愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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「おい、見ろシルフィ! エマールのやつから返事が来たぞ!」

王都、王城の一角にある第二王子レイドの私室。

豪奢な家具が並ぶその部屋で、レイドは手に持った封筒をヒラヒラと振ってみせた。

シルフィが、ソファで新しい宝石のカタログを眺めながら顔を上げる。

「えぇ~? あの意地悪なエマール様からですかぁ? どうせ、『戻りたいけど素直になれない』とか、そんな内容じゃありませんこと?」

「決まっているだろう! 僕が直々に手紙を書いてやったんだぞ? 感動して涙で濡らした返事を寄越したに違いない!」

レイドは鼻息も荒く、封筒の封蝋(ふうろう)を乱暴に剥がした。

「さあ、いくら送金してくると書いてあるかな? これで君の新しいドレスも、僕が壊した馬車の修理代も払えるぞ!」

期待に胸を膨らませ、彼は中の便箋を取り出し、バッと広げた。

「……ん?」

レイドの動きが止まった。

「レイド様? どうなさいましたの?」

「……あ、赤?」

「赤?」

シルフィが不思議そうに覗き込む。

そこにあったのは、レイドが送った手紙そのものだった。

しかし、その文面は、元の文字が見えなくなるほど大量の「赤インク」で埋め尽くされていたのだ。

まるで、血しぶきを浴びたかのような惨状である。

「な、なんだこれは……! 『添削(てんさく)』……?」

レイドが震える声で読み上げる。

便箋の冒頭には、流麗な筆記体で、大きくこう書かれていた。

『採点結果:2点(100点満点中)。再提出を求めます』

「に、2点だとぉ!?」

「きゃあ! ひどいですぅ! レイド様の愛の言葉に点数をつけるなんて!」

「よ、よく見ろ、ここ! 僕が書いた『愛(Ai)』という文字に、赤いバツ印がついているぞ!」

レイドが指差した箇所には、容赦ないコメントが書き添えられていた。

『※修正:Love。なお、貴殿の感情は愛ではなく「依存」または「寄生」と呼ぶのが言語学的に適切です』

「き、寄生……!? 僕は王子だぞ!?」

さらに読み進める。

『僕の部屋の掃除もしてくれ』という一文には、赤線が引かれ、

『※回答:清掃業者の相場は一時間あたり銀貨五枚です。王族割引はありません。なお、貴殿の部屋の汚さは精神の乱れを反映していると思われますので、まずはカウンセリングをお勧めします』

「おのれエマール……!」

『戻ってきたら、側室にしてやらなくもないぞ』の部分には、二重線どころか黒く塗りつぶされ、

『※却下。当方は現在、優良物件(辺境伯)にて高待遇で就業中です。ブラック企業(王家)への再就職の意思はありません』

そして、手紙の最後には、別紙が一枚添付されていた。

それは、見慣れた「請求書」のフォーマットだった。

『件名:文章添削指導料およびコンサルティング費用
 ・誤字脱字修正(17箇所):金貨17枚
 ・論理破綻の指摘(5箇所):金貨50枚
 ・精神的苦痛への慰謝料:金貨100枚
 ・返信郵送代:金貨1枚
 ----------------------------
 合計請求額:金貨168枚
 ※支払期限:即日。延滞の場合は法定利息を加算します』

「ふ、ふざけるなあああああッ!!」

レイドは絶叫し、請求書を床に叩きつけた。

「金を送れと言ったのに、逆に請求してくるとはどういうことだ! しかもなんだこの金額は! 添削だけで金貨百枚以上だと!?」

「レイド様、落ち着いてくださいまし! 血管が切れますわ!」

「落ち着いていられるか! あいつ、僕を馬鹿にしやがって……! 辺境伯に拾われたからって、いい気になりやがって!」

レイドは部屋中を歩き回り、高価な壺を蹴り飛ばそうとして、寸前で止めた。

(いかん、これを割ったらまたエマールに怒られる……いや、もう婚約者じゃないんだった! くそっ、なんで僕が金の心配をしなきゃならないんだ!)

今まで、彼の浪費はすべてエマールが裏で処理していた。

壊した壺も、買いすぎた服も、すべて彼女が私財を投じて補填し、帳尻を合わせていたのだ。

その「守護神(スポンサー)」がいなくなった今、レイドの生活は急速に崩壊し始めていた。

「レイド様ぁ……。そんなことより、私のドレスは?」

シルフィが空気の読めない発言をする。

「来週のお茶会までに新しいのが欲しいって言ったじゃないですかぁ。マダム・ボヴァリーの新作、まだ予約してないんですか?」

「だ、だから! 金がないんだよ! 財務官のじじいが『これ以上の予算超過は認められません』って金庫を閉めやがったんだ!」

「えぇ~? 王子様なのに? 命令して開けさせればいいじゃないですかぁ」

「それができれば苦労しない! 父上(国王)も最近うるさいんだ。『エマール嬢がいなくなってから、経費が急増しているがどういうことだ』って……」

レイドは頭を抱えた。

エマールの存在の大きさ。

それを、彼は「金」という最も分かりやすい形で思い知らされ始めていた。

だが、彼のプライドはそれを認めることを拒否した。

「違う……僕が悪いんじゃない。エマールが悪いんだ。あいつが勝手に逃げ出したから、計算が合わなくなったんだ!」

「そうですわレイド様! エマール様は無責任です! 王子様の婚約者だったくせに、途中で投げ出すなんて!」

シルフィも同調する。彼女にとっても、エマールは「無限に湧いてくるお財布」だったのだ。財布がなくなれば困るのは当然である。

「こうなったら……」

レイドの目に、昏(くら)い光が宿る。

「直接行って、連れ戻すしかない」

「え? 辺境伯領へ行くのですか?」

「ああ。手紙でダメなら、王族の権威を使って命令するまでだ。叔父上(クラウス)も、甥の僕の頼みなら断れないはずだ」

レイドはニヤリと笑った。

根拠のない自信。

彼はまだ知らなかったのだ。

「氷の閣下」と呼ばれる叔父が、甥に対してどれほど容赦がないかを。

そして、今のエマールが、最強のバックアップを得てどれほどパワーアップしているかを。



一方、その頃。

ヴァイサリウス辺境伯邸、執務室。

「……はくしょんっ!」

私が可愛くないくしゃみをすると、隣のデスクで仕事をしていたクラウス様が顔を上げた。

「どうした? 風邪か?」

「いいえ。誰かが私の噂をしているようです。おそらく、非常に知能指数の低い会話の中で」

私は鼻をハンカチで押さえながら、冷静に分析した。

「王都に送った『添削課題』が届いた頃合いでしょう」

「ああ、あれか。……金貨168枚の請求書、本当に送ったのか?」

クラウス様が苦笑する。

「当然です。私のコンサルティングは高額ですよ? 特に、理解力のない生徒への指導には『特別手当』がつきます」

私は手元の新しい万年筆を愛おしそうに撫でた。

この万年筆のおかげで、昨日の添削作業は非常に捗(はかど)った。

インクの赤色が、レイド殿下の無知を鮮やかに染め上げていく様は、ある種のアートだったと言える。

「しかし、あいつが素直に払うとは思えんが」

「払わないでしょうね。手紙を破り捨てて逆上するのがオチです」

「では、どうする?」

「そのための『第二の手』です」

私はデスクの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。

「これは?」

「王都の『商人ギルド』および『高利貸し組合』宛ての通達書です」

私は邪悪な(と人は言うかもしれないが、あくまで事務的な)笑みを浮かべた。

「内容はシンプルです。『今後、レイド王子およびシルフィ男爵令嬢との取引において、ローゼンバーグ侯爵家およびヴァイサリウス辺境伯家は、一切の連帯保証を行わない』という宣言文です」

「……なるほど」

クラウス様が目を見張る。

「今まで、あいつらがツケで買い物ができていたのは、最終的に君が払うという信用があったからか」

「その通りです。商人も馬鹿ではありません。支払い能力のない王子に商品を売っていたのは、私の『裏書き』があったからです。その保証が消滅したと知れば……」

「誰もあいつらに物を売らなくなる、か」

「現金一括払いなら売るでしょうが、今の殿下に現金はありません。つまり、彼らのライフラインは完全に断たれます」

兵糧攻め。

経済制裁。

これぞ、経理担当者が振るえる最強の暴力である。

「君を敵に回さなくてよかったと、心底思うよ」

クラウス様が感心したように、そして少し戦慄(おのの)いたように呟いた。

「敵に回さなければ、私は最強の味方ですよ。……さて、閣下」

私は話題を切り替えた。

「王都の馬鹿騒ぎは放っておいて、現実的な話をしましょう。今日の議題は『領内の物流改革』です」

「ああ、頼む。最近、街道の整備費がかさんでいてな」

「資料を拝見しましたが、中抜き業者が多すぎます。直接取引のルートを開拓すれば、コストは三割下がります」

私たちは再び、色気のない、しかし熱気のある予算会議へと没頭していった。

窓の外には、平和な辺境の風景が広がっている。

だが、その平穏を破る「嵐」が、王都から馬車に乗って近づいてきていることを、この時の私たちはまだ知らなかった。

(……まあ、嵐が来ても、計算ずくで追い返しますけどね)

私は万年筆を走らせながら、心の中で小さく笑った。

数字の合わない闖入者(ちんにゅうしゃ)には、容赦ない「損切り」が待っているだけだ。
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