愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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辺境伯邸のエントランスホールは、外観に違わず広大だった。

高い天井、磨き上げられた(ように一見見える)床、そして壁に飾られた歴代当主の肖像画。

ズラリと並んだ使用人たちは、私の一挙手一投足に怯え、まるで処刑台に引かれた囚人のように青ざめている。

「……」

私は無言で、ホールの中央に敷かれた赤い絨毯の上を歩いた。

コツ、コツ、とヒールの音が響くたびに、メイドたちが「ひっ」と肩をすくめる。

「(どうしよう、目が合っただけで石にされそう……)」
「(王都では、気に入らないメイドを冬の池に突き落としたって噂だよ……)」

ひそひそ話が聞こえてくるが、訂正するのも時間の無駄だ。

私はある一点で足を止めた。

飾られている年代物の甲冑(かっちゅう)の前だ。

「……執事」

「は、はいっ! 執事長のハンスでございます!」

白髪の上品な老紳士が、直立不動で返事をする。その額には冷や汗が滲んでいた。

「この甲冑の関節部分、錆(さび)が浮いていますわね」

「へ……?」

ハンスは呆気にとられた顔をした。

「え、あ、はい。古いものですので、どうしても湿気で……」

「『古いから』は理由になりません。錆は金属の癌(がん)です。放置すれば腐食が進み、修復不可能な状態になります。そうなってから買い換えるのと、今すぐ研磨剤と防錆油(ぼうせいゆ)で手入れをするのと、どちらがコスト安か計算できますか?」

私は扇子で甲冑の腕部分をコンコンと叩いた。

「この甲冑は芸術的価値の高い美術品です。資産価値を損なう行為は、職務怠慢(ネグレクト)と見なしますよ」

「は、はいぃっ! 申し訳ございません! すぐに手入れさせます!」

ハンスが深々と頭を下げる。

周囲のメイドたちも、私の剣幕に震え上がっていた。

「(ひぃぃ、細かい! やっぱり噂通りのおっかない人だ!)」
「(錆ひとつで詰められるなんて……これじゃあ私の雑な窓拭きなんて即・死刑だわ!)」

恐怖のベクトルが少しズレている気がするが、結果として掃除が徹底されるなら問題ない。

「それから」

私はくるりと振り返り、ホールの照明を見上げた。

「魔導ランプの光量が不均一です。左奥の二つ、魔石の交換時期が過ぎているのでは? 光量が落ちると作業効率が下がり、ミスを誘発します。在庫管理表はどうなっていますか?」

「そ、それは……その……」

「在庫切れ、ですか?」

私の問いに、ハンスが気まずそうに目を逸らす。

「じ、実は……予算が厳しく、来月まで購入を控えておりまして……」

「暗い部屋で作業をして、高価な食器を割ったり怪我をしたりするリスクコストを考えれば、魔石代など微々たるものです。今すぐ購入手配を。……ああ、正規ルートだと高いですね。私が知っている卸業者を紹介しますから、そちらを通してください。二割は安くなります」

「……は?」

ハンスがポカンと口を開けた。

「に、二割も……ですか?」

「ええ。大量発注を条件に、掛け率を交渉してありますので。……ちょっと、メモを取ってください。口頭での指示は『言った言わない』のトラブルの元です」

「あ、はいっ! ただいま!」

ハンスが慌てて懐から手帳を取り出し、必死にメモを取り始める。

その後も、私は屋敷の中を歩き回りながら、次々と指摘を飛ばした。

「カーテンの裾がほつれています。洗濯の際にネットを使っていないのでは? 修繕費がかさみます」
「この花瓶の位置、動線上にあり危険です。ぶつかって割る確率が統計的に高い配置です。五センチ右へ」
「暖炉の薪(まき)、乾燥が不十分です。燃焼効率が悪く、煙突に煤(すす)が溜まりやすくなります。定期的な煙突掃除のコストが増えますよ」

私の口から飛び出すのは、いじめの言葉でも人格否定でもない。

純粋なる「業務改善命令」の嵐だ。

最初は怯えていた使用人たちも、次第にその表情が変わっていく。

「(……あれ? なんか怒ってる内容が、全部もっともだぞ?)」
「(私の髪型とかドレスの趣味とかじゃなくて、純粋に仕事の話しかしてない……)」
「(しかも、安く買える業者を教えてくれたり、効率の良いやり方を指示してくれてる……?)」

戸惑いと、ほんの少しの尊敬(?)が入り混じった複雑な空気が流れる中、背後からパン、パン、と乾いた拍手の音が聞こえた。

「見事だ」

クラウス様が、楽しそうに笑っている。

「到着して十分足らずで、我が家の積年の課題を十個も見つけ出すとは。やはり君を連れてきて正解だった」

「お褒めにあずかり光栄ですが、問題は山積みです。閣下、これまでの領地経営がいかに『どんぶり勘定』だったか、自覚していただきたいですね」

私はキッと彼を睨んだ。

しかし、クラウス様は全く堪えた様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細める。

「ああ、耳が痛い。だが、これからは君がいる。頼もしい限りだ」

「口で言うのは簡単です。……ハンス、先ほど頼んだ帳簿類はまだですか? 夕食前にある程度の収支傾向を把握しておきたいのですが」

私が再び執事を急かすと、クラウス様がすっと私の前に立ちふさがった。

「エマール。仕事熱心なのはいいが、今日はもう休め」

「はい? 何を仰いますか。鉄は熱いうちに打て、赤字は早いうちに潰せ、です。移動の疲れなどありません」

「君の顔色は真っ白だ。それに、馬車の中で興奮して喋りっぱなしだっただろう」

「それは閣下が煽るから……きゃっ!?」

不意に、視界がぐるりと反転した。

気づけば、私の体は宙に浮いていた。

いや、違う。

クラウス様に、横抱きにされていたのだ。

いわゆる、お姫様抱っこである。

「な、ななな、何をっ!?」

冷静沈着な私も、これには声を裏返さずにはいられなかった。

使用人たちが「きゃああっ!」と黄色い悲鳴を上げ、ハンスが「お熱いことで……」と目を伏せる。

「下ろしてください! 就業規則違反です! セクシャルハラスメントで訴えますよ!」

「夫婦間のスキンシップだ。訴えは却下する」

クラウス様は平然と言い放ち、私を抱えたまま階段を上がり始めた。

「ちょ、閣下! 重いですわ! 私の体重とドレスの重量で、貴方の腰椎にかかる負荷を計算してください!」

「軽いものだ。羽根のようだよ。……ちゃんと食べているのか? これから食事管理も私の仕事だな」

「論点をずらさないでください!」

私の抗議も虚しく、クラウス様はスタスタと廊下を進んでいく。

その胸板は厚く、腕は鋼のように硬い。

至近距離で見上げる彼の顔は、悔しいほどに整っていて、アイスブルーの瞳が優しく私を見下ろしている。

(……近い。心拍数が、また……)

数字以外のイレギュラーな事態に、私の脳内コンピューターがエラーを吐きそうになる。

「ここは君の部屋だ」

クラウス様が足で器用に扉を開け、私を豪奢な天蓋付きベッドの上に下ろした。

ふかふかのマットレスに沈み込む。

「夕食まで、少し眠れ。これは『業務命令』だ」

「……業務命令、ですか?」

「ああ。雇用主(夫)としての命令だ。最高のパフォーマンスを発揮するためには、休息も必要経費だろう?」

私の得意な理屈を返され、私はぐぬぬと言葉に詰まった。

「……分かりました。休息もタスクの一環と認識します」

「よろしい」

クラウス様は満足げに頷くと、私の額に落ちた前髪をそっと指で払った。

その指先が触れた場所が、カッと熱くなる。

「夕食の時にまた来る。……逃げるなよ、私の『最強の経理担当』」

甘い声でそう囁き、彼は部屋を出て行った。

パタン、と扉が閉まる。

広い部屋に一人残された私は、真っ赤になった顔を両手で覆い、枕に顔を埋めた。

「……計算外だわ」

心拍数の乱れが収まらない。

このままでは、精神的な消耗によるカロリー消費で、夕食前に倒れてしまいそうだ。

(……まずは呼吸を整えて、心拍数を正常値に戻す。それから、この部屋の調度品の資産価値を目視で鑑定して、気を紛らわせるのよ、エマール!)

私は必死に、天井のシャンデリアのクリスタルの数を数え始めた。

だが、その数が百を超えたあたりで、控えめなノックの音が響いた。

「し、失礼いたします……」

おずおずと入ってきたのは、震える小動物のような、茶髪の若いメイドだった。

「だ、旦那様より、エマール様の専属メイドを仰せつかりました、ロッテと申しますぅ……」

彼女は涙目で、お盆に乗せた水差しを持っている。

その手はカタカタと震え、水がチャプチャプと波打っていた。

(ああ、また「悪役令嬢」に怯える犠牲者が一人……)

私はベッドから身を起こし、ため息交じりに彼女を見た。

「ロッテ、と言いましたね」

「は、はいぃっ! い、命だけは助けてくださいぃ!」

「取りませんよ、そんなもの。……それより、貴女」

私は彼女のメイド服の胸元を指差した。

「第二ボタンが緩んでいます。配膳の最中にボタンが外れてスープに混入したら、大問題になりますよ。今すぐ付け直しなさい」

「え……?」

ロッテはきょとんとして、自分の胸元を見た。

確かに、糸がほつれてボタンがブラブラしている。

「あ、あの……怒らないんですか? 私の顔が地味だとか、空気が読めないとか……」

「そんな主観的なことで怒る暇はありません。私が怒るのは『非効率』と『損失』に対してだけです」

私はベッドサイドにあったソーイングセット(常備品だ)を彼女に投げ渡した。

「ほら、五分で直しなさい。その間に、この屋敷の組織図と給与体系についてヒアリングを行います」

「は、はいっ! 喜んで!」

ロッテは涙を拭い、なぜか嬉しそうに針に糸を通し始めた。

こうして私は、休息時間すらも情報収集に充てることになったのだった。
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