七不思議と三人の冒険

翼 翔太

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幻の五年六組

幻の五年六組1

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 源あすかは、時計を見た。午後六時。そろそろ友達の滝田カオルと、皆川レンが日曜日まで泊まりにくるはずだ。二人とは、幼稚園のころからの親友だ。この土日は、おもいきり遊ぶつもりだ。カオルの家は合気道、レンは剣道の道場だ。あすかの家も空手道場で、格闘三人組、と呼ばれている。多くの女子なら嫌がるかもしれないけれど、男子である二人と、同じように扱われているので、あすかは嫌ではない。そのとき、ピンポーン、とチャイムが鳴った。あすかは、部屋をとび出し、玄関に向かった。ドアを開けると、パジャマなど必要なものが入ったかばん、お泊まりセットを持ったカオルと、レンが立っていた。
「よー、あすか。来たぜー」
 カオルは、右手をあげた。夜でもキャップのつばを、後ろにしてかぶっている。これが、カオルのトレードマークだ。あすかより八センチ小さい。そのため、となりにいるレンが、とても大きく見える。二人の身長差は、十センチほどある。
「悪い、遅れた。カオルが自転車の鍵、探していたから」
「またかよー。まあ、入れよ」
 二人とも「おじゃまします」と、家の中に入った。荷物をあすかの部屋に置いて、リビングでゲームをすることになった。晩ごはんの時間が近づくと、あすかの兄、ムロマチとカマクラが帰ってきた。二人の兄は、寮のある高校に通っているので、週末にしか帰ってこない。
 ゲームは中断し、あすかは、お母さんといっしょにハンバーグを作りはじめた。カオルとレンも食器を並べた。食器棚のどこに、コップや皿があるのか、二人ともわかっている。じゅう、と肉や焼ける音とともに、ハンバーグが焼ける。今日はおろしハンバーグだ。レンは上にのせるしそを刻み、カオルは、大根をおろし金でおろしている。指まで削らないように、気をつける。ほかにもグリーンサラダと、豆腐とわかめの味噌汁が完成するころに、着替えなどを終えた二人の兄が降りてきた。ハンバーグは、あっさりしておいしかった。晩ごはんを終えたカオル、レン、あすかは、食器を洗った。それを終えた三人は、あすかの部屋に行った。あすかの部屋には、クラスの女子のように、キャラクター雑貨はない。けれど、学習机の上に、一体だけ黒猫のぬいぐるみが置かれている。二年前のあすかの誕生日に、カオルとレンがくれたものだ。自分のことをオレ、という男勝りなあすかが持っている、唯一のぬいぐるみだ。手のひらにすっぽり、と収まる大きさの、黒猫を見ると、二人はうれしくなるのだ。ずっと、大切にしてくれているのが、わかるからだ。壁には、カマクラからもらったオーロラのポスターが、貼っている。ベッド、学習机、目覚まし時計、洋服だんすに空手の胴着。な部屋だ。ベッドにはカオル、床にレン、学習机のいすに、あすかが座っていた。最初に口を開いたのは、カオルだった。
「なあ。おれたち、柱時計の亡霊を解明しただろう?」
 柱時計の亡霊とは、三人が通っている小学校にある、七不思議のひとつだ。深夜二時に、職員室の前にある柱時計に呼びかけると、時計の中に吸いこまれてしまう、と言われていた。本当に亡霊はいた。たかし坊ちゃん、と呼ばれていた。なにも言わずに別れてしまった、友達のさえこちゃんの気持ちを知りたがっていた。いろいろあり、たかし坊ちゃんは、さえこちゃんと再会し、今では二人で、学校の生徒たちを見守っている。
「ほかの七不思議も本当なのか、確かめてみないか?」
 前回、迷路に放り出され、化け物に追いかけられたのにも関わらず、カオルは言った。懲りていないのか、それすらも楽しかったのか。おそらく、両方だろう。けれど、二人とも反対しなかった。カオルと同じように、はらはらどきどきした、あの日の興奮が忘れられなかったのだ。
「じゃあ、どれにするか決めようぜ」
 アスカは机の引き出しから、ノートと鉛筆をとり出した。まずは、七不思議を挙げることにした。

・柱時計の亡霊  済み
・真っ赤な桜
・飛び回る実験道具
・幻の五年六組
・図書室の女の子
・真夜中に聞こえるピアノ
・踊り場の大鏡

「こんなもんか」
 カオルとレンは、ノートをのぞきこんだ。
「なあ、幻の五年六組ってたしか、存在しないはずの教室がある、ってやつだよな」
「ああ」
 幻の五年六組。昔、生徒が多かったときの名残りで、学校には五つの教室が並んでいる。今ではそれほど生徒は多くないので、どの学年も四組までしかない。五組だった教室は、物置になっている。しかし、だれもいない夜になると、五年五組だった教室のとなりに、もうひとつ教室が現れる。それが五年六組で、学校中に子どもの幽霊が集まり、人を呪うための勉強をしている、と言われている。
「これ、気になるな」
「お、レンも?」
「オレもちょっと、気になる。だって、昼間はない教室が、現れるんだぜ?」
「じゃあ、次の七不思議は、幻の五年六組な」
 三人は、決行日など詳しいことを、決めはじめた。しかし、彼らは気づいていなかった。ドアのすき間から、ムロマチとカマクラがのぞいていたのだ。ムロマチは、小声で弟のカマクラに、話しかけた。
「あすかも、まだまだだな。内緒で、ことを進めるなら、ドアはちゃんと、閉めなくちゃな」
「どうする、兄貴。とめるか?」
 カマクラの問いに「まっさかあ」と、ムロマチは、どこか楽しげに答えた。
「おれもお前も、同じことしたじゃん」
「でも、あすかは女の子だ」
 あすかが聞けば、怒るだろうな、とムロマチは思った。カマクラは、四つ離れている妹が、心配なのだ。しかし、あすかはそれほど弱くない。ムロマチたちのように、大会には出ていないが、そのへんにいる大人より、ずっと強い。
「だいじょうぶだって。お前は、心配しすぎなんだよ。さーて、じゃあまた抜け出す手助けでも、してやりますか」
 兄弟でそんなやりとりがされているとも知らずに、話は進んでいった。

 あのお泊まり会から翌週の金曜日である、今日。幻の五年六組の謎を解き明かす日がやってきた。仮眠も十分した。あすかは、あらかじめ用意していた、雨の日用の少し古い靴を持って、自分の部屋から抜け出そうとしていた。そのとき、コンコン、とドアがノックされた。慌てて、靴などを隠す。
「どうぞ」
 入ってきたのは、ムロマチとカマクラだった。
「どうしたんだよ。ムロ兄、クラ兄」
「お前の部屋から抜け出すのは、やめとけって。母さんたちに、見つかるぞ」
 どき、とした。だれにも言っていないのに、どうしてばれたのだろうか。そう思っているのが顔に出ていたのか、カマクラが「ドアはちゃんと閉めたほうがいい」と、アドバイスをした。結局、前と同じようにムロマチの部屋から、抜け出すことになった。窓から、縄をつたって降りようとすると、兄二人に呼び止められた。ムロマチはチョコレートを、カマクラには白い粉が入っている、ビニール袋を差し出された。
「ほら、これ。持って行きな」
「なにこれ?」
「塩だ。塩には幽霊や、悪いものを追いはらう力があるらしい」
 あすかは「ふーん」と、信じられない、といった顔で塩をながめた。
 ちなみに、塩には悪いものを吸収し、近づきにくくするという話がある。盛り塩がいい例だ。
「あすか、無事に帰ってこいよ」
「大げさだなあ、クラ兄は」
 三人は、ムロマチの部屋に移動し、窓から外に出た。その後ろ姿をムロマチはにこやかに、カマクラは心配そうに、背中を見守っていた。

 待ち合わせ場所である、校門前には、すでにカオルとレンが来ていた。校門をよじ登り、運動場に侵入する。カオルは事務員室前の窓を左右に揺らした。かちゃん、と鍵が開く音がした。ここの鍵は壊れかけていて、このようにすれば開くのだ。念のため、だれもいないことを確認し、校舎内に忍びこんだ。
「けど、カオル。五年の教室って北校舎だろう?」
 目的地の五年生の教室は北校舎の四階で、ここは南校舎の一階だ。南校舎と北校舎は、それぞれの階を、東と西の二か所を渡り廊下でつないでいる。渡り廊下のドアにも、鍵がかかっている。レンに言われて、カオルはようやく思い出した。
「だいじょうぶだ。北校舎にも、鍵が壊れているところが、あるぜ」
 アスカの一言で、一度外に出て、北校舎一階に向かった。女子トイレの、小さな窓がからから、と軽い音を立て、開いた。
「ここ、鍵壊れてから直ってないんだ。女子はみんな知ってるけどな」
「なるほど、そりゃおれたち男子は、知らないわけだ」
「カオルは小さいから、余裕で入るだろ?」
「うっさい!これからでかくなるんだよ!」
 あすかは、にやにや、と笑いながら、カオルに言った。小柄なことを気にしているカオルは、あすかをにらんだ。まずは、あすかが忍びこむことになった。カオルとレンは、女子トイレに入ることに、抵抗があった。しかし北校舎に入る場所が、ここにしかないのなら、がまんするしかない。男子二人は、足早に女子トイレを出た。北校舎は、特別教室が多い。理科室や音楽室、図工室。同じ暗闇なのに、北校舎のほうが、不気味に思える。知らない間に、怪物の口の中に入ってしまったのでは、と錯覚してしまう。レンは、持ってきていたペンライトをつけた。明りがつくと、少し安心した。何度か真夜中の学校に、忍びこんだが、この暗闇と独特の空気には、慣れることができない。三人は、身を寄せ合って、歩を進めた。かつん、かつん、と階段を上る音が響く。五年生の教室の階に着いた。生徒でにぎやかな教室の面影は、ない。
「よし、確認しながら行くぞ」
 五年一組、二組、三組、四組。そして、元五組の物置。それぞれの教室の前を通りすぎた。本来なら、この五組のとなりは、階段だ。しかしあったのは、階段ではなく、見覚えのない教室だった。三人は、後ろをふり返って、確認した。
「一、二、三、四、五」
「六……」
 六つ目の教室。まるで、昔からそこにあったかのようだ。幻の五年六組は、本当にあったのだ。
「お、おい。あったぞ」
「どうする?」
「ちょっとのぞいてみようぜ」
 三人はひそひそ、と相談した。そして、そうっ、と足音を立てないように気をつけながら、窓に近づいた。こっそり、と窓から教室をのぞいた。すると、そこには一年生から六年生まで、学年差のある生徒が席に座っている。机の上には、ずいぶんと古そうな教科書がある。しかし、全員分はないのか、二、三人で使っている。黒板の前には、白いブラウスに、ベージュのスカートをはいている、先生らしき女性が立っている。みんな、体が透けていて、足がない。幽霊だ。
『せんせー、ここの解き方がわかりません』
 窓側の席の、前から三番目の男子生徒が手を挙げた。先生は、すう、と音もなく、男子生徒の席に向かった。カオルは、もっとよく、様子を見ようとした。しかし、そのせいで窓にこつん、と腕を当ててしまった。小さな音でも、水の波紋のように大きく広がった。教室の幽霊が一斉に、カオルたちのほうを向いた。突き刺すような視線が、痛い。
『せんせい、にんげんだ!』
『人間だ!』
 カオルたちは、両手を挙げ、敵意がないことを示した。先生幽霊が、まるでそよ風に押されているように、三人に近づいた。
『あなたたちはだれ?なぜ、この教室にいるの?』
 厳しく問い詰めるのではなく、小さな子に尋ねるような、言い方だった。こわばっていた体が、少しほぐれた。
「えっと、オレたち、学校の七不思議が本当か、調べていて……」
 先生幽霊は、三人の目的がわかったのか、微笑みながら『どうぞ』と、教室に招き入れた。幽霊生徒たちの視線を、肌で感じる。先生幽霊は、三人に説明した。
『ここにいる子たちは、学校に通いたかったのに、通うことができなかった子たちなの。病気や事故で亡くなった子もいれば、戦争に巻き込まれた子もいるの』
 丸坊主で、今では見ないような、古そうな服を着た男の子。ほっそりとした体の女の子。
『そして、わたしはみわ子。教師になったばかりで、交通事故にあって、死んでしまったの。この教室は、そんな子どもたちと、いっしょに授業をしているの』
「ど、どんな授業?」
 噂ではたしか、人を呪うための勉強をしている、らしい。少しどきどきしながら、カオルは尋ねた。
『国語や算数、社会よ。教科書は、この学校に残っていたものなの。だから、あまり数はないの』
 だから、一人一冊ないのか。三人とも、納得した。そして、授業の内容が人の呪い方ではなくて、ほっ、とした。そのとき、みわ子の表情がこわばった。
『みんな、隠れて!』
 みわ子がそう言うと、生徒全員が、机の下にもぐった。ぽかん、としている三人に、みわ子は、机の下に隠れるように言った。状況がわからないまま、隠れた。すると、すぐにかちゃん、かちゃん、となにかぶつかる音が聞こえた。足音のように、どんどん近づいてくる。レンはちらり、ととなりの女子幽霊を見た。少し、震えているような気がした。
『ひゃははは!』
 突然、大きな笑い声がした。全員、小さく肩が、はねた。
『はははは!ひゃははは!』
 それは、まるで気が狂ったかのような、ぞっ、とする笑い声。笑い声は教室の前を通り過ぎ、どこかに去って行った。みわ子も、生徒の幽霊も、ほっ、としていた。
「あの、さっきのは?」
 レンは、みわ子に尋ねた。みわ子は、立ち上がりながら、説明した。
『さっきのは、理科室の幽霊なの。彼の周りには、実験道具が飛び回っているの』
 レンはそれが、七不思議の、飛び回る実験道具だと、すぐにわかった。
 飛び回る実験道具。昔、理科室で自殺した先生の霊が、夜な夜な理科室の実験道具を、宙に浮かせたり、壁にぶつけたりしているそうだ。
『あの、理科室の幽霊は、前に子どもたちが、襲われかけたことがあるの。毎日校内を歩きまわっているみたい。だから、みんな怖がっちゃって』
 みわ子は、困り果てているようだ。レンは、二人と顔を合わせた。三人とも、同じ思いだった。
「じゃあ、おれたちがあの幽霊、倒してきてやるよ」
『えっ。でも、危ないわ』
「だいじょうぶだよ。オレたちの家、みんな道場なんだ。だから、そこらへんの大人より、強いぜ」
「みわ子先生、理科室の幽霊の見た目って、わかりますか?」
 レンが尋ねると、一人の男子生徒の幽霊が『おれ、知っているよ』と手を挙げた。三人とよく似た年頃だ。頭と、腕に包帯を巻いている。男子生徒は黒板に、理科室の幽霊の似顔絵を、描き始めた。髪はぼさぼさで、ぎょろ目、頬はこけている。
『こんなのだった。おれ、襲われかけたこと、あるんだ』
「そうなんだ。ありがとう」
 三人は、五年六組をあとにした。理科室は、三階の、一番奥にある。三階は四年生の教室と、多目的室がある。階段を降りながら、カオルは小声で言った。小さな声なのに、大きく響いているような気がする。
「でも、どうやって倒す?」
「幽霊ってなにか、弱いものあるか?」
 あすかは、カマクラが持たせてくれた、塩を思い出した。幽霊や悪いものに効く、と言っていたが、本当だろうか。あすかは、カオルとレンに、塩のことを話した。カオルは「嘘だあ」と疑ったが、レンはちがった。
「パワーストーンを浄化するときに、塩を使う方法があるって、本で読んだことがある。塩に埋めておくといい、とかって。
 だから、その塩も、もしかしたら理科室の幽霊に、効くかもしれない」
 あすかは、カマクラに感謝した。三人は、強い武器を手に入れた気分になった。階段の途中で座り込み、作戦会議を始めた。まず、理科室に忍びこみ、隠れる。そして、隙をみて塩をまく。もしも、理科室の幽霊が反撃してきたときは、あすかとレンで応戦する。カオルは、ひたすら理科室の幽霊に、塩をまくことになった。理由は、カオルが小柄で、素早く、理科室の幽霊の攻撃が当たりにくいだろう、と考えられたからだ。あすかは、わざと小柄であることを強調して、カオルは怒った。いつものように、レンが仲裁に入った。途中で、レンの武器として、四年生の教室からほうきを一本、借りた。少し長いけれど、ぜいたくは言っていられない。三人は改めて、理科室に向かった。足音を忍ばせて、近づく。窓から理科室の中をのぞくと、だれもいなかった。幽霊は、まだ帰っていないようだ。鍵は、開いていた。そろり、と後ろの入り口から、中に入った。古いガイコツや、人体模型が、不気味にたたずんでいる。今にも笑い声を上げて、三人を驚かすのではないか、とどきどきしている。できるだけ、人体模型とガイコツから離れた位置の机に、隠れることにした。机は、六人掛けの机が、七つある。窓側の、前から数えて二つ目の机に隠れた。それぞれ塩を持ち、息をひそめた。レンは、武器のほうきを、ぎゅっ、とにぎりしめた。どれくらい経っただろうか。やがて、あの不気味な笑い声が、聞こえてきた。こっそり、と見てみると、ドアをすり抜けて入ってくるところだった。
『はははは!……ははは』
 まるで一息つくように、笑い声が止んだ。気が抜けている、今がチャンスだ。三人は机の下から飛び出した。理科室の幽霊は、窪んだ目が飛び出そうなくらい、驚いていた。三人は、塩をおもいきり、まいた。バチン、バチン、と静電気のような音がした。
『や、やめろ!くそう!』
 理科室の幽霊が、右手を挙げると、窓辺に置かれていたビーカーや、試験管が青白い光を放ちながら、浮かんだ。そして、それらはカオルたちに向かって、飛んできた。作戦どおり、レンとあすかが、カオルを守った。レンが構えると、ほうきも立派な竹刀に見える。レンは、飛んでくる実験道具を、はたき落した。あすかは、構えた。勢いよく向かってきたビーカーを、蹴り落とした。ビーカーが、パリン、と音を立てて、割れた。
「カオル、やれ!」
「おうっ。とりゃあ!」
 カオルは、レンとあすかの後ろに隠れながら、理科室の幽霊に塩をまいた。理科室の幽霊は『やめろ、やめろ!』と言いながら、実験道具を飛ばしていたが、力が弱まって次第に実験道具の嵐は、静まっていった。カオルは、攻撃の手をやめた。理科室の幽霊は、床にへたりこんでいた。呼吸が荒い。
「まだやるか?」
『ひっ!や、やめてくれ!降参だっ』
 カオルが塩をまこう、と構えると、理科室の幽霊は、慌てて両手を振った。改めて見ると、理科室の幽霊は思っていたよりも、若かった。三十代半ばだろうか。男子生徒が描いた似顔絵のように、髪はぼさぼさで、ぎょろり、とした目と、こけた頬が怖い印象を与えている。けれど、その目には、どこか子どもたちを見守ってきたやさしい光が、宿っているようにも見えた。
「なあ、なんで五年六組の生徒を、襲ったんだよ?」
 あすかがそう尋ねると、理科室の幽霊は、ばつが悪そうに、目をそらした。あすかが、塩をまこうとすると、慌てて話しはじめた。
『わかったよ、話すよ。
 ぼくは、元々ここの教師だったんだ。けれど、ぼくのクラスは、荒れていてね。窓ガラスは毎日割れたし、授業中に出歩く生徒も大勢いた。チャイムが鳴っても、おしゃべりはなくならないし、紙飛行機が飛んで、まともに授業ができたことなんて、なかったなあ。みんな好き放題に暴れて、手がつけられなかった』
 理科室の幽霊は淡々、と語った。授業中は静かなのが、当たり前だと思っていた三人は、驚きを隠せなかった。理科室の幽霊は、言葉を続けた。
『そんな中クラスで、教師をいじめることが流行したんだ。きっと、生徒たちからすれば、ゲーム感覚だったんだろう。日に日に、生徒たちからのいじめは、ひどくなっていった。中心になっていた、男子生徒がいたんだ』
 理科室の幽霊は、その男子生徒にされたことを、思い出した。授業中に、上げる大声。黒板と、自分に投げられる水風船。水には、赤いインクが混ざっていた。一生懸命作った学級通信も、目の前で生徒全員に踏みつけられ、破かれた。浴びせられる言葉は、死ね、や一斉に帰れというコール、教師を辞めろ、など心を切りさくものばかりで。血を流していた心も、次第に血も涙も流れなくなった。そんな心は、少し寒い日に張った、薄い氷のように、簡単に割れた。
『ぼくも、もっと強くなければ、いけなかったんだ。……でも、ぼくは、それに耐えることが、できなかった』
「もしかして、それで自殺したのか?」
 理科室の幽霊は静かに、こくん、とうなずいた。小学生だったころ、みんなで行なった実験が楽しくて、好きになった理科と、理科室。そこで、死のうと思ったのだ。
『だから、五年六組の先生がうらやましかった。ぼくのクラスに、あんないい子たちは、いなかった。五年六組の生徒たちが、うらやましかった。あんな風に楽しそうに、授業をうけることができて。ぼくには、楽しい授業なんて、できなかった。……そう思うと、知らない間に、子どもたちを襲おうとしていたんだ。あの子たちには、悪いことをしてしまった』
 周りの空気が、どんより、と重くなった。理科室の幽霊も、悲しい過去を背負っていたのだ。ふと、カオルはあることを、思いついた。
「なあ、それって楽しく授業をしてみたかった、ってことだよな?」
『ああ』
「じゃあさ、五年六組のみんなといっしょに、授業したらいいじゃん」
 全員の視線が、カオルに集まった。なにかおかしいことを、言っただろうか。カオルは、そう思った。レンとあすかの表情が、明るくなった。
「カオル、お前いいこと言うなっ」
「そうと決まれば、五年六組に行くか」
 急な展開に、理科室の幽霊は、混乱していた。あすかは、理科室の幽霊を起き上がらせようと、腕をつかんだ。しかし、腕に触れることはできず、するり、と通り抜けてしまった。あすかは、なんとも言えない気持ちで、行き場をなくした手を、見つめた。理科室の幽霊は、少し悲しそうに笑みを浮かべた。
「そっか。幽霊って本当に、触れることができないんだな」
 あすかが、ぽつり、とつぶやいた。カオルとレンも、少し悲しくなった。けれど、理科室の幽霊は、ちがった。多くの人に怖がられる幽霊であるのに、カオルたちは、話を聞いてくれた。そして、もう一度教師として授業をする、チャンスをくれようとしている。それが、とてもうれしかった。
『でも、五年六組の子たちを襲ったことは、事実だ。受け入れてもらえるだろうか』
 理科室の幽霊は、不安そうにつぶやいた。カオルは「だいじょうぶだって!」と、理科室の幽霊をはげました。一行は、五年六組へと向かった。
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