64 / 70
第二部 紅陽(完結)
14 雪が降った日
しおりを挟む
本格的な冬がやってきた。
東雨は、綿の入った袍を着込み、その上から肩掛けを羽織った。足袋には裏に毛皮を張ったものを選び、しっかりと寒さに備えて外に出た
都には昨夜、雪が降り続いていた。
明け方、雲は遠のき、日の光が満ちる冬空は、一段と澄んでいる。あたりは一面真っ白になり、反射した朝日が世界を照らしている。こういう日は、どこもかしこも眩しい。
ツンと鼻に冷たく刺さる、心地よい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「寒い……」
細く、玲陽がつぶやくのが聞こえた。
「冬は、寒いものです」
東雨は、髪をなびかせて振り返った。
「一年中暖かい歌仙が、どうかしてるんですよ」
思わず犀星は微笑し、玲陽は身震いする。
東雨の高く結えた黒い髪には、緑の紐が光っている。にっこりと幸せそうに微笑む。
今まで、こんな笑顔をしただろうか?
犀星は少し不思議に思った。そして、ふと、見とれてしまった。
その横顔を玲陽がそっと覗いている。
今は何も言わないでおこう。
そんな、優しい笑みを浮かべながら。
東雨は雪に一歩ずつ、しっかりと足跡を残していく。キュキュッと音が鳴る。格別に冷え込む日にだけ、雪はこんな音を立てる。東雨は、この音が好きだ。
「今日は、歩いて行きませんか?」
犀星は頷いて、門の外にいた暁隊の兵に馬を任せた。
そっと東雨の隣に立つ。二人が並ぶ姿に、玲陽の顔が自然とほころぶ。
素敵な朝ですね……寒すぎますけど……
玲陽は手を擦り合わせた。
朱雀門は、新しい雪を頂いて、鮮やかな赤色を冬の空に際立たせていた。色の薄い青空は、氷でできているかのように透明だった。
「そういえば」
玲陽が思い出したように尋ねた。
「兄様って確か蒼氷の親王、と呼ばれていませんでした?」
犀星が黙って振り返る。東雨は頷いた。
「それ、時々言われますね」
玲陽は何かに思いをはせながら、
「不思議な呼び方ですよね。とても綺麗です」
「そうなんです。実は、俺も気に入っているんですよ」
東雨は少しウキウキしながら、
「若様の表情が硬くって、氷みたいに冷たいって誰かが言い出したんです。でも、普通の氷じゃなくて、すごく澄んで美しい宝石みたいだから、蒼氷、って」
「さすが、宮中は優雅ですね。まるで詩の言葉みたいです」
と、玲陽は感心した。
「詩がお好きですか?」
「はい、とても」
東雨は、思いついたように、
「それなら、今日、秘府に行って、何か詩集を探してきましょうか?」
「いいんですか?」
玲陽が目を輝かせる。
「はい。俺も、ちょっと興味があって……」
東雨は少し照れて自分の髪を触った。犀星は何も言わず、東雨の仕草を観察している。
「俺、綺麗なものは好きですが、詩は、難しくてよくわからないんです」
東雨は、残念だ、という顔をする。今日はよく表情が変わるな、と犀星は思った
「でも、光理様が説明してくれたら、きっと、綺麗さがわかると思うんです。光理様、俺に教えるのが上手ですから」
東雨は少しいたずらっぽく、
「若様は、情緒とか、まるでダメなので、参考にならないんです」
玲陽は、ふっと笑った。
「わかりました。詩は、兄様より得意です」
と、東雨の期待に応えてやる気を見せる。
犀星は特に反論はせず、その間ずっと、表情を緩ませていた。
東雨は五亨庵につくと、犀星と玲陽を門まで送り、そのまま中央区の秘府へ向かった。
五亨庵の勤務体制は至って緩い。今日は慈圓が休みを願い出ており、緑権一人である。
ここでは、仕事が滞らない限り、何をしていても自由である。犀星は実利主義で、結果が出ればそれでいいと思っている。官吏は慈圓と緑権の二人しかいない。完全に気心が知れた仲であるのも、のんびりとした雰囲気を助長していた。
犀星と玲陽が着いた時、緑権は炉の前にしゃがみ込んで、必死に薪と格闘していた。
「どうした?」
犀星が声をかけた。緑権は、驚いた顔で振り返った。
緑権が、犀星の言動に毎回動揺するのには理由がある。玲陽が来る前、犀星は自分から誰かに話しかけるということが、ほとんどなかった。十年勤めている緑権ですら、数えるほどだ。それなのに、最近は日に何度も呼ばれる。
「火口にうまく、つけられなくて」
緑権は手にしていた火打石と打ち金を見せた。床にはばらばらに解けた火口の破片が散らばり、苦戦の様子がうかがえた。
犀星が手を伸ばすと、緑権は体をかがめて石を差し出した。緑権の手には、真新しい擦り傷がいくつもついている。
「謀児様、手当てをしましょう」
傷を見て、玲陽は緑権を中央の長榻へと連れて行く。五亨庵に常備している薬箱から軟膏を取り出し、自らそっと塗ってやる。その間、緑権はそわそわと落ち着かず、耳まで真っ赤にして目を潤ませていた。
「今日は、朝から良い日です!」
緑権が緊張した顔で笑った。玲陽は静かに傷に布をあてながら、
「怪我をしたのに、良い日ってことはないでしょう」
「いいえ、素晴らしいです!」
緑権の『素晴らしい』理由が、玲陽にはわかっていない。
犀星は無表情で、その様子を横目に見た。
それから、炉に目を戻す。
玲陽は誰に対しても優しい。それはわかっていたことなのだが、玲陽と緑権が、こうして互いに手をとって、傷の手当てをしている姿を見るとは。
複雑だな……
嫉妬してどうする、と、自戒がよぎる。
玲陽のこととなると、冷静ではいられない自分の性格は、いつまでも変わらない。
犀星は気を取り直して、散らばっていた藁を集め、より直し、石の上に置いた。打ち金で火花を散らす。二度目で火が移り、藁に小さく火が灯る。その火を細い棒に移し取り、炉の中の薪に火をつける。
犀星の手際はいい。火の扱いは、誤れば大惨事に繋がる。自然と注意深くなり、上達する。
火の勢いが安定し、薪が音を立てて、燃え始めた。
犀星は備品庫から新しい薪の束を取り出して、炉の隣に置いた。
宮中に打ち捨てられていた古い家が、こうして役に立っている。
今回の家屋の解体によって犀星が得たものは、大きく二つだ。
一つは屋内や屋外で利用できる大量の薪である。物価の高騰が懸念される中、少しでも燃料代を抑えることができれば、それは生活の安定に直結する。薪は主に宮中で使用される予定だが、一部は民間にも流れる。だが、闇雲に配れば良いということではない。民間の流通量が増えすぎると、本来の薪業者の売り上げは落ちる。彼らの生活のことも考え、その量はある程度調整しなくてはならない。そこが難しいところだ。
そして、もう一つ。宮中における名声である。
犀星にとっては副産物に過ぎないのだが、今後の政治的な動きの中で、その果たす効果は大きい。誰も手をつけなかった古い建築物の撤去と更地化、宮中の外観の整備は、燃料確保のついでとはいえ、大きな成果だった。
犀星の今まで政策は、すべてこのようなものである。実を取り、結果として名声がついてくる。
目の前で揺れる炎は、自分が成したことの結果である。だが、その裏には、慈圓や緑権、涼景や右近衛、暁隊の存在がある。
皆の思いが、炎になった。
このぬくもりは皆の心だ、と犀星は思った。
近づきすぎれば、焼ける。遠すぎれば、凍える。炎との距離は、人との距離に似ている。
犀星は今朝の東雨と玲陽のやりとりを思い出した。
『逼近すれば灼け、遠避すれば寒し。炎の距離は、人の間に似たり』
俺にだって、詩的な感覚くらいはある……
真顔で考え、内心、こっそりと満足していた。
「兄様」
斜め上から、玲陽の声が降ってきた。
「ぼうっとしてないでください。裾、焼けますよ」
犀星は詩作に没頭するあまり、長袍の裾が、炉のぎりぎりまで迫っていたことに気づかなかった。
玲陽はそっと手を伸ばして、その熱を帯びた裾をよけた。犀星は決まりが悪く、顔をそらした。
玲陽は犀星の傍にしゃがみ、火に手をかざす。そのとき、揺れる炎の間に何か見えた。
「あれ、なんでしょう」
玲陽は炉の中を指差した。
犀星は振り返った。犀星の位置からはよく見えなかったため、少し体をずらすように見せて、玲陽を抱える。玲陽はその腕に逆らわなかった。
絶対にわざとですよね……
慈圓がいなくてよかった、と玲陽は思った。
炎の下に、まだ火がついていない薪がある。犀星は覗き込んだ。
木材の表面に、黒い焦げ跡がついているのが見えた。
玲陽がそっと耳打ちする。
「薪に何か書かれてるみたいですね。燃やしちゃってもよかったんでしょうか」
「廃材だから、元の家の壁かなにかの……」
と言いかけて、犀星は目を見張った。
今まさに火が燃え移ろうとしているその薪には、忘れもしない、あの焼印と同じ模様が、黒々と浮かび上がっていた。
思わず、犀星は炎に手を伸ばした。
「あぶない!」
玲陽は犀星の腰を引いて、後ろに倒れた。
その瞬間、ガタンと薪が崩れて、犀星が目指していたその薪が炎に呑まれた。
「なにごとですか!」
後ろから、緑権が駆け寄ってきた。
犀星は青ざめた顔で振り返った。動揺がありありと浮かんでいる。
その顔に、緑権がたじろぎ、
「私、何か、しでかしましたか?」
泣きそうな声を上げた。
犀星は動揺を抑えられぬまま、火に目を戻した。
「この薪は?」
「それは、この前、仙水様が持ってきてくれたものですけど……もしかして、使ったらだめでしたか?」
緑権は心配でたまらないという顔で、立ち尽くしている。
犀星は黙って、必死に考えを巡らせた。
薪は、宮中の家屋を解体したものだ。つまり、焼印はもともと、家屋の建材に押されていたことになる。その家屋の持ち主は、焼印の一件と無関係ではないはずだ。
玲陽を巻き込みたくない。少なくとも、状況がはっきりするまでは……
犀星から押し殺した殺気を感じ、玲陽は震えた。
「兄様?」
勢いよく犀星は立ち上がり、内扉に向かう。
「待ってください!」
「涼景に会いに行く。陽、おまえはここにいるんだ」
「でも……」
「いいな!」
珍しく、鋭い感情を見せた犀星に、玲陽は何も言えなかった。
犀星は急いで五亨庵を出た。控えていた近衛が犀星を追いかけていく声が聞こえた。
嵐が去ったように、その場にしばらく、火の燃える音が響いた。
「あの……」
耐えかねたように、緑権は玲陽を見た。その顔は、すでに土気色にまで色褪せていた。
「大丈夫でしょうか……私、何か悪いこと……」
「謀児様は、悪くないですよ」
玲陽は、自分も動揺しているのを感じたが、こらえて笑った。
「謀児様は、ただ火を焚こうとしただけですし。それに、実際に火をつけたのは兄様ですし。何かあったのなら、悪いのは兄様です」
と、玲陽はなだめるのがうまい。緑権は少しだけ肩を落ち着けて、
「……そうですよね!」
と、切り替えて笑った。緑権は、落ち込む時も忘れる時も、早かった。
気持ちを鎮めようと、玲陽は炉の前にかがんで、薪をつついた。少し継ぎ足し、そこに炭も加える。長く、ゆっくりと燃やし、五亨庵を温める。
駆け出していった犀星のことが、気がかりでならない。
犀星は、よほどのことがない限り、自分を置いていくことはしない。それは、ここにいるべき、という指示だ。そして、来てはならない、という意味でもある。
遠慮でもなければ拒絶でもない。
それがわかっているからこそ、玲陽は黙ってこの場にとどまる。どれほど、心が揺れようとも。
やっぱり、あの薪が原因だろうか。
玲陽は、すでに焦げてしまった薪の模様を思い出した。文字のように見えたが、よくわからなかった。
もしかして、他にも……
玲陽は、脇に積まれていた薪の荒縄を解き、一本ずつ丁寧に調べた。だが、先ほどのような模様は見つけられなかった。
几帳面に薪を積み直し、玲陽はまた、火を眺めた。
犀星があれほど取り乱す理由は、ひとつしか考えられない。
それは、玲陽自身に関わること。
何を、隠しているんですか……?
玲陽は目を細めた。
犀星は知られたくないことがあると、簡単には口を割らない。その意思は頑なで、玲陽でさえ、崩すことは難しかった。
時が来たら、きっと、話してくれますよね。
心を落ち着けると、玲陽は静かに立ち上がった。
一番、炉に近い位置に、玲陽の席が用意されている。ちょうど慈圓の向かい側で、右の斜め先に犀星の机がある。もともとは、犀星が目的に合わせて使用する補助席だと聞いていた。
嘘だ……
玲陽は気づいていた。ここが初めから、自分を迎えるための場所であったことに。
それは、先日、落とした筆を探して、几案の下に身をかがめた時だった。
天板の裏の隅に、小さな布が、護符のように貼ってあった。布は古く掠れていたが、小さな文字で、『星藍』の名があった。
人が見ても、意味はわからなかっただろう。
それがわかるのは、犀星と玲陽の二人だけだ。
『星藍』は、字とともに、犀星が玲陽に送った『真名(まな)』であった。
自分の本当の名を知られると、それを悪用され、呪いをかけられるという思想がある。
玲家に属する犀星と玲陽にとって、それは決して縁の遠い話ではなかった。言霊を大切にする玲家では、明らかにする名前の他に『真名』を持つのは通例だった。
本来、その名を人に知らせることはない。だが、やはり、というべきか、犀星と玲陽の間には秘密がない。
犀星は、玲陽がここに座る日を祈り、その名を隠したに違いなかった。その想いに気づいた時、玲陽は思わず唇を噛んで涙を堪えた。
……そうだ!
ふと、ひらめきが降りてくる。いたずらな笑みを、唇に浮かべる。
玲陽は、席を離れると、犀星の几案の裏を覗いた。そこには、何もない。
周りを見渡し、それから、自分の着物を見る。緑権の視線を避けて、襦袢の裾を引き出す。小刀で端を少し切り取る。そこに、丁寧に『犀星の真名』を書く。炉のそばで、火鉢の湯でにかわを溶かし、布に塗って、天板の裏にこっそりと貼り付けた。
「何をしてるんです?」
犀星の几案の下から顔を出した玲陽を見て、緑権が首を傾げた。
「あ、ちょっと、探し物を……」
「探し物……? ああ、王印ならここですよ」
緑権が、足元の毛氈の下から犀星の印を取り出した。前にも同じことがあった気がする。
「どうして、そこにあるんですか?」
玲陽はあきれた。
「返すの忘れてて……」
緑権が、平気です、というように笑った。
五亨庵の物品管理体制には、問題があるようだ。
玲陽は、自分の席に戻ると、先日から読み進めている、宮中の記録を開いた。
そこには、軍隊の仕組みや、今までの成立の経緯、歴代の官職についた者たちの名前や功績など、実に細かく記載されている。
玲陽は丁寧に、それらを記憶していった。
だが、さすがに量が多い。しかも、十年間、まともに書に触れることがなかった玲陽にとっては、久しぶりに見る情報の洪水である。
クラクラする……
休み休み、ゆっくりと指でたどる。
「あの、謀児様?」
玲陽は少し疲れた顔を上げた。緑権は、寒さをしのぐために、肩掛けと褥にくるまり、押しつぶされるようにして座っている。
「宮中の人たちは、このようなこと、全部覚えているのですか?」
玲陽は竹簡を軽く持ち上げて尋ねた。
「私、もう、頭の中がいっぱいです」
「ああ、私はほとんど、入ってません」
あっけらかん、と緑権が笑った。
「全部覚えてる、なんて人は、玄草様くらいじゃないですか? あの人、それが趣味みたいなものですから」
「覚えなくても、どうにかなりますかね?」
玲陽には、少し諦めが見える。
「必要な時に調べればいいんですよ」
緑権は、胸を張った。
「それに、普段は伯華様と玄草様がどうにかしてくれるので!」
緑権のいさぎよい態度が、玲陽には羨ましかった。
昔から、何事にも完璧を目指してしまう玲陽の性格は、こういうとき自分を追い詰める。わかっているはずなのに、なかなか直らなかった。
「知っていて悪いことはないのでしょうけれど……」
と、再び竹簡に目を落とす。
三年前の記述に、犀星の名があった。途端に興味が湧く。
「皇帝の命を受けて、北方民族との和平調停に貢献……? 兄様、こんなこともしていたんですか?」
「ああ、千義の侵略のときですね」
緑権が思い出しながら、
「あの時は大変だったんですよ」
緑権は、その時に自分がどれだけ苦労したか、ということも交えながら、状況を説明してくれた。
二人が会話に夢中になっている間に、人知れず、五亨庵には異変が起きていた。
ゆらゆらと炎をあげる炉の中から、細い黒い糸のような線が伸び、宙を漂い始めた。それはいつまでも消えることはなく、見えない手に紡がれるように、空中に集まりゆく。数本の黒い糸はより合い、太く、はっきりと形を現す。やがて、まるでとぐろを巻く蛇のように、空中に静止する。人の頭ほどの大きさがある。左右に大きく鎌首を揺らし、緑権と玲陽を見比べる動きを見せる。
ふたりは気づかず、話し続けていた。
「……まぁ、悪い条件が重なったんですよ」
緑権が言った。
「亡くなられたのは事故だって聞きましたけど、本当はどうだったのかなぁ……」
「出世のために、人を殺せるものなのでしょうか……私には、十分な動機とは思えません」
「光理様なら、そんなことは考えられないですよね。でも、宮中って怖いところなんです」
まるで、自分が命を狙われている、と言わんばかりに、緑権は身震いする。
「正直、同情しますよ……」
玲陽は無言で息をついた。この類の話は、本当に気持ちが暗くなる。
その時だった。玲陽の視界を一瞬、黒いものがすっと横切った。
……気のせい?
体の左側にざわっと嫌な気配が走る。それは、しばらく遠ざかっていた感覚だ。
玲陽は緑権から炉の方へ、視線を動かした。
「え?」
空中に、本来あるはずのないものを見て、視線が戻る。
玲陽の目に、明らかな恐怖が走った。
蛇の形をした黒いものが、宙に浮かんでいる。
そして、それはするすると空中を滑って、瞬く間に緑権の元に這い寄っていく。
傀儡だ!
玲陽は狼狽した。
どうしてここに……?
五亨庵の中は結界になっており、外から何かが入り込むことは、考えられないのだ。
まさか、内部で……? いや、それより……!
玲陽の様子が変わったことに気づいて、緑権も蛇を振り返った。その顔から、一瞬で血の気が引く。黒い蛇を指差し、ぱくぱくと口を開けるが、声はでない。
「口を閉じて!」
玲陽が叫んだ。一瞬遅れて、緑権は手で塞いだ。
だが、黒い蛇は容赦なく、その指をこじ開け、口の中に体を捩じ込んだ。波打ちながら、喉へと潜り込んでゆく。
玲陽は全身に汗が吹き出した。
緑権のもとに走り、黒い塊に手をかざしたが、すり抜けるだけだ。取り憑いた傀儡を体に移し、浄化することはできても、取り憑く前にはなす術がない。
声をかけながら、緑権を両腕でかかえ、倒れて怪我をしないように床に下ろした。
緑権には何が起きているかわからない。ただ、息ができない。目を見開き、喉を引っ掻く。玲陽はその手を首から外して押さえつけた。床に組み敷き、緑権に馬乗りになる。黒い蛇が緑権の体の中にすっぽりと入り、腹のあたりでゆっくりと動くのが伝わってきた。
すでに緑権は白目を向いていて、意識がない。
玲陽は一瞬、周囲を見回した。
誰もいない……見られずに済む!
迷いはなかった。
緑権の口に、しっかりと自分の唇を当て、舌を差し入れる。舌先に、かすかに傀儡の気配がある。
……喰らう!
玲陽は、数ヶ月ぶりに傀儡をその体に取り込んだ。
緑権の体に馴染んでいなかったのか、それはあっさりと咽喉を遡って、自分の中に入ってくる。
それと同時に、早くも体は痛み始めていた。何年もの間、彼が味わってきた浄化の痛みだ。
あと一息というところで、唇を離した。そして、天井を仰ぐ。緑権から玲陽へ。黒い塊が弧を描き、空中で一瞬もがくように波打って、口の中へと吸い込まれていく。
玲陽は口を閉じ、両手で押さえた。気を失ったままの緑権を残し、必死に這いずって、広間の中央に向かう。中央部分は、最も結界の力が強い。
長榻にしがみつき、中から突き破ろうとする傀儡を押さえ込む。
いくつもの刃で内臓を切り裂かれていくような感覚がある。さらに、その傷口を引き千切る力が、全身をさいなむ。
腹から始まった痛みは、胸、手足、背中へと広がり、最後は脳髄にまで、鈍く突き刺さる。
手足を縮め、自分を奮い立たせる。じっと堪える。呻きが何度も指の間からこぼれる。見開いた目に涙が浮かぶ。
……まさか、また、こんな思いをすることになるなんて……
のたうちながら、必死に耐え続ける。
時間だけが玲陽の味方だ。
やりすごしてみせる……!
傀儡を浄化するには、膨大な精神力と魂の力を消費する。
それは彼の体力を奪い、気力を奪う。
呼吸が苦しくなり、脱力する。思考が鈍り、何も感じなくなる。
少しずつ痛みがひき、それに伴って意識は混濁し、最後は闇に沈んだ。
五亨庵の空気は、壮絶な玲陽の記憶の余韻を含んで、しばらくの間、かすかに震えていた。
東雨は秘府でいくつもの詩集を見た。
内容を読んでも、よくわからない。どれを選ぶべきかの基準もない。
仕方なく、中身ではなく装丁で決めることにした。
赤く綺麗な絹の帯で包まれた竹簡と、古いが手触りのよい麻で縛られた竹簡の二巻を見比べる。
東雨の身分では、一度に借りられるのは一巻までだ。
若様なら、きっと麻の方を選ぶだろう。
と、東雨は思った。
でも、俺なら……
と、考え直す。
俺なら、どっちがいい?
東雨は素直に、綺麗なものが好きだ。自然と赤い絹のほうに目が行く。そして考える。
そうだ。きっと俺はこっちの方が好きだ。けれど……
と、さらに深く考えた
それはうわべだ。本当の俺は……
不意に、記憶が蘇ってきた。
子供の頃、犀星が自分の古い着物を仕立てなおして、襦袢を作ってくれたことがあった。幼かった東雨は、古着を嫌った。けれど、使い込まれた麻布は柔らかく肌に触れ、絹の冷たさよりも東雨を温めてくれた。
自然と、彼は赤い竹簡を棚に戻した。
俺は、こっちがいい。
犀星が選ぶからではない。自分が選びたいからだ。
貸出台に持ってゆき、帳簿に丁寧に記名する。
名前を書きながら、ふと、手が止まった。
書きかけの『東雨』の文字を見つめる。
これは、誰の名前だった?
突然に、そんな奇妙なことが頭に浮かんだ。
自分じゃない。
東雨は思った。
これは、皇帝の駒として歌仙親王にあてがわれた侍童の名前だ。
いや、名前ですらない……ただの記号だ。
犀星と玲陽が、字を交わし合ったという話が思い出された。
俺も、名前が、欲しかったな……
彼は、夢のようなことを考えた。
ぼんやりしていると、貸出台の役人に睨まれた。東雨は照れ笑いをして、続きを書いた。
大切に竹簡を抱いて、秘府を出る。
思ったより時間がかかってしまった。
雪道を急ぎ、五亨庵に向かう。気温が上がってきたせいで、雪を踏んでも音はしない。
軽く息を弾ませながら、東雨は駆けた。行きすぎる人や馬も、どこか遠い世界のように感じた。
走りながら、東雨は空を見た。青い空に白い太陽が柔らかく輝いている。明るくて見えなかったが、そのそばには、二日の細い月があるはずだ。
東雨はいく先に視線を戻した。その顔は少し、引き締まったように思われた。
次の満月までだ。
東雨は自分に言い聞かせた。
次の満月まで……
その日が来たら、自分は皇帝に殺される。
命令に逆らった罪で、体を裂かれる。
それでもいい。
東雨は、思い切り走った。
わずか、半月でもいい。自分として生きようと決めた。それでいい。それが、いい。
涙がこぼれたが、拭わなかった。
力一杯に東雨は駆け抜け、五亨庵の小道に入った。
息を整えながら、ゆっくりと歩く。
袖で顔をこすり、深呼吸をする。
門まで来て、東雨は不思議そうに辺りを見回した。詰所の中にいるはずの近衛がいなかった。犀星と一緒に出かけたのだろうか。
詰所を抜けて、内扉の前に立ち、
「戻りました」
礼儀正しく挨拶して、扉に手をかける。開けようとして、何かおかしいことに気づく。いつもよりも扉が重く感じられる。体重をかけてゆっくりと扉を開いた。
「今、戻りました……!」
東雨は何が起きているのか理解できず、数瞬、立ち尽くした。
扉の中の景色が歪んでいた。
ゆっくりと、後ろをふりかえる。外の景色は普通に見える。自分の目がおかしくなったわけではないようだ。
もう一度、五亨庵の広間を見る。そこはまるで、水の中で目を開けたときのようにぼやけて、わずかに揺れるようだった。
「なに、これ……?」
見たこともない景色に、東雨は愕然とした。
詩集をそっと榻に置き、それから意を決して腕を伸ばす。広間の内側の空気に手が触れる。
それはほんのりと暖かかった。他に変わったところはない。
ぎゅっと目を閉じ、息を止めて、思い切って顔を中に突っ込んだ。何も感じなかった。
そっと目を開く。景色はぼやけたままだ。
恐る恐る息を吸ってみる。かすかに抵抗があったが、息はできる。いつも通りに呼吸しようとすると、空気が胸につかえて苦しくなる。浅く、ゆっくりと息をする。
これならいける。
東雨は思い切って足を踏み出した。
慣れている五亨庵が、まるで別の世界に見える。すべてのものが輪郭を失い、色の滲みのようだ。
音もない。
欄間から入ってくる光で室内はしっかりと明るい。空気も暖かい。なのに、この景色は明らかに異常だ。
犀星が出かけていたとしても、玲陽と緑権はいるはずだった。
「光理様!」
東雨は思い切って声を出した。息が深く吸えないために、大きな声にはならない。自分が発した声は、わんわんと響いて、空間に反響する。
「謀児様!」
その声も同じように響いたが、やはり、返事はなかった。
東雨はさらに一歩、足を進めた。
ゆっくりと周りを見る。最初に目に入ったのは、炉の炎だ。動いている。
火が燃えているということは、誰かがいるはずだった。犀星は、無人にするときには必ず火を消すようにと言いつけている。
「光理様……」
もう一度呼ぶ。玲陽の席に人影はない。犀星の席にも緑権の席にも、座っているような影は見られなかった。炎だけが揺らめいている。
東雨は、水の中を歩くように、ゆっくりとした動きで進んだ。
何歩か歩いて、さらに奇妙なことに気づいた。東雨の髪が、ゆっくりと前の方に流れていた。それは、肌で感じることのできない風に、流されているようだ。
こちらへおいで、と呼ばれている気がした。東雨はその流れを追いかけた。流れは五亨庵の中心へと向かっている。
足元もぼやけていて、石畳に降りるのが怖かった。少しずつ、靴底をこすりつけながら段を降りる。
石畳の先には、平らで柔らかな毛氈が敷かれ、長榻が二つに、長い几案が一つあるはずだ。
記憶を頼りに景色を探る。色の滲みが広がっているだけだが、なんとなく、正しいように思えた。
そのとき、想像していなかったものが目に入った。
やはりぼんやりと歪んでいるが、長榻に寄りかかるようにして、人が倒れている。細かいところまでは見えない。黒っぽい着物を着て、頭のあたりに金色の滲みがあった。
「光理様……!」
東雨は急いで玲陽のもとへ進んだ。体を早く動かすと息が上がる。たくさんの空気を一度には吸い込めない。
苦しい胸を抱えて、玲陽のそばにゆっくりと膝をつく。四つん這いで、這うようにしながら、さらに近づく。
ぼやけたままで、玲陽の顔はわからない。
手を伸ばして、肩のあたりに触れる。確かに布の感触があった。
乱れた髪の間に、白い首が見えた。
耳の奥で、シュシュッと何かが擦れる音がした。それはささやきのようでもあった。何を言っているのかわからないが、確かに東雨に話しかけているようだ。
その音がするたびに、東雨の心から、ひとつずつ、何かが消えていった。
東雨の額に汗が浮いた。
大切なものが、次々と奪われていくのがわかった。
嫌だ……
恐怖を感じた。
なくしたくない!
抜き取られるのは、記憶か、思い出か、感情か。
掠れた音が繰り返し響く。
少しずつ、だが、確実に東雨の瞳が光を失っていく。
やがて、心はからっぽになった。
無表情のまま、右手を玲陽の喉にかける。柔らかく、暖かい。外の寒さで凍えた指先が、そのぬくもりに溶かされていく。手のひらに、喉に走る血管の脈打つ感触が伝わってくる。
東雨はさらに左手を伸ばした。両手で包み込むように玲陽の首を掴む。それは細く、東雨の手でもすっぽりと覆うことができる。親指の腹が、喉の中心に当たる。そっと撫でる。軽く押す。血管がピクッと跳ねて、脈が乱れる。
両手の指に、少しずつ力を加えて、ゆっくりと締め付けていく。伝わる脈動が少しずつ弱まり、筋肉が小刻みに震えるのがわかった。
それにともなって、少しずつ視界がはっきりとしてくる。徐々に輪郭が戻り、にじみが消え、いつもの景色が帰ってくる。
玲陽の命が弱るにつれて、何かが戻ってくるのを感じた。
心の中に、ひとつ、また、ひとつ。
犀星との思い出。懐かしい日の記憶。見つめた時の愛しさ、見つめられた時の喜び。並んで立てることの誇らしい気持ち。
俺を、取り戻すことができる!
このまま、自分を、取り戻すことが……このまま、このまま……
遠くから、鐘の音一つ、高く響いた。
東雨ははっとして我に返って、手を離した。
同時に玲陽が激しく咳き込んだ。体をよじったが、まだ動けないようだった。
東雨はぐっしょりと汗をかいていた。心臓が胸から飛び出しそうなほど、速く打った。全身がしびれて、ひどく頭がぼんやりとしていた。
玲陽が苦しい息をして、少しずつ体を起こした。長い髪が顔にかかり、表情が読めない。その横顔がこちらを向くのを、東雨は怯えながら待っていた。自分がしてしまったことを許せず、叫び出したくなる。座り込み、震えながら、玲陽の姿をひたすらに見つめていた。
玲陽は肩でゆっくりと息をしながら、顔を上げた。乱れた金色の髪が、頬にかかっている。歪んだ目元に一束、細い髪の筋が垂れていた。
「東雨……どの……」
かすれた声が、そう、呼んだ。
「生きてた……!」
思わず、東雨は叫んだ。
「光理様!」
何が起きたかわからない、という顔で、玲陽は飛びついてきた東雨を抱き止めた。
「あの……」
「よかった! よかったぁ!」
襟を乱すほどに玲陽にすがって、東雨は顔を擦り付けた。玲陽はすっかり困惑している。それでも、東雨が今、素顔でいるということだけは、疑う余地はなかった。
「東雨どの」
思い切り、玲陽は東雨を抱きしめた。東雨の腕が玲陽の身体を抱き返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
東雨は泣きながら、しゃくりあげた。
「俺、光理様のこと……」
玲陽は自然と、東雨の頭を肩に押さえつけた。
「何も、言わなくていいですから」
薄れた意識の中で、玲陽は自分に起きていたことを、察したのだろう。そして、今、泣きじゃくる東雨が、そこに確信を与えた。
「もう、何も言わないで……」
玲陽の腕は、その繊細な印象を裏切って、力強かった。
絶対に、なくさない。
東雨は、玲陽の温もりと匂いに包まれて、そう誓った。
たとえ、体を失ったとしても、心だけは……
ガタン! と、激しい音に続き、何かがばたばたと床に落ちた。
二人は同時に体を離し、音を振り返った。ビシッと空気に緊張が走る。
「寝坊した!」
几案をひっくり返して飛び起きた緑権が、焦った顔で、そこに突っ立っていた。
東雨は、綿の入った袍を着込み、その上から肩掛けを羽織った。足袋には裏に毛皮を張ったものを選び、しっかりと寒さに備えて外に出た
都には昨夜、雪が降り続いていた。
明け方、雲は遠のき、日の光が満ちる冬空は、一段と澄んでいる。あたりは一面真っ白になり、反射した朝日が世界を照らしている。こういう日は、どこもかしこも眩しい。
ツンと鼻に冷たく刺さる、心地よい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「寒い……」
細く、玲陽がつぶやくのが聞こえた。
「冬は、寒いものです」
東雨は、髪をなびかせて振り返った。
「一年中暖かい歌仙が、どうかしてるんですよ」
思わず犀星は微笑し、玲陽は身震いする。
東雨の高く結えた黒い髪には、緑の紐が光っている。にっこりと幸せそうに微笑む。
今まで、こんな笑顔をしただろうか?
犀星は少し不思議に思った。そして、ふと、見とれてしまった。
その横顔を玲陽がそっと覗いている。
今は何も言わないでおこう。
そんな、優しい笑みを浮かべながら。
東雨は雪に一歩ずつ、しっかりと足跡を残していく。キュキュッと音が鳴る。格別に冷え込む日にだけ、雪はこんな音を立てる。東雨は、この音が好きだ。
「今日は、歩いて行きませんか?」
犀星は頷いて、門の外にいた暁隊の兵に馬を任せた。
そっと東雨の隣に立つ。二人が並ぶ姿に、玲陽の顔が自然とほころぶ。
素敵な朝ですね……寒すぎますけど……
玲陽は手を擦り合わせた。
朱雀門は、新しい雪を頂いて、鮮やかな赤色を冬の空に際立たせていた。色の薄い青空は、氷でできているかのように透明だった。
「そういえば」
玲陽が思い出したように尋ねた。
「兄様って確か蒼氷の親王、と呼ばれていませんでした?」
犀星が黙って振り返る。東雨は頷いた。
「それ、時々言われますね」
玲陽は何かに思いをはせながら、
「不思議な呼び方ですよね。とても綺麗です」
「そうなんです。実は、俺も気に入っているんですよ」
東雨は少しウキウキしながら、
「若様の表情が硬くって、氷みたいに冷たいって誰かが言い出したんです。でも、普通の氷じゃなくて、すごく澄んで美しい宝石みたいだから、蒼氷、って」
「さすが、宮中は優雅ですね。まるで詩の言葉みたいです」
と、玲陽は感心した。
「詩がお好きですか?」
「はい、とても」
東雨は、思いついたように、
「それなら、今日、秘府に行って、何か詩集を探してきましょうか?」
「いいんですか?」
玲陽が目を輝かせる。
「はい。俺も、ちょっと興味があって……」
東雨は少し照れて自分の髪を触った。犀星は何も言わず、東雨の仕草を観察している。
「俺、綺麗なものは好きですが、詩は、難しくてよくわからないんです」
東雨は、残念だ、という顔をする。今日はよく表情が変わるな、と犀星は思った
「でも、光理様が説明してくれたら、きっと、綺麗さがわかると思うんです。光理様、俺に教えるのが上手ですから」
東雨は少しいたずらっぽく、
「若様は、情緒とか、まるでダメなので、参考にならないんです」
玲陽は、ふっと笑った。
「わかりました。詩は、兄様より得意です」
と、東雨の期待に応えてやる気を見せる。
犀星は特に反論はせず、その間ずっと、表情を緩ませていた。
東雨は五亨庵につくと、犀星と玲陽を門まで送り、そのまま中央区の秘府へ向かった。
五亨庵の勤務体制は至って緩い。今日は慈圓が休みを願い出ており、緑権一人である。
ここでは、仕事が滞らない限り、何をしていても自由である。犀星は実利主義で、結果が出ればそれでいいと思っている。官吏は慈圓と緑権の二人しかいない。完全に気心が知れた仲であるのも、のんびりとした雰囲気を助長していた。
犀星と玲陽が着いた時、緑権は炉の前にしゃがみ込んで、必死に薪と格闘していた。
「どうした?」
犀星が声をかけた。緑権は、驚いた顔で振り返った。
緑権が、犀星の言動に毎回動揺するのには理由がある。玲陽が来る前、犀星は自分から誰かに話しかけるということが、ほとんどなかった。十年勤めている緑権ですら、数えるほどだ。それなのに、最近は日に何度も呼ばれる。
「火口にうまく、つけられなくて」
緑権は手にしていた火打石と打ち金を見せた。床にはばらばらに解けた火口の破片が散らばり、苦戦の様子がうかがえた。
犀星が手を伸ばすと、緑権は体をかがめて石を差し出した。緑権の手には、真新しい擦り傷がいくつもついている。
「謀児様、手当てをしましょう」
傷を見て、玲陽は緑権を中央の長榻へと連れて行く。五亨庵に常備している薬箱から軟膏を取り出し、自らそっと塗ってやる。その間、緑権はそわそわと落ち着かず、耳まで真っ赤にして目を潤ませていた。
「今日は、朝から良い日です!」
緑権が緊張した顔で笑った。玲陽は静かに傷に布をあてながら、
「怪我をしたのに、良い日ってことはないでしょう」
「いいえ、素晴らしいです!」
緑権の『素晴らしい』理由が、玲陽にはわかっていない。
犀星は無表情で、その様子を横目に見た。
それから、炉に目を戻す。
玲陽は誰に対しても優しい。それはわかっていたことなのだが、玲陽と緑権が、こうして互いに手をとって、傷の手当てをしている姿を見るとは。
複雑だな……
嫉妬してどうする、と、自戒がよぎる。
玲陽のこととなると、冷静ではいられない自分の性格は、いつまでも変わらない。
犀星は気を取り直して、散らばっていた藁を集め、より直し、石の上に置いた。打ち金で火花を散らす。二度目で火が移り、藁に小さく火が灯る。その火を細い棒に移し取り、炉の中の薪に火をつける。
犀星の手際はいい。火の扱いは、誤れば大惨事に繋がる。自然と注意深くなり、上達する。
火の勢いが安定し、薪が音を立てて、燃え始めた。
犀星は備品庫から新しい薪の束を取り出して、炉の隣に置いた。
宮中に打ち捨てられていた古い家が、こうして役に立っている。
今回の家屋の解体によって犀星が得たものは、大きく二つだ。
一つは屋内や屋外で利用できる大量の薪である。物価の高騰が懸念される中、少しでも燃料代を抑えることができれば、それは生活の安定に直結する。薪は主に宮中で使用される予定だが、一部は民間にも流れる。だが、闇雲に配れば良いということではない。民間の流通量が増えすぎると、本来の薪業者の売り上げは落ちる。彼らの生活のことも考え、その量はある程度調整しなくてはならない。そこが難しいところだ。
そして、もう一つ。宮中における名声である。
犀星にとっては副産物に過ぎないのだが、今後の政治的な動きの中で、その果たす効果は大きい。誰も手をつけなかった古い建築物の撤去と更地化、宮中の外観の整備は、燃料確保のついでとはいえ、大きな成果だった。
犀星の今まで政策は、すべてこのようなものである。実を取り、結果として名声がついてくる。
目の前で揺れる炎は、自分が成したことの結果である。だが、その裏には、慈圓や緑権、涼景や右近衛、暁隊の存在がある。
皆の思いが、炎になった。
このぬくもりは皆の心だ、と犀星は思った。
近づきすぎれば、焼ける。遠すぎれば、凍える。炎との距離は、人との距離に似ている。
犀星は今朝の東雨と玲陽のやりとりを思い出した。
『逼近すれば灼け、遠避すれば寒し。炎の距離は、人の間に似たり』
俺にだって、詩的な感覚くらいはある……
真顔で考え、内心、こっそりと満足していた。
「兄様」
斜め上から、玲陽の声が降ってきた。
「ぼうっとしてないでください。裾、焼けますよ」
犀星は詩作に没頭するあまり、長袍の裾が、炉のぎりぎりまで迫っていたことに気づかなかった。
玲陽はそっと手を伸ばして、その熱を帯びた裾をよけた。犀星は決まりが悪く、顔をそらした。
玲陽は犀星の傍にしゃがみ、火に手をかざす。そのとき、揺れる炎の間に何か見えた。
「あれ、なんでしょう」
玲陽は炉の中を指差した。
犀星は振り返った。犀星の位置からはよく見えなかったため、少し体をずらすように見せて、玲陽を抱える。玲陽はその腕に逆らわなかった。
絶対にわざとですよね……
慈圓がいなくてよかった、と玲陽は思った。
炎の下に、まだ火がついていない薪がある。犀星は覗き込んだ。
木材の表面に、黒い焦げ跡がついているのが見えた。
玲陽がそっと耳打ちする。
「薪に何か書かれてるみたいですね。燃やしちゃってもよかったんでしょうか」
「廃材だから、元の家の壁かなにかの……」
と言いかけて、犀星は目を見張った。
今まさに火が燃え移ろうとしているその薪には、忘れもしない、あの焼印と同じ模様が、黒々と浮かび上がっていた。
思わず、犀星は炎に手を伸ばした。
「あぶない!」
玲陽は犀星の腰を引いて、後ろに倒れた。
その瞬間、ガタンと薪が崩れて、犀星が目指していたその薪が炎に呑まれた。
「なにごとですか!」
後ろから、緑権が駆け寄ってきた。
犀星は青ざめた顔で振り返った。動揺がありありと浮かんでいる。
その顔に、緑権がたじろぎ、
「私、何か、しでかしましたか?」
泣きそうな声を上げた。
犀星は動揺を抑えられぬまま、火に目を戻した。
「この薪は?」
「それは、この前、仙水様が持ってきてくれたものですけど……もしかして、使ったらだめでしたか?」
緑権は心配でたまらないという顔で、立ち尽くしている。
犀星は黙って、必死に考えを巡らせた。
薪は、宮中の家屋を解体したものだ。つまり、焼印はもともと、家屋の建材に押されていたことになる。その家屋の持ち主は、焼印の一件と無関係ではないはずだ。
玲陽を巻き込みたくない。少なくとも、状況がはっきりするまでは……
犀星から押し殺した殺気を感じ、玲陽は震えた。
「兄様?」
勢いよく犀星は立ち上がり、内扉に向かう。
「待ってください!」
「涼景に会いに行く。陽、おまえはここにいるんだ」
「でも……」
「いいな!」
珍しく、鋭い感情を見せた犀星に、玲陽は何も言えなかった。
犀星は急いで五亨庵を出た。控えていた近衛が犀星を追いかけていく声が聞こえた。
嵐が去ったように、その場にしばらく、火の燃える音が響いた。
「あの……」
耐えかねたように、緑権は玲陽を見た。その顔は、すでに土気色にまで色褪せていた。
「大丈夫でしょうか……私、何か悪いこと……」
「謀児様は、悪くないですよ」
玲陽は、自分も動揺しているのを感じたが、こらえて笑った。
「謀児様は、ただ火を焚こうとしただけですし。それに、実際に火をつけたのは兄様ですし。何かあったのなら、悪いのは兄様です」
と、玲陽はなだめるのがうまい。緑権は少しだけ肩を落ち着けて、
「……そうですよね!」
と、切り替えて笑った。緑権は、落ち込む時も忘れる時も、早かった。
気持ちを鎮めようと、玲陽は炉の前にかがんで、薪をつついた。少し継ぎ足し、そこに炭も加える。長く、ゆっくりと燃やし、五亨庵を温める。
駆け出していった犀星のことが、気がかりでならない。
犀星は、よほどのことがない限り、自分を置いていくことはしない。それは、ここにいるべき、という指示だ。そして、来てはならない、という意味でもある。
遠慮でもなければ拒絶でもない。
それがわかっているからこそ、玲陽は黙ってこの場にとどまる。どれほど、心が揺れようとも。
やっぱり、あの薪が原因だろうか。
玲陽は、すでに焦げてしまった薪の模様を思い出した。文字のように見えたが、よくわからなかった。
もしかして、他にも……
玲陽は、脇に積まれていた薪の荒縄を解き、一本ずつ丁寧に調べた。だが、先ほどのような模様は見つけられなかった。
几帳面に薪を積み直し、玲陽はまた、火を眺めた。
犀星があれほど取り乱す理由は、ひとつしか考えられない。
それは、玲陽自身に関わること。
何を、隠しているんですか……?
玲陽は目を細めた。
犀星は知られたくないことがあると、簡単には口を割らない。その意思は頑なで、玲陽でさえ、崩すことは難しかった。
時が来たら、きっと、話してくれますよね。
心を落ち着けると、玲陽は静かに立ち上がった。
一番、炉に近い位置に、玲陽の席が用意されている。ちょうど慈圓の向かい側で、右の斜め先に犀星の机がある。もともとは、犀星が目的に合わせて使用する補助席だと聞いていた。
嘘だ……
玲陽は気づいていた。ここが初めから、自分を迎えるための場所であったことに。
それは、先日、落とした筆を探して、几案の下に身をかがめた時だった。
天板の裏の隅に、小さな布が、護符のように貼ってあった。布は古く掠れていたが、小さな文字で、『星藍』の名があった。
人が見ても、意味はわからなかっただろう。
それがわかるのは、犀星と玲陽の二人だけだ。
『星藍』は、字とともに、犀星が玲陽に送った『真名(まな)』であった。
自分の本当の名を知られると、それを悪用され、呪いをかけられるという思想がある。
玲家に属する犀星と玲陽にとって、それは決して縁の遠い話ではなかった。言霊を大切にする玲家では、明らかにする名前の他に『真名』を持つのは通例だった。
本来、その名を人に知らせることはない。だが、やはり、というべきか、犀星と玲陽の間には秘密がない。
犀星は、玲陽がここに座る日を祈り、その名を隠したに違いなかった。その想いに気づいた時、玲陽は思わず唇を噛んで涙を堪えた。
……そうだ!
ふと、ひらめきが降りてくる。いたずらな笑みを、唇に浮かべる。
玲陽は、席を離れると、犀星の几案の裏を覗いた。そこには、何もない。
周りを見渡し、それから、自分の着物を見る。緑権の視線を避けて、襦袢の裾を引き出す。小刀で端を少し切り取る。そこに、丁寧に『犀星の真名』を書く。炉のそばで、火鉢の湯でにかわを溶かし、布に塗って、天板の裏にこっそりと貼り付けた。
「何をしてるんです?」
犀星の几案の下から顔を出した玲陽を見て、緑権が首を傾げた。
「あ、ちょっと、探し物を……」
「探し物……? ああ、王印ならここですよ」
緑権が、足元の毛氈の下から犀星の印を取り出した。前にも同じことがあった気がする。
「どうして、そこにあるんですか?」
玲陽はあきれた。
「返すの忘れてて……」
緑権が、平気です、というように笑った。
五亨庵の物品管理体制には、問題があるようだ。
玲陽は、自分の席に戻ると、先日から読み進めている、宮中の記録を開いた。
そこには、軍隊の仕組みや、今までの成立の経緯、歴代の官職についた者たちの名前や功績など、実に細かく記載されている。
玲陽は丁寧に、それらを記憶していった。
だが、さすがに量が多い。しかも、十年間、まともに書に触れることがなかった玲陽にとっては、久しぶりに見る情報の洪水である。
クラクラする……
休み休み、ゆっくりと指でたどる。
「あの、謀児様?」
玲陽は少し疲れた顔を上げた。緑権は、寒さをしのぐために、肩掛けと褥にくるまり、押しつぶされるようにして座っている。
「宮中の人たちは、このようなこと、全部覚えているのですか?」
玲陽は竹簡を軽く持ち上げて尋ねた。
「私、もう、頭の中がいっぱいです」
「ああ、私はほとんど、入ってません」
あっけらかん、と緑権が笑った。
「全部覚えてる、なんて人は、玄草様くらいじゃないですか? あの人、それが趣味みたいなものですから」
「覚えなくても、どうにかなりますかね?」
玲陽には、少し諦めが見える。
「必要な時に調べればいいんですよ」
緑権は、胸を張った。
「それに、普段は伯華様と玄草様がどうにかしてくれるので!」
緑権のいさぎよい態度が、玲陽には羨ましかった。
昔から、何事にも完璧を目指してしまう玲陽の性格は、こういうとき自分を追い詰める。わかっているはずなのに、なかなか直らなかった。
「知っていて悪いことはないのでしょうけれど……」
と、再び竹簡に目を落とす。
三年前の記述に、犀星の名があった。途端に興味が湧く。
「皇帝の命を受けて、北方民族との和平調停に貢献……? 兄様、こんなこともしていたんですか?」
「ああ、千義の侵略のときですね」
緑権が思い出しながら、
「あの時は大変だったんですよ」
緑権は、その時に自分がどれだけ苦労したか、ということも交えながら、状況を説明してくれた。
二人が会話に夢中になっている間に、人知れず、五亨庵には異変が起きていた。
ゆらゆらと炎をあげる炉の中から、細い黒い糸のような線が伸び、宙を漂い始めた。それはいつまでも消えることはなく、見えない手に紡がれるように、空中に集まりゆく。数本の黒い糸はより合い、太く、はっきりと形を現す。やがて、まるでとぐろを巻く蛇のように、空中に静止する。人の頭ほどの大きさがある。左右に大きく鎌首を揺らし、緑権と玲陽を見比べる動きを見せる。
ふたりは気づかず、話し続けていた。
「……まぁ、悪い条件が重なったんですよ」
緑権が言った。
「亡くなられたのは事故だって聞きましたけど、本当はどうだったのかなぁ……」
「出世のために、人を殺せるものなのでしょうか……私には、十分な動機とは思えません」
「光理様なら、そんなことは考えられないですよね。でも、宮中って怖いところなんです」
まるで、自分が命を狙われている、と言わんばかりに、緑権は身震いする。
「正直、同情しますよ……」
玲陽は無言で息をついた。この類の話は、本当に気持ちが暗くなる。
その時だった。玲陽の視界を一瞬、黒いものがすっと横切った。
……気のせい?
体の左側にざわっと嫌な気配が走る。それは、しばらく遠ざかっていた感覚だ。
玲陽は緑権から炉の方へ、視線を動かした。
「え?」
空中に、本来あるはずのないものを見て、視線が戻る。
玲陽の目に、明らかな恐怖が走った。
蛇の形をした黒いものが、宙に浮かんでいる。
そして、それはするすると空中を滑って、瞬く間に緑権の元に這い寄っていく。
傀儡だ!
玲陽は狼狽した。
どうしてここに……?
五亨庵の中は結界になっており、外から何かが入り込むことは、考えられないのだ。
まさか、内部で……? いや、それより……!
玲陽の様子が変わったことに気づいて、緑権も蛇を振り返った。その顔から、一瞬で血の気が引く。黒い蛇を指差し、ぱくぱくと口を開けるが、声はでない。
「口を閉じて!」
玲陽が叫んだ。一瞬遅れて、緑権は手で塞いだ。
だが、黒い蛇は容赦なく、その指をこじ開け、口の中に体を捩じ込んだ。波打ちながら、喉へと潜り込んでゆく。
玲陽は全身に汗が吹き出した。
緑権のもとに走り、黒い塊に手をかざしたが、すり抜けるだけだ。取り憑いた傀儡を体に移し、浄化することはできても、取り憑く前にはなす術がない。
声をかけながら、緑権を両腕でかかえ、倒れて怪我をしないように床に下ろした。
緑権には何が起きているかわからない。ただ、息ができない。目を見開き、喉を引っ掻く。玲陽はその手を首から外して押さえつけた。床に組み敷き、緑権に馬乗りになる。黒い蛇が緑権の体の中にすっぽりと入り、腹のあたりでゆっくりと動くのが伝わってきた。
すでに緑権は白目を向いていて、意識がない。
玲陽は一瞬、周囲を見回した。
誰もいない……見られずに済む!
迷いはなかった。
緑権の口に、しっかりと自分の唇を当て、舌を差し入れる。舌先に、かすかに傀儡の気配がある。
……喰らう!
玲陽は、数ヶ月ぶりに傀儡をその体に取り込んだ。
緑権の体に馴染んでいなかったのか、それはあっさりと咽喉を遡って、自分の中に入ってくる。
それと同時に、早くも体は痛み始めていた。何年もの間、彼が味わってきた浄化の痛みだ。
あと一息というところで、唇を離した。そして、天井を仰ぐ。緑権から玲陽へ。黒い塊が弧を描き、空中で一瞬もがくように波打って、口の中へと吸い込まれていく。
玲陽は口を閉じ、両手で押さえた。気を失ったままの緑権を残し、必死に這いずって、広間の中央に向かう。中央部分は、最も結界の力が強い。
長榻にしがみつき、中から突き破ろうとする傀儡を押さえ込む。
いくつもの刃で内臓を切り裂かれていくような感覚がある。さらに、その傷口を引き千切る力が、全身をさいなむ。
腹から始まった痛みは、胸、手足、背中へと広がり、最後は脳髄にまで、鈍く突き刺さる。
手足を縮め、自分を奮い立たせる。じっと堪える。呻きが何度も指の間からこぼれる。見開いた目に涙が浮かぶ。
……まさか、また、こんな思いをすることになるなんて……
のたうちながら、必死に耐え続ける。
時間だけが玲陽の味方だ。
やりすごしてみせる……!
傀儡を浄化するには、膨大な精神力と魂の力を消費する。
それは彼の体力を奪い、気力を奪う。
呼吸が苦しくなり、脱力する。思考が鈍り、何も感じなくなる。
少しずつ痛みがひき、それに伴って意識は混濁し、最後は闇に沈んだ。
五亨庵の空気は、壮絶な玲陽の記憶の余韻を含んで、しばらくの間、かすかに震えていた。
東雨は秘府でいくつもの詩集を見た。
内容を読んでも、よくわからない。どれを選ぶべきかの基準もない。
仕方なく、中身ではなく装丁で決めることにした。
赤く綺麗な絹の帯で包まれた竹簡と、古いが手触りのよい麻で縛られた竹簡の二巻を見比べる。
東雨の身分では、一度に借りられるのは一巻までだ。
若様なら、きっと麻の方を選ぶだろう。
と、東雨は思った。
でも、俺なら……
と、考え直す。
俺なら、どっちがいい?
東雨は素直に、綺麗なものが好きだ。自然と赤い絹のほうに目が行く。そして考える。
そうだ。きっと俺はこっちの方が好きだ。けれど……
と、さらに深く考えた
それはうわべだ。本当の俺は……
不意に、記憶が蘇ってきた。
子供の頃、犀星が自分の古い着物を仕立てなおして、襦袢を作ってくれたことがあった。幼かった東雨は、古着を嫌った。けれど、使い込まれた麻布は柔らかく肌に触れ、絹の冷たさよりも東雨を温めてくれた。
自然と、彼は赤い竹簡を棚に戻した。
俺は、こっちがいい。
犀星が選ぶからではない。自分が選びたいからだ。
貸出台に持ってゆき、帳簿に丁寧に記名する。
名前を書きながら、ふと、手が止まった。
書きかけの『東雨』の文字を見つめる。
これは、誰の名前だった?
突然に、そんな奇妙なことが頭に浮かんだ。
自分じゃない。
東雨は思った。
これは、皇帝の駒として歌仙親王にあてがわれた侍童の名前だ。
いや、名前ですらない……ただの記号だ。
犀星と玲陽が、字を交わし合ったという話が思い出された。
俺も、名前が、欲しかったな……
彼は、夢のようなことを考えた。
ぼんやりしていると、貸出台の役人に睨まれた。東雨は照れ笑いをして、続きを書いた。
大切に竹簡を抱いて、秘府を出る。
思ったより時間がかかってしまった。
雪道を急ぎ、五亨庵に向かう。気温が上がってきたせいで、雪を踏んでも音はしない。
軽く息を弾ませながら、東雨は駆けた。行きすぎる人や馬も、どこか遠い世界のように感じた。
走りながら、東雨は空を見た。青い空に白い太陽が柔らかく輝いている。明るくて見えなかったが、そのそばには、二日の細い月があるはずだ。
東雨はいく先に視線を戻した。その顔は少し、引き締まったように思われた。
次の満月までだ。
東雨は自分に言い聞かせた。
次の満月まで……
その日が来たら、自分は皇帝に殺される。
命令に逆らった罪で、体を裂かれる。
それでもいい。
東雨は、思い切り走った。
わずか、半月でもいい。自分として生きようと決めた。それでいい。それが、いい。
涙がこぼれたが、拭わなかった。
力一杯に東雨は駆け抜け、五亨庵の小道に入った。
息を整えながら、ゆっくりと歩く。
袖で顔をこすり、深呼吸をする。
門まで来て、東雨は不思議そうに辺りを見回した。詰所の中にいるはずの近衛がいなかった。犀星と一緒に出かけたのだろうか。
詰所を抜けて、内扉の前に立ち、
「戻りました」
礼儀正しく挨拶して、扉に手をかける。開けようとして、何かおかしいことに気づく。いつもよりも扉が重く感じられる。体重をかけてゆっくりと扉を開いた。
「今、戻りました……!」
東雨は何が起きているのか理解できず、数瞬、立ち尽くした。
扉の中の景色が歪んでいた。
ゆっくりと、後ろをふりかえる。外の景色は普通に見える。自分の目がおかしくなったわけではないようだ。
もう一度、五亨庵の広間を見る。そこはまるで、水の中で目を開けたときのようにぼやけて、わずかに揺れるようだった。
「なに、これ……?」
見たこともない景色に、東雨は愕然とした。
詩集をそっと榻に置き、それから意を決して腕を伸ばす。広間の内側の空気に手が触れる。
それはほんのりと暖かかった。他に変わったところはない。
ぎゅっと目を閉じ、息を止めて、思い切って顔を中に突っ込んだ。何も感じなかった。
そっと目を開く。景色はぼやけたままだ。
恐る恐る息を吸ってみる。かすかに抵抗があったが、息はできる。いつも通りに呼吸しようとすると、空気が胸につかえて苦しくなる。浅く、ゆっくりと息をする。
これならいける。
東雨は思い切って足を踏み出した。
慣れている五亨庵が、まるで別の世界に見える。すべてのものが輪郭を失い、色の滲みのようだ。
音もない。
欄間から入ってくる光で室内はしっかりと明るい。空気も暖かい。なのに、この景色は明らかに異常だ。
犀星が出かけていたとしても、玲陽と緑権はいるはずだった。
「光理様!」
東雨は思い切って声を出した。息が深く吸えないために、大きな声にはならない。自分が発した声は、わんわんと響いて、空間に反響する。
「謀児様!」
その声も同じように響いたが、やはり、返事はなかった。
東雨はさらに一歩、足を進めた。
ゆっくりと周りを見る。最初に目に入ったのは、炉の炎だ。動いている。
火が燃えているということは、誰かがいるはずだった。犀星は、無人にするときには必ず火を消すようにと言いつけている。
「光理様……」
もう一度呼ぶ。玲陽の席に人影はない。犀星の席にも緑権の席にも、座っているような影は見られなかった。炎だけが揺らめいている。
東雨は、水の中を歩くように、ゆっくりとした動きで進んだ。
何歩か歩いて、さらに奇妙なことに気づいた。東雨の髪が、ゆっくりと前の方に流れていた。それは、肌で感じることのできない風に、流されているようだ。
こちらへおいで、と呼ばれている気がした。東雨はその流れを追いかけた。流れは五亨庵の中心へと向かっている。
足元もぼやけていて、石畳に降りるのが怖かった。少しずつ、靴底をこすりつけながら段を降りる。
石畳の先には、平らで柔らかな毛氈が敷かれ、長榻が二つに、長い几案が一つあるはずだ。
記憶を頼りに景色を探る。色の滲みが広がっているだけだが、なんとなく、正しいように思えた。
そのとき、想像していなかったものが目に入った。
やはりぼんやりと歪んでいるが、長榻に寄りかかるようにして、人が倒れている。細かいところまでは見えない。黒っぽい着物を着て、頭のあたりに金色の滲みがあった。
「光理様……!」
東雨は急いで玲陽のもとへ進んだ。体を早く動かすと息が上がる。たくさんの空気を一度には吸い込めない。
苦しい胸を抱えて、玲陽のそばにゆっくりと膝をつく。四つん這いで、這うようにしながら、さらに近づく。
ぼやけたままで、玲陽の顔はわからない。
手を伸ばして、肩のあたりに触れる。確かに布の感触があった。
乱れた髪の間に、白い首が見えた。
耳の奥で、シュシュッと何かが擦れる音がした。それはささやきのようでもあった。何を言っているのかわからないが、確かに東雨に話しかけているようだ。
その音がするたびに、東雨の心から、ひとつずつ、何かが消えていった。
東雨の額に汗が浮いた。
大切なものが、次々と奪われていくのがわかった。
嫌だ……
恐怖を感じた。
なくしたくない!
抜き取られるのは、記憶か、思い出か、感情か。
掠れた音が繰り返し響く。
少しずつ、だが、確実に東雨の瞳が光を失っていく。
やがて、心はからっぽになった。
無表情のまま、右手を玲陽の喉にかける。柔らかく、暖かい。外の寒さで凍えた指先が、そのぬくもりに溶かされていく。手のひらに、喉に走る血管の脈打つ感触が伝わってくる。
東雨はさらに左手を伸ばした。両手で包み込むように玲陽の首を掴む。それは細く、東雨の手でもすっぽりと覆うことができる。親指の腹が、喉の中心に当たる。そっと撫でる。軽く押す。血管がピクッと跳ねて、脈が乱れる。
両手の指に、少しずつ力を加えて、ゆっくりと締め付けていく。伝わる脈動が少しずつ弱まり、筋肉が小刻みに震えるのがわかった。
それにともなって、少しずつ視界がはっきりとしてくる。徐々に輪郭が戻り、にじみが消え、いつもの景色が帰ってくる。
玲陽の命が弱るにつれて、何かが戻ってくるのを感じた。
心の中に、ひとつ、また、ひとつ。
犀星との思い出。懐かしい日の記憶。見つめた時の愛しさ、見つめられた時の喜び。並んで立てることの誇らしい気持ち。
俺を、取り戻すことができる!
このまま、自分を、取り戻すことが……このまま、このまま……
遠くから、鐘の音一つ、高く響いた。
東雨ははっとして我に返って、手を離した。
同時に玲陽が激しく咳き込んだ。体をよじったが、まだ動けないようだった。
東雨はぐっしょりと汗をかいていた。心臓が胸から飛び出しそうなほど、速く打った。全身がしびれて、ひどく頭がぼんやりとしていた。
玲陽が苦しい息をして、少しずつ体を起こした。長い髪が顔にかかり、表情が読めない。その横顔がこちらを向くのを、東雨は怯えながら待っていた。自分がしてしまったことを許せず、叫び出したくなる。座り込み、震えながら、玲陽の姿をひたすらに見つめていた。
玲陽は肩でゆっくりと息をしながら、顔を上げた。乱れた金色の髪が、頬にかかっている。歪んだ目元に一束、細い髪の筋が垂れていた。
「東雨……どの……」
かすれた声が、そう、呼んだ。
「生きてた……!」
思わず、東雨は叫んだ。
「光理様!」
何が起きたかわからない、という顔で、玲陽は飛びついてきた東雨を抱き止めた。
「あの……」
「よかった! よかったぁ!」
襟を乱すほどに玲陽にすがって、東雨は顔を擦り付けた。玲陽はすっかり困惑している。それでも、東雨が今、素顔でいるということだけは、疑う余地はなかった。
「東雨どの」
思い切り、玲陽は東雨を抱きしめた。東雨の腕が玲陽の身体を抱き返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
東雨は泣きながら、しゃくりあげた。
「俺、光理様のこと……」
玲陽は自然と、東雨の頭を肩に押さえつけた。
「何も、言わなくていいですから」
薄れた意識の中で、玲陽は自分に起きていたことを、察したのだろう。そして、今、泣きじゃくる東雨が、そこに確信を与えた。
「もう、何も言わないで……」
玲陽の腕は、その繊細な印象を裏切って、力強かった。
絶対に、なくさない。
東雨は、玲陽の温もりと匂いに包まれて、そう誓った。
たとえ、体を失ったとしても、心だけは……
ガタン! と、激しい音に続き、何かがばたばたと床に落ちた。
二人は同時に体を離し、音を振り返った。ビシッと空気に緊張が走る。
「寝坊した!」
几案をひっくり返して飛び起きた緑権が、焦った顔で、そこに突っ立っていた。
0
あなたにおすすめの小説
腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。
四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」
突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
婚約破棄されないまま正妃になってしまった令嬢
alunam
恋愛
婚約破棄はされなかった……そんな必要は無かったから。
既に愛情の無くなった結婚をしても相手は王太子。困る事は無かったから……
愛されない正妃なぞ珍しくもない、愛される側妃がいるから……
そして寵愛を受けた側妃が世継ぎを産み、正妃の座に成り代わろうとするのも珍しい事ではない……それが今、この時に訪れただけ……
これは婚約破棄される事のなかった愛されない正妃。元・辺境伯爵シェリオン家令嬢『フィアル・シェリオン』の知らない所で、周りの奴等が勝手に王家の連中に「ざまぁ!」する話。
※あらすじですらシリアスが保たない程度の内容、プロット消失からの練り直し試作品、荒唐無稽でもハッピーエンドならいいんじゃい!的なガバガバ設定
それでもよろしければご一読お願い致します。更によろしければ感想・アドバイスなんかも是非是非。全十三話+オマケ一話、一日二回更新でっす!
後の祭り
ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。
小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる