんと乱暴なプロポーズだろうか。

ロマンスの欠片もない。

あるのは「お前便利だな、採用!」というブラック企業のノリだ。

私は眼鏡を中指で押し上げ、即答した。

「謹んで、お断りいたします」

「……ああん?」

殿下の眉間に皺が寄る。

「なぜだ? 待遇は悪くねぇはずだぞ。俺の女になれば、この国で手出しできる奴はいなくなる。金も権力も思いのままだ」

「殿下。貴方様は大きな勘違いをされています」

私は一歩踏み出し、彼を見上げた。

「私は、『働きたくない』のです」

「は?」

「私はこれまで、祖国で馬車馬のように働いてきました。無能な王子の尻を拭き、横領する官僚を締め上げ、終わらない書類の山と格闘してきました。もうたくさんなのです!」

私の魂の叫びが木霊する。

「私は! 朝は昼まで寝ていたいのです! 午後は優雅にティータイムを楽しみ、夜は趣味の読書に没頭したいのです! 『明日も仕事だ』という絶望なしに眠りにつきたいのです!」

「…………」

殿下はポカンと口を開けている。

理解不能、という顔だ。

「お前……そんな腐った生活がしたいのか? 剣を振るい、敵を倒し、領地を広げる喜びはどうなる」

「それは貴方様の喜びであって、私の喜びではありません。筋肉と殺戮の喜びを押し付けないでください」

「だが、食うためには働かなきゃならねぇだろ」

「そこです」

私はニヤリと笑った。

この瞬間のために、私はあの一撃を用意していたのだ。

「私は今回の婚約破棄騒動で、元婚約者と国王夫妻から、莫大な慰謝料をせしめて参りました。その額、金貨一億枚」

「い、一億……!?」

さすがの殿下も目を剥いた。

「はい。つまり、私には一生遊んで暮らせるだけの資産があります。労働の必要性がないのです。私が求めているのは『就職』ではなく『隠居』なのです!」

完全論破。

ぐうの音も出ないはずだ。

私は勝利を確信し、胸を張った。

「というわけで、秘書のお誘いは魅力的ですが、私のライフプランとは合致しません。これにて失礼いたします」

私は優雅にカーテシーをし、出口へと向かった。

ガチャ。

ドアノブに手をかける。

開かない。

「……あれ?」

ガチャガチャ。

鍵がかかっているわけではない。

何かが、外から強力な力で押さえつけられているような……。

「逃がすかよ」

背後から、低い声が聞こえた。

ゾクリと背筋が凍る。

振り返ると、マクシミリアン殿下がニタァと笑っていた。

その笑顔は、獲物を追い詰めた肉食獣そのものだ。

「おい、野郎ども! 扉を押さえろ! その女を一歩も外に出すな!」

『イエッサー!!!』

扉の向こうから、数十人の兵士たちの声が聞こえた。

「なっ……!?」

「逃げられると思うなよ、クリスティーン。お前が金を持ってるのは分かった。だがな」

殿下がズカズカと歩み寄ってくる。

「金があっても、この砦を出ればただの女だ。山賊、魔獣、あるいは俺の敵対勢力……お前のその一億枚を狙うハイエナはごまんといるぞ?」

「そ、それは……護衛を雇いますから!」

「誰を雇う? 俺より強い奴はこの国にいいねぇぞ」

彼は私の目の前まで迫り、壁に手をついた。

ドンッ!!

いわゆる、壁ドンである。

ただし、石壁にヒビが入るレベルの威力だ。

「お前を守れるのは俺だけだ。そして、俺の城を管理できるのはお前だけだ」

「論理のすり替えです! それはただの監禁……」

「交渉だ」

殿下の顔が近づく。

整った、しかし野性味あふれる顔立ちが、目の前に迫る。

「お前の安全は俺が保証する。その代わり、俺のために働け。……嫌とは言わせねぇぞ」

その瞳は、赤く燃えていた。

恐怖と、そして少しのときめき――いや、動悸か?

心臓が早鐘を打つ。

(こ、この男……話が通じません!)

私の「論理」が、彼の「暴力(物理)」と「強引さ」の前に捻じ曲げられていく。

「さあ、返事は?」

「……労基署に訴えますよ」

「そんなもん、この国にはねぇ」

殿下は満足げに笑うと、私の髪を一房すくい上げ、口づけを落とした。

「契約成立だ。諦めろ、悪役令嬢。お前のスローライフは、無期延期だ」

私の悲鳴が、砦の執務室に響き渡った。

「詐欺だぁぁぁぁぁッ!!!」

こうして私は、金貨一億枚を持ったまま、なぜか隣国の辺境砦で強制労働(ブラック)に従事することになったのである。
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