断罪された悪役令嬢、行き先は推しの住む辺境ですが、何か問題でも?

萩月

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「……閣下。先ほどから、書類の同じページを十五分ほど眺めていらっしゃいますが。何か深刻な問題でも?」


執務室の静寂を破ったのは、側近のエドワードの淡々とした声だった。


アレクセイ・ヴォルカノフは、握りしめていた羽ペンをぴたりと止めた。その視線の先には、北方領土の税収に関する極めて退屈な報告書がある。


しかし、彼の脳内にあったのは、数字の羅列ではなく、つい先ほど窓の外を「垂直に」駆け上がっていった茶色の影のことだった。


「……エドワード。一つ聞きたい。人間というのは、素手で城壁を登りながら、窓のサッシを磨くことができるものなのか?」


アレクセイが問いかけると、エドワードは窓の外を一瞥し、肩をすくめた。


「普通の人間には不可能でしょうね。ですが、現在中庭で、片手懸垂をしながら石像の頭を拭いている『あの令嬢』に限っては、物理法則が適用されないようです」


アレクセイは無言で立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。


眼下では、例の元・侯爵令嬢、メリー・バートンが、驚異的なバランス感覚で城壁のわずかな突起に足をかけ、鼻歌を歌いながら窓を磨き上げていた。


しかも、その手足にはいつの間にか、訓練用の重り(砂袋)が括り付けられている。


「……あいつは、何を求めているんだ」


「さあ。本人曰く『掃除とトレーニングの完璧な融合(シンクロニシティ)』だそうですよ。閣下の視界を一点の曇りもなく保つためなら、重力など些細な問題だと言い残して壁を登り始めました」


アレクセイはこめかみを押さえた。


彼がこの地を治めて数年。「氷の死神」と恐れられる自分に対し、ここまで真っ向から、かつ意味不明な方向でぶつかってきた人間はいない。


「……昨日の廊下はどうなった」


「鏡のようです。今朝、騎士の一人が滑って転び、そのまま廊下の端から端まで滑走していきました。本人は『これほど摩擦のない床は初めてだ』と感動していましたが」


「掃除の域を超えているだろう。……それと、あの服は何だ。また袖がないではないか」


アレクセイの視線は、メリーの剥き出しになった肩と、そこから伸びるしなやかな腕に固定されていた。


令嬢にあるまじき不作法。だが、その動きには一切の無駄がなく、鍛えられた筋肉が日光を反射して美しく躍動している。


(……いや、何を美しいなどと考えているんだ、私は)


アレクセイは慌てて視線を書類に戻したが、一度乱された集中力は、メリーの叫び声によって完全に粉砕された。


「閣下ー!! 見てください! 三階の窓の外側に、三頭筋に効く最高のホールドを見つけましたわー!!」


窓の外で、逆さまになったメリーが満面の笑みで手を振っている。


「……っ!? 降りろ! 今すぐ降りろと言っているだろう!」


アレクセイが窓を開けて怒鳴ると、メリーは「はーい!」と元気よく答え、そのままスパイダーマンのような動きで地上へ飛び降りた。


「……閣下。どうやら、観察対象から目が離せなくなっているようですね」


エドワードがニヤニヤと笑いながら、新たな書類を差し出した。


「……違う。あのような危険な不審者を放置しておけば、城の威厳に関わる。だから監視しているだけだ」


「左様で。では、その観察日記に『メリー嬢、本日は城壁の垂直登攀に成功。広背筋のキレ、過去最高なり』とでも書き加えておきますか?」


「書くか! ……だいたい、広背筋のキレとは何だ。女子(おなご)に使う言葉ではないだろう」


口では否定しながらも、アレクセイは再び窓の外へ視線を向けてしまう自分を止められなかった。


中庭では、着地したメリーが今度は兵士たちの訓練に混ざり、なぜか丸太を担いでスクワットを始めている。


その背中が、あまりにも清々しく、そして眩しい。


「……ふん。一週間の試用期間が終われば、さっさと追い出すだけだ」


「閣下。そう言いながら、彼女のために特注の『滑り止め付き掃除靴』を発注されたのはどこのどなたでしたっけ?」


「……うるさい。備品の管理も領主の仕事だ」


アレクセイは不機嫌そうに席に戻ったが、その日の彼の仕事は、結局いつもの三倍の時間を要することになった。


原因は、窓の外から定期的に聞こえてくる「よっしゃあ!」という気合の入った叫び声。


そして、それにいちいち反応して心拍数を上げてしまう、自分自身の不甲斐なさだった。
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