和と妖怪と異世界転移

れーずん

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 藍葉が続きを話し始めたので、美月はいったん思考を置いた。

「そして、人間界への門がひらいた日。ワシと白龍は、桜子を門のところまで送り届けようとした。しかし……」

 彼女が面持ちを曇らせる。顔を伏せ、前髪を掻き上げて継いだ。

「あいつは……桜子は、事もあろうに帰りたくないと言いよった。ワシと白龍は、それはもう戸惑ったもんじゃ。あの頃の桜子は、たしかまだ十三じゃった。妖怪が跋扈する異界にとどまることを受け入れてまで、自分の世界に帰ることを拒むには、いささか――若すぎやせんか?」

 藍葉の声音には、まだ困惑がにじんでいるように聞こえる。彼女は今もまだ、この点においては桜子を理解することが出来ていないのかもしれなかった。

「白龍は、とりあえずもうしばらくは様子を見ようと言うてきた。帰りたがらんやつを強引に帰すのも気が引けるし、ワシも黒龍もその考えを受け入れ、そうして桜子が自然と帰りたいと思うようになるまで保護を続けることにした」

 そこで、藍葉は浅いため息を吐く。それは桜子に向けてのものというより、自分自身に向けてのものであるように見えた。

「だが……いつまで経っても、桜子がそれらしい態度を見せることはなかった。あいつが異界に来てから、半年ほどした頃かのぅ……ワシは、白龍とも相談して桜子を巡回の仕事に同行させることにした。あいつには、おおらかな白龍との長い時間が必要なんじゃないかと思うた。まぁ、少しおおらかすぎるところはあるんじゃが……」

 そこで、彼女はかすかに声の調子を落とした。視線をさげ、今まで以上に真摯な語気で語る。

「それから……異界がどういうところなのかを桜子に教えたかった、というのもある。どんな妖怪が多いのか、時折迷い込んでくる人間が――どうなるのか。ワシや龍と交流しとるだけではわからん、異界の本当の姿というやつをな」

 あぐらをかいた足の上に肘を置き、それで頬杖をついていた紅希が片眉を上げながら訊いた。

「で、その結果は?」

 藍葉は肩をすくめる。

「もとが真面目なやつなのか、巡回の仕事を見事に手伝ってくれとるよ。それから……なにかあったときの備えのために、あいつには少量の魔力を分けてやっとるんじゃが、これもうまいこと使いこなしよる。最近じゃ魔力の扱いも慣れたもんよ」

 葵があごに指を添えて呟いた。

「それほどの子が、人間界に帰ることを拒んでいるのか……」

 ああ、と藍葉は頷く。

「ひとの心は複雑怪奇じゃ。……しかし、どれだけ魔力の扱いがうまくなろうと、人間は人間じゃ。龍の庇護下を離れれば、その身はたちまち妖怪に食われることじゃろう。人間が生きるには、異界は危険が多すぎる」

 彼女は遠くを見るような眼差しで、夜空を見上げた。その横顔には、桜子を想う慈愛がたしかに宿っていて、どうしてか、美月は見てはいけないものを見てしまったふうな気持ちになる。

「……出来ることなら、人間界で穏やかに暮らしてほしいんじゃがのぅ……」

 ひとりごとに近いそれは、夜の静寂に溶けていった。美月も紅希も葵も、なにも言わなかった。――なにも言えなかった。

 藍葉はしばらく空を眺めていたかと思うと、顔を美月に向けて切り出す。

「……だから、お前に協力を求めたい」

 まさか話題が自分に向けられるとは思わず、美月は驚いて目を丸くした。

「……わ、私……ですか?」

 藍葉は首を縦に振る。

「お前をこっちに巻き込んだのはワシみたいなもんじゃから、その上、協力まで要請するのは心苦しいんじゃが……」

 視線を逸らし、苦悩の表情を見せてから、彼女は再び目を美月に戻した。

「……ワシら妖怪では、あの子の気持ちに寄り添いきれん。あの子の気持ちを真に理解せんことには、ちからになることなどとても出来んじゃろう」

 藍葉は体の向きを変えて、美月を見据える。金色の美しい瞳が、真剣な感情に揺れていた。

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