新月の光

恵あかり

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第二部 紅陽(完結)

15 結びゆく

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 女の匂いが好きかと言われたら、それは違うと蓮章は思う。
 それでも、花街の女は嫌いではない。
 涼景の命令で花街に潜入して数日、蓮章は実に彼らしく、彼にしか成し得ない方法で、仕事を進めていた。
 ぐったりするほどに濃く、香を焚いた締め切った部屋で、蓮章は、ほどいた女の髪を指で弄んでいた。
「ん……」
 口を離して、女は手を添えながら、蓮章に顔を近づける。無言で舌を絡めて、蓮章は無造作に女の体を押し倒した。
「まったく……」
 女は眉目を少し傾けて、蓮章の灰色の目を睨んだ。
「ほんと、腹が立つほど綺麗だね」
「あん?」
 左の乳房に鼻を押し当て、蓮章は視線で女を射すくめる。
「なんだよ、嫉妬か?」
「そういうとこも嫌い」
 女は、先ほどまで咥えていた蓮章のものを軽く握った。
「噛み切ってやればよかった」
「ふ……それじゃ、あんたも楽しめねぇぞ」
「だから、嫌いさ」
 女の言葉など聞くに値しない、と、蓮章は、乳首を吸いその先端を舌で転がした。柔らかい肉を思い切り頬張る。微かに染料の匂いがする蓮章の髪を、女は白い二の腕で抱いた。
「なぁ」
 と、乳房の間から女を見上げて、蓮章は腰を揺らす。女は褥の中をまさぐり、温めていた張形を探り当てた。
「ほんと、好きねぇ」
 女は、下卑た笑みも、美しい。
 男にしては細身とはいえ、蓮章の体は女郎の腕の中で十分にたくましかった。女は上体を捩って腕を伸ばし、背中を這わせて尻のあわいへ滑らせる。
「おい」
 蓮章は脇に寄せてあった盆から、油壺をつまんで女に差し出した。
「使え」
「自分には甘いわね」
「壊れたくないんでな」
 女は油壺の中に、たぷん、とひたし、垂れる雫をそのまま蓮章の肌に塗り込める。
「こんなところまで綺麗なんだから、腹が立つったらありゃしない」
 女は言いながら、自分の乳のように薄い紅色の肌の間で、小さくつぼんでいる口に、先を押し当てた。蓮章の目が途端に火照り、下肢から力が抜けていく。
 ずずっと粘膜がこすれる感触に、蓮章は腰を浮かせた。
「下手くそ……」
 ざらついた声で、文句を言う。女は根本の輪に指をかけ、手のひらに体重を乗せる。蓮章は無理に挿入された異物感に、思わず苦悶の声を上げる。
「何よ、あんただって乱暴なくせに」
「うるせぇ」
 形の良い目元で睨まれると、女の心臓が跳ねる。
「さっさと、しちゃいなさいよ」
 片脚を自分の肩にかけて腰を上げ、張形を右手で押さえつけながら、女は蓮章にまたがった。手を添えて自分の中に手早く挿れる。
 蓮章は顔をしかめた。
「趣ってもんがあるだろうが」
「はぁ? 今更?」
 息と体を弾ませながら、女は鼻で笑った。
「仕事放りだして女郎を買って、こんな真似して悦ぶやつが、何言ってんのよ」
 と、右手を揺する。
「言ってくれる……」
 蓮章は不満を超えて、苛ついた。女の方もわかっていると見えて、わざと煽っている節もある。
「涼さんに言いつけてやるんだから」
「あいつは俺にかまってるほど暇じゃない」
「なぁに? とうとう振られた?」
「とっくに振られてる」
 蓮章は、当たりが気に入らない、と、自分で腰の位置を変えた。
「それより、隣の部屋、静かだな」
「何よ、あの子が気になるの?」
 女は少し、むすっとして、
「そんなに好きなら、向こうへ行けば?」
「やっかむな」
 蓮章は笑って動きを変えた。女が思わず声を上げる。それから、悔しそうに蓮章を見て、
「もしかして、一緒に入った男の方が好みだったりして……」
 張形をぐるりと回す。こういう時、蓮章は自分の欲を殺さない。声に吐息を絡めながら、
「あんただって、知ってるだろ。焼印の話」
「ああ……」
 女は自分も興に耽りながら、
「もう、四人やられたんでしょう? 死んじゃいないけど、廃人同然なんだってね」
 と、ため息を漏らす。
「あんた、あれ、調べてんの?」
「まぁな」
「こんな所で、油売ってる場合じゃないでしょ」
「売ってるのは、花」
 蓮章は胸と首をのけぞらせて、身をねじった。艶めいた声が喉から熱い息と共に、とめどなく溢れる。女はその媚態に、思わずねっとりと笑った。
「……興奮しちゃう」
「……それより、事件のこと、何か知らないか?」
「それより、って……知ってたら、とっくに涼さんに言いつけてるわよ」
「あんた、本当に涼のこと、好きなんだな」
「蓮さんと違って優しいからね」
「……ふぅん」
 蓮章は一瞬、色を忘れて真顔を見せた。
「涼に、抱かれたか?」
「どうかしらねぇ」
 女は色っぽく笑ったが、それが蓮章の癇に障る。
 蓮章の動きが荒くなった。容赦のない攻め立てに、慣れた女も驚いた。
「ちょっと……っ!」
 抗議の声を上げたが、時すでに遅い。自由にならない女を、易々と抱き上げる。深く浅く角度を変えて、確実に女を追い詰める。たまらず、女は悲鳴を上げた。
「勝手に放つんじゃねぇ」
 乱れた低い声が女を牽制する。
「む……り……っ!」
 制御できない収縮が、蓮章に伝わってきた。
「くそ……待てって言ったろうが」
 蓮章は止まらず、一層腰が荒くなる。女は必死に首を横に振った。
「だめ、待って!」
「あんたは、待たなかっただろ」
「それはっ……!」
 女の言葉は、蓮章の唸り声でかき消される。
 女は右手を動かした。蓮章に埋まっている張形が、中を擦り上げる。
「さっさと……終わってよ!」
「だから……下手だって……」
 前後から送り込まれる感覚が一致しない蓮章は、達するどころか酷く焦れた。
「そんなんじゃ、痛いだけ……っ!」
「知らないわよ! さっさと果てて!」
 睦み合うより、乱闘に近い。
 互いに一歩も引かないまま、やがて蓮章の体は限界を迎えた。
「抜け!」
 女を突き放して、蓮章は褥に倒れ込む。女の方も、汗で頬に張り付いた乱れ髪を撫でながら、隣に座った。
「あんた、ほんと、最低」
「うるせぇ」
 蓮章は悪態をついたが、その声はすでに冷めて、怒りも不満もない。
 情交の間の感情は、その時限りと決めていた。
「こんなんじゃ、いつか客に怪我させるぞ」
「次来たら、本当に噛み切ってやるんだから」
「そう言って、何度目だ?」
「あんたこそ」
 女の方もさっぱりしたもので、寝そべる蓮章の肌を名残惜しげに撫でている。
「ほんと、綺麗な身体」
 蓮章は興味を無くした顔で、部屋の隅に立てかけた、自分の刀を眺めていた。
「ねぇ」
 女が口づけようと顔を近づけてきたのを、蓮章は無視して立ち上がった。手早く湯水で体を拭く。
「何、もう行くの? 少し休んでいけば?」
「仕事中」
 唇に移った紅を、親指の腹で拭いとる。すっかり香に染まった着物をまとい、刀を帯びる。櫛で髪を撫で、左の瞼の上に、薄く粉化粧を乗せる。
 身支度をする蓮章を、女はうっとりと眺めていた。
 女は頃合いを見て、蓮章の長袍を手に、近づいた。背中に、そっと羽織らせる。そのまま、裸の体で一度、後ろから蓮章を抱きしめた。
「いってらっしゃい」
「……また、くる」
 花街の女は悪くない。蓮章は見送りを断って、廊下に出た。

 犀星は、後悔していた。
 思わず感情に任せて五亨庵を飛び出したものの、結果的に玲陽を置き去りにしてしまった。
 気持ちが乱れた時、衝動的に体が動いてしまう。
 自分は何度、同じことを繰り返すのだろう。良くないとわかっているはずなのに止められない。
 玲陽ならば、こんなふうに悩むこともないだろう。彼の冷静さが羨ましかった。
 乾いた冬の風も、自分の頭を冷やしてくれそうになかった。
 犀星は中央区を過ぎ、北区へ入った。道沿いの建物の屋根や軒には、うっすらと雪が乗っている。この辺りは兵の動きが多く、新雪はすでに踏み固められていた。
 北区の西の端に右近衛隊の詰所がある。裏手には演武場も備え、火器庫も併設されている。
 中央の禁軍や東の左近衛隊と比べ、若干開放的で、緊張感が薄い一帯だ。五亨庵とは、宮中の敷地全体の対角で、最も距離が離れている。犀星の警護を務める右近衛隊にとって、最悪の立地だった。
 すれ違う騎馬の兵が、犀星に気づいて慌てて馬を降りようとしたが、それより早く、犀星は脇をすり抜けていく。
「涼景はいるか」
 犀星は、まだ遠い位置から、詰所の見張りに声をかけた。
「はい!」
 明るい声が返ってきた。
「隊長なら、演武場に……」
 立ち止まることなく見張りの前を通り過ぎながら、犀星は遠慮なく、どんどん中に入っていく。
 五亨庵から付き添ってきた近衛兵が、自分はここまで、と足を止めた。
 いかに宮中といえども、親王が単独で歩くことは禁じられている。それは、近衛隊の敷地内であろうとも、例外ではない。だが、実際にはこの通り、犀星を諌める者は誰もいなかった。
 詰所の裏に設けられた広い演武場には、若い衛士たちが集まり、武器を手に、実戦の稽古を行なっていた。衛士たちが腕や肩に巻いている白い布は、右近衛の象徴色だ。
 演武場の中程に、指揮を取る涼景の姿が見えた。
 掛け声や剣戟の音の重なる中でも、涼景の指示する声はよく通った。
 犀星の姿を見て、何人かが動きを止めた。それに気づき、涼景は犀星を見つけた。
「涼景」
 犀星は、周囲の兵具棚のあたりから声をかけた。
「星……」
 と、涼景の口が動く。だが、ここは公の場所である。
「歌仙様、いかがなさいました?」
 表情を改め、涼景は大股に近づいてくると、声を低めた。衛士の手前、一応の礼儀を尽くしてくれるが、犀星のほうにはその余裕がない。
「話せるか」
 距離を詰めて、犀星は短く言った。声が上擦っている。涼景は友の焦燥を察した。
「ここまでいらしたのに、話せません、とはいかないでしょう」
 部下たちに次の指示を出すと、犀星に向かって、ついてこい、と手をあげる。
 演武場に面する簡素な引き戸は、涼景が隊長に就任してから設置したものだ。その戸を入ると、すぐに廊下の左手に涼景の私室を兼ねた作戦室がある。雪を払うための麻布を踏み、中へ入る。
 東向きのその部屋は、日差しが差し込んで明るかった。
 大きな几案の上には、何枚かの布製の地図が広げられ、脇には今月の警備の作戦書や、人員の名簿が積まれている。壁際には茶器と炭を入れた火鉢があった。
「座れ」
 涼景はふたりきりになると、途端にいつもの口調になる。
 犀星は交椅のひとつを引き寄せ、几案の前に座った。
 涼景は手早く茶を入れ、湯呑みと急須を犀星の前に並べた。
「まずは、一杯飲んでおけ」
「いらない」
「気持ちが落ち着く」
「いらない」
 犀星は意地を張って、しまいには口元に手を当てて拒絶する。
 涼景はため息をついた。
「悪いが、手短に頼む。今月は天輝殿の警備で暇がない」
「…………」
 わざと引き伸ばしているのか、と思われるほど犀星は黙った。こういう時は、焦らせてもだめだと、涼景は長年の付き合いで学んでいた。腰をすえる必要があった。自分も一口、茶を含む。
「それで、どうした? ……ゆっくりでいいぞ」
 犀星はすぐに話し出さない。その目はわずかに血走り、息遣いは浅く、早い。沈黙は、犀星が自分の動揺を収めるための時間だ。
「何があったか、順番に」
 落ち着いた声で涼景は言った。
「ああ」
 と、短く答えて、犀星は一呼吸し、かすかに震えた声で話し始めた。
「今朝、五亨庵で火を焚いた。お前がこの前、持ってきた薪で」
「……ああ、あれか」
 涼景は、意味ありげに笑みを浮かべた。犀星の目がピクリと動く。
「あれは、どこを潰したものだ?」
「気になるか?」
 涼景がくるりと目を動かして、机上に広げられた地図の一枚を選び出す。
「ここだ」
 と、指先で地図を叩く。かつて、指揮官が殺された、いわくつきの矢倉だ。
「西門……だと?」
 犀星のこめかみが動く。明らかに怒っているのがよくわかる。
「お前、どういうつもりで……」
「そんな顔をするな」
 涼景はなだめるように、
「他より少々痛みが激しくてな。おまえならば気にせずに使ってくれるだろう、と踏んだのだが……」
「…………」
「なんだ、使い物にならなくて、文句を言いにきたのか?」
 犀星は真顔のまま、じっと地図を睨みつけていた。
「星?」
「その薪の中に……焼印があった」
 涼景の顔色が変わる。
「焼印……花街の?」
「そうだ」
 ことの深刻さが、涼景にも伝わった。部屋の空気が瞬時に緊迫する。
「それで、その薪は?」
「燃えた」
 投げやりな口調で犀星が言った。うめくような声が涼景の口をついた。
「……それで、他には」
「?」
「だから……焼印が残された薪は、一つだけだったのか?」
「……!」
 犀星は目を見開き、今気づいた、という顔をする。涼景は思わず頭を抱えた。
「おまえらしくない。いくら頭に血がのぼっていても、それくらい冷静になれよ」
 涼景の嘆きはもっともだった。
 犀星は思わず腰を浮かせた。
「今、見てくる!」
「おい!」
 どうしてこうも、極端なのだ?
 涼景は呆れ返った。
「いいから、座れ」
「だが……」
「座れ」
 つとめて、静かに、涼景は繰り返した。しぶしぶ、犀星が腰を下ろす。
「星。このこと、他に誰が知ってる?」
「……陽は気づいている。あいつが見つけたから」
 腕を組んで、涼景はうなった。
「それなら、心配ない。玲陽は五亨庵にいるんだろう? あいつのことだ。お前が血相変えて飛び出した原因くらいわかる。もし他に同じものがあったら、燃やさずに取っておくはずだ」
 犀星は涼景の説明を聞いて、小さく頷いた。普段の犀星であれば、容易にわかることだった。
 涼景は、まいったな、という顔をした。
「どうしたら、そこまで動揺できるんだ?」
「……すまない」
「相変わらず、陽が絡むと……」
 と、涼景も愚痴が出る。
 犀星も十分に反省している顔だが、それでも落ち着きがまだ戻らない。
 涼景は、手をつけていない犀星の湯呑みを見た。
「まぁ、茶でも飲んで……」
「あの矢倉は、落ちてなかったよな」
 涼景を遮って、犀星が言った。昔の記憶をたどる。
「ああ、落ちていない。指揮官を失ったが、すぐに立て直した」
「……だとしたら、外部の者に、焼印を仕込む暇はなかったよな?」
「ない」
 涼景はきっぱりと言い、さらに続けた。
「矢倉があったのは中央区だ。よそからの出入りはできない」
 つまり、と、二人の思考は、同じ道をたどり、一つの答えを導く。犀星が言った。
「犯人は宮中の人間」
 涼景も頷いた。
「だとしたら、限られてくるぞ」
 涼景は少しずつ状況を整理した。あらゆる可能性を考慮し、必要なものを拾い、余計なものを排除する。犀星も涼景の思考に寄り添う。
「涼景、宮中の者が、陽と花街を狙う理由があるとしたら?」
「安易に決めつけることはできないが……」
 と、涼景はゆっくりと、
「その二つの接点は、一つだけだ」
 犀星が、嫌な予感がする、と言いたげな顔で、涼景を見る。
「残念だが……」
 涼景は言葉を選びながら、
「犯人の狙いはおまえ、だ。それも、直接危害を加えるのではなく、精神的に追い詰めるつもりだろう」
「まんまと、はまってるな……」
 犀星は反論のしようがなかった。自分は完全に動揺し、ここまで来てしまった。
「だが、そうだとしたら、時間軸が気になる」
 涼景は指先で、コツコツと机の上を叩く。
「お前が治水工事で縁を深め、花街を大事にしていることは、皆が知っている。花街が狙われてもおかしくはない」
 犀星が悔しそうに口を歪めた。
「こんな形で利用されるとは……」
「それが、人間の闇ってもんだ……だが、それより、もう一方が問題だ」
 涼景は、一層慎重になって、
「陽の傷は古い。おそらく、砦に入れられて間もない頃だろう……その頃に、おまえと陽の関係について知っていた者は?」
「そう言われても……調べればわかることだ」
「だが、単に調べただけでは、一緒に育った従兄弟、という情報しか出てこないはずだ」
 涼景は首を振った。
「おまえがそこまで執着する、という確証がない相手に、わざわざ手の込んだことをするとは考えにくい……おまえ、陽に文を書いてたな?」
 犀星はぞっとした。涼景が言わんとしていることがよくわかった。だが、聞きたくはない。聞きたくはないが、今は受け入れるしかない。
「お前が陽のことをどれだけ思っていたか、あの文はいわば証拠。そして、それを知っていた人間……あるいは、その人間から情報を知り得るのは……」
 犀星は、長い沈黙の末に、口を開いた。
「天輝殿……」
「そして……」
「あいつは悪くない!」
 とっさに犀星は叫んだ。涼景が、ぐっと眉間にしわを寄せる。
「落ち着け。今は、誰が悪いかって話じゃない。この状況をどう解釈するか、だ」
 涼景はいたって冷静に続けた。
「とにかく、一つの可能性だ。まだ決め手はない」
 犀星は両膝を握りしめた。感情のやり場がなく、また、呼吸が荒くなる。その様子に、涼景までが苦しくなる。
「これ以上、被害が出ないよう、俺たちは花街を見張る。お前は、万が一に備えて、しばらく、五亨庵を離れるな」
 犀星はうなずいた。
「ところで、星」
 涼景が改まって言った。
「陽の火傷……あれをつけた相手について、聞いたか?」
 犀星は首を横に振った。
「体の傷のことは、あいつが話さない限り、俺から聞くつもりはない」
「……そろそろ限界だと思うぞ」
 涼景は一瞬、顔を歪めて、
「花街の事件は、もう市場でも噂になっているだろ。背中に火傷、という自分との共通点、そしておまえがこれほど取り乱した、薪についた印影。玲陽ならば……」
「今日、話す」
 犀星は、きっぱりと言った。そして、目の前に置かれたままだった茶を飲み干した。
 わずかに潤んだような目で、じっと涼景を見る。
「涼景、頼みがある」
 涼景は目を開いた。どこか、嬉しげな色が滲んでいる。なんでも言え、というように、涼景は口を緩めた。
 犀星は少し声を低めて、目をそらし、
「あと一杯、欲しい。いや、二杯……」
 涼景は黙って、冷めた茶を注いでやった。

 いつからか、玲陽は記憶がなかった。
 東雨と緑権と三人で、話をしていたことは覚えている。その後しだいに体が重くなり、眠気が増して、そのまま今に至る。
 見覚えのある小さな部屋に、一人で眠っていた。部屋の入り口には、白色の絹の帳が揺れている。視界の隅には火鉢があり、優しい熱が部屋の中をゆっくりと巡っているのが感じられた。
 五亨庵の、犀星の寝室だ。
 全身がだるく、指も動かない。腹に重たい石が詰められ、少しずつ牀に沈み込んでいくようだ。呼吸はできるが、声は出ない。息を吐くと、長く細くかすかに音が漏れた。
 空気は明度を落としている。もしかすると日暮れが近いのかもしれない。時間の感覚がなかった。
 帳の向こう、遠い世界のような広間の声に、玲陽は目を閉じて耳をすませた。
 無意識に探していたのは、犀星の声。けれど、いつまで待っても、その響きがない。
 涼景のところへ行くと、犀星は言っていた。
 会いたい……
 犀星を思った時、玲陽の中で何かが震えた。
 喉が渇く。
 それは、水を求めたのではない。
 自分が欲しているのは、命だ。
 久しぶりに傀儡喰らいをした。緑権の無事な様子にほっとしたが、体の疲労は相当だった。心もすり減っている。
 疲れた、と玲陽は思った。そしてまた、喉が渇いた、と感じた。
 犀星が欲しい。
 そんな想像をして、玲陽は全身の熱が一点に集まるように、体をぎゅっと縮めた。
 そうか……そういうことか……っ!
 目を閉じたまま、玲陽は顔を歪めた。
 かつて砦にいた頃、傀儡喰らいの後には、必ず滝の水を飲んだ。あの滝は霊水だった。体を清めるだけではなく、自分の力を補うためでもあった。
 けれど、ここにはその水がない。自分の渇きを癒してくれる、あの滝の水が。
 代わりのものが必要だった。生きていくために。
 代わり……それは綺麗事では済まされない、ありのままの命……
 それが何であるのか、玲陽は知っている。
 だが、求めるにはあまりにも心の葛藤が大きすぎる。
 ずっと、乾いていたのかもしれない。砦を離れてから、ずっとだ。
 傀儡喰らいで大きな力を失い、その渇きが一気に顕在化した。
 通常の疲労であれば、食事と睡眠で癒やされるかもしれない。だが、玲陽のそれは肉体の疲れではない。どれほど休息を取ろうとも、満たされることはない。
 このままでは、本当に……
 玲陽は初めて、自分が砦で、生かされていたのだということを思い知った。
 あの場所は玲陽にとって悪夢であったはずなのに、同時に、唯一生きることを許された場所でもあった。
 もしこのまま都に留まるのならば、選ばねばならない。
 葛藤を越えて掴み取る、生か。
 穏やかに忍び寄って堕ちていく、死か。
 深く体が沈む感覚が続く。苦しくはない。だが、力が戻ることもなかった。
 この身はどこまで、呪われているのだろう……
 玲陽は震えていた。
 ずっと同じ姿勢でいたため、下にした左の腕がしびれている。
 玲陽は首をねじって、体を仰向けに倒した。背中に鈍い痛みがある。これはもう、生涯、離れない痛みだと、覚悟している。心臓の裏側あたりの、重度の火傷。こうして仰向けに寝転ぶと、痛みとむず痒さで、じっとしているのも辛い。
 玲陽はゆっくりと、右腕を下にして体を横たえた。部屋の入り口に背を向ける。
 その時、一際大きな東雨の声が聞こえた。
 ガタン、と扉が閉まる音がした。つづいて、小走りに駆け寄ってくる足音、さっと帳の絹が払われる微かな音、そして……
「陽!」
 ああ!
 玲陽は短く声が出た気がした。
 この声を、待っていた。
 玲陽の心が、生きようとする意思が、待ち望んでいた。
 一瞬で体から重さが消えて、玲陽は深く息を吸った。
 その肩に、ひやりとする手が乗せられた。優しい力で少しだけ上向きにされる。
「どうした、何があった?」
 走ってきたのだろうか。犀星の息が少し乱れている。
 玲陽はうまく笑えなかった。犀星は首を横に振った。
「いや、いい」
 そう言って、玲陽を包んでいた褥の乱れを治し、添い寝するように、牀に座る。
 玲陽はされるに任せて身を預けた。力をぬいても、背中の傷が痛まないよう、犀星が自分の胸で支えてくれている。この安心感が、玲陽を救ってくれる。
 何度か深呼吸をし、気持ちを整える。
「星……」
 玲陽の指が何かを求めるように震えた。犀星はそっと腕を伸ばし、玲陽を抱くようにしてその手を重ねる。
「すまない、冷たいだろう」
「……はい」
 玲陽の唇に、やっと、かすかな緩みが見られた。
「でも、いい……」
 玲陽は手首を返して指を絡めた。
「星……」
「うん?」
「……お話し、したいことがあります」
 玲陽は、できる限り感情を抑えて言った。犀星が頷く気配があった。
「うん。俺も、おまえに話がある」
 触れ合った肩から、犀星の声の震えが伝わってきた。玲陽は少し視線をゆらめかせ、
「では、あなたから先に話してください」
「俺から?」
「はい」
 目の前でつながる指を見つめ、玲陽は頷いた。
「あなたの方が、少しだけ、兄様なのだから」
「……こんな時に、ずるいな、その言い方は」
 犀星の声は、いつもより少し低く、甘い。耳元で囁かれるせいか、やけに心を震わせる。
 玲陽はそっと、絡めた指に力を込めた。より深く噛み合って、自分より少し大きな犀星の手に包まれる。
「もしかしたら、陽はもう、気づいているかもしれないが……」
 玲陽は黙って微動だにしない。
「花街で続いている、事件のこと」
「……火傷?」
「ああ」
 犀星は、繋いだ手を引いて、玲陽を抱き寄せた。
「その火傷の痕と同じ形が、今朝、燃やした薪に残されていた」
「……そう、でしたか」
「……陽の、背中にも」
 玲陽の指先は動かなかった。まるで、その言葉を予想していたように、静かに受け止めた。
 犀星は、長く沈黙した。それは、玲陽の答えを待つようでもあり、また、次に言うべき言葉を探すようでもあった。
 沈黙を破ったのは、玲陽だった。
「話してくれて、嬉しいです」
 犀星の腕が、より強く抱く。
「……俺のせいかもしれない」
「……え?」
「陽も、花街の者たちも、俺のせいで傷つけられたのかもしれない」
「……そう、ですか。わかりました」
 玲陽は、否定することなく、頷いた。かすかに、犀星が震えた。それを、玲陽は敏感に捉えた。
「私に、違う、と言って欲しかったですか?」
「…………」
「あなたのせいじゃない、って」
 犀星の胸に、失望とも恐れともしれない感情が広がる。玲陽はそれを見透かしていた。
「私が否定しても、あなたは救われない」
 玲陽の目が、大きく動いて犀星を見た。その琥珀の輝きの中に、狂気にも似た熱が宿っていた。
「どうせ傷つくなら、一緒に傷ついてください。その方が、私は救われるから」
 黙ったまま、犀星は玲陽を見つめていた。
 どこかで、自分が許されることを期待していたと、気付かされる。それは甘えだ。玲陽が受けた痛みは、そんな軽いものではない。ならば、最後まで添い遂げる。痛みもすべて共に味わえばいい。
「わかった」
 犀星のつぶやきは、小さな誓いのようだった。
「おまえも、今以上に傷つくことになる。それでも、いいか?」
「望むところ」
 そう言って、玲陽は目を細め、微かに笑う。それはあまりに美しく、強い。
 玲陽のしなやかさは、時に犀星の想像を超える。
 これだから、俺はこの人に惹かれてたまらない。
 犀星は意を決した。
「ならば、答えてほしい。おまえのこの傷、いつ、誰にやられた?」
 玲陽は静かに目を伏せた。そして、まるで答えを用意していたかのように、なめらかに言葉を紡いだ。
「あの砦に入って、半年ほどしたころ。相手は、私より少し年上の男性。本名はわかりませんが『若君』と呼ばれていました」
「顔は?」
面纱めんしゃで隠していて、目元しか見ていません。目の色は……」
 玲陽はそこで、一度、言葉を切った。
「あなたと、同じ色」
 玲陽の告白に、犀星は息を呑んだ。その動揺をなだめるように、玲陽は犀星の手に口付けた。
「大丈夫、私も怖いです」
 そう言われて、犀星は自分が恐怖を感じていることに気づいた。たまらなくなり、玲陽の髪に顔をすり寄せる。その甘えを、玲陽は受け入れた。
「おまえは……」
 犀星は声が詰まった。どんな思いで、玲陽は今までその秘密を封じてきたのだろう。
 犀星の息遣いを聞きながら、玲陽は目を閉じた。
 重ねた手が、互いの熱ですっかり溶け合っていた。
「星、次は私が話す番です」
 玲陽は、そっと話しかけた。
「……傀儡を喰らいました」
 犀星の体が大きく動く。玲陽を覗き込んだ犀星の顔には、悲しみとも労りともつかぬ感情が滲んでいた。玲陽は、目元を緩め、
「心配ありません。ちゃんと、浄化できましたから」
「……俺が、おまえを一人にしたから……」
「そう、これも、あなたのせいです」
 玲陽は、軽い口調で、
「おかげで、本当に疲れてしまいました。本当に……死んでしまうんじゃないかってくらいに」
 口調は優しくても、決して冗談ではないのだと、その青白い頬が物語っている。
「だからね」
 玲陽の目が、揺るぎなく犀星をとらえた。
「あなたの、命を、わけてください」
 ふっと、犀星が息を止めるのがわかった。
「乾きを……満たしてください」
 言って、玲陽は犀星の首に腕を回した。背中の傷が痛むのもいとわず、その体を自分の上に引き寄せた。二人を隔てる、褥も着物も邪魔だと感じる。
 薄い帳の向こうでは、東雨と緑権の動く気配がある。ここから先へ進むのなら、気づかれない覚悟が必要だった。
 玲陽は息を殺して犀星の喉に口付け、甘く噛む。まるで、何かをせがみ、うながすように。
 その想いは、犀星にしっかりと届いていた。
「どうすればいい?」
 囁きが、玲陽の耳に触れる。玲陽は一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた。まつげの下で、瞳が震える。
「じっと、していてください」
 犀星がしっかりと頷くのを確かめて、玲陽は体を起こした。ゆっくりと、迷いはなく。
 犀星を牀の上に座らせ、壁に背をもたれさせる。楽にしていて、と、額に口付けた。それから正面にまわり、犀星の脚の間に座る。玲陽に任せて、犀星は流された。ただ、その手は常に玲陽の体のどこかに触れ、撫でるように動く。
 玲陽が何を望んでいるか、犀星は察していた。玲陽が歌仙で生きながらえた力の源を、忘れたことはない。それを与えることができるのは、玲家の血を引く自分だけだ。犀星の目は揺るがない。戸惑いも躊躇いも、玲陽の命のためならば容易に投げ出せた。
 ただ、微かに感じるのは、痛み。それは犀星のものではなく、玲陽から流れ込んでくる感情だった。触れる手のひらから、震えるように沁みてくる。
 こんな形で、触れたくなかったのに……
 その悲しい思いを溶かすように、犀星は玲陽を覗き込み、額を寄せた。
 玲陽の指がそっと、犀星の唇に触れた。見つめ合う。
 そっと微笑み、犀星はその指先をやさしくついばんだ。玲陽の顔がほころぶ。
 玲陽は指先で、犀星の頬を撫で、顎から喉を通って、襟を辿る。襦袢と肌の間にそっと差し入れ、温もりを感じる。犀星は目を細め、静かに玲陽を見つめていた。
 枕元の香炉から、白檀の香りが強く漂ってきた。二人はそれを同時に吸い込み、呼吸を合わせた。ここから先、はぐれることがないように。
 もう一度、互いの眼差しを味わうように目をかわす。犀星が小さく頷いた。それを合図に、玲陽は顔を伏せる。犀星は褥を引き寄せ、柔らかに玲陽を包み込んだ。背を丸め、頭を抱き寄せて髪に指を通す。
 玲陽の熱が、優しく触れた。
 それは刹那の出来事。
 犀星の指の震えも、息の深さも、玲陽と重なってつながっていく。犀星は、大きく息を吸った。玲陽が身を低め、ふたりの体が静かに溶け合う。一瞬、時が止まる。
 犀星は唇を震わせ、一息に吐き出した。心音に合わせて、短く吐息を刻む。玲陽の喉が動いて、肩から力が抜けた。
 弛緩が二人を満たし、気づけば互いにもたれて目を閉じていた。
 やがて、玲陽がそっと、上目遣いに犀星を見た。その目は潤んで、小さな炎が揺れるように輝いている。
 確かに灯る、命の灯だ。
 犀星はまだぼんやりとしながら、その目を見返し、指で口付ける。玲陽は黙ってそれを、甘く噛んだ。
 互いの目線に引き寄せられて、顔が近づく。額が重なる。触れ合う吐息が暖かかった。
 今、二人は一つの命だった。
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