姫は盤上に立つ

ねむるこ

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はるがすみ

第三十三話 一巻目 めぐりあひ(1)

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かすみ。まさかとは思うけど、原本を読んだりしないわよね?」

 春蘭しゅんらんが立ち去った後、黒いひつを両手に抱えた霞に菖蒲が言う。
 もちろん霞はひめつばき物語の原本を読むつもりでいた。素直に伝えれば菖蒲に止められる。すぐにそんな予感を悟った霞は笑顔を浮かべると菖蒲に答えた。

「いいえ。危険なものでしょうから陰陽師に引き渡します。ずっと菖蒲様の局に置いておくのもよくありません。今すぐ届けて参ります」
「待って!」

 いつもの菖蒲であればここで霞のことを止めたりはしなかっただろう。菖蒲の変化に思わず霞の動きが止まる。置き畳の上から降りてくると霞の目の前で止まった。

「もし霞がそれを読むというのなら……私も一緒に読むわ」
「……!」

 菖蒲の思ってもみない言葉に口を閉ざす。菖蒲の透き通った瞳が霞の心を射抜くと同時に頭の中には楓の姿が浮かんだ。

(……どうしてこんな時に楓様を思い出すの)

 霞は菖蒲の眩しさで今にも自分が消えてしまいそうだと思った。

(今の菖蒲様に嘘を言って説得させるのは難しそうね)
「私はある理由でこの物語をどうしても読まなくてはなりません。水仙様のためであり宮中のためでもあります。第一王妃である菖蒲様に何かあっては世話役の面目めんぼくが立ちません。どうかお見逃しください」

 下手に誤魔化さず大まかな理由を答える。これで菖蒲が何か言ってくることは無いだろうと思っていた霞だったが、菖蒲は折れなかった。霞の着物の裾を握りしめて首を大きく振った。

「そんなことできない。霞がどうしてそんなことをしなければならないのか分からないけど、危険なことをしようとしているのに見過ごすことはできないわ!絶対に駄目!」

 子供のように駄々をこねる菖蒲に霞はたじろいだ。まさかここまで自分のことを信頼しているとは思わなかった。

「私のような世話役など他にもいくらでもいます。第一王妃はおひとりしかおりません。どうかご理解ください」
「霞だってひとりしかいない!大切な存在よ!」

 菖蒲の言葉に霞は弾かれたように顔を上げる。

「今の私があるのは霞のお陰だから……。霞は私のこと駒だとしか思ってなくても私は霞のことを大事な存在だと思ってる」
「菖蒲様……私の偽りに気が付いておられたのですか?」

 菖蒲は眉を下げて頷いた。

「なんとなくだけどね。物語の原本探しを強く頼まれた時にふと思ったの。もしかして霞には何が大きな目的があってここにいるんじゃないかって。
少し悲しかったけれど……霞にはそうしなければならない理由がある。一族を失ってるんですもの強い拠り所が必要だわ。それにずっと一緒に過ごしてきたんだもの。嫌いになるはずがないわ」
「菖蒲様……」

 霞の心の中に渦巻いていた罪悪感が菖蒲の言葉と共に溶けていく。
 いつの間にかいつわりの感情がまことになっていた。不思議な心の動きに戸惑いながらも受け入れる。

「そんな風に考えられるようになっていたなんて……菖蒲様も成長しましたね」
「霞ったら!私のこといくつだと思ってるの?」

 頬を膨らませる菖蒲を見て霞は微笑んだ。ふたりの間に流れていた緊張感が和らぐ。

「そうと決まればすぐ読みましょう!それとも陰陽師を呼んだ方がいいかしら?」
陰陽頭おんみょうのとう様が原本を手にしているのが気になるのよね……)

 霞は首を振ると先ほど座っていた置き畳の上に戻る。

「いいえ。事は急ぎます。先に私達で読みましょう。それより菖蒲様、本当に良いのですね?もう後戻りはできませんよ」
「霞こそ。呪いが怖くないの?」

 菖蒲の可愛らしい挑発を受け流しながら黒い櫃を床に置く。

「私に怖いものなどありません」
「随分と頼もしいのね霞は。たまにはかえで様を頼らないと可哀想よ」
「楓様は関係ございません」

 不機嫌そうに言い返した霞を眺めて菖蒲は楽しそうに笑う。そのまま霞の隣に座ると手元を覗き込む。
 霞は櫃からひめつばき物語を取り出す。見た目は普通の巻物で特に変わった部分は見られない。
 巻緒まきおと呼ばれる紐を解き、左から右に向かって紙を巻いていく。
 原本ということもあって書体は美しく、描かれている絵も色鮮やかで目を見張る。霞達は写しにない物語が描かれた部分まで先へ先へと手を動かしていた。
 やがて、左の巻き数が目に見えて少なくなってきた時だ。
 写しになかった部分がついに霞達の目の前に現れた。

「この辺りですね」
「そうね……」

 霞と菖蒲はお互いに顔を見合わせると、静かに物語を読み進める。
 霞は衝撃を受けた。

(まるで私の心の内を描いているような……。繊細で現実的な描写)

 ひめつばき物語の主人公であるつばき姫の影帝えいていへの想いが事細かに痛いほどつづられている。
 痛いほど相手のことをおもっているのに己の身分では不相応ふそうおうであること。そればかりか自分の心までもが相手にふさわしくないと、ひたすらに嘆いた。
 影帝の側に居る自分よりも高貴な女子に嫉妬する気持ちまで、そこまで描くかという部分まで描かれているのだ。

(写しではここまで詳細につばき姫の心は描かれていなかったわね……。それにしてもなんてすごい文章なの。一文字一文字から姫の想いが伝わってくる。まるで本当に生きている女子おなごの心を描いているような……。それどころか自分のことのように思えてくる)

 いつの間にか物語の中のつばき姫が自分になる。

 自分には相応ふさわしくない。美しく高貴なあのお方。
 一緒にいれば幸せなはずなのに身分や眩しいほど真っすぐな美しい心が邪魔をする。より自分の姿が、心がみにく感じてしまうのだ。
 愛しているのに苦しい。早くこの苦しみから解放されたい……。

 隣にいる菖蒲が霞の着物の裾を引いたことで霞は物語の世界から引っ張り出された。

「霞……。なんだか妙な心地がしない?写しの本以上につばき姫のことを近くに感じて……泣きそうになるの。これも呪いの一種なのかしら」
「……分かりません。春蘭様の言っていたことが分かるような気がします」

 霞は人心掌握術の基本を思い出す。
 心の弱い部分を狙い、相手が最も欲する言葉を語って相手の心を掴むのだ。恐怖や衝撃など心を揺らすのも効果的である。

(なるほど。これが化け物の仕掛けた人心掌握術と呪いを組み合わせたじゅつね)

 巻物を最後まで巻き終えると、赤い字で書かれた言葉を見つける。すぐに噂の呪いの言葉だと分かった。

うつせみの

 たった数文字を目にしただけで霞の腕に鳥肌が立った。

(これは……和歌の一部だわ)
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