13 / 28
13
しおりを挟む
「……閣下。先ほどから、書類の同じページを十五分ほど眺めていらっしゃいますが。何か深刻な問題でも?」
執務室の静寂を破ったのは、側近のエドワードの淡々とした声だった。
アレクセイ・ヴォルカノフは、握りしめていた羽ペンをぴたりと止めた。その視線の先には、北方領土の税収に関する極めて退屈な報告書がある。
しかし、彼の脳内にあったのは、数字の羅列ではなく、つい先ほど窓の外を「垂直に」駆け上がっていった茶色の影のことだった。
「……エドワード。一つ聞きたい。人間というのは、素手で城壁を登りながら、窓のサッシを磨くことができるものなのか?」
アレクセイが問いかけると、エドワードは窓の外を一瞥し、肩をすくめた。
「普通の人間には不可能でしょうね。ですが、現在中庭で、片手懸垂をしながら石像の頭を拭いている『あの令嬢』に限っては、物理法則が適用されないようです」
アレクセイは無言で立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
眼下では、例の元・侯爵令嬢、メリー・バートンが、驚異的なバランス感覚で城壁のわずかな突起に足をかけ、鼻歌を歌いながら窓を磨き上げていた。
しかも、その手足にはいつの間にか、訓練用の重り(砂袋)が括り付けられている。
「……あいつは、何を求めているんだ」
「さあ。本人曰く『掃除とトレーニングの完璧な融合(シンクロニシティ)』だそうですよ。閣下の視界を一点の曇りもなく保つためなら、重力など些細な問題だと言い残して壁を登り始めました」
アレクセイはこめかみを押さえた。
彼がこの地を治めて数年。「氷の死神」と恐れられる自分に対し、ここまで真っ向から、かつ意味不明な方向でぶつかってきた人間はいない。
「……昨日の廊下はどうなった」
「鏡のようです。今朝、騎士の一人が滑って転び、そのまま廊下の端から端まで滑走していきました。本人は『これほど摩擦のない床は初めてだ』と感動していましたが」
「掃除の域を超えているだろう。……それと、あの服は何だ。また袖がないではないか」
アレクセイの視線は、メリーの剥き出しになった肩と、そこから伸びるしなやかな腕に固定されていた。
令嬢にあるまじき不作法。だが、その動きには一切の無駄がなく、鍛えられた筋肉が日光を反射して美しく躍動している。
(……いや、何を美しいなどと考えているんだ、私は)
アレクセイは慌てて視線を書類に戻したが、一度乱された集中力は、メリーの叫び声によって完全に粉砕された。
「閣下ー!! 見てください! 三階の窓の外側に、三頭筋に効く最高のホールドを見つけましたわー!!」
窓の外で、逆さまになったメリーが満面の笑みで手を振っている。
「……っ!? 降りろ! 今すぐ降りろと言っているだろう!」
アレクセイが窓を開けて怒鳴ると、メリーは「はーい!」と元気よく答え、そのままスパイダーマンのような動きで地上へ飛び降りた。
「……閣下。どうやら、観察対象から目が離せなくなっているようですね」
エドワードがニヤニヤと笑いながら、新たな書類を差し出した。
「……違う。あのような危険な不審者を放置しておけば、城の威厳に関わる。だから監視しているだけだ」
「左様で。では、その観察日記に『メリー嬢、本日は城壁の垂直登攀に成功。広背筋のキレ、過去最高なり』とでも書き加えておきますか?」
「書くか! ……だいたい、広背筋のキレとは何だ。女子(おなご)に使う言葉ではないだろう」
口では否定しながらも、アレクセイは再び窓の外へ視線を向けてしまう自分を止められなかった。
中庭では、着地したメリーが今度は兵士たちの訓練に混ざり、なぜか丸太を担いでスクワットを始めている。
その背中が、あまりにも清々しく、そして眩しい。
「……ふん。一週間の試用期間が終われば、さっさと追い出すだけだ」
「閣下。そう言いながら、彼女のために特注の『滑り止め付き掃除靴』を発注されたのはどこのどなたでしたっけ?」
「……うるさい。備品の管理も領主の仕事だ」
アレクセイは不機嫌そうに席に戻ったが、その日の彼の仕事は、結局いつもの三倍の時間を要することになった。
原因は、窓の外から定期的に聞こえてくる「よっしゃあ!」という気合の入った叫び声。
そして、それにいちいち反応して心拍数を上げてしまう、自分自身の不甲斐なさだった。
執務室の静寂を破ったのは、側近のエドワードの淡々とした声だった。
アレクセイ・ヴォルカノフは、握りしめていた羽ペンをぴたりと止めた。その視線の先には、北方領土の税収に関する極めて退屈な報告書がある。
しかし、彼の脳内にあったのは、数字の羅列ではなく、つい先ほど窓の外を「垂直に」駆け上がっていった茶色の影のことだった。
「……エドワード。一つ聞きたい。人間というのは、素手で城壁を登りながら、窓のサッシを磨くことができるものなのか?」
アレクセイが問いかけると、エドワードは窓の外を一瞥し、肩をすくめた。
「普通の人間には不可能でしょうね。ですが、現在中庭で、片手懸垂をしながら石像の頭を拭いている『あの令嬢』に限っては、物理法則が適用されないようです」
アレクセイは無言で立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
眼下では、例の元・侯爵令嬢、メリー・バートンが、驚異的なバランス感覚で城壁のわずかな突起に足をかけ、鼻歌を歌いながら窓を磨き上げていた。
しかも、その手足にはいつの間にか、訓練用の重り(砂袋)が括り付けられている。
「……あいつは、何を求めているんだ」
「さあ。本人曰く『掃除とトレーニングの完璧な融合(シンクロニシティ)』だそうですよ。閣下の視界を一点の曇りもなく保つためなら、重力など些細な問題だと言い残して壁を登り始めました」
アレクセイはこめかみを押さえた。
彼がこの地を治めて数年。「氷の死神」と恐れられる自分に対し、ここまで真っ向から、かつ意味不明な方向でぶつかってきた人間はいない。
「……昨日の廊下はどうなった」
「鏡のようです。今朝、騎士の一人が滑って転び、そのまま廊下の端から端まで滑走していきました。本人は『これほど摩擦のない床は初めてだ』と感動していましたが」
「掃除の域を超えているだろう。……それと、あの服は何だ。また袖がないではないか」
アレクセイの視線は、メリーの剥き出しになった肩と、そこから伸びるしなやかな腕に固定されていた。
令嬢にあるまじき不作法。だが、その動きには一切の無駄がなく、鍛えられた筋肉が日光を反射して美しく躍動している。
(……いや、何を美しいなどと考えているんだ、私は)
アレクセイは慌てて視線を書類に戻したが、一度乱された集中力は、メリーの叫び声によって完全に粉砕された。
「閣下ー!! 見てください! 三階の窓の外側に、三頭筋に効く最高のホールドを見つけましたわー!!」
窓の外で、逆さまになったメリーが満面の笑みで手を振っている。
「……っ!? 降りろ! 今すぐ降りろと言っているだろう!」
アレクセイが窓を開けて怒鳴ると、メリーは「はーい!」と元気よく答え、そのままスパイダーマンのような動きで地上へ飛び降りた。
「……閣下。どうやら、観察対象から目が離せなくなっているようですね」
エドワードがニヤニヤと笑いながら、新たな書類を差し出した。
「……違う。あのような危険な不審者を放置しておけば、城の威厳に関わる。だから監視しているだけだ」
「左様で。では、その観察日記に『メリー嬢、本日は城壁の垂直登攀に成功。広背筋のキレ、過去最高なり』とでも書き加えておきますか?」
「書くか! ……だいたい、広背筋のキレとは何だ。女子(おなご)に使う言葉ではないだろう」
口では否定しながらも、アレクセイは再び窓の外へ視線を向けてしまう自分を止められなかった。
中庭では、着地したメリーが今度は兵士たちの訓練に混ざり、なぜか丸太を担いでスクワットを始めている。
その背中が、あまりにも清々しく、そして眩しい。
「……ふん。一週間の試用期間が終われば、さっさと追い出すだけだ」
「閣下。そう言いながら、彼女のために特注の『滑り止め付き掃除靴』を発注されたのはどこのどなたでしたっけ?」
「……うるさい。備品の管理も領主の仕事だ」
アレクセイは不機嫌そうに席に戻ったが、その日の彼の仕事は、結局いつもの三倍の時間を要することになった。
原因は、窓の外から定期的に聞こえてくる「よっしゃあ!」という気合の入った叫び声。
そして、それにいちいち反応して心拍数を上げてしまう、自分自身の不甲斐なさだった。
0
あなたにおすすめの小説
居候と婚約者が手を組んでいた!
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
グリンマトル伯爵家の一人娘のレネットは、前世の記憶を持っていた。前世は体が弱く入院しそのまま亡くなった。その為、病気に苦しむ人を助けたいと思い薬師になる事に。幸いの事に、家業は薬師だったので、いざ学校へ。本来は17歳から通う学校へ7歳から行く事に。ほらそこは、転生者だから!
って、王都の学校だったので寮生活で、数年後に帰ってみると居候がいるではないですか!
父親の妹家族のウルミーシュ子爵家だった。同じ年の従姉妹アンナがこれまたわがまま。
アンアの母親で父親の妹のエルダがこれまたくせ者で。
最悪な事態が起き、レネットの思い描いていた未来は消え去った。家族と末永く幸せと願った未来が――。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
何も決めなかった王国は、静かに席を失う』
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。
だが――
彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。
ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。
婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。
制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく――
けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。
一方、帝国は違った。
完璧ではなくとも、期限内に返事をする。
責任を分け、判断を止めない。
その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。
王国は滅びない。
だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。
――そして迎える、最後の選択。
これは、
剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。
何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
【完】出来損ない令嬢は、双子の娘を持つ公爵様と契約結婚する~いつの間にか公爵様と7歳のかわいい双子たちに、めいっぱい溺愛されていました~
夏芽空
恋愛
子爵令嬢のエレナは、常に優秀な妹と比較され家族からひどい扱いを受けてきた。
しかし彼女は7歳の双子の娘を持つ公爵――ジオルトと契約結婚したことで、最低な家族の元を離れることができた。
しかも、条件は最高。公の場で妻を演じる以外は自由に過ごしていい上に、さらには給料までも出してくてれるという。
夢のような生活を手に入れた――と、思ったのもつかの間。
いきなり事件が発生してしまう。
結婚したその翌日に、双子の姉が令嬢教育の教育係をやめさせてしまった。
しかもジオルトは仕事で出かけていて、帰ってくるのはなんと一週間後だ。
(こうなったら、私がなんとかするしかないわ!)
腹をくくったエレナは、おもいきった行動を起こす。
それがきっかけとなり、ちょっと癖のある美少女双子義娘と、彼女たちよりもさらに癖の強いジオルトとの距離が縮まっていくのだった――。
断罪後の気楽な隠居生活をぶち壊したのは誰です!〜ここが乙女ゲームの世界だったなんて聞いていない〜
白雲八鈴
恋愛
全ては勘違いから始まった。
私はこの国の王子の一人であるラートウィンクルム殿下の婚約者だった。だけどこれは政略的な婚約。私を大人たちが良いように使おうとして『白銀の聖女』なんて通り名まで与えられた。
けれど、所詮偽物。本物が現れた時に私は気付かされた。あれ?もしかしてこの世界は乙女ゲームの世界なのでは?
関わり合う事を避け、婚約者の王子様から「貴様との婚約は破棄だ!」というお言葉をいただきました。
竜の谷に追放された私が血だらけの鎧を拾い。未だに乙女ゲームの世界から抜け出せていないのではと内心モヤモヤと思いながら過ごして行くことから始まる物語。
『私の居場所を奪った聖女様、貴女は何がしたいの?国を滅ぼしたい?』
❋王都スタンピード編完結。次回投稿までかなりの時間が開くため、一旦閉じます。完結表記ですが、王都編が完結したと捉えてもらえればありがたいです。
*乙女ゲーム要素は少ないです。どちらかと言うとファンタジー要素の方が強いです。
*表現が不適切なところがあるかもしれませんが、その事に対して推奨しているわけではありません。物語としての表現です。不快であればそのまま閉じてください。
*いつもどおり程々に誤字脱字はあると思います。確認はしておりますが、どうしても漏れてしまっています。
*他のサイトでは別のタイトル名で投稿しております。小説家になろう様では異世界恋愛部門で日間8位となる評価をいただきました。
婚約破棄された私は、処刑台へ送られるそうです
秋月乃衣
恋愛
ある日システィーナは婚約者であるイデオンの王子クロードから、王宮敷地内に存在する聖堂へと呼び出される。
そこで聖女への非道な行いを咎められ、婚約破棄を言い渡された挙句投獄されることとなる。
いわれの無い罪を否定する機会すら与えられず、寒く冷たい牢の中で断頭台に登るその時を待つシスティーナだったが──
他サイト様でも掲載しております。
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる