新月の光

恵あかり

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第二部 紅陽(完結)

14 雪が降った日

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 本格的な冬がやってきた。
 東雨は、綿の入った袍を着込み、その上から肩掛けを羽織った。足袋には裏に毛皮を張ったものを選び、しっかりと寒さに備えて外に出た
 都には昨夜、雪が降り続いていた。
 明け方、雲は遠のき、日の光が満ちる冬空は、一段と澄んでいる。あたりは一面真っ白になり、反射した朝日が世界を照らしている。こういう日は、どこもかしこも眩しい。
 ツンと鼻に冷たく刺さる、心地よい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「寒い……」
 細く、玲陽がつぶやくのが聞こえた。
「冬は、寒いものです」
 東雨は、髪をなびかせて振り返った。
「一年中暖かい歌仙が、どうかしてるんですよ」
 思わず犀星は微笑し、玲陽は身震いする。
 東雨の高く結えた黒い髪には、緑の紐が光っている。にっこりと幸せそうに微笑む。
 今まで、こんな笑顔をしただろうか?
 犀星は少し不思議に思った。そして、ふと、見とれてしまった。
 その横顔を玲陽がそっと覗いている。
 今は何も言わないでおこう。
 そんな、優しい笑みを浮かべながら。
 東雨は雪に一歩ずつ、しっかりと足跡を残していく。キュキュッと音が鳴る。格別に冷え込む日にだけ、雪はこんな音を立てる。東雨は、この音が好きだ。
「今日は、歩いて行きませんか?」
 犀星は頷いて、門の外にいた暁隊の兵に馬を任せた。
 そっと東雨の隣に立つ。二人が並ぶ姿に、玲陽の顔が自然とほころぶ。
 素敵な朝ですね……寒すぎますけど……
 玲陽は手を擦り合わせた。
 朱雀門は、新しい雪を頂いて、鮮やかな赤色を冬の空に際立たせていた。色の薄い青空は、氷でできているかのように透明だった。
「そういえば」
 玲陽が思い出したように尋ねた。
「兄様って確か蒼氷あおの親王、と呼ばれていませんでした?」
 犀星が黙って振り返る。東雨は頷いた。
「それ、時々言われますね」
 玲陽は何かに思いをはせながら、
「不思議な呼び方ですよね。とても綺麗です」
「そうなんです。実は、俺も気に入っているんですよ」
 東雨は少しウキウキしながら、
「若様の表情が硬くって、氷みたいに冷たいって誰かが言い出したんです。でも、普通の氷じゃなくて、すごく澄んで美しい宝石みたいだから、蒼氷、って」
「さすが、宮中は優雅ですね。まるで詩の言葉みたいです」
 と、玲陽は感心した。
「詩がお好きですか?」
「はい、とても」
 東雨は、思いついたように、
「それなら、今日、秘府に行って、何か詩集を探してきましょうか?」
「いいんですか?」
 玲陽が目を輝かせる。
「はい。俺も、ちょっと興味があって……」
 東雨は少し照れて自分の髪を触った。犀星は何も言わず、東雨の仕草を観察している。
「俺、綺麗なものは好きですが、詩は、難しくてよくわからないんです」
 東雨は、残念だ、という顔をする。今日はよく表情が変わるな、と犀星は思った
「でも、光理様が説明してくれたら、きっと、綺麗さがわかると思うんです。光理様、俺に教えるのが上手ですから」
 東雨は少しいたずらっぽく、
「若様は、情緒とか、まるでダメなので、参考にならないんです」
 玲陽は、ふっと笑った。
「わかりました。詩は、兄様より得意です」
 と、東雨の期待に応えてやる気を見せる。
 犀星は特に反論はせず、その間ずっと、表情を緩ませていた。
 東雨は五亨庵につくと、犀星と玲陽を門まで送り、そのまま中央区の秘府へ向かった。
 五亨庵の勤務体制は至って緩い。今日は慈圓が休みを願い出ており、緑権一人である。
 ここでは、仕事が滞らない限り、何をしていても自由である。犀星は実利主義で、結果が出ればそれでいいと思っている。官吏は慈圓と緑権の二人しかいない。完全に気心が知れた仲であるのも、のんびりとした雰囲気を助長していた。
 犀星と玲陽が着いた時、緑権は炉の前にしゃがみ込んで、必死に薪と格闘していた。
「どうした?」
 犀星が声をかけた。緑権は、驚いた顔で振り返った。
 緑権が、犀星の言動に毎回動揺するのには理由がある。玲陽が来る前、犀星は自分から誰かに話しかけるということが、ほとんどなかった。十年勤めている緑権ですら、数えるほどだ。それなのに、最近は日に何度も呼ばれる。
火口ほぐちにうまく、つけられなくて」
 緑権は手にしていた火打石と打ち金を見せた。床にはばらばらに解けた火口の破片が散らばり、苦戦の様子がうかがえた。
 犀星が手を伸ばすと、緑権は体をかがめて石を差し出した。緑権の手には、真新しい擦り傷がいくつもついている。
「謀児様、手当てをしましょう」
 傷を見て、玲陽は緑権を中央の長榻へと連れて行く。五亨庵に常備している薬箱から軟膏を取り出し、自らそっと塗ってやる。その間、緑権はそわそわと落ち着かず、耳まで真っ赤にして目を潤ませていた。

「今日は、朝から良い日です!」
 緑権が緊張した顔で笑った。玲陽は静かに傷に布をあてながら、
「怪我をしたのに、良い日ってことはないでしょう」
「いいえ、素晴らしいです!」
 緑権の『素晴らしい』理由が、玲陽にはわかっていない。
 犀星は無表情で、その様子を横目に見た。
 それから、炉に目を戻す。
 玲陽は誰に対しても優しい。それはわかっていたことなのだが、玲陽と緑権が、こうして互いに手をとって、傷の手当てをしている姿を見るとは。
 複雑だな……
 嫉妬してどうする、と、自戒がよぎる。
 玲陽のこととなると、冷静ではいられない自分の性格は、いつまでも変わらない。
 犀星は気を取り直して、散らばっていた藁を集め、より直し、石の上に置いた。打ち金で火花を散らす。二度目で火が移り、藁に小さく火が灯る。その火を細い棒に移し取り、炉の中の薪に火をつける。
 犀星の手際はいい。火の扱いは、誤れば大惨事に繋がる。自然と注意深くなり、上達する。
 火の勢いが安定し、薪が音を立てて、燃え始めた。
 犀星は備品庫から新しい薪の束を取り出して、炉の隣に置いた。
 宮中に打ち捨てられていた古い家が、こうして役に立っている。
 今回の家屋の解体によって犀星が得たものは、大きく二つだ。
 一つは屋内や屋外で利用できる大量の薪である。物価の高騰が懸念される中、少しでも燃料代を抑えることができれば、それは生活の安定に直結する。薪は主に宮中で使用される予定だが、一部は民間にも流れる。だが、闇雲に配れば良いということではない。民間の流通量が増えすぎると、本来の薪業者の売り上げは落ちる。彼らの生活のことも考え、その量はある程度調整しなくてはならない。そこが難しいところだ。
 そして、もう一つ。宮中における名声である。
 犀星にとっては副産物に過ぎないのだが、今後の政治的な動きの中で、その果たす効果は大きい。誰も手をつけなかった古い建築物の撤去と更地化、宮中の外観の整備は、燃料確保のついでとはいえ、大きな成果だった。
 犀星の今まで政策は、すべてこのようなものである。実を取り、結果として名声がついてくる。
 目の前で揺れる炎は、自分が成したことの結果である。だが、その裏には、慈圓や緑権、涼景や右近衛、暁隊の存在がある。
 皆の思いが、炎になった。
 このぬくもりは皆の心だ、と犀星は思った。
 近づきすぎれば、焼ける。遠すぎれば、凍える。炎との距離は、人との距離に似ている。
 犀星は今朝の東雨と玲陽のやりとりを思い出した。
『逼近すれば灼け、遠避すれば寒し。炎の距離は、人の間に似たり』
 俺にだって、詩的な感覚くらいはある……
 真顔で考え、内心、こっそりと満足していた。
「兄様」
 斜め上から、玲陽の声が降ってきた。
「ぼうっとしてないでください。裾、焼けますよ」
 犀星は詩作に没頭するあまり、長袍の裾が、炉のぎりぎりまで迫っていたことに気づかなかった。
 玲陽はそっと手を伸ばして、その熱を帯びた裾をよけた。犀星は決まりが悪く、顔をそらした。
 玲陽は犀星の傍にしゃがみ、火に手をかざす。そのとき、揺れる炎の間に何か見えた。
「あれ、なんでしょう」
 玲陽は炉の中を指差した。
 犀星は振り返った。犀星の位置からはよく見えなかったため、少し体をずらすように見せて、玲陽を抱える。玲陽はその腕に逆らわなかった。
 絶対にわざとですよね……
 慈圓がいなくてよかった、と玲陽は思った。
 炎の下に、まだ火がついていない薪がある。犀星は覗き込んだ。
 木材の表面に、黒い焦げ跡がついているのが見えた。
 玲陽がそっと耳打ちする。
「薪に何か書かれてるみたいですね。燃やしちゃってもよかったんでしょうか」
「廃材だから、元の家の壁かなにかの……」
 と言いかけて、犀星は目を見張った。
 今まさに火が燃え移ろうとしているその薪には、忘れもしない、あの焼印と同じ模様が、黒々と浮かび上がっていた。
 思わず、犀星は炎に手を伸ばした。

「あぶない!」
 玲陽は犀星の腰を引いて、後ろに倒れた。
 その瞬間、ガタンと薪が崩れて、犀星が目指していたその薪が炎に呑まれた。
「なにごとですか!」
 後ろから、緑権が駆け寄ってきた。
 犀星は青ざめた顔で振り返った。動揺がありありと浮かんでいる。
 その顔に、緑権がたじろぎ、
「私、何か、しでかしましたか?」
 泣きそうな声を上げた。
 犀星は動揺を抑えられぬまま、火に目を戻した。
「この薪は?」
「それは、この前、仙水様が持ってきてくれたものですけど……もしかして、使ったらだめでしたか?」
 緑権は心配でたまらないという顔で、立ち尽くしている。
 犀星は黙って、必死に考えを巡らせた。
 薪は、宮中の家屋を解体したものだ。つまり、焼印はもともと、家屋の建材に押されていたことになる。その家屋の持ち主は、焼印の一件と無関係ではないはずだ。
 玲陽を巻き込みたくない。少なくとも、状況がはっきりするまでは……
 犀星から押し殺した殺気を感じ、玲陽は震えた。
「兄様?」
 勢いよく犀星は立ち上がり、内扉に向かう。
「待ってください!」
「涼景に会いに行く。陽、おまえはここにいるんだ」
「でも……」
「いいな!」
 珍しく、鋭い感情を見せた犀星に、玲陽は何も言えなかった。
 犀星は急いで五亨庵を出た。控えていた近衛が犀星を追いかけていく声が聞こえた。
 嵐が去ったように、その場にしばらく、火の燃える音が響いた。
「あの……」
 耐えかねたように、緑権は玲陽を見た。その顔は、すでに土気色にまで色褪せていた。
「大丈夫でしょうか……私、何か悪いこと……」
「謀児様は、悪くないですよ」
 玲陽は、自分も動揺しているのを感じたが、こらえて笑った。
「謀児様は、ただ火を焚こうとしただけですし。それに、実際に火をつけたのは兄様ですし。何かあったのなら、悪いのは兄様です」
 と、玲陽はなだめるのがうまい。緑権は少しだけ肩を落ち着けて、
「……そうですよね!」
 と、切り替えて笑った。緑権は、落ち込む時も忘れる時も、早かった。
 気持ちを鎮めようと、玲陽は炉の前にかがんで、薪をつついた。少し継ぎ足し、そこに炭も加える。長く、ゆっくりと燃やし、五亨庵を温める。
 駆け出していった犀星のことが、気がかりでならない。
 犀星は、よほどのことがない限り、自分を置いていくことはしない。それは、ここにいるべき、という指示だ。そして、来てはならない、という意味でもある。
 遠慮でもなければ拒絶でもない。
 それがわかっているからこそ、玲陽は黙ってこの場にとどまる。どれほど、心が揺れようとも。
 やっぱり、あの薪が原因だろうか。
 玲陽は、すでに焦げてしまった薪の模様を思い出した。文字のように見えたが、よくわからなかった。
 もしかして、他にも……
 玲陽は、脇に積まれていた薪の荒縄を解き、一本ずつ丁寧に調べた。だが、先ほどのような模様は見つけられなかった。
 几帳面に薪を積み直し、玲陽はまた、火を眺めた。
 犀星があれほど取り乱す理由は、ひとつしか考えられない。
 それは、玲陽自身に関わること。
 何を、隠しているんですか……?
 玲陽は目を細めた。
 犀星は知られたくないことがあると、簡単には口を割らない。その意思は頑なで、玲陽でさえ、崩すことは難しかった。
 時が来たら、きっと、話してくれますよね。
 心を落ち着けると、玲陽は静かに立ち上がった。
 一番、炉に近い位置に、玲陽の席が用意されている。ちょうど慈圓の向かい側で、右の斜め先に犀星の机がある。もともとは、犀星が目的に合わせて使用する補助席だと聞いていた。
 嘘だ……
 玲陽は気づいていた。ここが初めから、自分を迎えるための場所であったことに。
 それは、先日、落とした筆を探して、几案の下に身をかがめた時だった。
 天板の裏の隅に、小さな布が、護符のように貼ってあった。布は古く掠れていたが、小さな文字で、『星藍』の名があった。
 人が見ても、意味はわからなかっただろう。
 それがわかるのは、犀星と玲陽の二人だけだ。
 『星藍』は、字とともに、犀星が玲陽に送った『真名(まな)』であった。
 自分の本当の名を知られると、それを悪用され、呪いをかけられるという思想がある。
 玲家に属する犀星と玲陽にとって、それは決して縁の遠い話ではなかった。言霊を大切にする玲家では、明らかにする名前の他に『真名』を持つのは通例だった。
 本来、その名を人に知らせることはない。だが、やはり、というべきか、犀星と玲陽の間には秘密がない。
 犀星は、玲陽がここに座る日を祈り、その名を隠したに違いなかった。その想いに気づいた時、玲陽は思わず唇を噛んで涙を堪えた。
 ……そうだ!
 ふと、ひらめきが降りてくる。いたずらな笑みを、唇に浮かべる。
 玲陽は、席を離れると、犀星の几案の裏を覗いた。そこには、何もない。
 周りを見渡し、それから、自分の着物を見る。緑権の視線を避けて、襦袢の裾を引き出す。小刀で端を少し切り取る。そこに、丁寧に『犀星の真名』を書く。炉のそばで、火鉢の湯でにかわを溶かし、布に塗って、天板の裏にこっそりと貼り付けた。
「何をしてるんです?」
 犀星の几案の下から顔を出した玲陽を見て、緑権が首を傾げた。
「あ、ちょっと、探し物を……」
「探し物……? ああ、王印ならここですよ」
 緑権が、足元の毛氈の下から犀星の印を取り出した。前にも同じことがあった気がする。
「どうして、そこにあるんですか?」
 玲陽はあきれた。
「返すの忘れてて……」
 緑権が、平気です、というように笑った。
 五亨庵の物品管理体制には、問題があるようだ。
 玲陽は、自分の席に戻ると、先日から読み進めている、宮中の記録を開いた。
 そこには、軍隊の仕組みや、今までの成立の経緯、歴代の官職についた者たちの名前や功績など、実に細かく記載されている。
 玲陽は丁寧に、それらを記憶していった。
 だが、さすがに量が多い。しかも、十年間、まともに書に触れることがなかった玲陽にとっては、久しぶりに見る情報の洪水である。
 クラクラする……
 休み休み、ゆっくりと指でたどる。
「あの、謀児様?」
 玲陽は少し疲れた顔を上げた。緑権は、寒さをしのぐために、肩掛けと褥にくるまり、押しつぶされるようにして座っている。
「宮中の人たちは、このようなこと、全部覚えているのですか?」
 玲陽は竹簡を軽く持ち上げて尋ねた。
「私、もう、頭の中がいっぱいです」
「ああ、私はほとんど、入ってません」
 あっけらかん、と緑権が笑った。
「全部覚えてる、なんて人は、玄草様くらいじゃないですか? あの人、それが趣味みたいなものですから」
「覚えなくても、どうにかなりますかね?」
 玲陽には、少し諦めが見える。
「必要な時に調べればいいんですよ」
 緑権は、胸を張った。
「それに、普段は伯華様と玄草様がどうにかしてくれるので!」
 緑権のいさぎよい態度が、玲陽には羨ましかった。
 昔から、何事にも完璧を目指してしまう玲陽の性格は、こういうとき自分を追い詰める。わかっているはずなのに、なかなか直らなかった。
「知っていて悪いことはないのでしょうけれど……」
 と、再び竹簡に目を落とす。
 三年前の記述に、犀星の名があった。途端に興味が湧く。
「皇帝の命を受けて、北方民族との和平調停に貢献……? 兄様、こんなこともしていたんですか?」
「ああ、千義の侵略のときですね」
 緑権が思い出しながら、
「あの時は大変だったんですよ」
 緑権は、その時に自分がどれだけ苦労したか、ということも交えながら、状況を説明してくれた。
 二人が会話に夢中になっている間に、人知れず、五亨庵には異変が起きていた。
 ゆらゆらと炎をあげる炉の中から、細い黒い糸のような線が伸び、宙を漂い始めた。それはいつまでも消えることはなく、見えない手に紡がれるように、空中に集まりゆく。数本の黒い糸はより合い、太く、はっきりと形を現す。やがて、まるでとぐろを巻く蛇のように、空中に静止する。人の頭ほどの大きさがある。左右に大きく鎌首を揺らし、緑権と玲陽を見比べる動きを見せる。
 ふたりは気づかず、話し続けていた。
「……まぁ、悪い条件が重なったんですよ」
 緑権が言った。
「亡くなられたのは事故だって聞きましたけど、本当はどうだったのかなぁ……」
「出世のために、人を殺せるものなのでしょうか……私には、十分な動機とは思えません」
「光理様なら、そんなことは考えられないですよね。でも、宮中って怖いところなんです」
 まるで、自分が命を狙われている、と言わんばかりに、緑権は身震いする。
「正直、同情しますよ……」
 玲陽は無言で息をついた。この類の話は、本当に気持ちが暗くなる。
 その時だった。玲陽の視界を一瞬、黒いものがすっと横切った。
 ……気のせい?
 体の左側にざわっと嫌な気配が走る。それは、しばらく遠ざかっていた感覚だ。
 玲陽は緑権から炉の方へ、視線を動かした。
「え?」
 空中に、本来あるはずのないものを見て、視線が戻る。
 玲陽の目に、明らかな恐怖が走った。
 蛇の形をした黒いものが、宙に浮かんでいる。
 そして、それはするすると空中を滑って、瞬く間に緑権の元に這い寄っていく。
 傀儡だ!
 玲陽は狼狽した。
 どうしてここに……?
 五亨庵の中は結界になっており、外から何かが入り込むことは、考えられないのだ。
 まさか、内部で……? いや、それより……!
 玲陽の様子が変わったことに気づいて、緑権も蛇を振り返った。その顔から、一瞬で血の気が引く。黒い蛇を指差し、ぱくぱくと口を開けるが、声はでない。
「口を閉じて!」
 玲陽が叫んだ。一瞬遅れて、緑権は手で塞いだ。
 だが、黒い蛇は容赦なく、その指をこじ開け、口の中に体を捩じ込んだ。波打ちながら、喉へと潜り込んでゆく。
 玲陽は全身に汗が吹き出した。
 緑権のもとに走り、黒い塊に手をかざしたが、すり抜けるだけだ。取り憑いた傀儡を体に移し、浄化することはできても、取り憑く前にはなす術がない。
 声をかけながら、緑権を両腕でかかえ、倒れて怪我をしないように床に下ろした。
 緑権には何が起きているかわからない。ただ、息ができない。目を見開き、喉を引っ掻く。玲陽はその手を首から外して押さえつけた。床に組み敷き、緑権に馬乗りになる。黒い蛇が緑権の体の中にすっぽりと入り、腹のあたりでゆっくりと動くのが伝わってきた。
 すでに緑権は白目を向いていて、意識がない。
 玲陽は一瞬、周囲を見回した。
 誰もいない……見られずに済む!
 迷いはなかった。
 緑権の口に、しっかりと自分の唇を当て、舌を差し入れる。舌先に、かすかに傀儡の気配がある。
 ……喰らう!
 玲陽は、数ヶ月ぶりに傀儡をその体に取り込んだ。
 緑権の体に馴染んでいなかったのか、それはあっさりと咽喉を遡って、自分の中に入ってくる。
 それと同時に、早くも体は痛み始めていた。何年もの間、彼が味わってきた浄化の痛みだ。
 あと一息というところで、唇を離した。そして、天井を仰ぐ。緑権から玲陽へ。黒い塊が弧を描き、空中で一瞬もがくように波打って、口の中へと吸い込まれていく。
 玲陽は口を閉じ、両手で押さえた。気を失ったままの緑権を残し、必死に這いずって、広間の中央に向かう。中央部分は、最も結界の力が強い。
 長榻にしがみつき、中から突き破ろうとする傀儡を押さえ込む。
 いくつもの刃で内臓を切り裂かれていくような感覚がある。さらに、その傷口を引き千切る力が、全身をさいなむ。
 腹から始まった痛みは、胸、手足、背中へと広がり、最後は脳髄にまで、鈍く突き刺さる。
 手足を縮め、自分を奮い立たせる。じっと堪える。呻きが何度も指の間からこぼれる。見開いた目に涙が浮かぶ。
 ……まさか、また、こんな思いをすることになるなんて……
 のたうちながら、必死に耐え続ける。
 時間だけが玲陽の味方だ。
 やりすごしてみせる……!
 傀儡を浄化するには、膨大な精神力と魂の力を消費する。
 それは彼の体力を奪い、気力を奪う。
 呼吸が苦しくなり、脱力する。思考が鈍り、何も感じなくなる。
 少しずつ痛みがひき、それに伴って意識は混濁し、最後は闇に沈んだ。
 五亨庵の空気は、壮絶な玲陽の記憶の余韻を含んで、しばらくの間、かすかに震えていた。

 東雨は秘府でいくつもの詩集を見た。
 内容を読んでも、よくわからない。どれを選ぶべきかの基準もない。
 仕方なく、中身ではなく装丁で決めることにした。
 赤く綺麗な絹の帯で包まれた竹簡と、古いが手触りのよい麻で縛られた竹簡の二巻を見比べる。
 東雨の身分では、一度に借りられるのは一巻までだ。
 若様なら、きっと麻の方を選ぶだろう。
 と、東雨は思った。
 でも、俺なら……
 と、考え直す。
 俺なら、どっちがいい?
 東雨は素直に、綺麗なものが好きだ。自然と赤い絹のほうに目が行く。そして考える。
 そうだ。きっと俺はこっちの方が好きだ。けれど……
 と、さらに深く考えた
 それはうわべだ。本当の俺は……
 不意に、記憶が蘇ってきた。
 子供の頃、犀星が自分の古い着物を仕立てなおして、襦袢を作ってくれたことがあった。幼かった東雨は、古着を嫌った。けれど、使い込まれた麻布は柔らかく肌に触れ、絹の冷たさよりも東雨を温めてくれた。
 自然と、彼は赤い竹簡を棚に戻した。
 俺は、こっちがいい。
 犀星が選ぶからではない。自分が選びたいからだ。
 貸出台に持ってゆき、帳簿に丁寧に記名する。
 名前を書きながら、ふと、手が止まった。
 書きかけの『東雨』の文字を見つめる。
 これは、誰の名前だった?
 突然に、そんな奇妙なことが頭に浮かんだ。
 自分じゃない。
 東雨は思った。
 これは、皇帝の駒として歌仙親王にあてがわれた侍童の名前だ。
 いや、名前ですらない……ただの記号だ。
 犀星と玲陽が、字を交わし合ったという話が思い出された。
 俺も、名前が、欲しかったな……
 彼は、夢のようなことを考えた。
 ぼんやりしていると、貸出台の役人に睨まれた。東雨は照れ笑いをして、続きを書いた。
 大切に竹簡を抱いて、秘府を出る。
 思ったより時間がかかってしまった。
 雪道を急ぎ、五亨庵に向かう。気温が上がってきたせいで、雪を踏んでも音はしない。
 軽く息を弾ませながら、東雨は駆けた。行きすぎる人や馬も、どこか遠い世界のように感じた。
 走りながら、東雨は空を見た。青い空に白い太陽が柔らかく輝いている。明るくて見えなかったが、そのそばには、二日の細い月があるはずだ。
 東雨はいく先に視線を戻した。その顔は少し、引き締まったように思われた。
 次の満月までだ。
 東雨は自分に言い聞かせた。
 次の満月まで……
 その日が来たら、自分は皇帝に殺される。
 命令に逆らった罪で、体を裂かれる。
 それでもいい。
 東雨は、思い切り走った。
 わずか、半月でもいい。自分として生きようと決めた。それでいい。それが、いい。
 涙がこぼれたが、拭わなかった。
 力一杯に東雨は駆け抜け、五亨庵の小道に入った。
 息を整えながら、ゆっくりと歩く。
 袖で顔をこすり、深呼吸をする。
 門まで来て、東雨は不思議そうに辺りを見回した。詰所の中にいるはずの近衛がいなかった。犀星と一緒に出かけたのだろうか。
 詰所を抜けて、内扉の前に立ち、
 「戻りました」
 礼儀正しく挨拶して、扉に手をかける。開けようとして、何かおかしいことに気づく。いつもよりも扉が重く感じられる。体重をかけてゆっくりと扉を開いた。
 「今、戻りました……!」
 東雨は何が起きているのか理解できず、数瞬、立ち尽くした。
 扉の中の景色が歪んでいた。
 ゆっくりと、後ろをふりかえる。外の景色は普通に見える。自分の目がおかしくなったわけではないようだ。
 もう一度、五亨庵の広間を見る。そこはまるで、水の中で目を開けたときのようにぼやけて、わずかに揺れるようだった。
 「なに、これ……?」
 見たこともない景色に、東雨は愕然とした。
 詩集をそっと榻に置き、それから意を決して腕を伸ばす。広間の内側の空気に手が触れる。
 それはほんのりと暖かかった。他に変わったところはない。
 ぎゅっと目を閉じ、息を止めて、思い切って顔を中に突っ込んだ。何も感じなかった。
 そっと目を開く。景色はぼやけたままだ。
 恐る恐る息を吸ってみる。かすかに抵抗があったが、息はできる。いつも通りに呼吸しようとすると、空気が胸につかえて苦しくなる。浅く、ゆっくりと息をする。
 これならいける。
 東雨は思い切って足を踏み出した。
 慣れている五亨庵が、まるで別の世界に見える。すべてのものが輪郭を失い、色の滲みのようだ。
 音もない。
 欄間から入ってくる光で室内はしっかりと明るい。空気も暖かい。なのに、この景色は明らかに異常だ。
 犀星が出かけていたとしても、玲陽と緑権はいるはずだった。
 「光理様!」
 東雨は思い切って声を出した。息が深く吸えないために、大きな声にはならない。自分が発した声は、わんわんと響いて、空間に反響する。
 「謀児様!」
 その声も同じように響いたが、やはり、返事はなかった。
 東雨はさらに一歩、足を進めた。
 ゆっくりと周りを見る。最初に目に入ったのは、炉の炎だ。動いている。
 火が燃えているということは、誰かがいるはずだった。犀星は、無人にするときには必ず火を消すようにと言いつけている。
 「光理様……」
 もう一度呼ぶ。玲陽の席に人影はない。犀星の席にも緑権の席にも、座っているような影は見られなかった。炎だけが揺らめいている。
 東雨は、水の中を歩くように、ゆっくりとした動きで進んだ。
 何歩か歩いて、さらに奇妙なことに気づいた。東雨の髪が、ゆっくりと前の方に流れていた。それは、肌で感じることのできない風に、流されているようだ。
 こちらへおいで、と呼ばれている気がした。東雨はその流れを追いかけた。流れは五亨庵の中心へと向かっている。
 足元もぼやけていて、石畳に降りるのが怖かった。少しずつ、靴底をこすりつけながら段を降りる。
 石畳の先には、平らで柔らかな毛氈が敷かれ、長榻が二つに、長い几案が一つあるはずだ。
 記憶を頼りに景色を探る。色の滲みが広がっているだけだが、なんとなく、正しいように思えた。
 そのとき、想像していなかったものが目に入った。
 やはりぼんやりと歪んでいるが、長榻に寄りかかるようにして、人が倒れている。細かいところまでは見えない。黒っぽい着物を着て、頭のあたりに金色の滲みがあった。
「光理様……!」
 東雨は急いで玲陽のもとへ進んだ。体を早く動かすと息が上がる。たくさんの空気を一度には吸い込めない。
 苦しい胸を抱えて、玲陽のそばにゆっくりと膝をつく。四つん這いで、這うようにしながら、さらに近づく。
 ぼやけたままで、玲陽の顔はわからない。
 手を伸ばして、肩のあたりに触れる。確かに布の感触があった。
 乱れた髪の間に、白い首が見えた。
 耳の奥で、シュシュッと何かが擦れる音がした。それはささやきのようでもあった。何を言っているのかわからないが、確かに東雨に話しかけているようだ。
 その音がするたびに、東雨の心から、ひとつずつ、何かが消えていった。
 東雨の額に汗が浮いた。
 大切なものが、次々と奪われていくのがわかった。
 嫌だ……
 恐怖を感じた。
 なくしたくない!
 抜き取られるのは、記憶か、思い出か、感情か。
 掠れた音が繰り返し響く。
 少しずつ、だが、確実に東雨の瞳が光を失っていく。
 やがて、心はからっぽになった。
 無表情のまま、右手を玲陽の喉にかける。柔らかく、暖かい。外の寒さで凍えた指先が、そのぬくもりに溶かされていく。手のひらに、喉に走る血管の脈打つ感触が伝わってくる。
 東雨はさらに左手を伸ばした。両手で包み込むように玲陽の首を掴む。それは細く、東雨の手でもすっぽりと覆うことができる。親指の腹が、喉の中心に当たる。そっと撫でる。軽く押す。血管がピクッと跳ねて、脈が乱れる。
 両手の指に、少しずつ力を加えて、ゆっくりと締め付けていく。伝わる脈動が少しずつ弱まり、筋肉が小刻みに震えるのがわかった。
 それにともなって、少しずつ視界がはっきりとしてくる。徐々に輪郭が戻り、にじみが消え、いつもの景色が帰ってくる。
 玲陽の命が弱るにつれて、何かが戻ってくるのを感じた。
 心の中に、ひとつ、また、ひとつ。
 犀星との思い出。懐かしい日の記憶。見つめた時の愛しさ、見つめられた時の喜び。並んで立てることの誇らしい気持ち。
 俺を、取り戻すことができる!
 このまま、自分を、取り戻すことが……このまま、このまま……
 遠くから、鐘の音一つ、高く響いた。
 東雨ははっとして我に返って、手を離した。
 同時に玲陽が激しく咳き込んだ。体をよじったが、まだ動けないようだった。
 東雨はぐっしょりと汗をかいていた。心臓が胸から飛び出しそうなほど、速く打った。全身がしびれて、ひどく頭がぼんやりとしていた。
 玲陽が苦しい息をして、少しずつ体を起こした。長い髪が顔にかかり、表情が読めない。その横顔がこちらを向くのを、東雨は怯えながら待っていた。自分がしてしまったことを許せず、叫び出したくなる。座り込み、震えながら、玲陽の姿をひたすらに見つめていた。
 玲陽は肩でゆっくりと息をしながら、顔を上げた。乱れた金色の髪が、頬にかかっている。歪んだ目元に一束、細い髪の筋が垂れていた。
 「東雨……どの……」
 かすれた声が、そう、呼んだ。
 「生きてた……!」
 思わず、東雨は叫んだ。
「光理様!」
 何が起きたかわからない、という顔で、玲陽は飛びついてきた東雨を抱き止めた。
「あの……」
「よかった! よかったぁ!」
 襟を乱すほどに玲陽にすがって、東雨は顔を擦り付けた。玲陽はすっかり困惑している。それでも、東雨が今、素顔でいるということだけは、疑う余地はなかった。
「東雨どの」
 思い切り、玲陽は東雨を抱きしめた。東雨の腕が玲陽の身体を抱き返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
 東雨は泣きながら、しゃくりあげた。
「俺、光理様のこと……」
 玲陽は自然と、東雨の頭を肩に押さえつけた。
「何も、言わなくていいですから」
 薄れた意識の中で、玲陽は自分に起きていたことを、察したのだろう。そして、今、泣きじゃくる東雨が、そこに確信を与えた。
「もう、何も言わないで……」
 玲陽の腕は、その繊細な印象を裏切って、力強かった。
 絶対に、なくさない。
 東雨は、玲陽の温もりと匂いに包まれて、そう誓った。
 たとえ、体を失ったとしても、心だけは……
 ガタン! と、激しい音に続き、何かがばたばたと床に落ちた。
 二人は同時に体を離し、音を振り返った。ビシッと空気に緊張が走る。
「寝坊した!」
 几案をひっくり返して飛び起きた緑権が、焦った顔で、そこに突っ立っていた。
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