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「へっ……ヘッドハンティング……?」
レイド王子の素っ頓狂な声が、再び会場に響いた。
無理もない。
断罪イベントのクライマックスで、まさか悪役令嬢(仮)が、国の実力者である辺境伯に求婚(就職勧誘)されるなど、前代未聞だからだ。
しかし、私の頭の中はすでに、新たな「職場」の条件交渉へと切り替わっていた。
「閣下。全財産の管理というのは、具体的にどの範囲までを指しますか? 領地の税収管理だけでなく、個人の資産運用や投資判断も含みますか? また、決裁権の譲渡は?」
食い気味に尋ねる私に、クラウス様は口角を上げたまま答える。
「全てだ。私の個人口座の暗証番号も教えよう。君が『無駄だ』と判断したものは、たとえ私の趣味だろうと切り捨てて構わない」
「なんと……! ドラスティックなコストカットもし放題、ということですね?」
「ああ。我が領には、君のような冷徹な……いや、合理的な目を持つ人間が必要なんだ」
背筋がゾクゾクした。
もちろん、恐怖ではない。歓喜の武者震いだ。
ローゼンバーグ侯爵家や王家では、どれだけ正論を言っても「可愛げがない」「伝統を重んじろ」と却下されてきた。
それが、この方は「好きにしていい」と言う。
これは、経理担当者にとって最高の殺し文句ではないだろうか。
「待ってください、叔父上! 正気ですか!?」
蚊帳の外に置かれていたレイド王子が、慌てて割り込んでくる。
「その女は悪魔ですよ!? 僕がちょっと新しい剣を買おうとしただけで『その剣が必要な戦闘機会は年に何回ですか? 減価償却に五百年かかります』とか言ってくるんですよ!?」
「事実だろう。お前が剣を振るうのは、鏡の前でポーズを取る時だけだ」
「ぐっ……!」
クラウス様の一刀両断に、レイド王子が言葉を詰まらせる。
すると今度は、彼の腕の中にいたシルフィが、震える声を上げた。
「ひどいですぅ……!」
彼女は大きな瞳に涙を溜め、わざとらしくその場に崩れ落ちた。
いわゆる『悲劇のヒロイン』ポーズだ。
「クラウス様まで、エマール様に騙されているんです! この人は……この人は本当に怖い人なんです!」
「ほう。どう怖いのだ?」
クラウス様が興味なさそうに視線を向ける。
シルフィはここぞとばかりに、涙ながらに訴え始めた。
「私、エマール様に睨まれるたびに、心がキュッてなって……夜も眠れなくて……! 精神的に追い詰められていたんです! お金とか計算とか、そんな冷たいことばかり言って……人の心がないんです!」
周囲の貴族たちが、同情的なざわめきを見せる。
「可哀想に……」
「やはりエマール嬢は冷酷なのか」
空気か変わる。
か弱き少女の涙は、いつの時代も強力な武器だ。
特に、数字や論理よりも感情を優先するこの社交界においては。
レイド王子も勢いづく。
「そうだ! 見たか、シルフィのこの怯えようを! 彼女の純粋な心は、エマールの冷徹さによって傷つけられたんだ! これこそが何よりの罪だ!」
勝ち誇ったような顔をするレイド王子と、袖口で嘘泣きをするシルフィ。
私は扇子で口元を隠し、冷ややかな目で見下ろした。
(……やれやれ。感情論で攻めてくるとは、相変わらず芸がない)
私は一歩前に出た。
「シルフィ様。『怖い』と仰いましたね?」
「は、はい……! 貴女のその、お金のことしか考えていない目が怖いです!」
「なるほど。では、数字でお答えしましょう。貴女が『怖い』と感じるのは、私の目ではなく、ご自身の行いに対する『罪悪感』の具現化ではありませんか?」
「え……?」
「たとえば、貴女が今着ている、そのピンク色のドレス」
私は扇子で彼女を指し示した。
ふんわりとしたシフォン生地を重ね、無数のリボンと宝石をあしらった、砂糖菓子のようなドレスだ。
「とても可愛らしいデザインですね。帝都の有名デザイナー『マダム・ボヴァリー』の新作、カスタムオーダー品」
「そ、そうよ! レイド様が『君に似合う』って選んでくださったの!」
「ええ、存じております。その請求書が、私の手元に回ってきましたから」
私は懐から、新たな紙片を取り出した。
先ほどの手帳とは別の、未処理請求書の束だ。
「『マダム・ボヴァリー』からの請求額、金貨八十五枚。ちなみに、このドレスの支払期限は昨日でしたが、レイド殿下の口座は残高不足で引き落とせませんでした。督促状が私の元に届いております」
「なっ……!?」
シルフィの顔が強張る。
「さらに言えば、貴女はそのドレスに合わせて、靴、髪飾り、バッグも同ブランドで揃えましたね? それらの合計が金貨四十枚。しめて百二十五枚の『可愛らしさ』を身に纏っているわけですが……」
私は一拍置き、会場全体に聞こえる声で告げた。
「その金額は、貴女の御実家である男爵家の、年収二年分に相当します」
会場が、シーンと静まり返った。
「ね、年収二年分……?」
誰かがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。
「貴女が『怖い』とおっしゃったのは、この金額の重みではありませんか? ご自身の実家の経済力では一生かかっても払えない額を、他人の財布で身につけている。その事実に気づいてしまったから、震えていらっしゃるのでは?」
「そ、そんなこと……!」
「ちなみに、先ほど貴女が『夜も眠れない』と仰っていましたが、先月の貴女の行動記録を確認したところ、連日深夜まで王都のカフェや劇場で豪遊しており、単なる夜更かしによる睡眠不足かと推測されます。その際の飲食代も、すべて王家……いえ、私の管理下の予算から出ております」
私は畳み掛ける。
「心を痛めているのは貴女ではありません。王家の財政担当官と、補填をし続けてきた私の財布です」
「う、うわあああああん!!」
シルフィが絶叫した。
反論できなくなり、大声で泣いて誤魔化そうという魂胆だ。
「ひどい! やっぱりいじめだわ! レイド様ぁ、なんとか言ってください!」
「そ、そうだぞエマール! 金の話ばかりしやがって! シルフィが泣いているじゃないか!」
レイド王子が私に掴みかかろうとする。
だが、その手は私の体に届く前に、強固な壁によって阻まれた。
「……私の婚約者に、気安く触れるな」
クラウス様だ。
彼が私の前に立ちふさがり、レイド王子の腕を掴み上げている。
ギリギリ、と骨が軋む音が聞こえた気がした。
「い、痛い、痛いです叔父上!」
「エマール嬢の言っていることは正論だ。これのどこがいじめだ? 事実を突きつけられただけで泣くなど、経営者として……いや、人間として未熟すぎる」
クラウス様は冷たく吐き捨て、レイド王子を突き放した。
そして、床にへたり込んでいるシルフィを見下ろす。
「嬢ちゃん。泣けば許されるのは、赤子までだ。大人が泣いて許されるのは、借金の返済を待ってもらう時くらいだが……我が領ではそれも認めんぞ」
「ひっ……」
氷の閣下の絶対零度の視線に、シルフィはしゃっくりを止めて凍りついた。
クラウス様は私の方を振り返ると、その表情を一瞬で和らげた。
「素晴らしい手腕だ、エマール嬢。感情論に流されず、的確な数字(エビデンス)で相手を制圧する。まさに私が求めていた人材だ」
「恐縮です。未払い金の計算は得意分野ですので」
「君となら、我が領の赤字部門もすぐに黒字化できそうだ。……行こうか」
クラウス様が手を差し出す。
それは、舞踏会のエスコートというよりは、重要なビジネスパートナーへの握手のようだった。
私は扇子を閉じ、その手を取った。
「はい、喜んで。まずは馬車の中で、現在の領地のバランスシートを拝見させていただけますか?」
「もちろんだ。移動時間は二時間ある。たっぷりと議論しよう」
私たちは、呆然とする元婚約者と自称ヒロイン、そしてざわめく貴族たちを置き去りにして、颯爽と会場を後にした。
背後から、「待て! 誰か金を……!」というレイド王子の悲鳴が聞こえたが、私は振り返らなかった。
もはや彼は『不良債権』ですらない。
私の人生の『損切り』は、今ここで完了したのだから。
◇
会場を出て、辺境伯家の紋章が入った黒塗りの馬車に乗り込む。
内装は質実剛健。
無駄な装飾はないが、座席のクッション性は抜群だ。
「機能美ですね」
「だろう? 装飾に金をかけるより、乗り心地と耐久性を重視した」
クラウス様が満足げに頷く。
馬車が動き出すと、彼は早速、鞄から分厚い書類の束を取り出した。
色気のある展開など微塵もない。
いきなりの業務開始である。
「これが昨年度の決算書だ。特に公共事業費の項目を見てほしい」
「拝見します」
私は手早く書類をめくる。
数字の羅列が、私には美しい旋律のように見えた。
だが、数ページめくったところで、私の指が止まる。
「……閣下」
「なんだ?」
「この『河川整備事業』の予算、予備費が計上されていませんが?」
「ああ、それは……現場の判断で、資材を安く調達できたから不要だと言われてな」
「甘いです」
私はバサリと書類を閉じた。
「河川工事は天候に左右されます。突発的な増水や地盤の緩みによる工期延長はリスクとして常に見込むべきです。安く済ませることと、リスク管理を怠ることは違います。これでは、万が一の時に追加予算が必要になり、結果的にコストが倍増します」
馬車の中が一瞬、静まり返る。
初対面の、しかも自分を救い出してくれた相手に対する言葉としては、少々辛辣すぎただろうか。
しかし、数字の不備を見逃すことは、私のプライドが許さない。
恐る恐るクラウス様の顔を見ると――
彼は、目を輝かせていた。
「……すごい」
「え?」
「その通りだ。実は先月、大雨で工事が止まり、補正予算を組むのに苦労したんだ。君は、書類を見ただけでそれを見抜いたのか?」
「過去の統計データと照らし合わせれば、この時期の降水確率は予測できますから」
「君は……本当に、私の予想を超えてくるな」
クラウス様は、感嘆のため息をついた。
そして、不意に距離を詰めてくる。
整った顔が近づき、アイスブルーの瞳が私を覗き込む。
「エマール。改めて頼む。私のそばにいてくれ。君がいないと、私の領地は……いや、私の人生は『計算』が合わなくなりそうだ」
それは、今まで聞いたどんな愛の言葉よりも(主にレイド殿下の薄っぺらい詩よりも)、私の胸に響いた。
「……善処いたします。ただし、残業代はきっちり請求させていただきますわ」
「望むところだ」
こうして、悪役令嬢エマールの、辺境での「再就職」生活が幕を開けた。
だが、もちろん、あの二人がこのまま黙って引き下がるはずもなかったのだが――それはまた、後日談の帳簿に記すことにしよう。
レイド王子の素っ頓狂な声が、再び会場に響いた。
無理もない。
断罪イベントのクライマックスで、まさか悪役令嬢(仮)が、国の実力者である辺境伯に求婚(就職勧誘)されるなど、前代未聞だからだ。
しかし、私の頭の中はすでに、新たな「職場」の条件交渉へと切り替わっていた。
「閣下。全財産の管理というのは、具体的にどの範囲までを指しますか? 領地の税収管理だけでなく、個人の資産運用や投資判断も含みますか? また、決裁権の譲渡は?」
食い気味に尋ねる私に、クラウス様は口角を上げたまま答える。
「全てだ。私の個人口座の暗証番号も教えよう。君が『無駄だ』と判断したものは、たとえ私の趣味だろうと切り捨てて構わない」
「なんと……! ドラスティックなコストカットもし放題、ということですね?」
「ああ。我が領には、君のような冷徹な……いや、合理的な目を持つ人間が必要なんだ」
背筋がゾクゾクした。
もちろん、恐怖ではない。歓喜の武者震いだ。
ローゼンバーグ侯爵家や王家では、どれだけ正論を言っても「可愛げがない」「伝統を重んじろ」と却下されてきた。
それが、この方は「好きにしていい」と言う。
これは、経理担当者にとって最高の殺し文句ではないだろうか。
「待ってください、叔父上! 正気ですか!?」
蚊帳の外に置かれていたレイド王子が、慌てて割り込んでくる。
「その女は悪魔ですよ!? 僕がちょっと新しい剣を買おうとしただけで『その剣が必要な戦闘機会は年に何回ですか? 減価償却に五百年かかります』とか言ってくるんですよ!?」
「事実だろう。お前が剣を振るうのは、鏡の前でポーズを取る時だけだ」
「ぐっ……!」
クラウス様の一刀両断に、レイド王子が言葉を詰まらせる。
すると今度は、彼の腕の中にいたシルフィが、震える声を上げた。
「ひどいですぅ……!」
彼女は大きな瞳に涙を溜め、わざとらしくその場に崩れ落ちた。
いわゆる『悲劇のヒロイン』ポーズだ。
「クラウス様まで、エマール様に騙されているんです! この人は……この人は本当に怖い人なんです!」
「ほう。どう怖いのだ?」
クラウス様が興味なさそうに視線を向ける。
シルフィはここぞとばかりに、涙ながらに訴え始めた。
「私、エマール様に睨まれるたびに、心がキュッてなって……夜も眠れなくて……! 精神的に追い詰められていたんです! お金とか計算とか、そんな冷たいことばかり言って……人の心がないんです!」
周囲の貴族たちが、同情的なざわめきを見せる。
「可哀想に……」
「やはりエマール嬢は冷酷なのか」
空気か変わる。
か弱き少女の涙は、いつの時代も強力な武器だ。
特に、数字や論理よりも感情を優先するこの社交界においては。
レイド王子も勢いづく。
「そうだ! 見たか、シルフィのこの怯えようを! 彼女の純粋な心は、エマールの冷徹さによって傷つけられたんだ! これこそが何よりの罪だ!」
勝ち誇ったような顔をするレイド王子と、袖口で嘘泣きをするシルフィ。
私は扇子で口元を隠し、冷ややかな目で見下ろした。
(……やれやれ。感情論で攻めてくるとは、相変わらず芸がない)
私は一歩前に出た。
「シルフィ様。『怖い』と仰いましたね?」
「は、はい……! 貴女のその、お金のことしか考えていない目が怖いです!」
「なるほど。では、数字でお答えしましょう。貴女が『怖い』と感じるのは、私の目ではなく、ご自身の行いに対する『罪悪感』の具現化ではありませんか?」
「え……?」
「たとえば、貴女が今着ている、そのピンク色のドレス」
私は扇子で彼女を指し示した。
ふんわりとしたシフォン生地を重ね、無数のリボンと宝石をあしらった、砂糖菓子のようなドレスだ。
「とても可愛らしいデザインですね。帝都の有名デザイナー『マダム・ボヴァリー』の新作、カスタムオーダー品」
「そ、そうよ! レイド様が『君に似合う』って選んでくださったの!」
「ええ、存じております。その請求書が、私の手元に回ってきましたから」
私は懐から、新たな紙片を取り出した。
先ほどの手帳とは別の、未処理請求書の束だ。
「『マダム・ボヴァリー』からの請求額、金貨八十五枚。ちなみに、このドレスの支払期限は昨日でしたが、レイド殿下の口座は残高不足で引き落とせませんでした。督促状が私の元に届いております」
「なっ……!?」
シルフィの顔が強張る。
「さらに言えば、貴女はそのドレスに合わせて、靴、髪飾り、バッグも同ブランドで揃えましたね? それらの合計が金貨四十枚。しめて百二十五枚の『可愛らしさ』を身に纏っているわけですが……」
私は一拍置き、会場全体に聞こえる声で告げた。
「その金額は、貴女の御実家である男爵家の、年収二年分に相当します」
会場が、シーンと静まり返った。
「ね、年収二年分……?」
誰かがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。
「貴女が『怖い』とおっしゃったのは、この金額の重みではありませんか? ご自身の実家の経済力では一生かかっても払えない額を、他人の財布で身につけている。その事実に気づいてしまったから、震えていらっしゃるのでは?」
「そ、そんなこと……!」
「ちなみに、先ほど貴女が『夜も眠れない』と仰っていましたが、先月の貴女の行動記録を確認したところ、連日深夜まで王都のカフェや劇場で豪遊しており、単なる夜更かしによる睡眠不足かと推測されます。その際の飲食代も、すべて王家……いえ、私の管理下の予算から出ております」
私は畳み掛ける。
「心を痛めているのは貴女ではありません。王家の財政担当官と、補填をし続けてきた私の財布です」
「う、うわあああああん!!」
シルフィが絶叫した。
反論できなくなり、大声で泣いて誤魔化そうという魂胆だ。
「ひどい! やっぱりいじめだわ! レイド様ぁ、なんとか言ってください!」
「そ、そうだぞエマール! 金の話ばかりしやがって! シルフィが泣いているじゃないか!」
レイド王子が私に掴みかかろうとする。
だが、その手は私の体に届く前に、強固な壁によって阻まれた。
「……私の婚約者に、気安く触れるな」
クラウス様だ。
彼が私の前に立ちふさがり、レイド王子の腕を掴み上げている。
ギリギリ、と骨が軋む音が聞こえた気がした。
「い、痛い、痛いです叔父上!」
「エマール嬢の言っていることは正論だ。これのどこがいじめだ? 事実を突きつけられただけで泣くなど、経営者として……いや、人間として未熟すぎる」
クラウス様は冷たく吐き捨て、レイド王子を突き放した。
そして、床にへたり込んでいるシルフィを見下ろす。
「嬢ちゃん。泣けば許されるのは、赤子までだ。大人が泣いて許されるのは、借金の返済を待ってもらう時くらいだが……我が領ではそれも認めんぞ」
「ひっ……」
氷の閣下の絶対零度の視線に、シルフィはしゃっくりを止めて凍りついた。
クラウス様は私の方を振り返ると、その表情を一瞬で和らげた。
「素晴らしい手腕だ、エマール嬢。感情論に流されず、的確な数字(エビデンス)で相手を制圧する。まさに私が求めていた人材だ」
「恐縮です。未払い金の計算は得意分野ですので」
「君となら、我が領の赤字部門もすぐに黒字化できそうだ。……行こうか」
クラウス様が手を差し出す。
それは、舞踏会のエスコートというよりは、重要なビジネスパートナーへの握手のようだった。
私は扇子を閉じ、その手を取った。
「はい、喜んで。まずは馬車の中で、現在の領地のバランスシートを拝見させていただけますか?」
「もちろんだ。移動時間は二時間ある。たっぷりと議論しよう」
私たちは、呆然とする元婚約者と自称ヒロイン、そしてざわめく貴族たちを置き去りにして、颯爽と会場を後にした。
背後から、「待て! 誰か金を……!」というレイド王子の悲鳴が聞こえたが、私は振り返らなかった。
もはや彼は『不良債権』ですらない。
私の人生の『損切り』は、今ここで完了したのだから。
◇
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内装は質実剛健。
無駄な装飾はないが、座席のクッション性は抜群だ。
「機能美ですね」
「だろう? 装飾に金をかけるより、乗り心地と耐久性を重視した」
クラウス様が満足げに頷く。
馬車が動き出すと、彼は早速、鞄から分厚い書類の束を取り出した。
色気のある展開など微塵もない。
いきなりの業務開始である。
「これが昨年度の決算書だ。特に公共事業費の項目を見てほしい」
「拝見します」
私は手早く書類をめくる。
数字の羅列が、私には美しい旋律のように見えた。
だが、数ページめくったところで、私の指が止まる。
「……閣下」
「なんだ?」
「この『河川整備事業』の予算、予備費が計上されていませんが?」
「ああ、それは……現場の判断で、資材を安く調達できたから不要だと言われてな」
「甘いです」
私はバサリと書類を閉じた。
「河川工事は天候に左右されます。突発的な増水や地盤の緩みによる工期延長はリスクとして常に見込むべきです。安く済ませることと、リスク管理を怠ることは違います。これでは、万が一の時に追加予算が必要になり、結果的にコストが倍増します」
馬車の中が一瞬、静まり返る。
初対面の、しかも自分を救い出してくれた相手に対する言葉としては、少々辛辣すぎただろうか。
しかし、数字の不備を見逃すことは、私のプライドが許さない。
恐る恐るクラウス様の顔を見ると――
彼は、目を輝かせていた。
「……すごい」
「え?」
「その通りだ。実は先月、大雨で工事が止まり、補正予算を組むのに苦労したんだ。君は、書類を見ただけでそれを見抜いたのか?」
「過去の統計データと照らし合わせれば、この時期の降水確率は予測できますから」
「君は……本当に、私の予想を超えてくるな」
クラウス様は、感嘆のため息をついた。
そして、不意に距離を詰めてくる。
整った顔が近づき、アイスブルーの瞳が私を覗き込む。
「エマール。改めて頼む。私のそばにいてくれ。君がいないと、私の領地は……いや、私の人生は『計算』が合わなくなりそうだ」
それは、今まで聞いたどんな愛の言葉よりも(主にレイド殿下の薄っぺらい詩よりも)、私の胸に響いた。
「……善処いたします。ただし、残業代はきっちり請求させていただきますわ」
「望むところだ」
こうして、悪役令嬢エマールの、辺境での「再就職」生活が幕を開けた。
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