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王都、王城の裏庭。
そこには、かつての栄華を極めた第二王子レイドと、愛らしい男爵令嬢シルフィの姿はなかった。
いるのは、泥と糞(ふん)にまみれた作業着姿の男と、油と生ゴミの臭いを漂わせた女だけである。
「くそっ……! なんで僕が! この国の王子である僕が、馬の糞を片付けなきゃならないんだ!」
レイドはスコップを投げ捨て、天を仰いで絶叫した。
彼が配属されたのは、王室厩舎(きゅうしゃ)。
しかも、名馬の世話ではなく、排泄物の処理係だ。
「おい新人! 手が止まっているぞ! そのエリアが終わるまで昼飯抜きだと言っただろう!」
「ひぃっ! す、すみません厩舎長!」
かつては顎(あご)で使っていた下級役人に怒鳴られ、レイドは慌ててスコップを拾った。
時給、銀貨一枚。
エマールへの借金返済計画に基づき、彼の給与はすべて自動的に天引きされる。
手元に残るのは、最低限の食費(黒パン代)だけだ。
一方、厨房の裏口では。
「嫌ぁぁぁ! もう洗いたくないぃぃ! 指が! 私の指がふやけてシワシワよぉ!」
シルフィが、山積みの皿の前で泣き叫んでいた。
彼女のノルマは一日千枚。
冬の冷たい水は、容赦なく彼女の柔らかな手を痛めつける。
「うるさいねえ! 口を動かす前に手を動かしな! 割ったら弁償だよ!」
恰幅の良い料理長(おばちゃん)が、容赦なく濡れた雑巾を投げつける。
「ぶべっ!」
顔面に直撃を受けたシルフィは、情けなく鼻を鳴らした。
「ううっ……。エマール様がいれば……あいつがいれば、新しい食洗機を買ってくれたのに……」
「なんだって? エマール様?」
料理長が鼻を鳴らす。
「あの方は伝説の『財政の守り神』だよ。あんたみたいな浪費家と一緒にするんじゃないよ。さあ、次は鍋磨きだ!」
「ひぃぃぃ!」
地獄のような労働の日々。
そんな二人の元に、一通の手紙が届いたのは、昼休憩の時だった。
「……なんだこれ?」
レイドとシルフィは、藁(わら)の上に座り込み、黒パンをかじりながらその封筒を見た。
真っ白な高級紙に、金箔で押された『V』の紋章。
そして、漂ってくる上品な薔薇の香り。
「こ、これは……ヴァイサリウス家の紋章……!?」
レイドが震える手で開封する。
中から出てきたのは、きらびやかなカードだった。
『結婚式の招待状』
『新郎:クラウス・フォン・ヴァイサリウス』
『新婦:エマール・フォン・ローゼンバーグ』
「け、結婚式……!?」
レイドの目が飛び出る。
「あいつら、本当に結婚するのかよ! しかも来週!?」
「見せてレイド様!」
シルフィがカードをひったくる。
「うわぁ……紙質がいいわ。これ一枚でパンが百個買える値段よ……」
かつては宝石をねだっていた彼女が、今や紙の原価計算をしている。悲しい成長だ。
カードには、エマールの流麗な文字で、追伸が添えられていた。
『追伸:
お二人のご多忙(強制労働)を鑑み、当日のご参列は警備上の理由により「お断り」させていただきます。
つきましては、お祝いの気持ちを形にするための「ご祝儀専用振込口座」をご案内申し上げます。
一口:金貨十枚より。
※なお、ご祝儀は借金返済には充当されません。純粋な贈与として計上されます』
「……」
「……」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に叫んだ。
「「鬼だああああああああッ!!」」
レイドが地面を叩く。
「出席できないのに金だけ送れだと!? しかも金貨十枚!? 僕の今の月給の何年分だと思ってるんだ!」
シルフィが招待状を噛みちぎろうとする。
「キーッ! 腹立つぅぅ! 私たちがこんなに苦労してるのに、あいつは豪華な結婚式で主役気取り!? 許せない、許せないわ!」
「そうだ! 行こうシルフィ! 式場に乗り込んで、ケーキをひっくり返してやる!」
「ええ! ドレスの裾を踏んづけてやるわ!」
二人が立ち上がろうとした、その時だった。
「……どこへ行くつもりだ?」
冷ややかな声が、頭上から降ってきた。
「へ?」
見上げると、そこには近衛騎士団を引き連れた、宰相(さいしょう)が立っていた。
国王の側近中の側近であり、冷徹な法務官僚としても知られる男だ。
「さ、宰相閣下……?」
「レイド殿下。いや、元・殿下。そしてシルフィ嬢」
宰相は一枚の羊皮紙を広げた。
「国王陛下より、最終的な『裁定』が下されました」
「さ、裁定……?」
「貴殿らの借金返済ペースがあ余りにも遅い。また、反省の色も見られないことから、より効率的な『更生プログラム』への移行を命じます」
「こ、更生プログラム?」
宰相は無表情に告げた。
「レイド。貴様は本日をもって王位継承権を剥奪。平民の籍へと移し、北方の『極寒鉱山』へ送り込む」
「こ、鉱山……!?」
レイドが泡を吹く。
「あそこは……一度入ったら死ぬまで出てこられないという、タコ部屋……!」
「安心しろ。エマール嬢の計算によると、あそこの労働環境なら、死ぬ気で働けば三十年で完済可能だそうだ」
「さ、三十年んんんん!?」
「次にシルフィ嬢」
「は、はいっ! 私は!? 私は可愛くてか弱い女の子です! 鉱山なんて無理です!」
シルフィが上目遣いで媚びを売る。
しかし、宰相は冷徹に言い放った。
「貴様は、西の『聖ルチア修道院』へ送致する」
「しゅ、修道院? あら、いいじゃない。神に祈りを捧げる生活なら、楽勝だわ!」
シルフィがパァッと顔を輝かせる。
しかし、宰相はニヤリと笑った。
「勘違いするな。あそこは『自給自足』を旨とする農耕修道院だ。祈りの時間は一日一時間。残りの時間はすべて、荒れ地の開拓と農作業だ」
「の、農作業……?」
「毎朝四時起きで畑を耕し、家畜を世話し、作物を市場へ売りに行く。売上がノルマに達しなければ、その日の食事はない」
「そ、そんなぁぁぁ!」
「ちなみに、あそこの修道院長は『土の魔女』と呼ばれる鬼教官だ。ネイルやメイクなど、見つかった瞬間に焼却処分されるぞ」
シルフィが膝から崩れ落ちた。
「嫌よぉぉ! 私はヒロインなのよぉ! 農婦になりたいわけじゃないのぉぉ!」
「連れて行け」
宰相が手を振ると、屈強な騎士たちが二人を両脇から抱え上げた。
「嫌だぁぁ! 鉱山は嫌だぁ! エマール! 助けてくれぇぇ!」
「私の手! 私の肌! 日焼けしちゃうぅぅ!」
泣き叫ぶ二人。
しかし、誰も同情する者はいなかった。
厩舎の馬たちが、ブルルッと鼻を鳴らし、まるで「ざまあみろ」と笑っているようだった。
◇
数ヶ月後。
西の修道院の畑にて。
「……よいしょ、よいしょ」
泥だらけの修道服を着たシルフィが、クワを振るっていた。
かつてのピンク色の髪は、陽の光で少し色あせ、後ろで無造作に束ねられている。
手には無数のマメができ、肌は健康的な小麦色に焼けていた。
「ふぅ……。やっとこの列が終わった……」
彼女は汗を拭い、足元に転がるカブを拾い上げた。
以前なら「汚い」「土臭い」と投げ捨てていただろう。
しかし、今の彼女は、そのカブを愛おしそうに見つめた。
「……このカブ、市場で売れば銅貨五枚……」
彼女は呟いた。
「銅貨五枚あれば、パンが一つ買える。……種を植えて、水をやって、虫を取って、三ヶ月育てて……やっとパン一つ……」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
それは、悔し涙でも、嘘泣きでもなかった。
「お金って……稼ぐの、こんなに大変だったんだ……」
エマールの言葉が、脳裏をよぎる。
『そのドレス、国民の血税です』
『無駄遣いは罪です』
「……ごめんなさい、エマール様」
シルフィはカブを抱きしめて泣いた。
「私、バカだったわ。……銅貨一枚の重みも知らないで、金貨をドブに捨ててたなんて……」
「おいシルフィ! サボるんじゃないよ! 出荷に遅れるぞ!」
修道院長の怒鳴り声が飛んでくる。
「は、はいっ! 今行きます!」
シルフィは涙を拭い、カゴを背負って走り出した。
その足取りは重かったが、以前のようなフラフラとした甘えは消えていた。
◇
一方、北方の鉱山。
「うおおおおおッ!!」
レイドがツルハシを振り下ろす。
ガキンッ!
硬い岩盤が砕け、中からキラリと光る鉱石が現れた。
「で、出た……! 銀鉱石だ……!」
レイドは震える手でそれを拾い上げた。
全身筋肉痛。手は傷だらけ。顔は炭で真っ黒だ。
「これ一つで……借金が銀貨三枚分減る……!」
彼は鉱石に頬ずりした。
「エマール……。君が言っていた『利益』ってやつを出すのが、こんなに苦しいことだとは知らなかったよ……」
レイドは天井を見上げた。
「会いたいなぁ……。でも、もう会わせる顔がないや」
彼は苦笑し、再びツルハシを握った。
「働くか。……働いて、いつか胸を張って『完済したぞ』って手紙を書くんだ」
かつての愚かな王子は死んだ。
そこにいるのは、ただの「労働者レイド」だった。
◇
ヴァイサリウス辺境伯邸、執務室。
私は、王都の宰相から届いた報告書を読み終え、パタンと閉じた。
「……ふむ」
「どうした、エマール。例の二人か?」
隣で仕事をしていたクラウス様が尋ねる。
「はい。どうやら二人とも、それぞれの『職場』で、労働の尊さと貨幣価値の真理に目覚めたようです」
私は眼鏡をクイッと上げた。
「生産性(パフォーマンス)はまだ低いですが、意識改革(マインドセット)は完了した模様です。……これなら、三十年後にはまともな人間になっているかもしれませんね」
「三十年後か。気の長い話だ」
クラウス様は笑った。
「だが、あいつらが真面目に働くようになるとは。……やはり君の『教育』は劇薬だな」
「劇薬ではありません。現実療法です」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
明日は、いよいよ結婚式だ。
空は晴れ渡り、風が心地よい。
「……彼らからの『ご祝儀振込』はまだありませんが、代わりに『カブ一箱』と『銀鉱石のかけら』が届きました」
「ほう? 現物支給か」
「市場価格で換算して、借金から差し引いておきました。……手数料は取りましたけど」
「君らしいな」
クラウス様が私の腰に手を回す。
「さあ、明日の準備だ。……あいつらのことは忘れて、世界で一番幸せな花嫁になってもらわないとな」
「……ええ。コストパフォーマンス最高の一日にしましょう」
私は微笑み、彼に寄り添った。
遠く離れた地で、汗を流す二人。
そしてここで、幸せを噛みしめる私たち。
それぞれの人生の収支決算は、まだ途中だ。
だが、今日のところは「全員黒字(前進)」としておこう。
そこには、かつての栄華を極めた第二王子レイドと、愛らしい男爵令嬢シルフィの姿はなかった。
いるのは、泥と糞(ふん)にまみれた作業着姿の男と、油と生ゴミの臭いを漂わせた女だけである。
「くそっ……! なんで僕が! この国の王子である僕が、馬の糞を片付けなきゃならないんだ!」
レイドはスコップを投げ捨て、天を仰いで絶叫した。
彼が配属されたのは、王室厩舎(きゅうしゃ)。
しかも、名馬の世話ではなく、排泄物の処理係だ。
「おい新人! 手が止まっているぞ! そのエリアが終わるまで昼飯抜きだと言っただろう!」
「ひぃっ! す、すみません厩舎長!」
かつては顎(あご)で使っていた下級役人に怒鳴られ、レイドは慌ててスコップを拾った。
時給、銀貨一枚。
エマールへの借金返済計画に基づき、彼の給与はすべて自動的に天引きされる。
手元に残るのは、最低限の食費(黒パン代)だけだ。
一方、厨房の裏口では。
「嫌ぁぁぁ! もう洗いたくないぃぃ! 指が! 私の指がふやけてシワシワよぉ!」
シルフィが、山積みの皿の前で泣き叫んでいた。
彼女のノルマは一日千枚。
冬の冷たい水は、容赦なく彼女の柔らかな手を痛めつける。
「うるさいねえ! 口を動かす前に手を動かしな! 割ったら弁償だよ!」
恰幅の良い料理長(おばちゃん)が、容赦なく濡れた雑巾を投げつける。
「ぶべっ!」
顔面に直撃を受けたシルフィは、情けなく鼻を鳴らした。
「ううっ……。エマール様がいれば……あいつがいれば、新しい食洗機を買ってくれたのに……」
「なんだって? エマール様?」
料理長が鼻を鳴らす。
「あの方は伝説の『財政の守り神』だよ。あんたみたいな浪費家と一緒にするんじゃないよ。さあ、次は鍋磨きだ!」
「ひぃぃぃ!」
地獄のような労働の日々。
そんな二人の元に、一通の手紙が届いたのは、昼休憩の時だった。
「……なんだこれ?」
レイドとシルフィは、藁(わら)の上に座り込み、黒パンをかじりながらその封筒を見た。
真っ白な高級紙に、金箔で押された『V』の紋章。
そして、漂ってくる上品な薔薇の香り。
「こ、これは……ヴァイサリウス家の紋章……!?」
レイドが震える手で開封する。
中から出てきたのは、きらびやかなカードだった。
『結婚式の招待状』
『新郎:クラウス・フォン・ヴァイサリウス』
『新婦:エマール・フォン・ローゼンバーグ』
「け、結婚式……!?」
レイドの目が飛び出る。
「あいつら、本当に結婚するのかよ! しかも来週!?」
「見せてレイド様!」
シルフィがカードをひったくる。
「うわぁ……紙質がいいわ。これ一枚でパンが百個買える値段よ……」
かつては宝石をねだっていた彼女が、今や紙の原価計算をしている。悲しい成長だ。
カードには、エマールの流麗な文字で、追伸が添えられていた。
『追伸:
お二人のご多忙(強制労働)を鑑み、当日のご参列は警備上の理由により「お断り」させていただきます。
つきましては、お祝いの気持ちを形にするための「ご祝儀専用振込口座」をご案内申し上げます。
一口:金貨十枚より。
※なお、ご祝儀は借金返済には充当されません。純粋な贈与として計上されます』
「……」
「……」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に叫んだ。
「「鬼だああああああああッ!!」」
レイドが地面を叩く。
「出席できないのに金だけ送れだと!? しかも金貨十枚!? 僕の今の月給の何年分だと思ってるんだ!」
シルフィが招待状を噛みちぎろうとする。
「キーッ! 腹立つぅぅ! 私たちがこんなに苦労してるのに、あいつは豪華な結婚式で主役気取り!? 許せない、許せないわ!」
「そうだ! 行こうシルフィ! 式場に乗り込んで、ケーキをひっくり返してやる!」
「ええ! ドレスの裾を踏んづけてやるわ!」
二人が立ち上がろうとした、その時だった。
「……どこへ行くつもりだ?」
冷ややかな声が、頭上から降ってきた。
「へ?」
見上げると、そこには近衛騎士団を引き連れた、宰相(さいしょう)が立っていた。
国王の側近中の側近であり、冷徹な法務官僚としても知られる男だ。
「さ、宰相閣下……?」
「レイド殿下。いや、元・殿下。そしてシルフィ嬢」
宰相は一枚の羊皮紙を広げた。
「国王陛下より、最終的な『裁定』が下されました」
「さ、裁定……?」
「貴殿らの借金返済ペースがあ余りにも遅い。また、反省の色も見られないことから、より効率的な『更生プログラム』への移行を命じます」
「こ、更生プログラム?」
宰相は無表情に告げた。
「レイド。貴様は本日をもって王位継承権を剥奪。平民の籍へと移し、北方の『極寒鉱山』へ送り込む」
「こ、鉱山……!?」
レイドが泡を吹く。
「あそこは……一度入ったら死ぬまで出てこられないという、タコ部屋……!」
「安心しろ。エマール嬢の計算によると、あそこの労働環境なら、死ぬ気で働けば三十年で完済可能だそうだ」
「さ、三十年んんんん!?」
「次にシルフィ嬢」
「は、はいっ! 私は!? 私は可愛くてか弱い女の子です! 鉱山なんて無理です!」
シルフィが上目遣いで媚びを売る。
しかし、宰相は冷徹に言い放った。
「貴様は、西の『聖ルチア修道院』へ送致する」
「しゅ、修道院? あら、いいじゃない。神に祈りを捧げる生活なら、楽勝だわ!」
シルフィがパァッと顔を輝かせる。
しかし、宰相はニヤリと笑った。
「勘違いするな。あそこは『自給自足』を旨とする農耕修道院だ。祈りの時間は一日一時間。残りの時間はすべて、荒れ地の開拓と農作業だ」
「の、農作業……?」
「毎朝四時起きで畑を耕し、家畜を世話し、作物を市場へ売りに行く。売上がノルマに達しなければ、その日の食事はない」
「そ、そんなぁぁぁ!」
「ちなみに、あそこの修道院長は『土の魔女』と呼ばれる鬼教官だ。ネイルやメイクなど、見つかった瞬間に焼却処分されるぞ」
シルフィが膝から崩れ落ちた。
「嫌よぉぉ! 私はヒロインなのよぉ! 農婦になりたいわけじゃないのぉぉ!」
「連れて行け」
宰相が手を振ると、屈強な騎士たちが二人を両脇から抱え上げた。
「嫌だぁぁ! 鉱山は嫌だぁ! エマール! 助けてくれぇぇ!」
「私の手! 私の肌! 日焼けしちゃうぅぅ!」
泣き叫ぶ二人。
しかし、誰も同情する者はいなかった。
厩舎の馬たちが、ブルルッと鼻を鳴らし、まるで「ざまあみろ」と笑っているようだった。
◇
数ヶ月後。
西の修道院の畑にて。
「……よいしょ、よいしょ」
泥だらけの修道服を着たシルフィが、クワを振るっていた。
かつてのピンク色の髪は、陽の光で少し色あせ、後ろで無造作に束ねられている。
手には無数のマメができ、肌は健康的な小麦色に焼けていた。
「ふぅ……。やっとこの列が終わった……」
彼女は汗を拭い、足元に転がるカブを拾い上げた。
以前なら「汚い」「土臭い」と投げ捨てていただろう。
しかし、今の彼女は、そのカブを愛おしそうに見つめた。
「……このカブ、市場で売れば銅貨五枚……」
彼女は呟いた。
「銅貨五枚あれば、パンが一つ買える。……種を植えて、水をやって、虫を取って、三ヶ月育てて……やっとパン一つ……」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
それは、悔し涙でも、嘘泣きでもなかった。
「お金って……稼ぐの、こんなに大変だったんだ……」
エマールの言葉が、脳裏をよぎる。
『そのドレス、国民の血税です』
『無駄遣いは罪です』
「……ごめんなさい、エマール様」
シルフィはカブを抱きしめて泣いた。
「私、バカだったわ。……銅貨一枚の重みも知らないで、金貨をドブに捨ててたなんて……」
「おいシルフィ! サボるんじゃないよ! 出荷に遅れるぞ!」
修道院長の怒鳴り声が飛んでくる。
「は、はいっ! 今行きます!」
シルフィは涙を拭い、カゴを背負って走り出した。
その足取りは重かったが、以前のようなフラフラとした甘えは消えていた。
◇
一方、北方の鉱山。
「うおおおおおッ!!」
レイドがツルハシを振り下ろす。
ガキンッ!
硬い岩盤が砕け、中からキラリと光る鉱石が現れた。
「で、出た……! 銀鉱石だ……!」
レイドは震える手でそれを拾い上げた。
全身筋肉痛。手は傷だらけ。顔は炭で真っ黒だ。
「これ一つで……借金が銀貨三枚分減る……!」
彼は鉱石に頬ずりした。
「エマール……。君が言っていた『利益』ってやつを出すのが、こんなに苦しいことだとは知らなかったよ……」
レイドは天井を見上げた。
「会いたいなぁ……。でも、もう会わせる顔がないや」
彼は苦笑し、再びツルハシを握った。
「働くか。……働いて、いつか胸を張って『完済したぞ』って手紙を書くんだ」
かつての愚かな王子は死んだ。
そこにいるのは、ただの「労働者レイド」だった。
◇
ヴァイサリウス辺境伯邸、執務室。
私は、王都の宰相から届いた報告書を読み終え、パタンと閉じた。
「……ふむ」
「どうした、エマール。例の二人か?」
隣で仕事をしていたクラウス様が尋ねる。
「はい。どうやら二人とも、それぞれの『職場』で、労働の尊さと貨幣価値の真理に目覚めたようです」
私は眼鏡をクイッと上げた。
「生産性(パフォーマンス)はまだ低いですが、意識改革(マインドセット)は完了した模様です。……これなら、三十年後にはまともな人間になっているかもしれませんね」
「三十年後か。気の長い話だ」
クラウス様は笑った。
「だが、あいつらが真面目に働くようになるとは。……やはり君の『教育』は劇薬だな」
「劇薬ではありません。現実療法です」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
明日は、いよいよ結婚式だ。
空は晴れ渡り、風が心地よい。
「……彼らからの『ご祝儀振込』はまだありませんが、代わりに『カブ一箱』と『銀鉱石のかけら』が届きました」
「ほう? 現物支給か」
「市場価格で換算して、借金から差し引いておきました。……手数料は取りましたけど」
「君らしいな」
クラウス様が私の腰に手を回す。
「さあ、明日の準備だ。……あいつらのことは忘れて、世界で一番幸せな花嫁になってもらわないとな」
「……ええ。コストパフォーマンス最高の一日にしましょう」
私は微笑み、彼に寄り添った。
遠く離れた地で、汗を流す二人。
そしてここで、幸せを噛みしめる私たち。
それぞれの人生の収支決算は、まだ途中だ。
だが、今日のところは「全員黒字(前進)」としておこう。
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