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玄徳さんと関平の歪みが街を、人々を地獄の淵へと追いやろうとしていきます。

孔明さんは後顧の憂いをある程度残さぬようにするようです。

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 孔明こうめいはまず水鏡老師すいきょうろうしの館を訪れ、元直げんちょく士元しげん幼常ようじょうの近況と、自分達に娘が生まれた事を報告した。
 老師は琉璃りゅうりを可愛がっており、行方不明の時に一緒に捜索して貰った恩もある。
 礼を述べる孔明に、水鏡は、

「孔明よ……そなた、見えておろう。どうするつもりだ!?」
「……動くしかありません。そうしなければ……」

 黙り込む。

「こちらは監視かの?」

 水鏡は、益徳えきとくを示す。

「いえ、この方は張益徳どので、元直敬兄げんちょくけいけいに師事し、学問を学ぶ方です」
「張益徳どの……と言うと……劉皇叔りゅうこうしゅく様の義弟どのではないか」
「はい。琉璃を庇い、私が出向くまで元直兄と共に守って下さいました。娘の命の恩人でもあります」

 水鏡はしばらく考え、口を開く。

「孔明よ。どう見る。これからの動きは……」

 孔明は、ふと空を見上げ暫し沈黙の後、

蔡家さいけが動きます。次男の劉琮りゅうそう……どのを当主に推す為に、長男の劉琦りゅうきどのに災いが。馬家ばけ龐家ほうけ習家しゅうけは大丈夫です。しかし、黄家こうけは危険です。別の地に移る事を義父に勧めるつもりです」
「他は…?」
皇叔こうしゅくが…住民を盾にとる事を画策しているようです。方法は……あいまい……で、見えにくいのですが……話術が巧みなだけに……言いくるめられる者が……。それに……季常きじょうがいますから……。季常だけでなく、関平かんぺいどのが琉璃に何か画策……と言うよりも、馬鹿げた行動をしないかが、心配です」

 眉を寄せる孔明が、視線をさ迷わせる。
 その何故か孔明らしくない、迷いのある表情と言葉に益徳は、

「えっと……水鏡老師。こ、これは……」
「星見じゃよ。孔明は星の並び動きを読む事で、未来を見通す……稀有な存在なのじゃ。で、琉璃や息子のきょうの事は? 」

 孔明は表情を暗くして首を振る。

「……見えません……。琉璃に喬、滄珠そうしゅは……どうしても見えないんです。特に……不安なのは滄珠です……。まだ赤子……それだけでなく生まれ落ちた時刻が……混迷の星が光りました。その後生まれた阿斗あと様の刻も……不安です。……でも、それ以上に……戦乱、災いの星が瞬きました。曹孟徳そうもうとくが、動きだすやもしれません……」
「そう、か……劉州牧りゅうしゅうぼくの容態は悪化の一途を辿っていると聞く。病もそうだが、蔡家さいけが手配した医師以外が診察も出来ぬようだ。江夏こうかにいらっしゃるご長子が、見舞いに来られた際も後妻の蔡氏さいしが追い払ったらしい」
「……蔡家だけでは、州牧亡き後の荊州を守ることは出来ないようです。曹孟徳に売るのではないでしょうか」
「……ふむ……ワシたちも決断を決める時が来たようじゃの……」

 水鏡は、優秀な弟子を見る。

「……決断如何によっては……」

 苦しげに顔を歪める老師に、孔明は寂しげに首を振る。

「皇叔の元に出仕すると決めた時には、覚悟しておりました。その為、今日お別れのご挨拶を兼ねて参りました。今まで本当に感謝しております。老師」

 立ち上がり拝礼はいれいをする弟子に、

「何かあった時には……連絡を……」
「いいえ、老師。連絡を取ることで、老師やご家族、兄弟弟子を巻き込むことになっては、元直兄の二の舞。ここで、キッパリと師弟の縁を断ち切った方が良いのです。老師。恩もお返しせず、逃げる不徳な弟子をお許し下さい。そして、お願いします。元直兄や『鳳雛ほうすう』のような被害者を増やさぬよう……」
「……解った。そなたの思うように行くがよい。そなたは不本意とはいえ、主を得、空に登っていった。そなたを動かすのは『龍珠りゅうじゅ』である家族であり、趙子竜ちょうしりゅうどのというそなたの伴侶であり対の存在。堕ちるもよし、逃げるもよし、立ち向かい互いが足りないところを補いつつ、そなたの望む通りの世界を……探し続けて見つけ出せると信じておるぞ。孔明」

 水鏡の言葉に、再び頭を下げた。

「ありがとうございます。老師。学んだ教えは決して忘れません。どうか、ご無事であられますよう……」
「『臥竜』……そなたこそ、周囲の身を案じるのもいいが、自分自身で……一人で抱え込まぬよう……。『鳳雛』に元直もおることを忘れぬように……」
「……はい。肝に命じます」

 16の時に入門した塾を、孔明は去る……。
 覚悟し、自ら申し出たとはいえ、破門という形で……。
 もし、何かあった時……例えば、曹孟徳がここ荊州を侵略し、『臥竜』『鳳雛』のことを探し、水鏡老師たちに危害が加わることになっては死ぬに死ねない。
 しかし、予想以上に胸が痛く苦しいものである。
 だが、水鏡が孔明を破門したということにしておけば、孔明が劉玄徳軍にいても、水鏡老師の家族や兄弟弟子に危害はないだろう……と思ったのである。

「では、老師……このまま、参ります。ありがとうございました」

 三度頭を下げ、後ろを向くと立ち去る。



 その後、下の姉、晶瑩しょうえいの嫁ぎ先、龐家にも行ったのだった。
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