婚約破棄、歓迎~自称聖女を返品不可で引き取って~

萩月

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王宮の大広間には、むせ返るような香水の匂いと、上辺だけの笑い声が充満していた。

シャンデリアの煌めきが、着飾った貴族たちの宝石を照らし出し、人工的な星空を作り出している。

この国の第一王子であるギルバート殿下の誕生を祝う夜会は、今まさに最高潮を迎えようとしていた。

壇上に上がった彼が、衆人環視の中で高らかに声を張り上げるまでは。

「ダーリ・アークライト公爵令嬢! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」

音楽が止まる。

人々の話し声がピタリと止む。

静寂が支配した広間に、ギルバート殿下の得意げな声だけが反響していた。

その隣には、小動物のように震える男爵令嬢、ミナの姿がある。

彼女はピンク色のふわふわとしたドレスに身を包み、殿下の腕にしっかりと――まるで救命具にしがみつく遭難者のように――しがみついていた。

「……殿下、今なんと仰いましたか?」

私は扇子で口元を隠しながら、極めて冷静に問い返した。

内心で沸き上がる感情を、悟られないように必死に抑え込みながら。

「聞こえなかったのか? 婚約破棄だと言ったのだ! 貴様のような性悪女は、将来の王妃にふさわしくない!」

ギルバート殿下は、整った顔立ちを怒りで歪ませている。

金髪碧眼、絵本から抜け出してきたような王子様。

ただし、その中身が綿菓子のようにスカスカでなければ、どれほど良かったことか。

私の問いかけに対し、彼はさらに声を荒らげて続けた。

「とぼけるな! 貴様がミナに対して行ってきた数々の嫌がらせ、もはや看過できん! 彼女の教科書を隠し、階段から突き落とそうとし、お茶会ではドレスにワインをかけたそうだな!」

会場中から、私を非難するような視線が突き刺さる。

「悪役令嬢」としての私の評判は、残念ながらあまり芳しくない。

目つきが鋭く、愛想笑いが苦手で、常に眉間に皺を寄せているせいだ。

だが、これだけは言わせてほしい。

(全部、冤罪なんですが……?)

教科書を隠したのではなく、彼女が図書館に置き忘れたのを届けてやっただけだ。

階段から突き落とそうとしたのではなく、自分の足をもつれさせて転がり落ちそうになった彼女の襟首を掴んで助けたのだ(重かった)。

ワインに関しては、彼女が自分でグラスを倒して私のドレスを汚したというのが真実である。

「……身に覚えのないことばかりですわ」

「嘘をつくな! ミナは全てを話してくれたぞ! 貴様の執拗なイジメに耐えかねて、毎晩枕を濡らしていたとな!」

殿下の腕の中で、ミナ嬢が「うぅ……」と嘘泣きのような声を漏らす。

その演技力たるや、三流劇団の端役にも劣る酷いものだった。

しかし、恋に盲目な殿下と、スキャンダルを好む貴族たちには、それが「可哀想な被害者」に見えるらしい。

「ダーリ、貴様には人の心がないのか! こんなに純真で優しいミナを傷つけて!」

ギルバート殿下は正義の騎士気取りで私を指差す。

その指先が、私の鼻先数センチのところで行ったり来たりしていた。

普通なら、ここで泣き崩れるか、怒って反論するのがセオリーだろう。

婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢として、絶望に打ちひしがれるべき場面だ。

しかし。

私の体は、別の理由で激しく震えていた。

(やった……!)

扇子の下で、私の唇はかつてないほど吊り上がっていた。

(やっと……やっと、この無能なナルシストから解放される……っ!)

十年。

長かった。本当に長かった。

六歳で婚約を結んでから今日に至るまで、私はこのギルバート殿下の尻拭いだけに青春を捧げてきたのだ。

彼が計算間違いをした書類をこっそり修正し、彼が外交に失敗しそうになった案件を裏で根回しして解決し、彼が予算を使い込んで作った黄金の自像をこっそり溶かして国庫に戻した。

「ダーリ、これはどういうことだ?」と聞かれるたびに、「殿下のご威光によるものですわ」と歯の浮くようなお世辞を言い続けてきた日々。

私の優秀さは全て彼の手柄になり、私の苦労は全て「未来の王妃としての修業」という言葉で片付けられてきた。

もう限界だった。

そろそろ過労死するか、あるいは彼を「事故」に見せかけて始末してしまおうかと、真剣に検討していたところだったのだ。

それが、まさか向こうから婚約破棄を申し出てくれるとは!

「……う、うぅっ……」

私は必死に声を絞り出した。

笑い声が漏れそうになるのを、嗚咽に偽装する。

「見ろ、図星をつかれて言葉もないようだな!」

ギルバート殿下は勝利を確信したように鼻を鳴らした。

「貴様のような冷徹な女は、僕の隣には相応しくない。僕が必要としているのは、ミナのように優しく、僕を支えてくれる女性なのだ!」

(どうぞどうぞ! 返品不可でお願いします!)

心の中で盛大な拍手を送る。

熨斗をつけて差し上げたい気分だ。

「さあ、何か言ったらどうだ! 今さら謝罪しても遅いがな!」

殿下の煽りに、私はゆっくりと扇子を下ろした。

顔を伏せ、肩を震わせる。

周囲の貴族たちは、「さすがの鉄仮面令嬢も、ショックで泣いているのか」と囁き合っているようだ。

違う。

笑いすぎて、腹筋が痙攣しているのだ。

この喜びをどう表現すればいい?

明日から、あの山のような書類を修正しなくていい。

「僕って天才かな?」という殿下の自惚れ発言に、「左様でございますね」と相槌を打つ虚無の時間も過ごさなくていい。

朝はゆっくり寝ていられるし、好きな本を読めるし、美味しいお菓子を食べてゴロゴロできる。

自由だ。

圧倒的自由が、今、私の手の中に転がり込んできたのだ。

「……殿下」

私は顔を上げた。

目元には涙が滲んでいる。笑いすぎたせいで。

しかし、ギルバート殿下の目には、それが悲痛な涙に見えたらしい。

彼は満足げに頷いた。

「ふん、ようやく自分の愚かさに気づいたか。だが、もう手遅れだ。衛兵! この女を会場からつまみ出せ!」

「お待ちください」

私は衛兵が動くよりも早く、スッと背筋を伸ばした。

長年の公爵令嬢としての教育が、どんな状況でも優雅さを保つことを可能にしていた。

たとえ内心でサンバを踊っていたとしても、表面上は淑女のままでいられるのだ。

「殿下のお気持ちは、痛いほど理解いたしました」

「なっ……」

「私が至らないばかりに、殿下には多大なるご迷惑をおかけしました。ミナ様のような素晴らしい女性と出会われたこと、心よりお祝い申し上げます」

私の声は、我ながら完璧なほど澄んでいた。

一切の未練を感じさせない、清々しい声。

予想外の反応に、殿下が目を白黒させる。

「は……? あ、いや、貴様、悔しくないのか? 王太子の婚約者の座を失うのだぞ?」

「悔しいなどと、滅相もございません」

私は胸に手を当て、深々と頭を下げた。

そして、顔を上げた瞬間、極上の笑顔を彼に向けた。

それは演技ではない。

心からの、魂の底からの歓喜の笑顔だった。

「殿下が真実の愛を見つけられたこと、私は……私は、嬉しくてたまりませんの!」

「は?」

殿下だけでなく、ミナ嬢も、周囲の貴族たちも、ぽかんと口を開けている。

彼らの理解を超えた反応だったのだろう。

普通はここで「嫌です、捨てないで!」と縋り付くか、「私が何をしたというのですか!」と逆上するものだ。

だが、私は止まらない。

この流れに乗じて、確定事項にしてしまわなければならない。

「婚約破棄、謹んでお受けいたします。正式な書類は、明日の朝一番で我が家から送らせていただきますわ。慰謝料の請求書と共に」

「い、慰謝料だと……?」

「当然ですわ。これまでの十年間、私が殿下に尽くしてきた時間は戻ってきませんもの。それ相応の対価はいただかなくては。……ああ、それと」

私はチラリとミナ嬢を見た。

彼女は状況が飲み込めず、おどおどと視線を彷徨わせている。

「ミナ様。殿下は少々……いえ、かなり手のかかるお方ですが、貴女のその『優しさ』で、どうか支えて差し上げてくださいませ。間違っても、公務の書類を折り紙に使ったりなさらないよう、ご指導願いますわね」

「は、はい……?」

「では、私はこれで失礼いたします。荷造り……いえ、傷心を癒やす旅の準備がございますので」

言い切ると同時に、私は踵を返した。

背後から「おい、待て!」という殿下の声が聞こえたが、聞こえないふりをして歩き出す。

足取りが軽い。

重りをつけていた足枷が外れたかのように、ふわふわと体が浮き上がるようだ。

会場の扉を開ける直前、私はもう一度だけ振り返った。

呆然と立ち尽くす元婚約者と、その隣の新しい婚約者(仮)に向かって、優雅にカーテシーを決める。

「皆様、ごきげんよう。どうぞ、末永くお幸せに!」

扉を閉めた瞬間、私はドレスの裾をまくり上げ、廊下を全力で走り出した。

「やったぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーッ!!」

人気のない回廊に、私の歓喜の絶叫が響き渡る。

待機していた御者が、血相を変えて走ってくる私を見てギョッとした顔をした。

「お、お嬢様!? 一体何が……殿下と何かあったのですか!?」

「ええ、あったわよ! 最高のことよ!」

私は馬車に飛び乗り、御者に叫んだ。

「屋敷へ出して! 最高速度で! お父様に伝えないと! 赤飯よ! 今夜は赤飯を炊くのよーーッ!」

馬車は夜の王都を疾走する。

窓から流れ込む風が、これほど心地よく感じたことはなかった。

こうして私の、悪役令嬢としての――いいえ、自由な一人の人間としての、第二の人生が幕を開けたのである。

(さあ、まずは帰って慰謝料の計算よ! 一桁も間違えずに、きっちりふんだくってやるわ!)

私の頭の中では、すでに分厚い請求書の明細が組み上がり始めていた。
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