愛想が尽きました。婚約破棄?喜んで。

萩月

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「……高い」

私はその一言を、呻くように漏らした。

目の前には、虹色に輝くシルク、重厚なベルベット、そして目が眩むようなレースの山が築かれている。

ここは辺境伯邸の客間だが、現在は即席のオートクチュール・サロンと化していた。

王都から招かれたという超一流デザイナー、マダム・ルージュが、扇子を優雅に揺らしながら私を見下ろしている。

「あら、お嬢様。お値段を気になさるなんて、ナンセンスですわ。美しさには相応の『対価』が必要なのです」

「対価にも限度があります。このレース、1メートルあたり金貨五枚? 詐欺ですか? 原材料費と人件費を積み上げても、どう計算すればこの価格になるのですか?」

私が生地の見本帳を指差して抗議すると、マダム・ルージュは呆れたように肩をすくめた。

「これは『妖精の羽』と呼ばれる希少な糸を使っておりますの。職人が失明する覚悟で編み上げた芸術品ですわ」

「失明リスクがあるなら、労働環境の改善が先です。そんな危険な労働によって作られた生地を纏うなど、倫理的コンプライアンスに違反します」

「こんぷ……?」

マダムが首を傾げる横で、ソファに座って優雅に紅茶を飲んでいるクラウス様が、クスクスと笑った。

「相変わらずだな、エマール。だが、今日は諦めてくれ。君を領内一……いや、王国一の美女に仕立て上げるためなら、予算の上限は撤廃している」

「上限撤廃!? 一番恐ろしい言葉です! 国家破綻の第一歩ですよ!」

私が叫ぶと、クラウス様は楽しそうに手招きをした。

「マダム。彼女の採寸を頼む。あと、デザインだが……」

「はい、閣下。私の見立てでは、エマール様のボディラインは非常に美しい。特にウエストのくびれと、デコルテのライン。これを強調しない手はありませんわ」

マダム・ルージュの目が、獲物を狙う猛禽類のように光った。

「ちょ、ちょっと待ってください! デザインの要望なら私にもあります!」

私は慌てて手を挙げた。

「まず、スカートの丈は動きやすいように足首より五センチ上で。裾を引きずると掃除の手間が増えます」

「却下ですわ。夜会のドレスは床を這うほどの長さがエレガントなのです」

「次に、素材はポリエステル混紡でお願いします。シワになりにくく、自宅で洗濯可能です。クリーニング代というランニングコストを削減できます」

「ポリエステル……!? 夜会に化学繊維を!? 正気ですか!?」

マダムが泡を吹いて倒れそうになる。

「そして最も重要な点ですが……」

私は真剣な眼差しで訴えた。

「左右に『ポケット』をつけてください」

「……はい?」

「深めのポケットです。右には電卓、左にはメモ帳とペンが入るサイズで。あと、隠しポケットに予備のインクカートリッジも入れたいですね」

シーン……。

部屋の時間が止まった。

マダム・ルージュは口をパクパクさせ、クラウス様は紅茶を吹き出しそうになっている。

「ド、ドレスに……電卓用のポケット……?」

マダムが震える声で復唱した。

「前代未聞ですわ……! ドレスのシルエットが崩れます! だいたい、夜会で電卓を叩く令嬢がどこにいますの!?」

「ここにいます。談笑中にも取引の話が出るかもしれません。その場で即座に利益率を計算できれば、商機を逃さずに済みます」

「オーマイガーッ!」

マダムが頭を抱えて崩れ落ちた。

「閣下! このお嬢様、手強すぎますわ! 私の美意識に対するテロ行為です!」

クラウス様は爆笑していた。

「ははは! いいぞエマール、君は最高だ! だが……すまないが、今回はマダムの意見を採用する」

「なっ……! なぜですか閣下! 機能性を無視したデザインは……」

「君が電卓を叩く姿も魅力的だが、私が君に求めているのは『仕事』ではない」

クラウス様が立ち上がり、私の前に歩み寄る。

そして、私の手を取り、その甲にキスを落とした。

「私が求めているのは、隣に立つ君の『輝き』だ。君自身が、誰よりも価値のある宝石だと周囲に分からせたいんだよ」

「っ……」

甘い言葉の不意打ち。

これには弱い。

「それに、電卓なら私が持ってやろう。君の手は、私と踊るために空けておいてくれ」

「……ううっ」

そんなことを言われては、反論の計算式が組み立てられない。

私はがっくりと項垂れた。

「……分かりました。ポケットは諦めます。ですが、生地だけはせめてワンランク下げて……」

「マダム。一番高い生地を使え。宝石も惜しみなく散りばめてくれ」

「はいっ! 喜んで!」

マダム・ルージュが水を得た魚のように生き返る。

「さあエマール様! 覚悟なさいませ! 貴女を『美の女神(ミューズ)』に変えてみせますわ!」

「や、やめて! 私の体に高価な布を巻きつけないで! 汚したらどうするの!? 損害賠償請求が怖いのよーッ!」

私の悲鳴も虚しく、採寸という名の「拘束」が始まった。

「ウエスト、細いですわね! もっと絞れますわ!」

「ぐえっ……! コルセットきつい……酸素供給量が低下します……!」

「背中のラインも綺麗! ここは大胆に開けましょう!」

「寒い! 暖房費がかさみます!」

マダムと私の攻防戦は、三時間にも及んだ。

その間、クラウス様はずっとニコニコと眺めていた。

「(……あの笑顔、絶対に楽しんでいるわね)」

私は鏡に映る、布だらけの自分を見ながら恨めしく思った。

最終的に決定したのは、私の希望とは真逆のドレスだった。

「ミッドナイト・ブルー」と呼ばれる、深い夜空のような色のシルク。

生地全体には、星屑のように細かいダイヤモンドの粉末が織り込まれており、動くたびにキラキラと神秘的な光を放つ。

背中は大きく開き、デコルテには大粒のサファイア。

総額……計算したくない。

いや、計算してしまった。

(……このドレス一着で、辺境伯領の橋が二つ架け替えられるわ)

私は眩暈(めまい)を覚えた。

「素晴らしい」

完成予想図を見たクラウス様が、満足げに頷く。

「これだ。このドレスこそ、君にふさわしい」

「……重いです。物理的にも、金額的にも」

「その重みこそが、君が背負う『辺境伯夫人』という地位の重みだよ」

クラウス様は私の肩に手を置いた。

「君は、今まで自分の価値を安く見積もりすぎていた。レイドのような見る目のない男のせいでな。……だが、私の前では自分を高く売れ。君にはそれだけの価値(バリュー)がある」

真剣な眼差し。

その瞳には、私への確かな敬意と愛情が宿っていた。

私は観念した。

この男(ひと)には、勝てない。

少なくとも、この「愛の相場」においては、彼は私より遥かに上手(うわて)だ。

「……分かりました。謹んで着用させていただきます。ただし」

私は指を一本立てた。

「万が一、ワインをこぼされた場合の緊急対応マニュアルを作成し、当日は染み抜きキットを持参します。これだけは譲れません」

「ふっ、好きにしろ」

こうして、ドレス選びという名の戦争は、クラウス様の圧勝(予算オーバー)で幕を閉じた。

だが、私は知らなかった。

このドレスを着てパーティーに出ることが、さらなる波乱の幕開けになることを。

そして、そのパーティー会場に、泥だらけでやつれ果てた「あの二人」が乱入してくる未来が、刻一刻と迫っていることを。



数日後。

領主主催のパーティー当日。

私は鏡の前に立っていた。

「……これが、私?」

そこに映っていたのは、いつもの地味で理屈っぽい「悪役令嬢」ではなかった。

夜空を纏(まと)ったかのような、気高く、美しい女性。

マダム・ルージュの腕は本物だった。

計算高く吊り上がった私の目も、メイクによって「知的でミステリアスな瞳」へと昇華されている。

「きれい……」

専属メイドのロッテが、うっとりと溜息をついた。

「エマール様、本当にお綺麗ですぅ! これなら、王都のどんな令嬢にも負けません!」

「……そうかしら。このネックレス、肩が凝るのだけれど」

私が首を回していると、背後から扉が開いた。

「準備はできたか、エマール」

正装に身を包んだクラウス様が入ってくる。

白を基調とした軍礼服。肩には黄金の飾緒(しょくしょ)。

その姿は、童話に出てくる王子様そのもの……いや、それ以上に洗練された大人の男の色気が漂っている。

彼が私を見た瞬間、その足が止まった。

「……」

無言。

息を呑む音だけが聞こえる。

「……閣下? 変ですか? やはりポケットがないとバランスが……」

私が不安になって尋ねると、クラウス様はゆっくりと首を横に振った。

「いや……」

彼は近づいてきて、私の手を取った。

その手が、わずかに震えているのが分かった。

「美しすぎて、言葉が出ないというのは……こういうことか」

「え……」

「計算外だ。これほどとは。……誰にも見せたくないと思ってしまった」

クラウス様の瞳が、熱く揺れている。

「エマール。今からでもパーティーを中止にして、二人きりで部屋に籠もろうか?」

「何を言っているのですか。キャンセル料が発生しますし、招待客への賠償問題になります。非合理的です」

私がいつもの調子で返すと、彼はふっと笑い、私の腰に手を回した。

「そうだな。君は君だ。……だが、今夜は覚悟しろ」

「覚悟?」

「独占欲という名の予算が、青天井になりそうだ」

耳元で囁かれ、私はカッと顔を赤らめた。

「さあ、行こう。私の自慢の婚約者を、世界に見せつけてやる」

私たちは腕を組み、パーティー会場へと向かった。

その先に待ち受けるのが、華やかな賞賛の嵐か、それとも予期せぬトラブルか。

どちらにせよ、私の計算機(あたま)はフル回転することになりそうだ。
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