姫は盤上に立つ

ねむるこ

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あづさゆみ

第六話 疑惑の矢(3)

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 鷹狩たかがりが始まるとかすみは前方に座る菖蒲あやめに近づき、小声で話しかけた。

「菖蒲様……。大変申し訳ないのですが暫く牛車ぎっしゃに戻ります。少し眩暈めまいがしてしまって……。代わりの者をお側に付けさせますので」
「そうなの?霞、大丈夫?」

 菖蒲が心配そうな表情を浮かべる。霞は額を押さえて苦しむ素振りを見せた。

「ええ、少し休めば治ると思います。……失礼させて頂きます」

 牛車のある方角へ小走りに向かう。人目に付かないよう、気を付けながら使用人を捕まえる。

「急いで輿こしの中に入れて」

 と小声で告げた。

「へえ、それはいいですけど……。随分お早いお戻りですね」
「準備を終えたらすぐに出るから。いい?このことは誰にも言わないこと、良いわね?」
「はあ……」

 使用人は霞の剣幕けんまくに押されて頷くことしかできなかった。





「静かだな……」

 美しい新緑の中をかえでは馬の手綱たづなを引きながら森の中を歩く。鷹狩が行われる範囲を馬で駆け回ったのだが特に異変はない。馬を休ませるためにこうして馬から降りて辺りを見渡していたのだ。
 獲物を追っているのは自分だというのに、何者かに狙われているかのような焦燥感に襲われる。

(俺は緊張してるのか……?)

 それは宮中とは異なる、四方しほうを木々で囲まれた自然の中にいるからだろうか。
 激しい鳥の羽ばたきと鳴き声を耳にして、楓は思わず肩を揺らした。

「行ったぞ!」
「向こうだ!」

 鷹狩の参加者の声と共に馬の駆け足が聞こえる。鷹が獲物を見つけ、人が動き始めたらしい。再び楓の周辺に静けさが訪れた。

(舞台の周辺はあれだけ護衛の者がいるんだ。東宮とうぐう様を狙うのは無理だ……。だとしたら『化け物』が動くというのは俺の杞憂きゆうだったのか?)

 その場に立ち止まり、考え事をしていると此方こちらに向かって馬を駆ける音が聞こえてくる。楓は弾かれたように顔を上げた。

「何だ……?もしや、化け物か?」

 楓がその人物を見定めようと正面から見据える。馬の上には狩衣姿の小柄な人物が見えた。見覚えのない参加者に楓は息を止める。
 もし、彼が化け物だとしたらここで正体しょうたいを突き止めなければならない。楓が馬上で声を上げた。

「止まれ!お前は何者だ!」
「楓様……!すぐに森から抜けてください!」

 聞き覚えのある声に楓が目を見開く。

「お前は……!」

 その人物の正体はすぐに分かった。
 馬を止め、降りてきたのはかすみだった。狩衣かりぎぬと烏帽子を身に付けた姿は鷹狩の参加者の男子だんしのように見える。矢筒に弓まで背負っていた。

「なるほど、備えとはそういうことか……。それで、どうしたんだ?もしかして化け物に動きが?」

 息を切らしながら霞は声を張り上げた。

「良いから早く!ここから離れてください!化け物狙いは東宮とうぐう様じゃなかった……」
「は?」

 言葉を続けようとして、霞が遠くに何かを見つけたのか顔色を大きく変える。

「危ないっ!」

 霞の声と共に楓は勢いよく背後に突き飛ばされた。

「あれは……?」

 背後に倒れながら楓は正面にいる霞の右肩に何かが掠めて飛んでいく物体を捉えた。
 それが矢だと分かった時、初めて霞の言っていることを理解する。

(帝に近い者……!狙いは俺だったのか!)

 矢は霞の右肩を掠ると、少し離れた木の幹に音を立てて止まる。楓は恐怖で体を起こすことができなかった。あごを上げ、かろうじて敵が射てきた方角を確認するが、葉や木が邪魔で良く見えない。朧気おぼろげながら人が立っているのは確認できた。
 楓の身体から離れた霞は背負ってきた弓矢を構えた。敵からしてみれば立ち上がった霞はぬきやすいまとだ。

「おい!何してる!止めろ!」

 楓の言葉に耳を貸すことなく霞は射手いてに狙いを引き絞る。その瞳は炎が燃え上がっているようだった。

(駄目だ。復讐の炎にりつかれている!)

 射手は反撃すると思っていなかったのか。草陰から馬の声がすると、再びこちらを射ることなく遠くへ駆けて行った。

にがさない!」

 霞は引き絞った弓から手を離すが、その矢がどこに当たったのかは確認できなかった。矢は木々の中に消えさり、馬が駆けていく音だけが小さく聞こえた。
 
「やめろ!何者か確認しないまま殺す気か?」

 射手が立ち去ったのを確認した楓が霞の弓を下ろさせる。

「……動きを止めたかっただけです。もし私の両親の仇だったのなら……死んでも仕方ないと思います」
「仕方ないって……」

 霞の低い声に楓は思わず黙り込んでしまった。
 楓を視界に入れず、霞は後ろに刺さった流れ矢の元に歩みを進める。右手で矢を引き抜いて見下ろした。

「でも……これで……化け物に近づけ……」
「……霞様?」

 楓は霞の後ろ姿から目を離せなかった。たどたどしいその物言いに眉を顰める。
 異変を感じ取ったのは楓だけではない。霞自身も自分の身体に違和感を感じる。呼吸が浅く、何だか体が熱い。
 特に熱を感じる左手で右肩に触れる。掌に血痕けっこんが見えて、霞は自分が怪我を負っていたことを知った。そして、ふっと鼻で笑う。

(やられたわ。矢じりに……毒が塗ってあったのね……)
「おい!しっかりしろ!」

 楓の叫び声を最後に霞はその場に倒れ、記憶は途絶えてしまった。



「か……すみ。霞!」

 懐かしい声が聞こえてきた。もう、随分前に聞いた心地良い声。
 霞が目を開けると、視界には天井が広がっていた。

(ここはどこ……?)
「霞!いつまで寝てるんだ。今日は兵法《ひょうほう》を教えてやると言っただろう?」
「……父上ちちうえ?」

 霞は慌てて起き上がる。
 目の前に霞の父、さかきがいた。年若く、活気に満ち溢れている。霞は元気な父の姿に瞬きを繰り返した。

「貴方、霞は女子おなごですよ。他の学問ならともかく。兵法など……。この平和な世で何の役に立つというのです?おやめください」
「そう言うな!うめ。宮中は戦場だ。女子とはいえ兵法は必要だろう」

 はしゃぐ榊に、霞の母である梅はため息をく。

「よく言いますわ……。それより、霞を入内じゅだいさせることに決めたのですね?少し前まではまだ早いなんて渋っていたのに」
「ああ、泣く泣く決断した。入内じゅだいし、宮中で男に霞を取られでもしたら嫌だしな……。かと言って霞の才能をこのままにしておくことも出来ぬし」

 霞は両親の他愛たわいもない会話を聞いて、くすくすと笑い声を上げた。この時、霞はここがどこなのかと考えるのを放棄していた。
 二人が目の前にいる。それだけで十分だった。

「ほら、霞まであきれてるではありませんか」

 梅が口元を袖に当て、榊を睨む。榊は頭を掻いて困った様子を浮かべていた。

「私としては立派な殿方を宮中で捕まえて欲しいものです」
「な!やっぱり霞にはまだ早い!ほら霞、早くこっちに来なさい」

 榊は梅の言葉を誤魔化すように霞の手を引いた。霞はまだくすくすと笑いながら「はいっ」と元気よく答えた。

 榊に手を引かれながら辿り着いたのは、榊の居室だった。所々に刀剣や槍など武具が飾られている。梅はこの部屋を汚いと文句を言っていたが、霞はこの雑然とした部屋が好きだった。
 ここ数十年。ノ国では戦など起こっていないが、武官は知識として兵法を学んでいたようだ。榊はそれを面白半分で霞に教え込んでいた。
 
「良いか、霞。いくさというのはたみの生死、国の存亡に関わる大事だいじだ。だから常に冷静であらねばならぬ。だからやるからには勝たねばならぬし、負けると思うのならやらないことだ」
「……それでもやらねばならぬ時はどうするのです?」

 榊の膝の上に座って、同じ巻物を見ていた小さな霞は振り返って問う。

「その時は……敵をだまして勝利を手にするしかない」
「騙す……?」
「ああ、戦は騙し合いだからな」

 霞が首を傾げると父は悪戯いたずら小僧こぞうのような笑みを浮かべた。

「人を騙すのは良くないことではないのですか?」
「そうだな……。無暗むやみに人を騙すのは駄目だな。だが道理どうりにかなった、誰かを守るため、己を守るために騙しが必要な時がこの世にはある。偽りなく生きていければそれに越したことはないが……この世の中、そううまくできておらんのよ」

 榊は腕組をして、眉間に皺を寄せる。

「そうなのですか?」

 霞が目を細め、膝の上から榊を見上げた。

「本当だぞ!騙しは使いようによっては己を、命を守ることができるんだ。例えば……敵に沢山の兵力があるとする。だけど俺達の兵力が少ない」

 そう言って榊は手近てぢかにあった盤上遊戯《ばんじょうゆうぎ》を引っ張り出してくると駒をすくいあげる。
 霞の前に少量のこまを。反対側に大量の駒を置く。それを霞は膝を抱えて眺めていた。

「こういう時にこちら側にも兵力が沢山ある、と騙せば敵は襲ってこないかもしれない。そうすれば戦をせずに勝てるかもしれないだろう?」

 ばらばらと霞の前に駒を増やしてやる。

「どうすれば騙せるの?」
「それはな……人心ひとごころを動かす力が必要になってくる」
「ひと……ごころ?」

 幼い霞は聞き慣れない言葉をたどたどしく繰り返した。
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