眠れない夜に

Gardenia

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第3章

72 エピローグ(前編)

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真理亜は夏の間、自分自身で禁酒を誓い週末のBarには出かけていなかった。

朝晩の風が涼しく感じられる頃になってようやく Angel Eyes の扉を押した。

それからは月に2~3回のペースで以前と同じように金曜日の夜を譲二たちとの楽しい会話とアルコールで過ごすと、また次の一週間を元気で居られる気がしている。

仕事は相変わらず同じ業務の繰り返しなので、仕事以外で変化があったといえば田所と会う機会が増えたということだけだ。

田所とは彼の妹さんのTシャツを返すために連絡をとったところ、以前真理亜が教えたベーカリーCAFEで朝食を一緒にと言われて、それ以来、時々休みの日のどちらかをコーヒーと甘いデニッシュで朝の時間を過ごすようになった。

金曜日の Angel Eyes でも偶然に行き合わせる時があって、一緒にグラスを傾けることもある。

今では田所に遭遇しても居心地の悪さを感じることはなくなった。


季節はいつの間にか秋を過ぎ、街にジングルベルの音楽が流れる頃になっている。

クリスマス直前の金曜日、真理亜は課長に会議室に呼ばれた。

そういえば去年も同じ時期に呼び出されたことを思い出し、また移動の話かと思って気軽にお茶を淹れて会議室に向う。

断ってもらえばいいだけだ。

真理亜は経理部から動くつもりはなかった。

「お、気が利くね~」とにこやかに笑う課長の前にお茶を置く。

「座りなさい」と言われたので、素直に近くの椅子に座ると、「総合職試験の勉強は始めたのか?」

「はい。少しずつでもと思って取り掛かっています」

「そうか」

課長は頷くとお茶を一口飲んだ。

「今年も移動の話がきている」

「どこでしょうか?」

「また、秘書課だ」

「断っていただけますか?」

課長はそれにはすぐに答えずにお茶をもう一口啜ると、「今回は難しい」と真理亜に告げた。

「私は移動する気はないのですが?」

「何故、秘書課が嫌なんだ?それともそんなに経理部が好きか?」

「秘書課は時間が不規則と聞いています」

「ふむ。自分の時間が減るからな」

真理亜はそれには答えずに、どうやって断ってもらおうか考えていた。

「午後に、人事部が話したいと言っている」

「今日ですか?」

「あぁ、今日の午後だ。仁科がこれを断った場合は、人事が直接面談したいそうだ」

嫌な予感がする。

人事部というと田所が来るのではないかと真理亜は身構えた。

「何度も断っているからな。一度、直接話を聞いてみたらどうだ?
そう何度も打診がくるには何か考えがあるのかもしれない」

所詮上司の言うことには逆らえない。真理亜は頷くしかなかった。


午後3時になる頃、案の定田所から真理亜に社内メールが届いた。

指定された時間の少し前、作業途中のファイルを保存して真理亜は席を立ち、課長に許可を得て指定された会議室に向った。

誰も居ない会議室の照明をつけ、窓を開けて空気を入れ替える。

一瞬刺すような冷たい風が真理亜の頬を掠めたが、逆にそれで目が覚めたようで気分がしゃんとする。

暖房のもわっとした空気が少し和らいだところで早々に窓を閉めた。

その直後、田所が会議室のドアを開けた。


一瞬の間の後で、「仁科さん、呼び出して悪かったね」と田所が優しい声で真理亜に声をかけ、動作で椅子に座るように勧めた。

軽くお辞儀をして腰を下ろすと、「午前中に上司から話があったと思うが、移動の話です」

「はい。聞きました」

「この時期、何度か秘書課への移動を打診していますが、いつも断っていますね。
理由を聞かせていただきますか?」

いつもはもっと気さくに話すが、今日は仕事の話である。

淡々とした表情の田所に、真理亜も真面目に答えた。

「ずっと経理部に居て今の業務に慣れています。
一方、秘書となると高度な対応を求められます。私に勤まるとは思いません」

「秘書検定2級を持っておられる。貴方の上司達も貴方にはその能力があると評価している」

そこで一度言葉を切ってから、田所は先を続けた。

「何よりも、秘書課が望んでいるんです。人事部もです」

そう言ってまっすぐに真理亜を見る田所の真摯な目に、真理亜は少したじろいでしまった。

「秘書課とはつながりがありませんが・・・」

「我々は全社員のことをちゃんと見ています。仁科さんだけじゃない、全ての社員です。
能力を発揮できる、またはしてもらいたい場で働いてもらいたい。
つまり適材適所というわけです」

田所の言わんとすることを推し量っていると、「将来、総合職試験も視野に入れているそうですね」と田所は言って、手に持ったファイルを開けた。

「会社の制度を利用して資格も取得している。時折、会社への提案や要望書も提出している。
営業部と経理部の調整もした」

ファイルを繰りながら、「こういう社員の方は少ないんです」と田所は言う。

「私個人としては仁科さんの総合職取得は応援しています」

「ありがとうございます」

「それだからこそ来年度は秘書課への移動を決定するつもりです」

そこで田所は口の端を上げて真理亜を見た。

「1年間、会長秘書として頑張ってください」

「えっ・・・?」

真理亜は思いがけないオファーに唖然として、悪戯小僧のような田所の笑いが徐々に広がるのを見ていた。

「口を閉めたほうがいいですよ、仁科さん」と言われて、首から顔に向けて徐々に赤みが広がるのを感じたほどだ。

「今年担当秘書が辞めてからはスタッフが持ち回りで担当しています。
会長は毎日会社に出社しません。用事のある時だけになります。
今はそれでなんとかなっていますが、来年度は少しばかり出社する必要があるので
専任秘書が必要なんですよ。
おそらく新しい秘書の試験勉強に支障がない程度だと思います」

「そうですか」と真理亜はまだ上手く回らない頭で頷いた。

「秘書課へ移動していただけますね?」

「あ、はい」

ヘンな返事になってしまったので、「申し訳ありません」と真理亜は小さな声で謝った。

「では、辞令がでるまではオフレコでお願いします」

田所は外で真理亜がいつも見ている笑顔を見せていた。

「はい。よろしくお願いします」

「では、今日はこれで。私もこれで安心できました」と田所はファイルを掴んで立ち上がった。

真理亜も立ち上がってお辞儀をする。

会議室のドアノブに手をかけたところで田所は振り返った。

「今日は残業の予定か?」

急にいつものくだけた口調になった。

「いえ、何事もなければ定時です」

「そうか・・・。Angel Eyes に行く予定なのか?」

「はい」

「少し遅くなるけど、私も行くつもりだ」

「はい」

「ちょっと話がしたい。この件も関係してる」

社内では話し難いことなのだろうか。

「わかりました」

「じゃ、後で」

と言って、真理亜が見送る中、田所は先に会議室を出て行った。

今の時期、人事が忙しいのはわかっている。

真理亜はゆっくりと夕食をすませてから Angel Eyes に向うことにした。




いつもより遅い時間に Angel Eyes の扉を開けると、カウンターが満席なのが見えた。

中に入ると、テーブル席も空いてないようだ。

クリスマス直前の金曜日、さらには明日から三連休だ。混ないわけがない金曜日の夜だ。

真理亜の姿を見つけた譲二がすぐに近づいてきて、「ごめん、ちょっと待っててくれる?」と言って、カウンターの端に臨時の椅子を置いた。

「こいつらが嵩張るんだよ」と睨むお客を見ると、賢吾が同僚と数人で並んで飲んでいる。

賢吾も真理亜に気がついて、「お、仁科も来たか。ちょうどよかった」と声をかけてきた。

賢吾の周りで飲んでいる人たちが、「あ~、仁科さんだ~」とか「お疲れさまです」と口々に真理亜に声をかける。

真理亜も会釈をしたものの、所在無くお絞りを広げて手を拭いた。

「あいつらに構うなよ」と譲二が笑いながら真理亜の前にコースターを置く。

賢吾は「一緒に飲もうよ。忘年会しようぜ~~」と真理亜に声をかけてくる。

「あ、私はあまりゆっくりできないので・・・」と真理亜が言うと、「待ち合わせか?」と賢吾が聞く。

「まぁそんなところ」とお茶を濁して真理亜は水割りに口をつけた。


満席の上に賢吾の姿を見つけて、ここに田所が来るのは不味いんじゃないかと思い、真理亜は急いで携帯を取り出した。

『今、Angel eyes に到着しました。満席のうえに会社の人たちが数人居ます。
場所を変更したほうがよさそうです』

とメッセージを送ると、しばらくして田所から返信が届いた。

『30分くらい後に連絡する。すぐに出られようにしておいて?』

『了解です』

田所と連絡がついたことで真理亜はほっとして、それからゆっくりと時間をかけて水割りを飲んだ。


『今そちらに向ってる。店を出てそのまま車に乗れるように信号の手前に居てくれるかな』

そういうメッセージが届いたのは40分ほど経った頃だった。

「ごめんな。落ち着かなくて」と譲二が謝るので、「一年で一番忙しい日じゃないですか。またゆっくり来させてもらいます」とお会計を済ませると、「デートだろう~?」と五月蠅い賢吾たちを適当にあしらってから店の外に出た。

いつも田所に送ってもらう交差点まで出ると、タクシーが近づいて停まった。

邪魔になってはいけないと移動しようとした真理亜に、「待たせたな」と言う田所の声が聞こえた。

「乗って?」

「あ、はい」

真理亜が座るために奥に移動した田所からは少しアルコールの臭いがした。




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