愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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翌朝。

ヴァイサリウス辺境伯邸の厨房は、戦場のような緊張感に包まれていた。

「お、おい……聞いたか? 昨日の食堂での惨劇を……」
「ああ。あのマーガレットさんが、一言も言い返せずに真っ白になっていたって……」
「噂じゃ、気に入らないスープを出したシェフの指を、その場で詰めようとしたらしいぞ!」
「ひいぃっ! なんて恐ろしい……!」

料理人たちが野菜を刻む手が震えている。

そこへ、カツ、カツ、カツ……と、規則正しい足音が近づいてきた。

バン!

厨房の扉が開かれる。

「おはようございます。皆様、仕込みはお進みですか?」

現れたのは、朝日に輝く金髪と、鋭い釣り目、そして手には分厚いバインダーを持った私、エマールである。

「「「ぎゃあぁぁぁぁ――ッ!!」」」

料理人たちが一斉に悲鳴を上げ、数名が腰を抜かした。

鍋を持っていた見習いがひっくり返りそうになるのを、私は素早く駆け寄って支える。

「危ないですね。熱湯が入った鍋を扱う時は、重心を低く保つのが基本です。労働災害は治療費と休業補償で高くつきますから、気をつけてください」

「あ、あ……あり、ありがとうございます……?」

見習いの少年が涙目で私を見上げる。

私は彼を立たせると、厨房の中央に仁王立ちした。

その背後から、面白そうにニヤニヤしているクラウス様が入ってくる。

「やあ、皆。紹介しよう。私の婚約者であり、今日からこの屋敷の『経理最高責任者』となるエマールだ」

「経理……?」

料理長と思しき、髭を蓄えた巨漢の男がおずおずと進み出た。

「あ、あの……俺は料理長のロッシと申します。……指を詰めるなら、俺の指一本で勘弁してください! 若い連中には未来があるんです!」

ロッシ料理長が悲痛な覚悟で右手を突き出す。

私は呆れてため息をついた。

「誰が指なんて欲しがるのですか。ホルマリン漬けにする趣味も、出汁(だし)にする予定もありません。非生産的です」

「へ?」

「私が欲しいのは、貴方の『指』ではなく、貴方が日々捨てている『黄金』です」

「お、黄金……?」

ロッシ料理長がきょとんとする中、私はスタスタと部屋の隅にある「廃棄バケツ」へと歩み寄った。

そして、その中身を覗き込み、眉をひそめる。

「やはり。……ロッシさん、この人参の皮、厚すぎませんか? 可食部まで2ミリは削っていますよ」

「は、はあ。ですが、皮の近くは硬くて……」

「煮込めば柔らかくなります。それに、ブロッコリーの芯。ここが一番甘くて美味しいのに、なぜ捨てるのですか? ポタージュにすれば絶品ですし、原価率はゼロに近いです」

私はバインダーを開き、電卓(魔道具式計算機)を叩き始めた。

パチパチパチパチッ!

その指さばきは、ピアニストのように高速で正確だ。

「昨日の廃棄量と食材単価から試算しました。この厨房では、年間およそ金貨五十枚分の食材を、そのままゴミ箱に捨てている計算になります」

「ご、金貨五十枚!?」

料理人たちがどよめく。

「五十枚あれば、何ができるか分かりますか? 王都の三ツ星レストランで使われている最新鋭の『魔導コンベクションオーブン』が二台買えます」

「なっ……!?」

ロッシ料理長の目の色が変わった。

「魔導コンベクションオーブンだって!? あ、あれはずっと俺たちが欲しかった……でも、予算がなくて諦めていた……!」

「ええ。今の無駄をなくせば、半年で購入可能です」

私はニッコリと微笑んだ。

それは「悪役令嬢」の冷笑ではなく、「悪魔の契約」を持ちかける敏腕営業マンの笑みだ。

「どうですか、ロッシさん。私と契約しませんか? 食材ロスを徹底的に削減し、その浮いたコストを、貴方達の設備投資と……そうですね、月一回の『新作スイーツ試食会』の研究費に充てるというのは」

「ス、スイーツの研究費……!?」

パティシエ担当の女性が身を乗り出した。

「い、いいんですか!? 高級なバニラビーンズや、季節のフルーツを自由に使っても!?」

「ええ。ただし、予算内(ロス削減分)でのやりくりが条件です。ゴミを減らせば減らすほど、貴方達の夢の調理器具や高級食材が手に入る。……悪い話ではないでしょう?」

厨房内が、ゴクリと唾を飲む音で満たされた。

恐怖の対象だった「悪役令嬢」が、今や「予算を運んでくる女神」に見え始めているようだ。

ロッシ料理長が震える声で尋ねる。

「ほ、本当に……オーブンを買ってくれるんですか?」

「約束します。ただし、今日から野菜の皮むきはピーラーを導入し、肉の端材はミンチにして賄(まかな)いカレーにすること。在庫管理は先入れ先出しを徹底すること。これらが守れれば、ですが」

「やります!!」

ロッシ料理長が叫んだ。

「皮どころか、根っこまで使い切ってみせます! エマール様……いや、エマール社長! 一生ついていきます!」

「社長ではありません。……では、早速ですが今日のランチメニューの原価計算をやり直します。集まってください」

「「「はいっ!!」」」

先ほどまでの怯えた様子はどこへやら、料理人たちは目を輝かせて私の周りに集まってきた。

その光景を見て、壁際で腕組みをしていたクラウス様が、肩を震わせて笑い出した。

「くくっ……見事な人心掌握術だ。餌(オーブン)で釣るとはな」

「人聞きの悪いことを言わないでください。これは『インセンティブ制度』によるモチベーション管理です」

私は振り返らずに答える。

「それに、美味しい料理を作るには、料理人が楽しく働ける環境が必要です。ストレスは味に出ますから」

「……ふむ。優しいな、君は」

「優しさではありません。効率化です」

私がツンと澄ますと、クラウス様は愛おしそうに目を細めた。



厨房を制圧した後、私は屋敷の中庭へと移動した。

そこでは、庭師たちが庭木の手入れをしている最中だった。

「ひっ、で、出た……!」
「目を合わせるな! 枝と一緒に剪定されるぞ!」

庭師たちが怯えて逃げようとする。

しかし、私は逃さない。

「そこの庭師さん。その剪定した枝、どうするつもりですか?」

「へ? い、いや、燃えるゴミとして捨てますが……」

「待ちなさい」

私は山積みになった枝を検分した。

「これは『カシの木』ですね? 硬くて火持ちが良い。ゴミとして捨てるなら、乾燥させて冬の暖炉の薪に使いなさい。薪代が浮きます」

「は、はあ……」

「それから、こちらの落ち葉。腐葉土にするためのコンポスト(堆肥枠)はどこですか? まさか、肥料を買っているわけではありませんよね?」

「えっと、その、面倒なので買ってます……」

「今すぐコンポストを作りなさい! 自家製肥料ならタダです! 浮いた肥料代で、休憩所用の新しいベンチと、夏場の冷たい麦茶サーバーを設置しましょう」

「む、麦茶サーバー!?」

庭師たちの顔が輝いた。

「やります! 俺たち、落ち葉拾いのプロになります!」

こうして、厨房に続き、庭師チームも陥落した。



午後。

私は洗濯室(ランドリー)を襲撃した。

「洗剤の使いすぎです! 泡が多ければ汚れが落ちるわけではありません! 適正量を守れば、洗剤代は半分になります。浮いたお金で、手荒れ防止の高級ハンドクリームを全員に支給します!」

「「「キャーッ! エマール様素敵ーッ!!」」」

洗濯係のメイドたちが黄色い歓声を上げる。



夕方。

私は執務室で、一日の成果を報告書にまとめていた。

「……本日の削減見込み額、金貨三枚。月換算で九十枚。……ふふ、悪くない数字ね」

電卓を弾く音が、心地よいリズムを刻む。

そこへ、クラウス様が入ってきた。

「お疲れ様。屋敷中が君の話題で持ちきりだよ」

「悪口ですか?」

「いや。『厳しいけど、言う通りにすれば欲しかったものが手に入る魔法使い』だとさ」

クラウス様は苦笑しながら、私のデスクに温かい紅茶を置いた。

「使用人たちの表情が、昨日とはまるで違う。皆、生き生きと『節約』に励んでいるよ。……ありがとう、エマール」

「お礼を言われる筋合いはありません。私はただ、数字の辻褄を合わせただけです」

私が顔を背けると、クラウス様は机越しに身を乗り出し、私の頬に手を添えた。

「素直じゃないな。……だが、そんなところも可愛い」

「っ……!」

至近距離での不意打ちに、心臓が跳ねる。

「か、閣下。業務時間中です。セクハラは……」

「今は夕食前の『自由時間』だ。……さて、エマール。君は皆に褒美(インセンティブ)を与えたが、君自身への褒美はどうするつもりだ?」

「私への、褒美?」

「ああ。これだけ働いたんだ。何か欲しいものはないのか? 宝石か? ドレスか? それとも……」

クラウス様のアイスブルーの瞳が、妖しく光る。

「私のキスか?」

「ぶっ!!」

私は思わず紅茶を吹き出しそうになった。

「け、結構です! キスで腹は膨れませんし、資産価値も不明です!」

「む、つれないな。プライスレスな価値があると思うのだが」

「私が欲しいのは……そうですね」

私は少し考え込み、そして真剣な眼差しで答えた。

「この執務室専用の、高性能な『多機能万年筆』が欲しいです。今のペンはインクの出が悪くて、計算のスピードが落ちます」

「……万年筆?」

「はい。ペン先は金、インク吸入式で、長時間の筆記でも疲れない重心バランスのものが理想です」

ロマンチックのかけらもない要求に、クラウス様はポカンとし、そしてまた大笑いした。

「ははは! 君らしい! いいだろう、王都から最高級のものを取り寄せよう」

「本当ですか! ありがとうございます!」

私が今日一番の笑顔(オーブンをもらった料理長と同じ顔)を見せると、クラウス様は少しだけ複雑そうな、でも愛おしそうな顔で呟いた。

「……万年筆に嫉妬する日が来るとはな」

こうして、私の「辺境伯邸・経費削減改革」初日は、大成功(黒字)のうちに幕を閉じた。

使用人たちは私を「経理の女神」と崇め始め、屋敷の無駄は着々と排除されていく。

だが、そんな順調な日々も束の間。

私の平和な計算ライフを脅かす「不確定要素(エラー)」は、忘れた頃にやってくるものだ。

そう、例えば――

「エマール様! 大変です!」

執事のハンスが、血相を変えて執務室に飛び込んできた。

「王都から……レイド殿下からの手紙が届きました!」

「……チッ」

私は思わず舌打ちをした。

ペンの先が、報告書の紙に小さな穴を開ける。

「あの不良債権、まだ何か用があるのかしら?」

私の冷徹な声に、ハンスが再び震え上がったのは言うまでもない。
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