新月の光

恵あかり

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第二部 紅陽(完結)

16 命の代償

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 昼近く、東雨は市場より少し南の道を歩いていた。
 日差しに息は白く煙って、真冬の寒さが身に染みる。昨夜も遅くまで雪が降っていた。今朝はすっきりと晴れていたが、冬に青空が見える日はとても寒いということを、東雨はよく知っていた。
 寒さで耳が痛くなる。時々手で温めてみるのだが、あまり効果がない。いつしか、もう気にしないようにした。
 人通りが少なく、雪のない季節よりも閑散としていたが、穏やかで、どこか懐かしい。雪遊びをしている子供達の一団が、東雨の脇をじゃれあいながら過ぎていった。
 あんなふうに遊んだことはなかった。
 東雨は、明るい声がきらきら光っているように見えた。
 少しずつ気温が緩む時刻である。人々は買い物に出て、道端で世間話をするだろう。きっとまた、花街の事件の話も出る。東雨はあの話を聞くと、右脚が痛くなる気がした。
 東雨は、毛氈で包んだ荷物を胸に抱いていた。それは東雨の体温を吸って、じんわりと暖かい。けれど、東雨は知っている。どんなに温めても、取り返せないものがあるということを。
 平屋が連なる道を抜けて、突き当たりの角を曲がる。そこにはこじんまりとした庵が一つ、周囲の建物とは違う厳かな雰囲気で建っていた。他の家々よりも軒が深く、雪や雨を避ける工夫があった。門や前の通りまで、きちんと雪かきをした道ができている。誰でもすぐに駆け込めるように、安珠が毎朝、丁寧に雪をよけている。
 門をくぐって、軒下に一歩入り、東雨は引き戸の前で声をかけた。
「すみません。五亨庵の東雨です」
 そう言ってから、五亨庵、という肩書きは要らなかったかな、と思い直した。宮中でどこかを訪ねる時はそのように挨拶するのだが、安珠には必要ないだろう。
「今、開ける」
 中でごそごそと音がして、聞き慣れた声が答えた。
 東雨は少し緊張して、包みを大切に抱き、待っていた。引き戸が開き、木綿の綿入れを着込んだ安珠が、優しい顔をのぞかせた。
「東雨、よく来たな。どうした」
 安珠は東雨の姿を素早く見た。怪我をしている様子はない。具合が悪そうでもない。とりあえずほっとする。
「歌仙様に何かあったか」
 東雨は首を横に振った。安珠は重ねて安心した。
「寒かったろう。温まるものでも出そう」
 と、嬉しいことを言ってくれる。
「はい」
 行儀よく返事をし、
「ありがとうございます」
 と、家に上がる。
 安珠の診療所は小さく、暖かかった。部屋は二つしかない。
 手前は、安珠が生活している部屋で、すみに土間があり、竈がある。横の小さな勝手口の先には井戸がある。
 部屋の真ん中には、火鉢が置かれていた。小さく頼りなくも見えたが、このこじんまりとした診療所を温めるには十分だった。
 奥の部屋は、患者が休むために用意されている。東雨も腹が痛くなったときに、何日か泊まったことがある。犀星と離れるのは心細かったが、いつも安珠がそばにいてくれた。東雨に家族はないが、もし祖父がいたらこんな感じなのではないかと思った。あの頃から、安珠は歳をとっていないように見える。
 生姜湯の湯呑みを差し出して、安珠は優しく尋ねた。東雨は、そっと湯気の香りをかいだ。一口飲む。冷えた体が内側から、じん、と温まる。
「これ、本当にあったかい」
 両手で湯呑みを包むと、かじかんだ指先にまでぬくもりが沁みた。
「よければ、分けてやろう」
 気前よく、安珠は箪笥から甘草の包みを取り出し、東雨に渡してくれた。
「すりおろした生姜と一緒に飲めば、風邪予防になる」
「助かります。光理様が風邪を引いたら、国が傾くので」
「……それはどういう?」
 と、安珠は、少し考えてから、膝を打った。玲陽の看病で、他が手につかない犀星の姿が思い描けた。
「なるほど!」
「でしょう?」
 東雨は、少し寂しそうに笑った。
「それはそうと、今日は何用だ?」
「実は、見ていただきたいものがあって来ました」
 そっと、膝の上に乗せていた包みを手に取った。それから、安珠の顔を覗いて、どんな反応するだろうと、注意深く観察しながら、包みを開いた。
 中を見た安珠は、ぽかんとした。
「……これを?」
「はい……」
 東雨の手の中には、一羽の鳩の死骸があった。
 東雨はここに来るまでの今日、一日の出来事を、順番に話して聞かせた……

 やはり玲陽の教え方はうまかった。
 東雨が秘府から借りてきた詩集を読んで、玲陽は詩をひとつひとつ、竹簡に転写した。さらにその裏に、一行ずつ、読み方と意味を添えてくれた。
 東雨はその竹簡を見ながら、声に出してみた。意味を読み、それがどんなことを伝えたいのか、必死に想像を巡らす。
 はじめは、意味を読めば内容がわかると思っていたのだが、そう簡単ではなかった。詩には裏がある。書かれている言葉の奥に、別の意味が隠されていることがある。
 東雨はひとつの詩を手に取った。たどたどしく、声に出して読み上げる。
「水月、孤心を映し、花霞、言を尋ぬるに難し。燈焔、黙して燃ゆ。静目、久しく君を望む。……なんだか、よくわかりません」
 玲陽は首をかしげて、
「この水月……水に映った月は、自分の心に宿っている、大切な人のこと、です」
「水に映った月、が?」
 東雨は首を傾げた。
「どうして?」
「解釈にもよりますが、水に映った月は、どんなに美しくても、触れることはできないでしょう?」
「たしかに……」
「その人のことが偲ばれて偲ばれてたまらないけれど、手を伸ばしても触れられない面影…… 水面に映っているので、風が吹けば、その月は揺れるかもしれない。そんな儚さまでが感じられます」
 玲陽は今、自分の心に月が映っている、という顔で、目を閉じて言葉を噛み締めている。
 東雨は難しい顔をして腕を組んだ。
「例える……水月は、好きな人のことか」
 玲陽はぴくっと目元を動かした。
「では、この続きの花霞……花霞のように美しい?」
「そう、美し過ぎて、言葉で表そうとしても追いつかないほど……」
 玲陽はそっと、自分の肩を抱いた。
 東雨は頷きながら、竹簡の文字を辿った。
「火は静かに燃えていて……」
「ずっとあなたを思い続けている」
 玲陽は、ぽっと頬を染めた。
「俺も、作ってみたいです!」
 東雨は目を輝かせた。それがあまりに素直に見えて、玲陽は小さく嬉しそうな声を上げた。
「素敵です。ぜひ」
「どうすればいいですか?」
 期待を込めた大きな目に、玲陽は少し緊張した。これは、責任重大である。
「そうですね……」
 玲陽は戸惑った。読み解くことは得意だが、作った経験はほぼなかった。昔、犀星と競い合って言葉遊びをした程度である。
 その様子をじっと見ていた犀星が、突然、口を開いた。
「目に見えるものを、呼んでみるのはどうだ?」
「え?」
 五亨庵中の視線が、犀星に集まった。面食らったように、犀星は視線を泳がせた。そして、何も言わなかった、という顔で書類に戻った。
「それ、いいかもしれません」
 東雨が言った。
「やっぱり、直接自分の目で見て、聞いて、感じたことじゃないと!」
「すごいです。やってみてください」
 玲陽が賛成する。
「はい!」
 東雨は張り切った。
 周りを見て、
「それじゃ……几案!」
 と指を指す。
「几案……ここから、どんな詩が?」
 玲陽は、楽しそうに東雨を見つめた。
「え?」
 東雨は、何も考えていない。
「ああ、やっぱり、これはやめます」
 と、別のものを探し始める。広間をうろうろしながら、指差してあれこれと呼んでみる。
「まるで、言葉を覚え始めた子供ですね」
 緑権が、茶をすすりながらぼそっと言った。
「謀児様、邪魔しないでください」
 東雨は真剣だ。
「湯呑み」
「え?」
 緑権は自分の手の中を見た。
「小筆」
 几案の上に散らばっている。
「毛氈」
 寒がりな緑権の必需品だ。
「巾!」
 緑権はとっさに、頭を抑えた。東雨はにやりとした。
「謀児様、今、頭を抑えたのはどのような心境ですか!」
「巾を取られるかと思ったので……」
「どうして取られると思ったんですか?」
「だって、そんな力一杯指差して呼ばれたら、びっくりするじゃないですか」
 木簡を巻き取りながら、慈圓が、
「東雨、もう少し、価値のあるものを呼べ」
「ちょっと、それ、酷くないですか?」
 緑権が泣きそうだ。
「そうですね」
「東雨まで!」
 もう、泣いていた。
「それでは……」
 東雨は注意深く、五亨庵の中を見まわした。
「価値のあるもの……あ」
 ぴたっと、東雨の目線が止まった。皆が、その視線の先を追う。
 犀星がいた。こちらには気づかず、黙々と書類を書いている。その姿は凛と澄んで、また、美しかった。
「水月……」
 東雨は思わず呟き、頬を染めた。
 玲陽が照れたように、袖で口元を覆った。
「やっぱりここじゃだめです」
 慌てて、東雨は首を振った。
「雑念が多過ぎます」
「東雨の口からそんな言葉が出てくるとは……」
 と、慈圓が苦笑した。馬鹿にされてるような気がして、東雨は膨れた。
「今、すごい傑作を作ってきますから、待っていてください」
 そう言うと肩掛けを羽織り、一度、炉で手を温めてから中庭に出た。玲陽が小さく、頑張ってください、と、つぶやくのが聞こえた。
 中庭は一面真っ白く、平らだった。
 最近は薪割りをしていないため、どこにも踏み荒らされた跡がない。
 東雨は、入り口に立ったまま見まわした。雪は表面が硬く凍っている。踏めばざくりと音がする。
「雪」
 東雨はつぶやいた。それから、次々に目についたものを呼んでみる。
「木戸、薪、石、枯れ草、足跡、空、雲……ああ、寒い! ……桂、金木犀……」
 そこまで言って東雨の表情が、冬の景色のように色褪せた。
 来年の秋、ここに咲く金木犀で、光理様に香袋を作る。
 その約束を思い出した。
「来年の秋……」
 東雨は声に出した。
「この桂の木に、金木犀が咲く頃、俺はもう、この場所にいない……」
 急に世界が遠のいた。風がそっと東雨の髪を撫でて、冬の香りを届けてくる。金木犀の匂いはしない。東雨は、そっと袖の中の小袋を嗅いだ。少し胸の中が暖かくなる気がした。
 それから、もう一度景色を見て、続けた。
「楓の木、枯葉、落ち葉、紅葉……」
 ふと目を落とす。
 もう、ずいぶん昔に思える。
 初めて五亨庵に来た日に、玲陽がそっと並べていた葉が、今はもうすっかり埋もれて見えない。けれど、雪の中で、確かにあの葉は今も、輝いているのだろうと思った。
 あの時の玲陽の言葉は、忘れてはいない。
『命の終わりに、葉が輝く』
 命の終わりが来た時、自分は最後まで紅葉のように輝いていたい。誰かの心に残れるほどに。
 東雨は、空を見上げた。鳥が数羽、横切っていった。
「鳥……」
 その時、ざざっという音がして、桂の向こうで何かが動いた。
 野生の動物でも迷い込んだのだろうか。
 東雨は首を伸ばして、奥を覗いた。
 雪の上に、見慣れない、灰色の塊があった。
 東雨は一歩ずつ近づいた。踏み出すごとに、膝まで雪に埋もれる。ゆっくりと進む。
 鳥……鳩だ。
 東雨が近づいても、鳩は動かない。手を伸ばしたとき、突然バタバタと跳ねて、雪の上を滑った。東雨はびっくりして、思わず腰を引いた。深い雪が支えになって転ばなかったが、少し危なかった。
 こんなに間近で鳩を見るなんて、初めてだ。
 東雨は、息をひそめ、また手を伸ばした。鳩は片方の翼を広げたまま横倒しになっている。
 顔が見えた。目は黒く開かれたままだ。
「……生きてるよね」
 注意深く両手を差し出す。そして、そっと鳩の胴体を包んだ。それはとても柔らかく綿のようだ。そして軽かった。引き寄せ、持ち上げると、伸ばされた羽根がだらりと垂れる。
「怪我をしてる……」
 そういえば……
 昔、犀星と狩に出かけた時、雛鳥が巣から落ちていたことがあった。
 見上げると、東雨でも登れそうな場所に、小枝を集めた巣があった。東雨は何も考えずに鳥に手を伸ばした。それを犀星が止めた。
「見てみろ」
 犀星は脇の茂みを示した。一匹の細い狐が、じっとこちらを見ていた。酷く痩せて、あばらが浮いていた。
 どうする? と、犀星は東雨に目を向けた。東雨は差し出していた手を下ろし、首を横に振った……
「どうしよう……拾っちゃた」
 そのまま雪の上に置いておくのはしのびなく、東雨は裏口に向いた。
 両手が鳩でふさがっていたので、歩くのにはずいぶん苦労した。詩を作ることは、とっくに頭から消えていた。
「もう、できたんですか?」
 中庭から戻ってきた東雨に、緑権が真っ先に声をかけた。
 東雨はその声が聞こえていないように、足早に広間を横切ると、薪が燃える炉の前に座った。自分の長榻を脱ぎ、畳んで床に敷く。その上に、そっと、鳩を下ろした。手をかざして、熱すぎはしないか、と距離をはかる。
 無視された緑権が、東雨の後ろから近づいてきた。
「あれ、鳩?」
「拾ってしまいました」
 東雨は、困ったように言った。
 緑権は、興味津々に覗き込んで、
「鶏と同じやり方でいいんですか?」
「え?」
「だって、食べるんでしょ」
「え!」
 東雨は悲しい顔で、緑権を振り返った。
「焼きます? 鍋にします? 私は鍋の方がいいです。ネギや生姜と一緒に煮込むと、肺や腎臓によくて……」
「ダメです」
 東雨は思わず叫んだ。声に驚いて、玲陽と犀星が顔を見合わせた。
 緑権は首をひねって、
「では、いいです。焼き鳥で」
「それもダメです!」
 犀星が、席を立って様子を見にきた。
 片羽根を伸ばして置かれている鳩を見つけて、眉を寄せる。東雨はさっと、犀星から顔を背けた。
「翼が折れているな」
 犀星は、鳩の左の翼を探った。
「……爪痕がある。猫にでもやられたか」
「……ごめんなさい」
 東雨は鳩を見つめたまま、
「拾っちゃいけない、って知ってたんですけど、気づいたら拾ってました」
 と、幼い言い訳をした。
 犀星はそれには答えず、ただじっと東雨を見つめた。
「温めてやれ」
 意外な言葉に、東雨は驚いて振り返った。玲陽がすでに、箪笥の引き出しを一つ開けて、東雨に差し出していた。
「これを使え」
 慈圓が、橙色の毛氈を、引き出しの中に敷いた。
「あ、それ、私の……」
 緑権の抗議は、慈圓の一睨みで封じられた。
「ありがとうございます」
 東雨は、皆の顔を順に見た。
 東雨のよく動く細い指が、丁寧に鳩をささえ、引き出しの中におさめる。
 緑権は、まだ鳩肉に未練があるようだったが、さすがに犀星が出てきた以上、料理の提案は差し控えた。反対に、怪我の様子を尋ねる。玲陽が、少し言葉を選びながら、
「少し、難しいと思います」
 と、控えめに言った。
「鳩は小さくて、体のつくりもよくわからないですし……」
「それがわかったら、助けられますか?」
 東雨が、玲陽を見つめた。玲陽は素直に首を横に振った。
「ごめんなさい、私には……」
「……いえ、いいんです」
 東雨は、もうその場を動くつもりがないようで、鳩の引き出しの前に膝を抱えて座り込んだ。
 それから間も無く、鳩は息を引き取った。最後に強く不規則に羽ばたき、飛ぼうとするように暴れたが、胸が何度か伸縮し、そして、静かになった。
 涙こそ流さなかったが、東雨はその冷たい脚と嘴を自分の手で包み、温めながら、ずっと座っていた。
 羽毛に包まれた体は、手で温めればまだ生きているように温みをもつ。
「東雨、大丈夫ですかね」
 緑権は、まだ少し、鳩の行く末を気にしていた。横目で緑権を見ていた慈圓が、やれやれという顔で立ち上がった。ちらりと犀星に目を向ける。何かを察したように、犀星は頷いた。そのやりとりを、玲陽がさらに見守っている。
「東雨」
 呼ばれて、東雨は顔を上げた。
 慈圓は、一呼吸置いてから、
「その鳩を、どうする?」
「どうするって……?」
「たとえば……墓を作って埋めてやる、とか?」
「ああ、そういうことですか」
 東雨は、じっと鳩を見た。
「考えていたんです。この鳩が、最後まで輝くには、どうしたらいいか……」
 東雨の言葉に、慈圓は口角を上げた。
「ほう。それで、案は浮かんだか?」
 東雨は鳩の羽を、震える指先で撫でた。
「一つは……焼いて食べること」
 焼くのか……
 緑権が少し残念そうに横を向いた。
「次に、野外に置いてほかの獣に食べてもらうこと」
 犀星が、ふっと目を逸らした。
「次に、木の根本に埋めて、土に返すこと」
 玲陽も俯いた。
「それから、安珠様に見せること」
 犀星たちが、一斉に東雨を振り返った。
「安珠……医者に見せる?」
 慈圓は不思議そうに、
「もう、命を落とした鳩を見せて、どうする?」
 東雨は、泣くまいと目頭に力を込めた。
「体を開いて、中のつくりを調べて、記録してもらうんです。そうすれば、次に怪我をした鳩と出会ったとき、治すことができるかもしれない」
 犀星と玲陽は顔を見合わせた。それから、少し寂しげに微笑む。
「驚いたな」
 慈圓は、満足そうに息をついた。
「聞いたか、謀児。おまえより東雨の方が、先を見通しておるぞ」
「いいです、私は今だけ見てます」
 緑権は居心地悪そうに褥を被った。
「……と、いうわけなんです」
 東雨は、話しを終えて、肩の力を抜いた。
 安珠は東雨の長話に、辛抱強くつきあってくれた。そして、
「あい、わかった」
 と優しい声でうなずいた。
「ではおまえさんが言うように、しっかり記録に残させてもらおう」
「お願いします」
 東雨の目が、ホッとして緩む。安珠は鳩を引き寄せながら、
「一緒にやるかい?」
 東雨は少し鳩を見つめた。
 それから、ごめんなさい、と、首を振った。
「ここで任せてしまうのは、無責任な気がするけれど……俺、多分、泣いてしまうので」
「いや、それでよい」
 と、安珠は微笑んだ。
「どれほど理にかなっていようと、それと感情は別のものだ」
 安珠の言葉は、東雨の心にそっと寄り添ってくれた。
 鳩を包み直し、安珠は膝の脇に置いた。
「完成したら、記録の写しをおまえに届けよう。なに、二、三日で終わる」
「ありがとうございます……」
 そう言ったものの、東雨は息を止めた。
 安珠にとっては、ほんのわずか先の未来。けれど、その頃、自分はいない。
 東雨は頬が強張るのを感じながら、それを必死に抑えた
「あの……俺じゃなくて、若様に届けてもらえませんか?」
 安珠が少し首をかしげた。
「構わないが……直接渡せばよいだろう?」
 渡せ、ないんです……
 東雨は黙り込んでしまった。何と言い訳をしたらいいかもわからない。
「まぁ良い。そうしよう」
 と、深くは聞かずに、安珠は引き受けてくれた。
「ありがとうございます」
 今度こそ、東雨はしっかりと礼が言えた。
 鳩を安珠に預け、東雨は庵を出た。太陽が少し傾いている。時間が過ぎるのがあまりに早い。
 あたりは先ほどより、寒さが緩んだ気がした。
 平屋の間の道を抜けて、五亨庵へ戻る。
 少しだけ、家に寄って行こう。
 東雨は朱雀門への道を逸れて、住み慣れた屋敷に向かった。
 今朝、犀星が雪をかいて作った道が、東雨を待っていた。
 最近気づいたことなのだが、雪かきをすると、その人の性格がよくわかる。
 たとえば、慈圓はとても丁寧だ。すぎる、と言ってもよいかもしれない。完璧にしてから、次の一歩分の雪を退ける。だから、なかなか進まない。歩みは遅いが、やり直しの手間がない。
 緑権は反対に、雪かきをしない。どうせ春にはとけるから、と、深い足跡を残しながら、そのまま歩く。彼がそれでも困らないのは、他の誰かがきちんと後始末をするからだ。
 犀星は、と、東雨は雪の道の中ほどに立って、見回した。
 玄関先から門まで、そして、厩舎まで、人一人が通れる幅で、雪が平らに整えられ、避けた雪は脇に積み上げられている。視界が遮られないように、広く均等に雪を放っている。東雨も真似をするが、犀星ほどの力はなく、遠くまで放り投げることはできなかった。
 若様、意外と力があるんだよな。
 その力に、何度、助けられてきただろう。そして、この雪かき痕のような、迷いのない真っ直ぐな生き方に、どれほど惹かれてきただろう。
 若様と同じ道、歩きたかったな。
 もう、泣くまい、と決めていたが、自然と溢れてきてしまう。
 東雨は急いで、人気のない屋敷に入った。
 厨房を覗く。朝、家を出た時に仕込んでおいた、夕食用の干し椎茸の香りがした。
 板戸を締め切り、冷えた回廊を通って、先へ。
 自分の部屋から、東雨は筆と硯、墨を盆に乗せ、持ち出した。そして、玲陽の寝室のとなりにある衣装部屋に入ると、明かり取りの窓を開けた。
 机架の下に隠してある木箱を取り出す。犀星の文を納めた箱だ。
 中の木簡を、ひとつひとつ確かめる。見極めたように、ひとつを選んで、蓋の上においた。
 墨をとき、小筆を浸して、そっと掲げる。
 文の裏に、筆先を当てた。
 慎重に、東雨は小さな文字で、書きつけた。
『紅葉映余命 殘光盡亦榮 願君懷此悦 寸刻盡心誠』
 それは、犀星の筆跡だった。
 東雨はその文だけ、懐に入れ、あとは元通りに片付けた。
 そして、静かに玲陽の部屋を訪ねた。
 玲陽は、眠るときは犀星の寝室を使っているが、新月の夜にだけは、この部屋で過ごすことを知っている。
 東雨は、枕の端に、そっと木札を隠した。 
 きっと、気づいてくれますよね。
 そう、祈りながら。

 花街の西の女郎屋を出て、蓮章は、中央の堀沿いを北へと向かった。
 石畳の通りに、紅ちょうちんや絹ののぼりがかかっている。
 犀星が整備した柳の並木が、堀の水に葉の緑を映し、雪景色の中で美しくそよいでいた。
 この街は、歌仙親王の街だ。
 都の権力者たちが見向きもしなかったこの場所に、当時十六歳の犀星が政治の手を入れた。
 街の区画を整備し、建物の補強や解体、新たな建築の段取りをつけた。同時に、治水の整備を重点的に行った。
 それまで、このあたりは火事となれば、一帯が全焼という悲惨な経験をしていた。
 治水工事は、防火の意味も兼ねた大規模な計画だった。
 消火のための貯水槽、延焼を食い止める水路による区画分け、常緑樹による防風と飛び火の予防、井戸や都の外を流れる川からの引水。
 水と共に暮らす歌仙で育った犀星らしい、生活に根付いた合理的な改革だった。
 犀星は親王という地位ではなく、その政策の成果と、それに取り組む姿勢によってこの街に受け入れられた。気取らず、常に住む者の目線に立てる若い親王は、いつしか花街の誇りとなっていた。
 蓮章もまた、若い頃から縁があって、この街とのつながりが深い。
 犀星が、街を手懐けていくのを、蓮章も傍で見てきた。自分にはない才能を、うらやんだこともあった。だが、犀星には見えていて、蓮章には見えないものがあるように、逆もまた然りだ。
 この街を流れる情には、蓮章の方が詳しかった。
 北の堀の脇に、ひときわ目を引く華やかな妓楼がある。様々な事情で花街に流れ着いた者たちが、この店で初めての客を取る。
 通りに面した立派な格子戸つきの門には、どこか牢獄を思わせる気配がひそんでいた。それを取り繕うように、金や朱をあしらった装飾彫刻がほどこされている。
 門の前には、自警団の男が立っていた。
 花街には昔から、自治の気風がある。今回、暁隊が入ることを自警団が許したのは、他でもない、歌仙親王の王旨があればこそだった。
 蓮章は、自警団の男に用向きを伝え、中に入った。
 土間から一段上がった板敷の広間に帳場がある。そこに座っていた采の一人が、蓮章を身知っていた。
「蓮さん、まだ開店前なもので」
 蓮章が首を振った。
「客としてじゃない。加良に会えるようになったと聞いてな」
 采の表情が曇る。
「ああ、そっちでしたか」
「無理そうなら、もう少し時を潰してくるが?」
「いえ、旦那から話は聞いてますので、案内はできますがね」
 采は少し考え込みながら、
「あまり、期待しないでくださいよ。お役に立てるかどうか……」
「頼む」
「それじゃ」
 采は、気乗りがしない顔で、帳場を同僚にまかせ、立ち上がった。
 控えの間を横に見ながら、奥へ進む。廊下には御簾や布が垂れており、部屋の中は半ば見えない。たどたどしい琴の音が、客を迎える前の最後の稽古らしく響いていた。
 奥には、なじみ客だけが通される小部屋が並んでいる。だが、采はそこを過ぎて、建物の裏側に回った。
 蓮章はこの店によく出入りするが、これほど深くまで入ったことはなかった。
 表の華やかさとは裏腹に、どこか場末の侘しさがあった。
 裏庭の隅に、小さな庵がある。昔は賓客のための離れだったのだろうが、今はすっかり色もはげ落ち、寒々しかった。
「こちらです」
 采は庵の板戸に手をかけた。
「驚かないでくださいよ」
 そういって、ゆっくりと開く。
 中を見るより早く、蓮章は匂いに気づいた。きつい糞尿の匂いがする。
「そういうことです」
 蓮章の表情を見て、采は言った。
「自分じゃ始末もできなくてね。本当は店に置いとくのも困っているんですがね」
 と、小さく舌打ちした。
 薄暗く、光も入らない庵の中で、隅のほうに一人の女が座り込んでいる。汚れた薄い単衣は着崩れ、痩せた手足が伸びていた。
 家具らしいものは牀が一つだけだ。簡易的に用を足せるように、陶器の箱と大量の汚れた布が積まれていた。
「まぁ好きにしてくれていいので」
 と、采は少し離れた。
 蓮章は、黙って中に入ると、天井近くにあった格子窓を開いた。
 まぶしい光が差し込んでくる。同時に風も抜ける。
 蓮章は、女のそばに膝をついた。
「加良」
 女の名を呼ぶ。蓮章の顔は、あまりに優しかった。
 女は焦点の定まらない目で、声のした方へ顔を向けた。崩れて解けた髪に、髪脂が固まって埃がそのまま、張り付いている。
 蓮章は整った目元を曇らせた。
 この女は一連の焼印事件の、最初の被害者だ。
 あの日の朝、蓮章はこの店にいた。そして、加良もまた、隣の部屋で客をとっていた。
 戻りの遅い加良を覗きに行った店の者が、部屋の中で気を失っている加良を見つけ、事態は発覚した。
 すぐそばにいながら、気づくことも、止めることができなかった。
 蓮章の顔に、隠しきれない悔しさがにじむ。無力感は蓮章を苛立たせたが、今はただ、この傷ついた娘を助けたかった。
「加良、わかるか」
 蓮章は、そっと頬に手を添えた。白かった加良の肌は、より青白く冷たい。頬はこけ、張りのあった笑顔は失われていた。まともな食事も与えられていないのだろう。傷が治るどころの話ではない。このままでは衰弱してしまう。
 部屋には火鉢ひとつない。凍え死ぬのを待っているのかもしれない。
「加良、覚えてるか」
 蓮章が話しかけても、加良は反応を示さなかった。
「おまえにとって、俺は、初めての客だったよな」
 言いながら、乱れた黒髪を撫でる。
「おまえは一晩中泣いて、結局、俺に何もさせてくれなかった。あれ以来、お前を抱く気が失せた」
 そう言って、寂しそうに笑う。
 加良には、何も聞こえていないのか、ぼんやりとしたままだ。それが蓮章には辛かった。せめて泣き叫んでくれたなら、慰めようもあっただろうに。
 感情が抜け落ちた加良は、まる人形のようだ。いや、人形でさえ、わずかに微笑みを浮かべているというのに、それすらない。
 蓮章は、加良の手に小さな袋を預けた。
「お前が好きな花飴だ」
 そう言って一つ取り出し、加良の目の前に持って行く。花の形をした、薄い紅色の優しい色合いが、冬の日差しでキラキラと光った。
「わかるか」
 蓮章はまるで、妹に話しかける兄のようだ。
 それでも加良は、眉一つ動かさない。
 ただ時折、思い出したように瞬きしたが、その目は何も見てはいなかった。
 蓮章はそっと花飴を加良の唇にあてた。反射的に、わずかに口が開く。そのまま含ませ、喉を詰まらせることがないよう、抱き抱えて首を支えた。
 舌に触れた飴の甘さに、加良は気づいたようだった。微かに顎を動かし、舐める仕草をする。蓮章は額に唇を寄せ、声をかけ続けた。
「加良、何でもいいんだ。覚えていることを話してくれないか。お前をこんな目に遭わせた奴、放っとくわけにいかない。頼む、力を貸してくれ」
 蓮章の呼びかけに、加良は何も言わない。
 傷ついた痛みと恐怖は、少女の生きようとする心を壊してしまった。それはもう、死よりも辛い崩壊だった。
 花街の女は情が深い。
 中でも加良は健気だった。
 蓮章が加良を抱かなかったのは、その一途さを恐れたからかもしれない。
 蓮章の祈るような眼差しに、加良の視線がふと揺れた。蓮章は息を飲んだ。
「わかるか。俺だ!」
 必死なその呼びかけが、加良の心にわずかに波を立たせた。
「蓮……にぃ」
 初めて加良の目が蓮章と重なる。
 蓮章は嬉しさで、思わず微笑んだ。普段の、どこか冷たい笑みとはまるで違う、子供のように無邪気な笑顔だった。
 だが、それとは対照的に、加良は驚きと不安を浮かべ、やがて恐怖へと変貌する。息を飲み、体を震わせ、おののくように身をよじった。
「……いや!」
 鋭く叫んで、加良の手が振り上げられた。蓮章の左目を指先がかすめ、痛みが走る。反射的に体を逸らして、蓮章は後ろから抱きすくめた。加良の手足から力が抜け、そのまま気を失う。
 扉の外にいた采が、何事かと中を覗いた。
「蓮さん、大丈夫かい?」
「……ああ」
 加良の口の端から、小さくなった花飴がこぼれた。蓮章はそっとそれをつまんで、口に含んだ。
「もうすぐ、店開けますんで、そろそろ……」
 采が、表を気にしながら言った。
 蓮章は加良を抱き抱えて牀へ運ぶと、背中の傷が痛まないよう、横向きに寝かせた。花飴の袋を、加良の懐に入れ、手を重ねる。
 ……俺を、抱いていけ。
 加良は答えない。蓮章は頬を撫で、顔を寄せ、痩せた指を握った。その指先には、蓮章のまぶたから移った粉化粧が、うっすらと残っていた。
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