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玄徳さんと関平の歪みが街を、人々を地獄の淵へと追いやろうとしていきます。

荊州が戦乱に巻き込まれていく足音が近づいてきました。

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 その頃……荊州は動き始めていた。



 州牧しゅうぼく劉景升りゅうけいしょうが病で倒れたのである。
 玄徳は義弟の雲長と益徳、そして孔明を連れ襄陽の宮城きゅうじょうを訪れる。

 しかし、益徳と雲長の仲は回復しておらず、益徳は雲長を無視し、雲長の傍にいる義兄玄徳とも口数は少ない。
 その代わり、前の戦いで勝利を得た上、益徳の側近になりつつある元直の敬弟けいてい孔明に話しかける。

 今まで酒、さかな、食べ物に女か馬に武器、戦い……と言った、単純なことしか考えられなかった義弟が、孔明と話しているのは、『墨子』の戦術。
 しかも、

『読み書き算術は最低限度しか必要ねぇだろ? 兵糧の売り買い、武器や兵士を雇う時にいるだけじゃねぇか。戦術なんか必要ない。戦いは頭だけでやるんじゃねぇだろ? 戦い方を知らねぇ青白い男の口先だけの、しかも人を見下すような野郎が大嫌いなんだよ! しかも、戦場に出ずに指示だと? 俺は嫌だからな!』

と言い張っていたのだが、単身ではあるものの恩人の仇討ちをして逃亡し、心を改め軍略家となった元直が、

『単身で一騎討ちが出来、次々と部隊を壊滅させる事は、強く頼もしい益徳のような武将には必要がないと思われるのですが、本当は益徳どののような強い方にこそ、軍術を理解して戴きたいのです』

と淡々と語る。

『俺は勉強は嫌いだ! それに、『白眉はくび』のような奴も嫌いだ! お前は『白眉のような』軍略家なんだろう? 軍幕の中で説明するだけで……戦いは見ない。負けると人のせいにする!』
『私は戦場に立ちます。自らの献策した策を見て調整します。益徳どのは勇猛果敢、ですが後ろを見られない。それがどういうことになるか分かりますか?』
『部隊がトロいんだ! 急いで着いてこれないのが悪い、それだけだ!』
『いいえ。私が言いたいのは、部隊と益徳どのが切り離されるということです。そうすると、益徳どのは孤立化した上に後ろから攻められます。そして、部下の部隊の人たちは混乱します。益徳どのがいないだけで士気は落ちるんです。置き去りにされた! どうしよう! 指示をして下さる方がいない部隊の末路は混乱し、士気が落ち、最後は壊滅か死、逃亡、降伏です。益徳どのは、何度か経験されたことはありませんか?』

 その言葉に、うっと口ごもる。
 自分が受け持った部隊を、何度も壊滅に追い込んだ経験があるのである。

『あるでしょう? 益徳どのは戦うだけでなく、部下を率いる隊長です。隊長は何も言わず一人で斬り込むだけでは駄目なんです。自分と共に、任されている部隊を戦わせたいのならば、その前に軍略家、補助の私に一言言っておいて下さい。そうでないと隊長のいない部隊は、私にも纏めることは出来ません。私を信用していると見せて下さい』
『軍略家は、指示するんだろ?』
『そうですが、一人で戦う訳ではないでしょう? 皆が共に勝つ為に……負けない為に戦うんですよ? その為には信頼関係が必要です。信頼して下さい。すぐに全面的に信用して下さいとは言いません。世間話でも良いのです。話をしましょう。そして、分かって下さい。私は、幼常ようじょうに騙されてここに来ましたが、来たからには手を抜く、皆さんの信頼を壊すことはしません。お願いします!』

 真剣に話す元直の真摯な眼差しに、益徳は気圧されたように黙り込むが、すぐに頷く。

『解った。お前……元直の意見を聞く。元直に言ってから行く』
『お願いします』

 元直は季常きじょうよりも年上だが、腰が低い。
 その上、説明が上手いし、納得出来る。
 それだけでなく、本当に戦場に立ち、指揮をした。

 益徳は元直を信頼し、友人として付き合うようになった。

 そして、軍略がどうして必要か、弁論を戦わせた。
 今までの軍略家の事などで、カッとなり食って掛かることの多かった益徳に、丁寧に優しく戦術が重要になるか話していく。
 次第に落ち着いていき、元直の話に聞き入るようになった益徳は、続いてやって来た孔明にも話すようになった。

 軍略の基礎の基礎を教えてくれた元直よりも専門的な話が多かったが、孔明は語りたくはないだろうに物心ついた頃から、兄に叩き込まれたと言う城攻略法の話や、12才の頃からここまで逃げ込んだ際の戦場の様子、曹孟徳そうもうとくや、その配下の参謀の戦術傾向といったようなものまで話す。

 27まで隠棲していたと言われているが、情報は集めて研究していたらしい。

 その知識の豊富さと経験の豊かさ、その上先日の戦いでは献策した上に、趙子竜ちょうしりゅうとして夏侯元譲かこうげんじょうと一騎討ちまでをし、策略を成功にまで導いた。
 戦いにまで加わり戦う『臥龍がりゅう』と言う優秀な男と覚えの高い孔明は、勝利に導いたと鼻にかけることもなく、ただ、愛妻と長男のきょうと、最近生まれた娘の滄珠そうしゅを溺愛し、盲愛している。
 今日も、家族を置いて出ていくのが嫌で仕方がないらしく、機嫌が悪かったが、益徳が話を振ると話を始めた。

「おい、益徳。孔明」

 玄徳の声に、益徳は義兄を見る。

「何? 兄ぃ」
「宮内に行く。お前はどうする? 雲長は着いてくるが……」
「いかねぇ。面白くねぇし、今日は、土竜もぐら……孔明は自宅に行くんだと。珍しい書簡やなんかを見せてくれるんだ。じゃぁ、兄ぃ。今日は別行動にしようぜ、じゃぁな? 行くぞ、孔明」
「……申し訳ありません。私用ですが、行って参ります。殿、雲長どの」

 丁寧に頭を下げ、宮城に向かう二人を見送る。

「……本当にいかなくても良かったのですか?」

 振り返ると、益徳は首をすくめ、

「良いんだよ。兄ぃには髭がいる。俺と競る……上かな? それ位強い。何ともねぇさ……まぁ? 髭は自分よりも身分の上の奴には、喧嘩を売る。それさえなければ大丈夫だろ……行くか」
「そうですね」

二人は歩き出した。
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