愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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「……ふむ」

私は腕組みをして、眉間に深い皺を寄せた。

私の目の前には、専属メイドに任命されたばかりのロッテが、直立不動で震えている。

「あ、あの……エマール様? ボタンの付け替えは終わりましたけど……な、何か不備がございましたでしょうかぁ……?」

「ロッテ。この部屋の『備品管理リスト』と、現物の照合が終わりました」

私はサイドテーブルに置いてあった、革表紙の台帳を指差した。

休息を取れとクラウス様に言われたが、ベッドでただ横になっているなど、時間の浪費以外の何物でもない。

私は部屋にあった備品リストを見つけ出し、この一時間、棚卸し作業を行っていたのだ。

「け、結果は……?」

「最悪です」

私が低く告げると、ロッテが「ひいぃっ!」と悲鳴を上げた。

「ご、ごめんなさいぃ! 掃除が行き届いていないのは私の責任ですぅ! 窓の桟(さん)の埃ですよね? それともカーペットの染みですか? お許しください、お許しくださいぃ!」

ロッテは床に額を擦り付けて謝罪を始めた。

王都の噂では、私が「部屋に埃が一つあっただけでメイドの髪を切り落とした」ことになっているらしい。

なんて非効率な体罰だろうか。髪を切ったところで埃はなくならないし、メイドのモチベーションが下がるだけだ。

「顔をお上げなさい、ロッテ。私は埃や染みの話などしていません」

「へ……?」

ロッテが恐る恐る顔を上げる。

「確かに、窓の桟には三日分ほどの埃が堆積していますし、カーペットの染みは紅茶をこぼしてから迅速な処理を怠った証拠です。これらは美観を損ね、衛生環境を悪化させる『マイナス要因』ですが……」

私は一拍置き、台帳をバンッ!と叩いた。

「私が許せないのは、こちらの『数字のズレ』です!」

「す、数字……?」

「見てください。このリストには『クリスタル製の花瓶:2個』と記載されています。しかし、室内には1個しかありません。残り1個はどこへ?」

「え、えっと……それは……以前、掃除の際に割れてしまったと聞いております……」

「割れた? ならば『破損廃棄届』が出され、リストから削除されているはずです。なぜ残っているのですか? これでは資産価値が過大計上されたままです!」

私は赤ペンを取り出し、該当箇所を二重線で抹消した。

「いいですか、ロッテ。埃は掃除すれば消えます。しかし、帳簿のズレは放置すればするほど、組織の信用という根幹を腐らせるのです。物理的な汚れよりも、データの汚れの方が罪深いと知りなさい!」

「は、はいぃっ! 勉強になりますぅ!」

ロッテが目を輝かせて(涙目だが)頷く。

どうやら彼女は、私が理不尽な暴力で支配するタイプではなく、理屈っぽいだけの数字オタクだと薄々気づき始めたようだ。

その時、コンコン、とドアがノックされた。

「入るぞ」

返事をする間もなく、クラウス様が入室してくる。

彼は軍服から、リラックスした夜会服に着替えていた。その姿もまた絵になりすぎていて、目の保養……いや、視覚情報の過剰摂取で目がくらむ。

「……やはり、寝ていなかったか」

クラウス様は、私が広げた台帳と赤ペンを見て、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに口角を上げた。

「休息も業務命令だと言ったはずだが?」

「頭脳労働は私にとっての休息です。それに、この部屋の棚卸しだけで三箇所もの記載ミスが見つかりました。これを放置して眠ることなど、生理的に不可能です」

私が胸を張って答えると、クラウス様はクスクスと笑った。

「君は本当に、数字の番人だな。……まあいい。夕食の準備が整った。食堂へ行こう」

クラウス様が腕を差し出す。

私はその腕に手を添え、部屋を出た。

ロッテが慌てて後ろをついてくる。

「ところで閣下。この屋敷の『メイド長』はどなたですか?」

廊下を歩きながら、私は尋ねた。

先ほどの部屋の管理不備。あれは末端のメイドの責任ではない。管理者の怠慢だ。

「メイド長か? ミセス・マーガレットだ。古株で、私の乳母代わりでもあった。……少々、頭の固いところがあるが」

「頭が固いのは構いません。数字にルーズなのが問題です」

「何かあったのか?」

「部屋の備品管理が杜撰(ずさん)です。おそらく、屋敷全体で相当数の『行方不明資産』があるはずです。早急に是正勧告を行う必要があります」

私が眼鏡の位置を直す仕草(伊達眼鏡ではないが、心の目で装着している)をすると、クラウス様は苦笑した。

「お手柔らかに頼むよ。彼女はプライドが高い」

「プライドで赤字は埋まりません」

バッサリと切り捨てると、私たちは一階の食堂に到着した。

重厚な両開きの扉が開かれる。

「お待ちしておりました、旦那様。そして……エマール様」

出迎えたのは、五十代半ばと思われる、恰幅の良い女性だった。

ひっつめ髪に、糊の効いたメイド服。その目つきは鋭く、私を見る視線には明らかな敵意――あるいは「値踏み」の色が浮かんでいる。

彼女が、メイド長のマーガレットだろう。

「ようこそ、辺境伯邸へ。メイド長のマーガレットでございます。……噂に名高い『悪役令嬢』様をお迎えできて、身の引き締まる思いですわ」

丁寧な言葉遣いだが、語尾にトゲがある。

「噂に名高い」という部分を強調したあたり、嫌味のセンスはなかなかだ。

周囲に控えるメイドたちが、ピリピリとした空気に飲まれて震えている。

これは、いわゆる「新参者の女主人」に対する、古株使用人による洗礼(マウンティング)というやつだろう。

通常なら、ここで萎縮するか、あるいは権力を笠に着て怒鳴り散らすのがセオリーだ。

だが、私はエマール。

感情バトルには興味がない。

「ご丁寧にありがとうございます、マーガレットさん。……ところで」

私は彼女の挨拶をスルーして、食堂のテーブルへと歩み寄った。

そこには、二人分とは思えない量の料理が並べられている。

前菜だけで五種類。スープ、魚料理、肉料理は大皿で三つ。デザートのタワーまである。

「これは、歓迎会用の特別メニューですか?」

私が尋ねると、マーガレットは鼻を鳴らした。

「いいえ。旦那様の普段のお食事ですわ。当家は武門の家柄。体力を使う旦那様のために、常に最高かつ豊富な種類の料理を用意するのが、代々の習わしとなっております」

彼女は胸を張った。

「王都の貧弱な令嬢様には、少々刺激が強すぎるかもしれませんが? お口に合わなければ、お粥でもご用意させますが」

挑発だ。

「田舎の料理だと馬鹿にするなよ」という牽制と、「お前ごときに当家の伝統が分かるか」というプライドが見え隠れする。

クラウス様が何か言いかけようとするのを、私は手で制した。

そして、静かに告げた。

「……廃棄率は、何パーセントですか?」

「は?」

マーガレットの眉が跳ね上がった。

「これだけの量、成人男性一人で食べきれるはずがありません。残った料理はどうしているのですか? 使用人の賄(まかな)いに回すとしても、高級食材をそのまま出すわけにはいかないでしょう。衛生管理上、保存も難しい。つまり、大半を捨てているのではありませんか?」

「そ、それは……! 当家の品格を保つためには、必要なゆとりです! 食べ残しが出るほど用意するのが、貴族の豊かさの証明……」

「それは一昔前の価値観です」

私はテーブルの上のローストビーフを指差した。

「この肉は、領内産の『スノー・バイソン』の希少部位ですね? 市場価格でキロあたり金貨二枚。それを毎日、廃棄前提で並べるなど、生産者への冒涜であり、経済合理性を欠いた愚行です」

「ぐ……っ!」

「さらに言えば、メニュー構成がタンパク質に偏りすぎています。これでは痛風のリスクが高まるだけです。医療費という将来的なコスト増大を招くつもりですか?」

私はマーガレットに向き直り、ニッコリと微笑んだ。

「品格とは、皿の数ではありません。素材を活かし、食べる人の健康を考え、無駄を出さない『知性』にこそ宿るものです」

食堂が、水を打ったように静まり返った。

マーガレットの顔が、怒りで赤くなり、次に青くなり、最後には真っ白になった。

彼女が最も誇りに思っていた「旦那様への献身」の方向性が、間違っていると指摘されたのだ。しかも、ド正論で。

「……ふっ、くくっ……!」

沈黙を破ったのは、またしてもクラウス様の笑い声だった。

「ははは! 痛風のリスクか! 確かに、最近少し胃が重いと思っていたんだ」

彼は椅子に座り、私に手招きをした。

「座りたまえ、エマール。君の言う通りだ。だが、作ってしまったものを捨てるのは、それこそ無駄だ。まずはいただこう。……改善策は、食べながら聞かせてもらえるか?」

「ええ、喜んで。まずはこの過剰なメニューの見直しと、食材の発注サイクルの最適化について提案があります」

私は席に着き、ナプキンを広げた。

マーガレットは呆然と立ち尽くしていたが、私が「スープが冷めますよ。給仕をお願いします」と声をかけると、ハッとして動き出した。

その手つきは先ほどまでの尊大さが消え、どこか私の顔色を窺うような、慎重なものに変わっていた。

(……ふむ。まずはジャブ程度ね)

私は絶品のスープを口に運びながら、心の中で計算した。

この屋敷の改革、想定よりもやりがいがありそうだ。

「美味しい」

私が素直に感想を漏らすと、マーガレットの肩がビクリと跳ねた。

「味は一流です。シェフの腕は確かですね。……だからこそ、その腕を『捨てる料理』を作るために使わせるのは、人件費の最大の無駄遣いだと思いますわ」

私の言葉に、奥の厨房への扉がわずかに開いた気がした。

聞き耳を立てていたシェフたちが、震え上がっているのか、それとも感動しているのか。

それは、明日の厨房視察で明らかになるだろう。
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