新月の光

恵あかり

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第二部 紅陽(完結)

17 残り香

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 甘い香の煙が染み付いた、木目の目立つ娼館の二階の窓辺で、蓮章は十四日の月を見上げていた。
 窓枠に持たれて、右膝を立て、気だるげにくつろぐ。部屋の暗さと月夜の明るさの境界に座る彼の姿は、不思議な色香に包まれていた。
 生死の境にいる。
 その面影はどこか達観しているようで、それでいてささやかな命を頼りにする儚さがあった。
 最も暗さの濃くなる時刻を過ぎても、花街の灯火は消えない。
 この街は、最も薪を使うな。
 蓮章の目に、ぼんやりといくつもの炎がゆらめく。
 花街は火の街だ。
 篝火が燃える大通り、夜道を動く提灯、油灯の下の濡れた肌。
 歌仙親王が燃料の調達に熱心だったのは、花街のためなのではないかとさえ思う。
 そこがまたいい。
 蓮章なりに、犀星の事は気にいっている。
 一見冷徹に見えて、実は相当に情の深いやつだ、と踏んでいる。そうでなければ、傷ついた玲陽を、あれほど包み込んで導くことはできなかっただろう。そして、この街の人心を得ることもなかったに違いない。
 犀星が花街の昼の顔ならば、自分は夜の顔になれば良いと勝手に思っている。
 蓮章は今夜、部屋だけを借りた。
 一人で静かな時を過ごしたい気分だった。
 蓮章の眠りは浅い。疲れたら眠る。そうでなければ、昼夜を問わず起きている。
 酒も薬も効かない体を、強制的に休ませることはできなかった。
 自然に任せるさ、と、いつも蓮章は笑っている。
 自分が人より仕事ができると思われるのは、おそらく時間があるせいだ。
 蓮章は決して謙虚でもなければ、卑屈でもない。むしろ周囲には、増長していると煙たがられる。そう見られても、否定はしなかった。
 明かりも灯さず、ただ香りだけが漂う部屋で、ぼんやりと思索に沈む今、涼景は一人で座る間もなく働き詰めだろう。
 悪いな。
 花街への潜入は、もちろん、仕事の意味が第一だが、噂に振り回される蓮章を、少しでも静かにしておきたいという涼景の配慮もある。
 静かにするどころか……
 と、蓮章は聞き耳を立てた。
 蓮章の勘は鋭い。漏れ聞こえてくる男女の声のさらに遠くに、暁隊や自警団の動く気配を感じる。
 あいつら、大丈夫か?
 涼景が蓮章をここへやった真の意味は、暁隊のお目付け役だろう、と察していた。
 休んでいても、蓮章の腰には、いつでも抜けるよう、刀が下がっている。実のところ、蓮章の剣技はさほどではない。彼の得意は弓と知略と交渉術だ。
 いざとなったら、暁に任せるさ、という心構えでいた。
 窓から見える景色は、月と星の他に動くものはない。
 下を見れば、一階の軒と、さほど広くない中庭が広がる。庭の右手が前庭と繋がって門へと抜けている。時々下の階から、酒宴の賑わう声がたちのぼる。
 花街の夜は眠らない。
 これこそ自分にはふさわしい。昼も夜もなく、公も私もない。そこにいるのは、いずれも勝手気ままな俺自身だ、と少し気取った気分になった。
 きっと、月の光のせいだ。
 蓮章はまた、白い空の灯りを見た。明日は満月だ。
 蓮章が初めて花街に足を踏み入れたのは、十四の時だった。
 たまたま、涼景の仕事について巡察で回っていたのが運の尽きだった。当時、まだ少年だった蓮章は、興味本位の男たちの格好の獲物だった。
 それは、場合によっては悲劇であっただろう。だが、蓮章にとっては幸運だった。
 彼は幼い頃から、酒と薬に慣らされ、毒され、染められて、感覚がすっかり麻痺していた。そのため、世の中の快楽というものを知らずに育った。
 それが、初めて花開いたのがこの街だ。
 すべてを忘れ、興じることのできる享楽は、蓮章にとって唯一残された、生きる実感だった。己を磨き、それを武器とした。その果てが今である。
 涼景が引き止めなければ、とっくに壊れて首を吊っていたかもしれない。
 忠義に厚い、真面目すぎる親友は、蓮章にとっては、ちょうどいい重しになってくれる。だからこそ、こうして切り離されてしまうと、自分がどこかへ飛んでいってしまいそうな不安定な気持ちすらした。縛る鎖は時として必要だ、と蓮章は思っている。
 風が、蓮章の髪を無造作に揺らした。中庭の隅の篝火も揺れた。火に照らされて、ぼんやりと庭の景色が浮かぶ。木の塀に囲まれ、その向こうには隣家の屋根しか見えない。
 時折、誰かが火に薪をくべに来るが、それ以外は静かで変わりばえがない。
 蓮章は、かすかな息遣いを聞いて、庭を見回した。
 いつからそこにいたのかわからないが、篝火の近くで、男女が睦み合っていた。女の方は木を背にし、男がその前に立っている。蓮章は、うっすらと笑いを浮かべ、それを眺めた。
 月よりは面白い。
 男はしきりに女の体を触って、あれこれと試しているようだ。女のほうも興がのっているらしく、自ら男の首に腕を回している。
 時折、着物がめくれ上がって、女の白い足がニュッと伸びる。その曲線は美しいが少し痩せている。
 男は片手で女の襟を腰のあたりまで引き下げた。
 冬の未明の寒空に……
 蓮章は、その所作に眉を寄せた。
 男女ともに来るもの拒まずで、決して上品な愛撫を好む蓮章ではないが、こんな夜に相手の肌をさらすような真似はしない。
 しかし、目の前の男にそんな配慮は無いようだった。
 俺より最低だな、と蓮章は思った。
 しばらくそうして戯れる男女を眺めていたが、男に不審な動きがあって、蓮章は思わず体を起こした。窓枠に手をかけ、身を乗り出す。
 男の手が、女ではなく、篝火の方に伸びている。女は、それには気づかずに、しがみつくことに夢中な様子だ。
 蓮章は目を凝らした。
 その眼差しには、わずかな異変も逃さない厳しさがあった。
 篝火の、わずかに下あたりで、男の手が動いていた。次の瞬間、男が何かを火の中から抜き取るのが見えた。短い棒の先端が赤く染まって、闇に浮かび上がる。
「見つけた!」
 蓮章の体がとっさに動いた。
 座っていた木枠を蹴って、一階の軒の上に飛び降りる。激しい音がして、軒の瓦が崩れる。それを蹴って、さらに地面に降りた。
「誰かっ!」
 蓮章は腹から叫んだ。自分一人では追うことができないのは明白だった。
 表には、暁隊がうろついている。
「藍の長袍、白の襟、玉簪、佩飾、黒の帯!」
 男の特徴を大声で叫ぶ。表側で、暁隊がそれを聞きつけた声がした。
 男は、一瞬迷ったが、裏に逃げ道はない。木の塀は登るには高すぎる。
 やむを得ず表の方へ駆け出す。
 その後ろ姿を蓮章は追った。門を駆け出した男を追う、暁隊の数名が見えた。
「逃すな!」
 蓮章の声はどこまで届いただろう。
 蓮章は急いで庭にとって返すと、女を探した。何が起きたかわからないという顔で、女は裸体をさらしたまま、突っ立っていた。
 蓮章は女に近づき、黙って着物引き上げた。それから、足元を調べる。
 ……あった!
 思わず息を呑んだ。足元には男が投げ出した、焼印が転がっていた。そっと手に取り、印面を見る。反転しているが、それは明らかに蓮章が追い求めていたものだった。
 蓮章は興奮した面持ちで、女を振り返った。女は、ぼんやりしたままだ。
「おい……」
 一瞬、昼間に見た加良の目がよぎって、蓮章は不安になった。だが、女の体に傷はなかった。
「……あら、蓮さん。お久しぶり」
 今しがた我に返った、というふうに女が言った。
 蓮章はほっと肩を下げた。
「大丈夫か? 痛みは?」
「ないけれど……」
 言って、女は、寒いというように体を抱いた。
 蓮章は自分の長袍を差し出した。
「今の男、名前と顔を教えろ」
 女は黙って袍を羽織りながら、 
「誰って……涼さんじゃないの」
 と、言った。
 蓮章は、そのままの顔で凍りついた。
「……燕涼景のことを、言ってるのか」
「当たり前じゃない」
 女は、怪訝そうに、
「私は一筋なんだから、見間違えるわけないでしょう?」
「……いや、そうじゃなくて……」
 一瞬、蓮章の面に素が戻る。
「ここに、涼景がいたって?」
「……ええ」
 訳がわからない、と、蓮章は眉をひそめた。
「ちょっと、蓮さん、しっかりして。酔ってる?」
 蓮章は、二階から見た男の後ろ姿を思い出した。
 涼景の背中なら飽きるほど見てきた。間違いなく、あれが涼景ではないということは、蓮章にとっての確信だった。
「涼じゃない」
 はっきり、蓮章は否定した。
「なぜ、涼だと思った?」
 問い詰める蓮章に、女は少し怖気づいた。
「どうしてって言われても……だって、目元が……あれ、顔が、はっきりしない……」
 と、言葉を濁す。
「おかしいな……なんだろう。なんか、わからなくなってきちゃった……」
 女は、本当に記憶が消えていくというような素振りで頭を振る。蓮章は怪しんだ。不可思議な力が、記憶を歪めていると感じる。
「おい、しっかりしてくれ」
「おかしいなぁ。確かに、涼さんだと思ったんだけど……」
 と、女は少しずつ恐怖の顔に変わる。
「あれ……誰だったんだろ」
 とうとう、女の記憶が全て消えた、と蓮章にはわかった。
「……涼が、こんな真似するわけないだろ?」
 と、蓮章は、顎で女の乱れた着物を指した。
「そうよね……」
 女も納得しつつ、不安な顔をしていた。
「私、どうしてあの人を、涼さんだと思ったんだろう……」
 今まで隠されていたものに触れた。蓮章には、その感触があった。
 拾い上げた焼印をしっかりと握る。
 女を店の中に戻し、暁隊をかき集めて捜索したが、逃げた男は見つけられなかった。
 間違いなく、男は表門を通った。暁隊ともすれ違ったはずなのだ。それでも誰も見ていないという。
 見たかもしれないが、忘れたのだ。
 と、蓮章は直感した。まともじゃない。おそらくここには闇がある。それも相当深い。
 花街の、人の情に溺れるようにして育った蓮章は、どのような戦略よりも、軍略よりも、『情け』の恐ろしさが身に染みている。
 今日中に宮中に戻ろう。
 これ以上、ここにいても何も起きない。蓮章の直感が告げていた。
 風が酒の匂いをはらんで、ふっと吹き過ぎた。
 夜が少しずつ薄れ、朝の気配が忍び寄ってくる。
 白い息が、長く煙る。太陽が登れば、花街は眠りにつく時刻だ。 
 道の向こうから見覚えのある采がこちらに歩いてきた。昨日、伽羅の元へ案内した男だ。
 嫌な予感がした。蓮章の顔色が変わったのを見て、采はうなずいた。
「今朝、死んだ」
 蓮章は、じっと手元の印を見た。既にそれは冷めて、黒々としている。
 ……あと一日、時間をくれ……せめて、弔いだけでも。
 蓮章は空を見た。月は見えず、朝の弱い日の光が、眠り始めた夜の街に、斜めに差し込んでいた。

 毎日が本当に静かで、そして賑やかで、平和で、そして胸踊る時間なのだ。
 玲陽は、自分が今、本当に生きているのだと思った。
 そばには、誰よりも大切な犀星がいる。自分の体は傷つきながらも、間違いなく強い命を抱き続けている。都の冬は厳しいが、それさえ笑って過ごせるような温かい人の輪が広がっている。
 慈圓は、養父の犀遠に似て、厳格で信頼できる良き師だった。
 緑権は、頼りないところはあるが、その人柄は五亨庵の雰囲気によくなじみ、いつも話題の中心になってくれた。
 相手の顔色を伺って関わりに臆する玲陽にとって、彼らは裏表のない心安らぐ存在であった。
 頻繁に訪ねてきては、外の話題を持ち込んでくれる涼景も、玲陽の成長には欠かせない。
 そして、何より……
 玲陽は、犀星の隣を歩く東雨の後ろ姿を見た。
 五亨庵でも、都の屋敷でも、常にそばにいて、明るい笑顔を見せてくれる東雨の存在が大きかった。
 東雨は、失われた玲陽の子供時代を思い起こさせてくれる。
 こんなふうに大人になっていけたらよかったな、と、玲陽は、東雨を見るたびに思う。たくさんの個性的で優しい人間たちに見守られ、大切に育まれる東雨の姿は眩しかった。
 自分もまた、この人のために何かできれば、と願わずにはいられない。
 ずっと犀星のために尽くしてくれたという感謝がある。また、自分のために寂しい思いをさせてしまったという申し訳なさ、それでも笑顔を向けてくれる優しさ。時折見せる、強くまっすぐに未来を見つめる意志。
 これからの東雨の姿が、楽しみでならない……
 東雨は、玲陽の希望だった。
 そうであったから、その日、一緒に料理がしたいと言い出した時も、玲陽はとても嬉しかった。
 午後の市場を歩きながら、玲陽は終始、笑っていた。
 少し前まで、あれほど恐ろしい場所だった市場という空間が、今はとても居心地がいい。
「悌君!」
 肉屋の店主が、屋台の向こうから呼びかけた。玲陽は、はい、と少し首を傾げるいつもの仕草で、呼び声に応じた。
「今日はまだ、豚があるよ。柔らかいところを、蒸豚なんかにどうだい?」
 玲陽は東雨を見た。東雨は振り返って、いかにも、見ればわかる、という顔で商品を覗き込んだ。
「おじさん、一斤でいくら?」
「四文にまけとく!」
 東雨は、にんまりして主人を見た。
「それ、まけたって言わないでしょ?」
 店主はわざと考えるふりをして、
「なら、豚足もつけてやろう。いい煮汁がでるぞ」
「そっちの砂肝も、三人分、お願い!」
 東雨が片目を瞑って頼み込む。庇護欲が掻き立てられる東雨の笑顔に、店主は弱い。
「……仕方ないなぁ!」
「買った! おじさん、大好き!」
 東雨は満足そうに、肉の包みを市籠に入れた。
「お見事です」
 玲陽は小さく手を叩いた。
「任せてください! 我が家の家計は俺が守りますから!」
 ふぅ、と犀星は短く息を吐いた。
『親王様が、民から食べ物を恵んでもらうなんて、どうかしています!』
 昔、人から野菜を分けてもらうと、東雨はよくそう言って怒ったものだ。それが今では、まるで当たり前だという顔をして、値切り勝負に挑んでいる。
 逞しくなったものだ、と素直に犀星は嬉しかった。
 幼いころから、何も贅沢をさせてやらなかった。
 甘えることを覚えずに、大人にしてしまった。
 自分を戒めるのと同様に、東雨にまで、厳しい価値観を押し付けていたことが悔やまれる。それなのに、東雨は卑屈になることなく、のびのびと豊かな感性で大人になった。
 もうじき、十八か。
 年が明ければ、決めねばなるまい。侍童として過ごす日々は、あとわずかだ。
 できれば、そばに置きたかった。
 しかし、東雨の人事権は、犀星にはない。
 何事もなく、過ぎて欲しい。
 犀星は、それだけを祈った。
 ここ数日、東雨の様子が明らかにおかしい。
 いっときの、追い詰められた孤独は影を潜めているが、逆にそれが不安を煽った。全力で笑い、全力で没頭する。まるで、その一瞬一瞬に、燃え尽きようとするかのような一途さがあった。
 十年、ともに暮らしているのだ。東雨の違和感が、犀星にはわかる。
 今夜は、満月、か。
 それが、余計に心を落ち着かなくさせた。
「光理様、蒸豚と、あと、何にしましょう?」
 東雨は犀星の心配など知る由もなく、玲陽と共に次々と店棚を巡っていた。
 ちょうど、買い物客の一人に些細な相談事を話しかけられた犀星は、買い物をふたりに任せ、少し賑わいを離れた。
「体が温まる汁物がいいです」
 言いながら、東雨は、視界の中に常に犀星の姿をとらえている。本来なら、そばを離れることは許されない。しかし、犀星とて一人で動きたい時もある、と、東雨は自然と距離を測っている。
「光理様、決めてください。俺、何を食べたらいいか、わからないので」
「そうですねぇ……」
 玲陽は家にある野菜を思い出しながら、
「では、白菜と葱と椎茸はありますから…… あと、里芋だけ買って、あつもの、作りませんか?」
「いいですね、それ!」
 東雨はにっこりとした。
 籠に積まれた里芋を挟んで、東雨は再び店主との交渉を開始する。
 玲陽は横目に犀星を探した。
 少し先の店先で、何かを買い求めているようだ。
 もう一度、東雨に向き直る。
 駆け引きを楽しむように賑やかなその横顔が、なぜか、危なげに感じられた。
 なぜだろう、胸が騒ぐ。
 玲陽は長袍の襟を寄せた。
「光理様、寒いですか?」
 東雨は玲陽の仕草に気づいて、心配そうに首をかたむけた。
「え、ええ。少し」
 と、玲陽は誤魔化した。
「そうだ、生姜も買って行きましょう。安珠様にいただいた甘草があるので、薬膳茶を作ります。風邪予防になるって教えてもらいました」
「そんな、申し訳ないです」
「いいえ、国のためですから!」
「……国のため?」
 玲陽にはよくわからない理由だったが、東雨が幸せそうに笑っていたので、納得することにした。
 夕食の後、東雨は約束の茶を用意していた。
 かまどの薪がもったい無いので、同時に粥も煮る。明日の朝は温めるだけで朝食になる。粥には、今夜の残りの生姜と白菜を入れた。そこに、椎茸の戻し汁も加えた。
 明日の朝、暖かく召し上がってくださいね。
 東雨の目は優しかった。
 安珠からもらった甘草と一緒に、生姜のすりおろし、常備している陳皮を煎じる。
 香りが強く苦味もあるが、だからこそ、こっそりと遠志えんしを仕込むにはもってこいだった。
「ごめんなさい……今夜は、眠っていて欲しいんです」
 東雨は、ふたつの湯呑みを見つめて詫びた。
 静かに湯気がたちのぼる。
 盆に乗せて、犀星たちの寝室にゆく。
 暗い回廊は、いつもより短く感じた。
 もっと、歩いていたかった。
 部屋では、静かにふたりが待っていた。
 いつものように茶を渡すと、疑いもせずに口にする。それ以上、見ていることが辛くてたまらず、東雨は笑顔が崩れる前に、部屋を出た。
 ここに来るのも最後だ。
 東雨は衣装部屋の戸を開けた。
 薄暗い中、箪笥に手をかける。
 そこには丁寧に畳まれた、濃紺の袍が収められている。
 両手で抱き抱えるようにして、大切そうに取り出した。古く使い込まれており、丁寧な修繕の跡が見られた。顔を埋めると、懐かしい犀星の匂いがした。
 東雨は、ちらりと文の箱を見た。その目は何かを祈っていた。
 東雨は袍を抱いて、自分の部屋に戻った。
 火鉢に火は入れない。
 もう、その必要はない。
 月のあかりの下、東雨は毛氈の上に座って、そっと懐刀を取り出した。
 こうして手にしているだけで、心が落ち着く。
 刀は暗い罪の記憶だが、同時に、その罪を共に背負ってくれる友のようでもあった。
 ずっと昔から懐にあり、体の一部であった気がする。
 東雨は刀身を抜き、鞘を膝の上に乗せた。
 冴えた刃は美しい。
 命を奪うその輝きが、これほどに綺麗なのはなぜだろう。
 それはきっと、奪う者もまた、傷つく者だからだ。
 その傷を慰めるように、刀は、美しい。
 東雨は、小口の刻印をなぞった。『涼』の一文字を指先に感じる。表情を動かすこともなく、ただ、じっと目に焼き付ける。
 懐から香袋を取り出した。
 前の秋に手作りしたものだ。柔らかく、甘く、そして胸の中が少し痛くなる匂いがする。
 優しい手つきで袋を開いて、中から小さなかけらを取り出す。
 大丈夫。きっと届く。
 再び月を見ると、先ほどより少し光を増したような気がした。
 鏡の前に立つと、一枚ずつ、着ているものを解いた。丁寧にたたみ、紐はまとめてゆわえた。
 すべて脱ぐと、真っ直ぐに立って、体を鏡に映した。
 鏡に映るのは、まるで別人のようだった。いつの間にか背が伸び、手足が長くなっていた。
 犀星と並んだときの、視線の近さを思い出す。
 いつから、子供ではいられなくなったのだろう。
 それが、悲しかった。
 襦袢を羽織る。着物を重ねたが、先ほどよりも多くはなかった。
 最後に、衣装部屋から持ち出した袍をまとい、帯をきつめに締めた。
 これが解かれることは二度とない。
 そう思いながら。
 髪には、市場に行く前に、犀星にせがんで髪紐を結んでもらった。結び終わった時、犀星の指がそっと東雨の毛先を撫でて、くるっと捻るのがわかった。
 嬉しくて笑みがこぼれた。今も、思い出すと自然と顔が緩む。
 この顔で、ずっといよう。
 鏡の中の自分を見て、東雨はそう思った。
 部屋を見回す。きちんと調度品は整えた。牀の敷布も替えた。火の気もない。
 東雨は、中庭に面した引き戸を開け放った。部屋が世界とひとつになり、隅々まで光が満ちた。
 見上げる月は、残酷なほどに美しかった。
 十五……
 東雨は数を数えた。
 中庭を挟んで、犀星と玲陽の寝室がある。今、戸はしっかりと閉められて、中の様子はわからない。
 東雨は姿勢を正し、深く頭を下げた。
 そして、できるだけ何も考えないようにして屋敷を出た。何も考えない。そのことだけを考えた。
 景色も見ない。足元も確かめない。ただ前だけを見る。顔を上げる。
 月光は容赦なく道を照らす。
 朱雀門はとっくに閉まって、中に入ることはできない。
 数名の門番が、夜通し見張りを続けている。
 東雨は慣れた様子で、腰につけていた佩玉を見せた。
 門番はちらっとそれを見て、門の脇の通用口の鍵を開けた。
 東雨は一瞬、背後の都の街並みを顧みて、意を決したように身をかがめ、くぐった。
 夜の朱市は静まっていた。まっすぐ行くと、右手に五亨庵への小道と山桜が見えた。
 立ち止まりたい衝動を抑えて、東雨は走り抜けた。振り返らない。絶対に振り返ってはいけない。左目から、涙がこぼれた。白い息が忙しなかった。
 いつだったか、やはり、こうやって走ったことがあった。
 あの日に戻りたい。たとえわずか数日でも、もう一度、あの日常を過ごしたい。
 たまらなくなって、東雨は、一瞬、叫び声を上げた。しかし、それきりぐっと堪えて、中央区を抜け、北区へ入る。
 西の果て、目指すのは、右近衛の詰所だ。
 最後の仕事が残されている。東雨は詰所の前に人影を見つけて、必死に息を整えた。そこに立っていたのは、湖馬だった。
「東雨? どうしたんだ。こんな時間に」
 にっこりと笑って、東雨は汗を拭くふりをして涙をぬぐった。
「歌仙様に何かあったのか」
「いえ。若様なら大丈夫ですよ。今頃、光理様とゆっくりお休み中です」
「え?」
 湖馬が目を丸くした。
 東雨は、しまった、と誤魔化す。
「やだなぁ、湖馬様。同じ屋敷の中で、って意味ですよ」
「そ……そうだよな! びっくりした……」
 湖馬は笑ったが、少しがっかりしたような顔だった。
 東雨は、門の奥に見える、詰め所の入り口を見た。
「涼景様、いますか?」
 湖馬は、申し訳なさそうに、
「今月は天輝殿の警備だから、あっちへ行ってる。明け方には戻るよ。急用か?」
「いいえ、急ぎではないです。湖馬様は、朝までここにいますか?」
「ああ。伝言があったら伝えるが?」
 東雨は、ずっと懐に温めていた包みを出す。
「では、これを、涼景様に渡してもらえませんか?」
 差し出すその手は、微かに震えていた。
「渡してもらえば、わかると思うので、俺からって伝えてください」
「わかった。伝言はそれだけか?」
 一瞬、東雨は迷った。そして、静かな声で言った。
「はい、それだけです」
「そうか。わかった」
 湖馬はあっさりと、包みを腰の袋に入れた。
 名残を惜しむように、東雨はそれを、目で追っていた。
「では、お願いします」
 しっかりと頭を下げ、東雨は背を向けた。振り返ることはなかった。
 空を見ると、満月がぎらぎらと、世界を照らしていた。
 嫌いだ、と東雨は思った。
 ほしの光をかき消してしまう。
 青白く光る雪の道に、東雨の確かな足音が響く。
 中央区の中ほど、天輝殿は堂々たる姿でそびえていた。
 皇帝が代々住まいとする御所である。他の建物と比べようもない、広大なその敷地と圧倒的な大きさを誇る。そこは、まさにこの国の象徴であった。
 その全てが、夜の暗さと、月の明るさの間で、白と黒の影絵となって、のっぺりと見えた。
 門に立っているのは、禁軍の兵だ。東雨は、朱雀門で見せた佩玉を出し、そこを通った。
 正面ではなく、脇へそれる。横に細い道があって、その先には、また兵がいる。
 兵士に促され、東雨は月光の中から、暗い通路にもぐった。腰をかがめなければならないほど、狭く、息苦しい一本道が続いている。
 突き当たりの部屋が、炎の灯りにぼんやりと揺れる。油灯がゆらめく、石造りの狭い部屋へ。
 部屋の壁のひとつには御簾が下ろされ、さらに奥に、大きな部屋がある。
 小部屋では、既に宝順が待っていた。分厚く柔らかい褥の上に、脚を崩して座っている。
 だが、その姿を東雨が真っ直ぐに見ることは許されない。
 東雨はかがめていた腰を伸ばした。目線は床に落としたままだ。
 姿勢を正し、着物を少し直す。布に触れると、懐かしさと安心感で胸が熱い。東雨が自分の最後に選んだのは、かつて、犀星が初めて、東雨と出会った日に着ていた袍であった。
 もう、戻れない。
 東雨は、まなじりを決した。
 宝順がそこにいるだけで、空気が変わる。
 さまざまな言葉を考えてきたが、ここに立つと、ただ黙り込むしかなかった。
 何を言ったところで、結果は変わらない。ならば、思ったことを言えばいい。だが、声は簡単には出なかった。
 皇帝の存在という圧倒的な力が、東雨の喉を塞ぐ。
 幼い日から、この身と心に焼き付いている、本能的な恐怖。それが東雨をここまで押し流した。今、初めて東雨はその流れに逆らおうとしている。
 震えることもなく、ただただ、すくんだ。沈黙の中でも、宝順の巨大な威圧は、ひしひしと感じられた。
 石造りの小部屋に満ちる沈黙と、また少し質の違う静寂。そして、緊張。
 東雨の目に、床の隅の溝が見えた。それは、ここで流れた血を排するためのものだ。
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 宝順の声が、そう告げた。
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「首尾はどうだ?」
 焦れた様子はないが、決して悠長な答えができる気配ではない。
 東雨は息を吸った。胸が詰まったが、とにかく口を開いた。最初の言葉だけは決めていた。
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 思ったよりも大きな声が出た。自ら、命を手放す一言だった。
「よいのだな?」
 問われ、東雨は、それが最後の一手なのだということを悟った。
 そっと目を閉じ、力を抜く。
「俺にはこれ以上、あの人たちを裏切ることはできません」
 それは、自然とこぼれた本心だった。
「よし」
 と、宝順は言った。決して東雨を許し、自由にする意思はない。
 宝順がじっと、自分を見ているのがわかった。その視線はじりじりと痛く、額のあたりに向けられている。
「やれ」
 短い声で宝順の指示が飛んだ。
 御簾が動き、禁軍の兵が二人、左右から東雨目掛けて狭い室内に入ってきた。東雨は反射的に飛び退こうとしたが、叶わなかった。両肩が、まるで硬い物でもつかむように無遠慮な力で押さえつけられた。痛みが走るが、悲鳴は上げなかった。
 引きずられ、東雨は大部屋へと連れ出された。
 そこは、床も壁も、積み上げられた石で囲われていた。
 一番奥の壁に大きな木の扉がある。その先は近衛も巡回する日常の空間だ。だが、その扉が東雨のために開かれることはない。
 後ろから宝順が近づくのがわかった。
「よく仕えた」
 冷えた、宝順の声がした。
「最期は、いい想いをさせてやろう」
 兵士の手が、東雨の襟を開いた。白く滑らかな肌が、若い色香を放つ。
 東雨は自分がどうすべきなのかわからなかった。叫び、もがいて、助けを乞うべきなのか、それともおとなしく、差し出すべきなのか。
 俺は、どんなふうに輝けばいいんだろう?
 東雨は、ずっとその一点を考えていた。
 そして、あらがうことを、やめた。
 髪に、犀星が触れた感触を思い出す。自然と東雨は微笑んでいた。
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