愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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「エマール・フォン・ローゼンバーグ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王立学園の卒業記念舞踏会。

その華やかな喧騒は、壇上に立った第二王子レイドの絶叫によって、凍りついたように静まり返った。

シャンデリアの煌めきも、楽団が奏でていた優雅なワルツも、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちの囁きも、すべてが彼の一声で停止する。

舞台の中央には、金髪を荒々しく逆立て、顔を真っ赤にしたレイド王子。

その背後には、彼の腕にこれ見よがしにしがみつく、ピンク色の髪をした小柄な男爵令嬢、シルフィの姿がある。

そして、彼らと対峙する位置に立っていたのは、私――侯爵令嬢エマールだった。

「……」

私は手元にある扇子を、パチリ、と一度だけ鳴らす。

周囲の貴族たちは、私がショックのあまり言葉を失っていると思ったことだろう。

あるいは、怒りに震えていると勘違いしたかもしれない。

だが、私の脳内を占めていたのは、悲しみでも怒りでもない。

――計算である。

(……この会場の貸切費用が金貨五百枚。楽団の拘束時間が延長されることによる追加料金が十分ごとに金貨二枚。そして今、殿下が放り投げたグラスの損害賠償が金貨五枚……)

私の瞳は、冷徹に現場の「損失」を計上していた。

つり上がった瞳と、感情を表に出さない鉄面皮のせいで「悪役令嬢」などとあだ名されているが、それは大きな誤解だ。

私はただ、無駄な出費と計算ミスが許せないだけの、健全な精神を持った数字マニアなのである。

「おい! 聞いているのかエマール! このふてぶてしい女め!」

レイド王子が地団駄を踏む。

王族としての品位が欠落したその所作に、私は小さく溜息をついた。

「聞こえておりますわ、レイド殿下。あまり大きな声をお出しにならないでくださいませ。会場の空気が振動で濁ります」

「なっ……貴様、この期に及んでその減らず口を!」

「事実を申し上げたまでです。それで、婚約破棄、でございますか?」

私は扇子で口元を隠しながら、冷静に問い返す。

内心では、小躍りしたい気分だった。

(やった……! ついにこの時が来た! これであの赤字垂れ流しボンクラ王子のお守りから解放される!)

レイド王子との婚約が決まってからの三年間は、まさに地獄だった。

彼は「王族だから」という理由だけで、湯水のように金を使う。

視察と称しては観光地で豪遊し、外交と称しては怪しげな骨董品を高値で掴まされる。

その尻拭いをするのは、いつだって婚約者である私の役目だった。

私の実家であるローゼンバーグ侯爵家の資産から、どれだけの補填がなされたことか。

帳簿を見るたびに胃がキリキリと痛み、ストレスで肌荒れを隠すための化粧品代がかさむ日々とも、これでおさらばできる。

「そうだ! 貴様のような冷酷で心の貧しい女は、次期王妃にふさわしくない! 僕が愛するのは、ここにいるシルフィだけだ!」

レイド王子がシルフィの腰を抱き寄せる。

シルフィは「きゃっ」とわざとらしい声を上げ、上目遣いで私を見た。

「ごめんなさい、エマール様……。でも、私たち、真実の愛を見つけてしまったんですぅ」

甘ったるい声。

背筋に悪寒が走るのを理性で抑え込み、私は彼女の身につけているドレスに視線を走らせた。

「シルフィ様。貴女が着ているそのドレス、先日の夜会で殿下が『公務費』の名目で購入された特注品ですね?」

「え……?」

「素材は東方産の最高級シルク、装飾には南方の真珠。締めて金貨八十枚。王立学園の奨学金予算、三ヶ月分に相当します」

私の指摘に、シルフィの頬が引きつった。

「そ、そんな細かいこと、愛の前では関係ありませんわ!」

「関係大ありです。それは国民の血税です」

私は扇子をバシッ、と閉じた。

その乾いた音に、周囲の貴族たちがビクリと肩を震わせる。

「レイド殿下。貴方様は、私がシルフィ様をいじめたと主張なさりたいのでしょう?」

先手を打つと、レイド王子は図星を突かれたように目を剥いた。

「そ、そうだ! 貴様はシルフィの教科書を隠したり、彼女の紅茶に泥を入れたりしたそうじゃないか!」

「教科書に関しては、シルフィ様が授業中に居眠りをしてヨダレで汚したため、カビが生えないように乾燥棚へ移動させただけです。紅茶に関しては、彼女が『甘いのが好き』と言って砂糖壺を丸ごと入れた結果、泥のように濁っただけかと」

「くっ……口が達者な女だ!」

「事実確認の徹底は、帳簿管理の基本ですから」

私は一歩、彼らに歩み寄る。

それだけで、レイド王子とシルフィがたじろぐ。

「い、言い訳は見苦しいぞ! 他にもある! 貴様はシルフィを階段から突き落とそうとしたとか、ドレスを切り裂いたとか……」

「すべて、収支報告書にて『事実無根』と証明済みです」

私は懐から、一冊の手帳を取り出した。

これは私の『対レイド殿下用・防衛記録帳』である。

いつか来るであろうこの日のために、彼らの行動と私の行動を、一分一秒単位で記録し続けてきたのだ。

「○月×日、階段の件。私はその時刻、図書室にて今年度の予算案の不備を赤ペンで修正しておりました。証人は司書のミセス・マーサ」

ページをめくる音が、静まり返った会場に響く。

「△月□日、ドレスの件。シルフィ様が『もっと派手にしたい』と、王家の宝物庫から持ち出したルビーを接着剤で貼り付けようとしていたのを、私が阻止しました。国宝を毀損する行為は重罪ですので」

淡々と読み上げる私の声に、レイド王子の顔色が次第に青ざめていく。

「な、なんだその手帳は……! 気持ち悪いぞ!」

「危機管理能力と呼んでください。……さて、殿下」

私は手帳を閉じ、ニッコリと微笑んだ。

それは、商談を成立させる時の、営業用スマイルである。

「婚約破棄のお申し出、喜んでお受けいたします」

「……は?」

レイド王子が間の抜けた声を出す。

彼はきっと、私が泣いて縋り付くか、怒り狂って暴れるかのどちらかだと思っていたのだろう。

これほど爽やかに承諾されるとは、夢にも思っていなかったに違いない。

「よ、よいのか? 僕と別れれば、貴様はただの傷物だぞ? 社交界での居場所もなくなるんだぞ?」

「ご心配には及びません。それよりも、重要なのはこちらです」

私はドレスのポケットから、あらかじめ用意していた封筒を取り出した。

「これは……?」

「慰謝料および、これまで私が立て替えてきた殿下の私的流用費の請求書です」

「せ、請求書ぉ!?」

レイド王子の声が裏返る。

「過去三年分、利子は法定利率に従い計算しております。また、今回の婚約破棄は殿下の有責ですので、その分の慰謝料も上乗せさせていただきました。……締めて、金貨三千枚になります」

「さ、三千……ッ!?」

会場中がどよめいた。

金貨三千枚といえば、小国の国家予算にも匹敵する金額だ。

「ば、馬鹿な! そんな金、あるわけがないだろう!」

「存じております。今の殿下の個人資産では、逆立ちしても払えないでしょうね」

「だったら……!」

「ですので、王家へ直接請求させていただきます。また、支払いが確認できるまで、私が実家から持参した道具類はすべて回収させていただきますので、あしからず」

私はシルフィに向き直った。

「シルフィ様。貴女が今つけているそのネックレスも、私が誕生日に殿下へ贈ったものを、殿下が勝手に貴女へ横流ししたものですわね? 返していただきます」

「い、嫌よ! これはレイド様からの愛の証……」

「愛の証の原資は私の財布です。返還に応じない場合、窃盗罪で衛兵を呼びますが?」

「ひっ……」

シルフィが震える手でネックレスを外す。

私はそれをひったくるように回収し、状態を確認した。

(……チッ。留め具に細かい傷が。査定額が下がるわね。減価償却費として追加請求しなきゃ)

私が心の中で舌打ちをした、その時だった。

「……面白い」

低く、凛とした声が響いたのは。

喧騒の渦中にあった会場の空気が、その声ひとつで一変する。

まるで、極寒の吹雪が吹き込んだかのような、冷たくも美しい威圧感。

入り口の方から、ひとりの男が歩いてくる。

漆黒の髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。

その長身に纏うのは、飾り気はないが仕立ての良い、最高級の軍服だ。

周囲の貴族たちが、波が引くように道を開ける。

「あ、あれは……辺境伯……?」

「『氷の閣下』、クラウス様だ……!」

誰かが震える声で呟いた。

クラウス・フォン・ヴァイサリウス。

王国の北方を守護する辺境伯であり、その冷徹な手腕と圧倒的な実力から、王族ですら敬語を使うと言われる生ける伝説。

そして、レイド王子の叔父にあたる人物だ。

(どうして辺境伯がここに? 彼は社交嫌いで有名なはず……)

私が訝しげに眉を寄せていると、クラウス様は私の目の前で足を止めた。

その視線は、レイド王子でもシルフィでもなく、真っ直ぐに私に向けられている。

「金貨三千枚の請求書、内訳を見せてもらえるか?」

「は……?」

突然の申し出に、私は呆気に取られた。

てっきり、甥であるレイド王子を庇いに来たのだと思ったのに。

「あ、どうぞ。こちらの複写をご覧ください」

条件反射で予備の請求書を差し出すと、クラウス様はそれを長い指で受け取り、素早く目を通した。

その瞳が、鋭く光る。

「……ふむ。馬車代の計算が正確だ。季節変動による飼い葉代の高騰まで考慮に入れているとはな」

「当然です。物価指数は常に変動しておりますので」

「護衛の人件費も適正だ。無駄なチップを省き、実働時間で換算している」

「無駄金は罪ですので」

「素晴らしい」

クラウス様は顔を上げ、私を見た。

その美貌の口元に、微かな笑みが浮かんでいる。

え、笑った?

あの『氷の閣下』が?

周囲が信じられないものを見る目で凝視する中、クラウス様は爆弾発言を投下した。

「気に入った。その計算能力、我が領地に欲しい」

「……はい?」

「レイドには過ぎた女だ。エマール嬢、いや――未来の公爵夫人」

クラウス様が、私の手を取り、跪く。

「私のもとへ来ないか? 君になら、我が領の全財産の管理を任せてもいい」

その瞬間、私の頭の中で、そろばんが激しく音を立てて弾かれた。

(全財産の管理……!? 辺境伯領といえば、鉱山資源が豊富で、最近流通網の整備により経済成長率が国内トップクラスの……つまり、超優良物件!!)

「そのオファー、詳しくお聞かせ願えますか?」

私が食い気味に答えると、レイド王子が「はあああ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

こうして、私の婚約破棄騒動は、予想外のヘッドハンティングへと変貌を遂げたのだった。
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