カンナ

Gardenia

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第二章

2-28

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夕暮れのクルーズは天候に恵まれたこともあってすばらしいものとなった。
人数は朝のメンバーの半数にはなったが、のんびりとシャンパングラスを空けカンナのアイデアのオードブルをつまみ、潮の匂いや風を感じながらただ暮れゆく海を楽しんだ。

実際にはマリーナのスタッフが舵をとりオーナーとゲストはシャンパンとワインで酔っ払っているだけとも言えるが、カンナがヨーロッパで体験した船上パーティとはかなり違う趣きがそこには在った。

陽も沈んで空に星が数えられるくらいになる頃、大きなヨットは帰り支度を始めた。
帆を畳みエンジンだけでまっすぐに帰路を進む真っ白な船は流れるようにマリーナを目指している。
ワインで火照った頬に風をあてようとカンナは船首に近づいた。
しばらくするとワイングラスを持った田所が横に並んだ。

「気分は?」と田所が聞いてくれる。
「少し酔ったわ」
「船酔いじゃないよね?」
「それは大丈夫みたい」
「じゃ、もう少し飲んでもいいな」とカンナにワイングラスを手渡した。

「今日は料理してくれてありがとう」
「どういたしまして、私は見本を作っただけであとは田中さんたちが作ってくれたもの」
「それにしても驚いたよ」
「私がお料理することが?」
田所がそれには何も言わずにニヤニヤしている。
「最近ちっとも自分でお料理してないから段取り悪くて・・・」
「田中たちに任せるのもいいんだけど、毎回同じようなものになるからね」
「喜んでくれたならよかったわ。私も気分転換になったし」

「それに、こんなステキな船でステキな一日をどうもありがとう」とカンナがお礼を言うと、
「楽しんでくれているなら甲斐があるよ」
今朝のセーリング予定が少し変わったことを気にしているのかもしれない。
「今日みたいな夕陽を見たら、どうでもよくなっちゃうわね」そうカンナは微笑んだ。

毎日張り詰めて神経質に会社の状況を気にしている毎日も、家にも帰らずホテル住まいの生活もあまり気にしている暇もなかったが、そういう日々が一時的にしても遠くの出来事のようになっている。
そして月曜日になればまたいとも簡単にその日常に同化していることだろう。
ほんの僅かな時間の都会からの逃避だけれど、海の風に吹かれ少しベタつく髪も足の下からわずかに響くエンジンの振動も今は楽しめるような気がした。

田所はカンナのグラスを持っていない手をとり、「夜の海は危ない。しっかりつかまっておくんだよ」と近くの手すりの上に置いた。
カンナはわかった印に頷いて、前を向く。
マリーナの灯りがかなり近づいてきていた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

マリーナに到着すると田中が迎えに来ていた。
スタッフ達が荷物を降ろしている間に、ゲストたちは挨拶をしてそれぞれ帰っていった。
田所とその同級生のバーテンダーとカンナは田中の運転する車で別荘に戻った。

リビングで待ってるよという田所の言葉に頷き、割り当てられた部屋でシャワーを浴びると簡単に化粧をしようと鏡を見た。
気はしっかりしていると思ったがクルーザーで結構な量のワインを飲んだ。
化粧ではカバーできない頬の赤みを掌で軽く押えてからファンデーションを軽くつけた後、淡い色ではあるがルージュだけをしっかりのせ、あとは軽く仕上げて化粧を終えると、洗濯物やポーチをバッグに詰めた。

そのバッグも携帯電話も部屋に置いて身ひとつでリビングに向うと、すでに田所と友人のバーデンターがワインをセレクトしているところだった。
彼らもシャワーを浴びたらしい。もう海の匂いは消えていて爽やかなオーデコロンの匂いが微かに漂っている。

「まだ飲むの?」とカンナが声をかけると、「どうせもうこんなに飲んでるんだ。運転できないんだし今更だろう」と笑いながら田所はワインのラベルに目を戻した。

「カンナさんは何がいいですか?」とバーテンダーが聞くので、「赤」とだけ応えると彼は田所が手にしていたボトルを取り上げ、「やっぱりこれだろ」と開封の準備にとりかかった。
田所は「ちぇっ、良いのを知ってるよな」と言いながらもグラスを出している。
テイスティングを終えてからまずカンナの持つグラスにワインが注がれた。

先日田所に連れられて行った地下のバーのオーナーでもある同級生は伊集院と名乗った。
「悟朗ちゃんと呼んでやってよ、こいつのことは」と言う田所に、「もう酔ってるのか」と嫌そうな顔で伊集院が返した。
カンナがくすりと笑うと田所はさらに調子に乗って悟朗をからかう。
幼馴染である彼らの思い出話を聞きながら、ワイングラスを揺らす。

彼らが通った幼稚園から大学まである有名なその学校名に驚きながら、悟朗がその学校に通った理由にもまた驚いた。
「悟朗はこう見えてもボンボンなんだよ」
「別にそんなじゃない。家から一番近い学校だったからだ」
ほんとうに通学に楽という理由で選んだようだ。

「しかも成績は...ピンかキリか。波乱万丈だったよな」
「ふん、勉強なんかしたことないぞ」
「やばかったのは成績じゃなかったな。確か出席日数が危なかったっけ」
「あぁ、あの時はうちのじいさんが怒って、留年は絶対に許さんというから困ったんだ」
「で、こいつの親父もじいさんが怖くてさ、学校の隣の土地を寄付するから卒業させてくれと頼んだんだよな」
「学校より面白いところがたくさんあったんだから仕方ないだろ」
「それにしても、受け取る学校も学校だよな」
「おかげで親父とじいさんには頭あがんないよ」
「あがんない割には言うこと聞いてないよなぁ」
「聞くわけないだろ。それよりも・・・、お前はまったく子供のころから優等生だったよな」
田所はそれには応えずにグラスを持ってにやにやしている。

「こいつはいつも本を読んでいて、周りを静かに眺めているような暗い男だったんだよ」
そう伊集院がカンナに言うので、「確かに物静かだとは思いますが・・」と相槌を打つと、
「そうだろ、そうだろう。でもさ、あの学校で物静かってかえって目立ってたんだよ」
確かにそれはあるかもしれない。

「ボート始めてからちょっと変わったかもな」伊集院がそう言うと、田所も「あ、それはあるかもしれないな」と頷いた。
「ある日、たまたま暇してた悟朗をセーリングに誘ったんだ。それからこいつも嵌ってさ」
「暇じゃないさ。ただ、葉山でボート遊びとなると女の子にウケがよかったからなぁ」
「いやいや、二人とも結構ストイックに打ち込んでたよ」
「それはお前だけだろ。俺はそんなでもなかったよ」

幼馴染である彼らのやりとりを聞きながら、カンナはワインを少しずつ飲んでいた。

「うちはさ、親父も兄貴もあのとおり派手な人たちで、家でも結構態度がでかいんだよ。まぁ、尊大というのかな、そういうスタイルが好きなんだ」
田所の父親と兄は企業弁護士として業界は有名で、加えてテレビや経済士への出演も多く一般への知名度も高かった。
「兄は秀才肌で僕は並。そのうち期待もされくなって、困った子だなという目で見られることはあったけど家の評判さえ落とさなければいいというのはわかってたからそれなりの処世術も身についた」
そこまで言って田所はグラスのワインを煽った。

「ほら、もっと飲め」と言って伊集院が田所のグラスに注ぎ足す。
「でもさ、お前は並じゃなかったはずだ。確か成績はいつも上位グループだろう。ヨットでもかなり良いところまでいってたんじゃないか?」
「上位グループでも一位にはなってない。それをうちでは並というんだ」
笑いながら田所が言うと、
「まったくお前の家族は出来すぎだよ、みんな」と伊集院が顔を顰めた。

「一時は検事になろうかと思ったことがあったんだ」
「裁判官もいいじゃないか。似合いそうだ」
「ああ、もちろんその道も考えた」
「結局、何故親の事務所に?」
「やはり弁護士ばかりの家だったから物心ついてからずっと法律とか裁判の話を聞いて育ったからなぁ。弁護士という響きが一番しっくりくる。
それに父親も兄もあのとおり派手な法廷弁護士で事務所内のことはあまり目が行き届いてなかったから、僕がのんびり好き勝手できるかなと思ったのもあるな」
「なんだい、そんな理由か」
「役所勤めの堅苦しいのも考えものだ」
最後は笑いながら田所はそんな話をした。

「もう1本いいか?」
伊集院はそう言ってワインを選ぶために立ち上がった。
リビングとダイニングの間にドリンクカウンターがあり、酒類はそこにまとめて置いてあるようだ。

「どう?」と田所がカンナに話しかけた。
「僕のこと少しずつ知ってもらえてるかな?」
カンナは首を傾けて「今日はかなりのことがわかったわ」と答えた。

「もっと知りたいかい?」
田所の意図がわかりかねた。というよりも解って返答するよりも曖昧なほうがいいような気がした。
すぐに答えないカンナに田所が更に口を開こうとしたとき、伊集院がワインボトルを持って近づいてきた。

そのボトルを見て田所は、「あ、そんなワイン開けちゃって・・・」と大げさに眉間に皺を寄せる。
「一度飲んでみたかったんだよ、これ」
「お前なぁ~、ま、親父のだからいいけどね。お前が叱られろ」
「まあまぁ、もう開けちゃったんだし飲もうよ」

換えのグラスも持ってきて、均等に注いでカンナにも渡してくれた。
軽く寒梅の動作をしてそれぞれがワインを口に含む。
喉を通るそれは優しいアロマの後にくる力強さが長く尾をひいた。

カンナがその飲み口に感心してグラスの中のワインをまじまじと見ていると、
「どこで、ワインの飲み方を覚えたの?」と伊集院が聞いて来た。
「何処と言われても・・・。いろんなところで飲むうちに、でも主にヨーロッパかな。もちろん東京でも。贅沢をする機会があったから」

「でも、それほどお酒に強いわけじゃないでしょう?」
「ええ、だからほとんど食事の時に飲むくらいよ」
そう答えると、伊集院はカンナと田所に今飲んでいるワインの産地や葡萄について簡単に説明してくれた。
だが伊集院の声がカンナの頭の中を素通りしていく。
カンナはいつもそうだった。ワインの銘柄を覚えられない。
飲み進むと酔っ払って記憶できないのだ。

それに気が付いたのか、「おい、このレディーを部屋までお送りしろよ。もう半分眠ってるぞ」と伊集院が田所に言っている声が遠く感じられる。
田所に腕をとられて椅子から引き上げられたあと、なんとか「おやすみなさい」と伊集院に挨拶してリビングをあとにした。




寝室の前で「歩けるくらいだから大丈夫そうだね」という田所に、「眠いだけよ」と短く答えると、「酔った貴女もステキだな」と田所は顔を近づけてきた。
カンナの目を覗き込み、「どう?もっと僕のことが知りたいかい?」と先ほどと同じようなことを聞いてくる。
カンナが答えずに居ると、「僕のことを知って欲しい、もっと僕の傍に来て欲しいと言ったら貴女は困る?」

「私、よくわからないわ」ようやくカンナが言うと、
「僕の気持ちがどうあれ、貴女は実家に家を建てることをやめない。
きっとそうするんだろうね」

何も答えないカンナをしばらく見つめてから、田所は「おやすみ」とカンナの口元に軽いキスを落として伊集院の居るリビングに戻っていった。

告白されたとは思うものの、田所の気持ちが何処までのものなのかカンナにはよく解らなかった。
輪郭しか捉えられないそんな相手にどう応えろというのか。
そしてカンナには田所の個人的な日常に入っていくつもりはなかった。
私は私、田所は田所の世界がありその二つは癒合しそうにないと思いながら目を閉じた。






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