愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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王都の石畳を駆ける馬車の振動は、驚くほど少なかった。

サスペンションの構造が優れているのだろう。

私は乗り心地に感心しながらも、手元の書類から目を離さずにいた。

「……ふむ」

向かいの席に座るクラウス様が、興味深そうに私を見つめている。

「どうした? 酔ったか?」

「いえ。この『北の森』の伐採計画書の数字が、どうも気になりまして」

私は赤ペン(常に携帯している商売道具だ)を取り出し、書類の一箇所を丸で囲んだ。

「ここの運搬コスト、馬車の台数と積載量が噛み合っていません。おそらく、空荷で走る馬車が発生しています。ルートをAからBに変更し、中継地点で資材を積み替える方式にすれば、輸送費を15%削減できます」

「……なるほど。現場からは『山道が険しいので直通便を増やしたい』という要望があったのだが」

「現場の言い分も分かりますが、数字は嘘をつきません。直通便にするなら、馬車の車輪を改良して積載量を増やす方が先です。今のままだと、馬の餌代が無駄になります」

私はきっぱりと言い切った。

初対面の、しかも自分を救ってくれた「婚約者(仮)」に対して、遠慮というものがなさすぎるかもしれない。

しかし、私の前にあるのは数字だ。

数字に対する不誠実さは、私にとって最大の罪なのだ。

恐る恐る顔を上げると、クラウス様は口元を手で覆い、肩を震わせていた。

「くっ……ふふっ」

「……閣下? どこかおかしかったでしょうか?」

「いや、すまない。あまりにも痛快でな」

クラウス様は笑い声を漏らした。

あの「氷の閣下」が、少年のように無邪気に笑っている。

その破壊力は凄まじく、私は一瞬、計算の手を止めて見惚れそうになった。

(いけない。顔が良いのは認めますが、顔で飯は食えません。重要なのは経済力と経営方針です)

私は自身の頬を軽くつねり、精神を統一した。

「笑い事ではありません。経営者にとって、1%のロスは命取りです」

「ああ、その通りだ。……だが、エマール嬢。君は私に聞くべきことがあるのではないか?」

「聞くべきこと、ですか?」

私は小首をかしげた。

「例えば、『本当に私と結婚するつもりですか?』とか、『愛はあるのですか?』とか。普通の令嬢なら、まずはそこを気にすると思うのだが」

クラウス様の碧眼が、試すように私を射抜く。

確かに、レイド殿下との一件の直後だ。

普通の感性なら、ロマンスの行方を気にする場面だろう。

しかし、私はコホンと咳払いをして居住まいを正した。

「閣下。私にとって結婚とは、家と家との『業務提携』であり、夫婦とは共同経営のパートナーです」

「ほう。業務提携」

「はい。愛という感情は、株価のように変動しやすく、担保にするにはリスクが高すぎます。対して、利害の一致と能力の相互補完は、信頼という固定資産になります」

私は指を一本立てて力説する。

「レイド殿下には、その経営パートナーとしての資質が皆無でした。ですが、閣下の領地経営データを見る限り、貴方様は非常に優秀なCEOです。そのような方からのヘッドハンティング(求婚)を断る理由は、損益分岐点を計算するまでもなく『ありません』」

私の演説を聞いて、クラウス様は目を丸くした。

そして次の瞬間、堪えきれないといった様子で吹き出した。

「ははは! 愛を株価に例える令嬢は初めて見たぞ!」

「事実は事実ですので」

「気に入った。ますます気に入ったぞ、エマール。君の言う通りだ。私は飾りだけの人形のような妻などいらない。欲しかったのは、私の背中を預けられる、最強の『経理担当』だ」

クラウス様は、私の手元にある赤ペンをそっと指先でなぞった。

その仕草が妙に艶めかしく、私は思わずドキリとする。

「では、面接は合格ということで?」

「ああ、即採用だ。……ただし、契約条件が一つある」

「なんでしょうか? 給与面ですか? 休暇の保証?」

私が身構えると、クラウス様は身を乗り出し、私の耳元で囁いた。

「私の領地は広い。仕事は山のようにある。だが、君には必ず、私と共に夕食をとってもらう。そして、寝る前には必ず10分、私との会話の時間を作ること」

「……はい?」

予想外の条件に、私は瞬きをした。

「それは……業務報告の時間ということでしょうか?」

「いや。ただの夫婦の会話だ。今日あったこと、食べたもの、天気の話題……数字以外の話をする時間だ」

「数字以外の話を……10分も?」

私にとっては、難解な数式を解くよりもハードルの高いミッションに思えた。

「無理か?」

「む……努力します。ですが、話題が尽きたら予算の話をしても?」

「その時は、口を塞がせてもらうとしよう」

「どうやって?」

「……それは、結婚式までのお楽しみだ」

クラウス様は悪戯っぽくウィンクをした。

その意味を理解するのに数秒かかり、私はカッと顔が熱くなるのを感じた。

(この方、意外と……攻めてくる……!)

レイド殿下のような子供っぽい我儘ではなく、大人の余裕を含んだ攻勢。

計算外の事態に、私の心臓の鼓動数が明らかに上昇している。これは不整脈だろうか。

「さて、そろそろ到着だ」

クラウス様が窓の外を示す。

馬車の速度が緩み、車窓からは巨大な屋敷が見えてきた。

ヴァイサリウス辺境伯邸。

「氷の城」とも呼ばれるその屋敷は、質実剛健な造りながらも、圧倒的な威圧感を放っていた。

「ここが、君の新しい職場であり、家だ」

「……立派な建物ですね。維持費がかなりかかりそうですが」

「早速そこか」

クラウス様が苦笑しながら、馬車の扉を開けた。

外には、すでに大勢の使用人たちが整列して出迎えの準備をしている。

だが、その空気はどこか重く、張り詰めていた。

(おや……?)

私は敏感に空気の変化を察知した。

使用人たちの顔色が悪い。そして、私を見る目に、明らかな「怯え」と「警戒」の色がある。

「おかえりなさいませ、旦那様」

執事とおぼしき初老の男性が、恭しく頭を下げる。

しかし、その視線はチラチラと私の方を向き、微かに震えていた。

(ああ、なるほど。噂が先行しているのね)

「悪役令嬢」という名のブランド力は、辺境の地まで轟いているらしい。

レイド殿下やシルフィが広めた「エマールは冷酷非道な魔女だ」というデマが、ここでも信じられているのだろう。

クラウス様が私の手を取り、エスコートして馬車から降ろす。

「皆、紹介する。私の婚約者となった、エマール・フォン・ローゼンバーグ嬢だ」

シーン……。

歓迎の拍手も、祝いの言葉もない。

ただ、冷たい沈黙だけが場を支配する。

メイドの一人が、小声で囁き合っているのが聞こえた。

「あの方が、王都の悪役令嬢……」
「気に入らない使用人を、給与カットで脅して解雇するって噂よ……」
「怖い……私、クビにされたくないわ……」

聞こえていますよ、と心の中でツッコミを入れる。

どうやら、私の新しい職場は、アウェーからのスタートらしい。

だが、私は怯むどころか、逆に燃え上がるものを感じていた。

(誤解? 上等じゃないの)

私は背筋を伸ばし、扇子をパチリと鳴らした。

使用人たちがビクリと肩を震わせる。

私は彼らの怯えた顔を見渡し、そして――視線を屋敷のエントランス、その床の一点に固定した。

「……汚い」

私が発した第一声は、挨拶ではなかった。

「は、はい……?」

執事が目を白黒させる。

私はスタスタとエントランスへ歩み寄り、床の大理石を指差した。

「ここの目地、黒ずんでいますわよ。掃除が行き届いていません。これでは屋敷の品格に関わりますし、何より大理石の劣化を早めます。修繕費の無駄です」

「も、申し訳ございません!」

「それから、そこの窓ガラス。曇りがあります。採光率が下がると、室内の照明に頼ることになり、灯油代の浪費に繋がります」

私はクルリと振り返り、青ざめる使用人たちを見渡した。

「自己紹介が遅れました。エマールです。今日からこの屋敷の『経費削減』と『業務効率化』を担当させていただきます」

ニッコリと、あくまで事務的に微笑む。

「無駄な出費とサボりは一切許しませんので、そのおつもりで。……さあ、まずは帳簿と在庫リストを持ってきてくださる? 全精査します」

使用人たちが「ひぃぃ!」と悲鳴を上げそうになるのを、クラウス様が後ろで面白そうに眺めていた。

「手厳しいな。だが、頼もしい」

こうして、辺境伯邸での初日は、ロマンチックな新婚生活の幕開けではなく、徹底的な「業務改善命令」から始まったのだった。
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