かいしゅうやさんのしごと

佐藤さん

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回収屋ログ

大いなる下地

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2026.2.15





 隔離地域の外縁、防壁の影に隠れるように建つ雑居ビル。
 その三階にある男の事務所がある。だがサヤカが家庭の事情で帰省している為、しばらくは孤独と静寂に包まれていたはずだった。

「……はぁ。」

 男が「零式」の腕を隠すように重いコートを羽織り、深い溜息をして扉を開く。
 鼻を突いたのは鉄錆の匂いではなく、安物のインスタントラーメンのジャンクな香りだった。

​「おっ、おかえり! 所長! 今日は早いね!」

​ 散らかったソファから、金髪の頭がひょいと現れた。
 カイト、23歳。
 数週間前、北野病院の埋葬を終えた直後、神経負荷で意識を失った男を担ぎ上げ、ドブ川から拾い上げた「自称・期待の新人(カシワギサヤカ談)」だ。

​「またお前……勝手に食うなと言ったはずだ、カイト。」

​ 男は低い声で言い、コートを脱ぎ捨てた。剥き出しになった右腕の鋼鉄のフレームが、蛍光灯の下で鈍く光る。
 カイトはそれを見ても、驚く風でも、怖がる風でもない。ただ、麺を啜りながら陽気に笑った。

​「固いこと言いなさんなって! 拾った命なんだから、事務所の備蓄くらいはシェアでしょ?」
「___」
「な、なんだよ…そんなに珍ラーメン食われるの嫌だった?」

 じっと男はカイトを見て思い出していた。初めて事務所の扉を開いた時、義手を見て「かっこいい!!」と喚いた事があった。その反応を懐かしんでいたのだ。

「なんでもない。」
「ふーん………あ!てかみてよ!俺の最新カスタム!」

​ カイトが自慢げに見せたのは、スカイフックを模して作った自作のストックだ。無論電磁発生機構など入っているわけもない。

「どうよこれ。なかなかよくない?」
「また安物買っていじったのか。途中で折れてもスカイフックは貸さんぞ。」
「違う違う!まぁね。スペックについてはね。つぎの仕事で見ることになりますよ……」
「よくわからん配信者の真似をしやがって。」

 小五月蝿いカイトは男の反応を見て笑う。だが彼の持ち味は明るさだけではないことも、男は知っていた。

(あんな細い腕で…俺を抱えて隔離地域をでた…んだよな。)

 「安物」を、持ち前の馬鹿力と、どこから湧いてくるのか分からないド根性で使いこなしていた。
 男は椅子に深く腰掛け、カイトの事について考えを巡らせる。
 カイトは、男が「3908」という名実ともに日本初のサイボーグであることも、佐藤や畠中1佐、ましてや「隔離地域協会」という巨大な利権の渦中にいることも、一切知らない。
 彼にとって男は、ただの「死に損ないの、腕がゴツい無愛想なおじさん」でしかないのだ。

(わざわざ聞いてこない辺り、気を使ってもいるんだろうな。) 

 男はタバコを加えて火を付ける。するとカイトはまるで尻に火がついたみたいに反応をする。

「あっずっりーーーい!!事務所、禁煙ってサヤカちゃん言ってたぞ!!!」
「あーーそうだなぁそうだった。そう言えばそんな事あったなぁ。てか、カイト。お前はなんで俺を拾った」
​「なんだそのテキトーな切り返し…… そりゃあ仕事なかったし、危険手当めちゃくちゃ高かったんだよね。」

 カイトは話の折を見て、最後の一滴までスープを飲み干す。

「後は御縁ってやつかな?この事務所、立地最高だし。貧乏人には背に腹は代えられないってやつ?」

​ カップをレジ袋に入れてしばり、テーブルに置かれた封筒を指差した。

「それより仕事だよ仕事。環境省からの委託だってさ。サヤカちゃんがさっき事務所来て置いてったよ」
「ば、馬鹿野郎!そういうの俺が着たときに言うもんだろうが!!!」

​ 男はタバコを灰皿に入れて消し、封筒を手に取り、中身を確認した。
 依頼主は環境省。内容は『環境調査(ダイブ)』。

「ダイブか。最近こういうの減ってたな…。」
「ダイブって何だそりゃ。」
「お前…この前教えただろ。指定区域の探索の事だ。調査、追跡、環境分析とかそんなのもダイブになる。」

 ちょっとした講座を終えて、視線を用紙に戻す。
 どうやら最近ではドローンや遠隔観測機での調査が主だったようだが、それらがことごとく消失しているという。

​「……分析器の貸し出し委託か」

​ 封筒の底には、重厚なアルミケースの受領証が入っていた。
 中身は、環境省が開発した最新の分析計。これを現地の特定ポイントまで運び、数時間の連続観測を行うのが今回の任務だ。

​「特定の場所ってのが_____」

 淀川最深部、かつての大規模浄水場付近。ここは回収屋では不可侵とされる程のデッドスポットだ。
 あまりに無謀な内容に、男は開いた口が塞がらない。

「どうしたの所長…。」
「あいや…少しな。難易度が跳ね上がる。」
「…ここってそんなにやばいの?」
「まぁ調査の準備の段階で、情報収集はするが、俺が知ってるままの通りならやばい。アソコはウィルスの空気感染も確認されてるやばい場所だ。」

 あそこにいるのは獰猛な野生化生物だけではない。今も尚、踏み入れた回収屋がウィルスに感染したことが認められる程の地域になる。
 男は思案した。おそらく分析が進まないのも、必要な場所まで荷物届けられてないからだろう。

「断るべきか否か…しかし報酬は美味い。」

  男が小声で呟くと、カイトがパチン、と指を鳴らした。

​「だから俺たちが選ばれたんでしょ! 所長の回収屋としての腕と、俺のド根性。環境省の役人どもは、自分たちの代わりに死んでくれるバカを探してた。俺たちは、その代わりにお金をたっぷり貰う。ウィンウィンだね!」

​ カイトの底抜けの明るさは、時として男の神経を逆撫でするが、今の彼にはその「無知な陽気さ」が、毒消しのようにも感じられた。
 裕二を失い、復讐のために人間を辞めた自分。
 そんな重苦しい背景などお構いなしに、ただ「今日の金とメシ」のために笑う若者。

「ふん。ここまで腹括ってる奴への心配は、無粋だな。」
「なんか言った?」
​「いいや、なんでもない。とにかく研修期間は終わりだ、カイト。明日、ダイブに出向く。失敗すれば、お前のその安物ギアと一緒に、ドブ川の藻屑だぞ」

 テンションが上がり、カイトはジャンプして喜んだ。

​「望むところだね! ヨッシャア、そうと決まれば景気づけに、もう一杯ラーメンいっとく?」
​「……二度と俺の備蓄に触るな」








 


​ その夜、男は事務所の窓から遠くに見える隔離地域の「壁」を見つめていた。
 空はどんよりと曇り、時折、物理法則を無視したような奇妙な雷光が雲の裏側で明滅している。
​ 右腕『零式』が、わずかに熱を帯びた。
 カイトは隣の部屋で、鼻歌を歌いながら自分のギアに油を注している。
 下手なBGMを聞きながら、サヤカの声が出力される。
 
【所長、やはり環境省から依頼を受けた回収屋が入山したみたいですね。】
「やっぱりな。」 

​ 男は耳に当てたスマホを握る。

【当該地域についての詳細は…ないですね。】
「了解。休んでるのに悪いな。」
【大丈夫ですよ。どうせ暇になりそうでしたし、お金、もらえるなら仕事は欲しいですからね。】
「ま、とりあえず明日のオペは頼む。」
【あ!そういえば事務所どタバ_____】

 男は通話を切る。そして明日について少し、思案を巡らせる事にした。なぜなら明日のダイブは、これまでの「回収」とは質の違うものになる。
 環境省が慌てて分析器を持ち出すほどの、異変。それは男が北野病院で感じた違和感、変異を見せる動物たち、なんのお膳立てなのだ。


​「所長ー! 準備万端! 明日は俺が先陣切るから、後ろでしっかり守ってよ!」

 する壁の向こうからカイトの能天気な声が響く。
​「……死ぬなよ、小僧」

​ 男は短く応え、キャッツアイのバイザーを磨いた。













​2026.2.16 午前9時






 隔離地域の外縁を覆う霧は、昨日よりもさらに濃度を増していた。
 男は事務所の簡易ベッドから音もなく起き上がり、重厚なタクティカルスーツに身を包む。右肩の『零式』が、駆動音一つ立てずに接続部のチェックを終えた。

​「……おい、いい加減起きろ。」

​ 隣のソファで、派手なオレンジ色の寝袋にくるまっていた金髪の塊を蹴り飛ばす。

​「うわぁっ!? ……あ、おはよう所長。早すぎない? まだ夜だよこれ。」
「朝だばか!俺共々遅刻だわくそッ…またサヤカに怒られるぞこれ…」

 カイトは目をこすりながら、寝癖だらけの頭を掻いた。
 そんな怠慢をさらけ出していると、耳元に怒りの関西弁が忍び込む。

【それはそうどす。】
「…すみませんでした。すぐ向かいます。」

 誰もいないのに男は頭を下げる。その姿を意に介さず、眠気に負けていた目には数秒後、「仕事」の光を宿している。
 彼は関節に対してテーピングを施し、上からダクトテープの補強箇所を念入りに固めた。

​「よし、ド根性注入完了! 行こうぜ、デッドスポット!」
「人の気も知らんで。」

​ 事務所を出て、環境省の管理区域へと向かう。いつも通りの道でだ。
 チェーン店で朝飯を食い、領収書を受け取って、世界を隔てる隔離地域の門に辿り着く。
 そこにはいつものように、太陽の光を浴びて元気が溢れている顔馴染みの自衛官が立っていた。

「よぉ!今日も遅刻だなぁ大将。」
「いい加減その言い方はやめてくれ。」
「なら名前くらい呼べよな。年始からの付き合いだろう?」
「俺の名前も知らんだろ。」
「じゃあそれも教えろ。」
「嫌だね。」

 まるで兄弟喧嘩な様子を傍目に、カイトは啞然と立っていた。

「お前のとこの所長、ツれねぇやつだ!なぁカイト!」
「まぁそこが可愛いとこだよね。ツカッチャンにはない部分だよ。」
「その言い方はやめ_____」

 自身がそのままそっくり同じ事を言わされたと自覚すると、ツカッチャンは笑い、カイトはニヤついている。
 カイトは言葉遊びが好きだ。それに伴って相手にそのまんま返しをするのが大好物という悪食だ。
 
「頭のいい男だ。3908には宝の持ち腐れだぜ。」
「そうか譲るつもりはない。」
「はいはいそれならお仕事だな。おっと忘れてた…ゲートを開いたらすぐ右にいけ。」

 男は突飛な言葉に聞いたときに、頭の中に浮いてきたのは年始の事だ。ボロボロになった時、ツカッチャンこと塚本がコーヒーを出し、雨風をしのいでくれた事をだ。

「ベンチか…。」
「そこに連絡されたものがある。大事に扱え、人生10回分の年収が必要になる。開けるぞ!」

 ツカッチャンは首から掛けていたスイッチを押す。すると身の丈を遥か超えるゲートは自動的に開いた。
 男達はもう見知った光景で驚きもせず、そのまま進んだ。ゲートを潜った所で、日本側から声がとんだ!

「おい!大将!ちゃんと帰ってこい!またコーヒー飲ませてやるからよ!!」

 男は手を上げて返事をする。カイトはその光景が嬉しくてたまらず、また得意のニヤついた顔を晒した。

「なんだ?」
「日進月歩!」
「煩いぞ。」

 言われた通りに2人は右に曲がり、茂み開く。そこには頑丈なペリカンケースが寝込んでいた。

「これが分析器?」
「…ライフルには見えないだろう。」
「まぁ確かに。多分。」

 男はペリカンケースのロックを手慣れた手つきで外し、蓋を開く。
 グレー色のスポンジ質緩衝材に埋まるのは、銀色の光沢を顕にする三つの棒、それを端で連結させる金属の板、そこから線がつながり、グリッド線が画面に刻まれたテレビのリモコンのような測量機器だった。

「なんだこれ…サヤカ聞こえるか?」
【ええ。詳細を確認しているんですけど、分析機器としか…】

 電子機器に造詣が深いわけではない。だが機械を見れば何に作用するものか想像がつくが、男の目にもカイトの頭でもわかりはしなかった。

「所長。このリモコン、隔離地域のどっかで見たよ。」
「どこでみた。」
「地下鉄難波付近。」

 ウィルス騒動の前、その先触れだとする事件があった。
 旅行帰りの老婆がホームで突然倒れ、時を同じくして乗客も倒れた。赤い発疹と呼吸器不全、そして意識不明になり死ぬ。
 ウィルス性の物だったが、同時はアプローチが間違っていた。1度目に検知を失敗し、2度目で使われたもの。それは放射線という疑惑だった。
 男はそれを知っていた。世間を賑わせるには充分な程の話題性だったからだ。

「ガイガーカウンターか。確かに似てるが…」
「なにそれ…。」
【放射線検知器って知ってる?】
「高く売れるのは知ってる。」
【……………まぁいいわ。キャッツアイからビジュアルを受け取ってる。調べてみるわ。】

 耳元で流れる会話を取外ため、男は唇を指でなぞった。

「これはそれと似てる。だがこれはいくら何でも不自然だ。それにこの棒_____」

 気になるのはグリッド線の画面にも、スクリーン周りの外装にも数字がないことだ。
 男は察してしまった。これはつまり、現場で確認する必要がないとうことだ。

「オフラインじゃない。俺のゴーストラインを通じて、誰かが観てる。」














​ 隔離地域の「壁」に埋め込まれた特別監視室。
 そこは外世界の喧騒が嘘のように静まり返り、空調の微かな動作音と、サーバーラックが吐き出す冷却ファンの唸りだけが、この部屋の「生」を証明していた。 
​ 正面の巨大なマルチモニターには、淀川最深分である浄水場跡の惨状が、複数のスペクトル解析と共に映し出されている。

 部屋の中央、仁王立ちで画面を睨みつけていたのは、畠中良一1佐だ。
 畠中は少し息を吸って、誰に言うでもなく話す。

「3908はどうなっている。」
「現在ゲートを進んで、機材を受領した所です。」

​ 端的な会話に割り込むように、電子ロックが鋭い音を立てて解除された。
 入室してきたのは、場違いなほど優雅な足音を響かせる一団。先頭を歩くのは、環境省長官、天司ミカ。
 彼女は長い黒髪を完璧にまとめ上げ、タイトなスーツに身を包んでいる。その瞳は、獲物を値踏みする鷹のように冷徹さをあらわしている。
 天司ミカは辺りを見回した後で、畠中を見つけて歩み寄る。

​「お待たせしましたね、畠中1佐。現場の空気は、相変わらず張り詰めていますね。」

​ 彼女は微笑さえ浮かべず、畠中へ右手を差し出した。畠中は硬い顔を緩めて笑顔を取り繕い、手を握った。

「よくお越しになりました。緊張感があるのは良いことです。大事なのはオンとオフの切替ですよ。」
「それはそのとおりです。ここの人達はそれすら忘れてるみたいですが…。ドブネズミまで居そうですね。」

 まるで上から眺めているような物言いが、畠中の逆鱗に触れた。

​「……長官。環境省が、わざわざドブネズミの巣窟まで視察とは、ご苦労なことです。我々のような泥臭い我々には、官僚特有の『香水の匂い』は少々刺激が強すぎる」

​ 握手の感触は、互いの手の内を探り合うような、短く、硬いものだった。
 天司の手は驚くほど冷たく、死者の体温を連想させた。彼女の背後には、厚い眼鏡をかけた二人の若手分析官が、軍事用の強化ノートPCを抱えて、まるで機械の一部のように控えている。

「失礼しました畠中1佐。失言を。」
​「…それで要件は、デッドスポットにおける放射線暴露の実態調査、および環境汚染の越境流出阻止でよろしいんでしょうか?
「そのとおりです。淀川浄水場周辺の数値がこれ以上跳ね上がってるのはご存知でしょう?壁の外へ漏れ出せば、内閣の支持率は数日で底を突くでしょう。我々も必死なのですよ、畠中1佐。」

​ 天司はそれだけ言うと、優雅な動作で、操作卓の前に座る三名の自衛隊員たちの背後に立った。彼女の視線は、既に「3908」が映るモニターへと釘付けになっている。 
 その裏では、彼女が連れてきた分析官たちがキーボードを高速で叩いている。

「天司長官…。」

 畠中はわざわざ天司に近寄り、小声で問いかける。

「…何でしょうか?」
「貴方がどう考えてここに立っているか知っているが、本意が聞きたい。何が見たいんだ。」

 天司ミカの問いに、畠中は答えなかった。

「インフラ関係のものは1年前に処置済み、デッドスポット付近の観測機も動作不良がないと報告している。なのに着た。何が目的なんだ。」

 ただ、モニターの端で必死にケースを抱え、安物のギアを軋ませながら奮闘するもう一人の男、そしてカイトの姿を、天司は鋭い眼光で捉えていた。
 畠中は反応を示さない天司にシビレを切らした。

​「……政治ゲームは壁の外でやっていただきたい。」
「疑り深い男は聞いていたけど…全くしつこい男ね。」
「それはそうだろう。あの分析器はなんだ?あんな物は見たことがない。」
「最新鋭の観測機です。それ以外に知る必要が貴方にはない。貴方だって人に言えないことくらいあるでしょ。」

​ 監視室の壁には、環境省の紋章と、自衛隊の徽章が並んでいる。
 しかし、その協力体制は、薄氷の上に立つ危うい欺瞞に満ちていた。
 男たちが浄水場の深淵、もはや人知の及ばぬ領域へとダイブするにつれ、この密室の空気もまた、窒息しそうなほどの緊張感と、隠しきれない野心の匂いに包まれていく。













 見た目は無骨なトランクだが、中には国家予算数億円分と言われるセンサーの結晶が詰まっている。

​「重てぇ……。これ、本当に俺たちが運ぶの?」

 カイトが両手で抱えようとして、その重さに顔を歪める。

​「俺が持つ。お前は周囲を警戒しろ。……いいか淀川最深部は逃げ場がない。水辺の生物は、陸上の奴らより数段厄に見合ってるからな。」

​ 男は重いケースを、まるで羽毛のように右腕で掴み上げた。鋼鉄の指先がケースの取っ手に食い込み、シリンダーが微かに唸る。
 二人はかつての「日常」が完全に死に絶えた淀川の土手へと足を踏み入れた。

​ 1時間程歩いて土手を越えた先、目に飛び込んできたのは、男の記憶にある淀川とは似ても似つかぬ光景だった。
 川面はどろりとした赤茶色に変色し、水面からは紫色のガスが、まるで意思を持っているかのようにゆらゆらと立ち上っている。

​「……うわ、何これ。煮込みすぎたスープみたいじゃん。」
​「整備されてなきゃ汚泥と死体でガスを出す。……ふざけてる余裕はなくなるぞ。」

 男はペリカンケースを開いて、謎の分析機器を起動させた。すると青く丸いボタンを押すと、三つの棒が傘のように開いて空に上った。

「サヤカ、聞こえるか。ポイント・アルファで起動させた。分析機器をモニターして状況を報告しろ。」

​ 男が耳元の通信機に触れると、帰省中のはずのサヤカの、少し不機嫌そうな(おそらくタバコの件を根に持っている)声が返ってきた。

​【……すっご。国家機密レベルの暗号回線ですねこれ。解析できない分析値をコードに変換してます。それを何かに経由して…自衛隊の秘匿回線に吐き出してます。】
「そうか。」
【まぁ私ですし、トレースして分析できますけどね。】

 2人は言葉にせず、その機械の動きが何を示しているのか理解した。 
 ゴーストラインを使い、いつの間にか組み込まれていたバックドアを通って通信しているのだと。

【……ふぅん。大気を解析してるっぽいですね。トリプル四重極質量分析計の最強版って感じ。】
「さっちゃんなにそれ。」
【なんて言えばいいかしら。まぁ化合物を見つけるための機械ってかんじ。】

 簡単な言い回しに男は理解し、カイトは興味を無くした。 

【ふむふむふむ…酸素、窒素、アンモニアまでは検出済み。……なにこれ】
「どうした、なんか問題か?」
【謎の項目がありますね。ウィルス値があるのでそれは別として……え!空気中のウィルス濃度が、公称値の三倍を超えています。】
「近づいたらヤバそうだな。」
​【あーーなんていったらいいんですかね…比率を考えると…ウィルスが空気を喰って、謎の何かにすり替えてるみたいな…。】

​ サヤカの言葉を聞いていると、男の背筋に冷たいものが走った。次の瞬間、泥濘の中から巨大な、粘液まみれの「触手」が飛び出してきた。

​「っ、カイト! 下がれ!!」

​ 男は右腕のケースを放り投げ、空いた右手でカイトの襟首を掴んで強引に引き寄せた。

「な、なにごと!」
 
 まるで丸太のように太い触手は空に絵を書いた後、それを追いかけるように沢山の触手が吹き出した。
 合計八本の触手は地面に項垂れて、張り始める。

「沼地にあんなの居たっけ!ねぇ所長!」
「生態系が変わったとかそんなんじゃなさそうだな。」

 地面を突き破ったのは、3メートルはある大きなタコだ。その身体は捕食したであろう動物たちの亡骸が、アクセサリーのように身体から突き出ていた。

​「お、おい。デカいタコがデコってるぞ。見てるかサヤカ。」
【見てる…目を疑ってる。】
​「……こんなの『魔物』だよ。」

 男は思わず、カイトから聞いた「魔物」という言葉が脳裏をよぎったが、すぐに否定した。

「……いや、どうせウィルスによる突然変異だだ。カイト、分析器を守れ! 奴の相手は俺がする!」
​「了解! 所長、後ろは任せな!!」

​ カイトは放り投げられた精密機械のケースを、ダイブするように抱え込んだ。その際に、自作の「スカイフックもどき」を地面に突き立て、アンカーにして踏ん張る。 

​ 距離はある。男は躊躇いなく『零式』の出力を解放した。

 バチバチッ!! と、激しい紫色の放電が、淀川の腐った霧を真っ二つに切り裂く。

​「……お前の『理』が通用するか、試してやる。」

​ 男はタコの足元に向かって、弾丸のような速さで突進した。














​ 隔離地域の「壁」に埋め込まれた監視室。その冷たい空気は、モニターに映し出された異形の姿「デコった巨大タコ」の出現によって、凍りついたような静寂に包まれた。

​「……信じらない。淀川の生態系は、ここまで崩壊しているのか」

​ 最前列の隊員が、震える声で呟く。だが、その背後に立つ天司ミカの表情に、驚きの色はなかった。彼女は細い指先で自身の顎をなぞり、獲物を観察する学者のような冷徹な眼差しで画面を凝視している。

​「分析官。今の映像を即座にAI解析へ。……生物学的な変異か、あるいは『環境そのもの』の影響かを見極めて」
​「了解。……長官、分析器からのバックドア・データを確認してください。」

​ 分析官の言葉に天司はハッとし、畠中1佐は大いに反応示した。怒りにも似た激しい言葉を天司に向ける。

「なんだ?バックドア?聞き捨てならないぞ天司ミカ。」
「まってまって説明をさせて…」
「早くしろ。自衛隊の秘匿回線を使ってるのは大目に見るとしても、バックドアが出てくると話が変わる。」

 猛襲をかけたはずだが、天司ミカの反応は一転する。ゆっくりと畠中の方へ振り返り、獲物を追い詰める罠を仕掛けた時のような、艶やかな笑みが浮かんでいた。

​「畠中1佐。あなたの言う『隔離地域協会』の設立目的……建前は『秩序の回復』でしたわね。」
「なんでそれを知ってるんだ。」
「でも、このデータが見せる未来は少し違うようです。……あの零式は汚染を『燃料』にして、既存の物理法則を破壊するエネルギーを生成している。あの分析器はそのためにある。」
​「……何が言いたい、長官」
​「環境省と防衛省が恐れているのは、環境汚染そのものではありません。その汚染の果てに、誰にも制御できない『新しい理(ルール)』が確立されることです。……あの男、3908は、その旗印にするつもりでしょう。何のためなの……貴方は何を隠してるの。」

​ 監視室のモニターには、突進する男の姿と、それを見つめるカイトの必死な表情が映っている。

「まぁいいわ。貴方が彼について何をして、何を隠したいのか見せてもらいます。」
「…。」
「これについてはもう逃げることもできないわね。監視続行よ。」

 天司の視線は、その横に表示されている「分析器」の稼働ステータスへと移った。そこには、自衛隊側には開示されていない秘密のコマンドが、淡い光を放って待機状態にある。

​ 男たちの視点では、分析器は単なる「高価な調査機」に過ぎない。
 しかし、監視室のモニター上では、それが「標的(ターゲット)」を絞り込むための照準器として機能し始めていた。

​「3908のゴーストライン、感度良好。……天司長官、バックドアを通じて彼自身の『脳波』のサンプリングも開始しました。……零式とのシンクロ率が、戦闘開始から40%上昇」
​「いいわ。彼がどこまで耐えられるか、限界を見せていただきましょう。」

​ 天司の冷酷な言葉が、密閉された監視室に響く。
 畠中は自身の拳が震えるのを抑えるように、コートのポケットに手を突っ込んだ。彼は知っている。
 この監視室にいる分析官たちが、環境省の人間でありながら、同時に佐藤とも通じている可能性があることを。

​「……天司長官。忘れるな。あの中にいるのは、数値やデータではない。私の部下であり、一人の男だ」
​「あら、それは聞き捨てなりませんわね。……軍人としての倫理観ですか? それとも、孫の遺灰を預けた相手への、個人的な『情』かしら?」

​ 天司の挑発的な問いに、畠中は答えなかった。
​ その時、モニターの音声から、激しい放電の轟音が響き渡った。
 男が零式のフルパワーを解放し、巨大なタコの足元へと肉薄する。紫色の電光が画面を白く焼き、一瞬、バイタルデータがロストする。

​「……バイタル、一瞬停止! ……いえ、復帰しました! 所長の心拍数が……一分間に二百二十を超えています!」
​「分析器のグリッドを確認して! データの送信先が……変わった?」

​ 分析官の叫びと共に、モニターの端にある「データの流れ」を示すラインが、急激に太くなった。
 それは監視室へ送られているのと同じデータを、どこか別の、全く不明な地点へと「同時送信」していることを示していた。

​「……誰だ。どこへ送っている!」 

 畠中が机を叩き、身を乗り出す。
​ 天司ミカは、その変化を静かに見守っていた。彼女の瞳の中には、焦りよりも、むしろ深い好奇心の色があった。

​「……あら、お客様は私たちだけではなかったようですわね。」














​「カイト、そこを動くなよッ!!」

​ 男の咆哮が、淀川の湿った大気を震わせた。
 視界の端では、カイトが泥に塗れながらも、数億円の価値がある分析器を必死に抱え込んでいる。

「うごけないっての_____やばい…。」

​ 目の前に鎮座するのは、高さ三メートルを超える異形の巨躯――『デコったタコ』。
 その八本の触手は、もはや生物の器官というよりは、蹂躙のために設計された油圧プレス機のようだった。
 粘液まみれの肉には、かつて捕食したであろう熊、犬などの動物が勲章のように埋め込まれている。 

「こんなことになるなら銃でも持ってくれば_____」

​ 一本の触手が、音速に近い速度で男の脳天を狙って振り下ろされた。
 男は『零式』の人工筋肉を瞬時に膨張させ、最小限の動きでそれを回避する。
 直後、彼がいた場所のコンクリートは粉々に粉砕され、泥水が十メートル以上も噴き上がった。バスや車までもが空に舞い上がる力に恐れを感じない。 

​「……出力、70%。……神経接続、安定。……裕二、力を貸せ。」

​ 男が低く呟くと、右腕の装甲の隙間から、目に刺さるような鮮烈な紫色の電光が溢れ出した。

【なに…零式が知らないシステムを立ち上げてる…。】

 単なる電気ではない事を、男は予感していた。

​「オラァァァァァッ!!」

​ 男は泥を蹴り、弾丸となってタコの懐へ飛び込んだ。
 触手たちが網のように男を絡め取ろうとするが、彼は左腕のスカイフックを射出し、空中に浮遊する廃バスの残骸に固定。
 物理法則を嘲笑うような三次元的な軌道で、タコの死角であろう亡骸が密集する「デコレーションの隙間」へと肉薄する。

「所長すげぇ…漫画みたいな動きだよ。」

​ そして右拳が、タコの本体へ直撃した。

「これで終いだ!!!」

 拳が肉に沈み込んだ瞬間、男は『零式』のプラズマを叩き込んだ。
 内側から沸騰し、膨れ上がる怪物の肉。
 タコの絶叫は、耳を聾するほどの電磁ノイズとなって男のバイザーを白く焼き、周囲の汚泥を蒸発させて白い霧のカーテンを作り出した。
















​ その頃、壁の監視室では、モニター越しに展開される「地獄の光景」を前に、異なる戦いが繰り広げられていた。

​「バイタル、限界点(レッドライン)を突破! ……3908の神経回路、溶解寸前です!!」

​ 隊員の悲鳴のような報告を、天司ミカは一瞥もせずに聞き流した。彼女は長い脚を組み、手元のタブレットに次々と流れてくる「未知の元素データ」を、貪るように見つめていた。

​「構わないわ。続けなさい。……今の衝撃で、浄水場地下の『ノイズ』が消えた。……分析官、男が持っている分析計の周波数を、地下の『共鳴点』に固定して」

​ 彼女の指示は、男たちの命を救うためのものではなかった。
 男が引き起こした「暴力という名の刺激」によって、地下に眠る「何か」を呼び覚まそうとする、極めて政治的で非人道的な実験。

​「……長官。3908は、私の部下だ。これ以上の負荷は……」

​ 畠中1佐の低く沈んだ声。だが、天司は冷たく笑った。

​「今更どの口が言ってるのよ。あなたは彼に『零式』を与えた時に、既に彼を人として扱うことを辞めたはずよ。……見てなさい。今、歴史が動くわ」

​ モニターの中で、男が最後の一撃を放ち、巨大なタコが内側から霧散した。
 衝撃波が収まった後、泥の中に残されたのは、男とカイト。それから突如として「意思」を持ち始めた、分析器の不気味な脈動だった。



















​ 淀川の廃墟に、不気味な静寂が戻った。
 男は右腕から立ち上る白い煙を、泥水で冷やしながら激しく肩で息をしていた。
 
「……ゲホッ、ゲホッ……! ……やったの? 倒したんだよね、今の。」

​ 泥の山から這い出してきたカイトが、ケースを引きずりながら近づいてくる。

「ねぇ所長。ケースならいくらくらいかな?鍵が掛からないんだよね。」
「2年タダ働きだな。まぁ分析器が無事なだけゆる_____」


 その腕の中には、今や奇妙な「青い光」を放ち始めた分析器があった。

​「__カイト、ケースから離れろ。」
​「え? ……うわっ、何これ! 重っ、いや、勝手に引っ張られてる!?」

​ 分析器の三本の棒が、まるで磁石に吸い寄せられるように、特定の方向を指し示して固定された。
 それは、浄水場の地下へと続く、錆びた非常階段の暗がりの先。

​【……所長。分析器が送信から受信に切り替わりました。それはメッセージかと。恐らく私のハッキングも逆探知されちゃった…ごめんなさい。】

​ サヤカの震える声。無理を言って巻き込んでしまったことに責任感が重くのしかかる。

「わかった。通信は切ってくれ。移動できるならしてくれ。迷惑をかけてすまない。」
【了解しました。】

 男は事態が何者かに支配されているのを感じていた。
 緊張感が胸を噴き出そうとしている。自然と息が荒くなってくる。そしてなぜか右腕の中にある裕二の遺灰が、激しく熱を持っている気がした。

​「……行くぞ、カイト。……あれに導かれているなら、行くしかない。」

​ 二人は、光さえも吸い込まれるような地下へのスロープを降りていく。
 そして降り立った最深部。そこには、本来あるはずの巨大な貯水槽はなかった。
 
「……な、なんだよこれ……。映画のセットかよ……。」

​ カイトの声が震える。
 闇の奥に鎮座していたのは、鈍く輝く黒い石で造られた、巨大な**『門(ゲート)』**だった。
 高さ十メートル。表面には、絡み合う蛇のような装飾と、見たこともない言語のルーンが深く刻まれている。

「所長…俺達、ゲームの世界に入り込んだのかな。」
「それはないって言い切りたいよ。」
 
 それは、2026年の日本に存在するはずのない、異世界の遺物。
 ゲームのボス部屋の前に立ち塞がる、あの禍々しくも圧倒的な威容を持つ「扉」そのものだった。
 カイトは分析器を近づけて、扉の周りを右往左往している。

「カイト、分析器はどう示してる?」
「……だめ!反応ない!」
「そうか_____AI起動」

 キャッツアイのディスプレが起動する。周辺の大気構成からバイタルデータに至るまで、視界を邪魔しない程度に表示されていく。

【お久しぶりです。】
「大気構成を調べてくれ。この空間だけでいい。」

 言葉通りにキャッツアイは酸素や窒素の比率を拾い上げる。

【大気構成の内、20 %が不明物質にあたります。】
「そんなにも…。」
【身体に影響なし】

 安全性はAIが保証したが、結局ここがなんで不明物質の原因になっているのかはわからない。
​​ 男はなぜか吸い寄せられるように、その巨大な扉の前に立つ。そして『零式』の指先が、冷たい石の表面に触れる。
 
「所長!なにしてんだ!」
「あれ、カイト。おれは何をし_____」
 
 触れた瞬間、脳内に直接、数千人分の悲鳴と歓喜が混ざり合ったような轟音が響いた。
 扉の隙間から、男の右腕と同じ「紫色の燐光」が漏れ出し、空間が、波打つように歪んでいる。

​「……開かない。……物理的な鍵じゃない。……これは……」

​ 男は全開の力で扉を押したが、巨大な石扉は微動だにしなかった。というよりも力が入らない。
 男の『零式』から身体に巡るエネルギーを、扉が「吸収」し、さらに輝きを増しているように見えた。

​「所長、もうダメだ、逃げよう!! 分析器が……分析器が壊れる!!」

​ カイトの叫び。分析計の画面には、測定不能を意味するエラーコードが並び、ケースの隙間から火花が散っていた。
 この場所は、人間が長居していい場所ではない。世界の法則が、根底から書き換わっている「特異点」だ。

​「サヤカ!映像を!この扉のレリーフ一つ残さず、全てのログを保存しろ。……バックドア経由で、外の連中にも見せてやれ。」
​【了__す。_やくに_____】

​ 男が手を離すと、轟音が止んだ。そして最後にもう一度、巨大な扉を見上げる。
 そこには、少年の……裕二の笑い声が、扉の奥から聞こえた気がした。
 
「_____なんだ。霧がでてきたぞ。」

 突然周辺を霧が漂い始めた。だが白ではなく、紫色の燐光すら飲み込み、光を一切反射しない「完全な黒」へと変質している。
 その闇の中から現れた黒いローブの男。彼はそこに「立っている」というより、世界の風景に「穴が開いている」かのような違和感を放っていた。

​「……何者だッ!」

​ 男は熱を帯びた『零式』を構え、震えるカイトの背後を庇った。
 返答はない。黒ローブの男は、ただ一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その足取りには何の躊躇もなく、重力さえ無視しているかのように泥を踏む音一つしない。

​ 淀川の最深部は、もはや物理的な「場所」であることを辞めていた。
 黒いローブの男が放つ圧力は、大気そのものを押し潰し、音さえも透過させない真空の壁を作り出していた。

「ふむ…。存外硬い殻を持っているな。」

 男はひしゃげたタクティカルスーツの中で、自身の肋骨が軋む音を聞いていた。

​「……ッ、化け物め……!」

​ 男は『零式』の冷却ファンが悲鳴を上げているのを無視し、右腕を地面に叩きつけた。

「 裕二、全部持っていけ!!」

 義手の内部、シリンダーが融解寸前の超高速回転を始め、紫色の放電が白い閃光へと転じる。

「空気…いやこれはまた…」

​ 男は泥を割り、光の矢となって黒ローブへと突進した。衝撃波で背後の貯水槽の残骸が粉々に吹き飛ぶ。
 しかし、黒ローブの男は動かない。
 ただ、男の拳が届く直前、彼の周囲の空間が「折り畳まれた」。
​ 男の全力の拳は、黒ローブの体を透過し、その背後にある鉄筋コンクリートの支柱を粉砕した。

「……何……!?」

 手応えがない。空を切った男の背後に、黒ローブの男が音もなく回り込む。
 そして黒い掌が、男と『零式』の境界線に触れる。
​ 世界の音が止まった。
 次の瞬間、男の脳内に数万ボルトの電圧と、数億バイトの「ゴミ」のような情報が逆流した。

「ア、ガ、アァァァァァァッ!!」
「……やはり人間か。期待したが。」

 キャッツアイのバイザーが激しく明滅し、男の眼球から血が溢れる。
 黒ローブの男が、そのまま男の巨躯を軽々と片手で持ち上げ、ゴミを捨てるような動作で、遥か彼方のコンクリート壁へと投げ飛ばした。
​ 崩落した瓦礫の下で、男の意識は暗転しかけていた。

​「所長!! 嘘だろ、おい……起きてくれよ!!」

​ カイトが、泥の中で分析器を抱えながら叫ぶ。
 黒ローブの男は興味を失ったように倒れた男を背にし、ゆっくりとカイトへと歩を進めた。
 その狙いは、男たちの命ではなく、その腕にある「分析器のデータ」であることは明白だった。

​「来るな……! 来るんじゃねぇよ!!」  

 カイトは泥を這って後退した。

「俺は……所長に拾ってもらったんだ。この仕事だけは、絶対にやり遂げるって決めたんだよ!」

​ カイトは震える手で、自作の「スカイフックもどき」の安全装置を強引に引きちぎった。

「……根性、見せてやるッ!!」

 電磁加速の機構すら持たないただのワイヤー銃。カイトはそれを、黒ローブの足元ではなく、自身の足元にある「ガス管」へと撃ち込んだ。

「これはまずい。」
「おま…喋っ_____」

​ 滞留していたメタンガスが爆発し、炎が周囲を包み込む。
 だが、炎の中でも黒ローブの男は一歩も揺るがない。彼は燃え盛る炎を、まるで幻影を払うように手で薙ぎ払った。
 その瞬間、爆発の熱量さえもが凍りつき、灰となって消えた。

「_____ごめん!所長!」

​ 黒ローブの手が、カイトの首に届こうとした。今際の際を感じ取ったその刹那。

​「諦めるな!!!こんの陰気野郎!!!」

 女の声と共に、煌めく光の粒が舞い降りて、黒ローブの動きを止めた。

「手が動かん。……丈夫で消して切れない糸か。気がつかなんだ。」

​ 天から降り注いだのは、銀色の電子の雨。
 空中に浮かぶ巨大な演算ユニットが、重低音を響かせながら展開し、浄水場跡の空間全体を「グリッド線」で覆い尽くした。
 彼女が虚空で指を弾くと、黒ローブの男の周囲に無数のホログラム・パネルが展開し、それらが檻となって彼を拘束した。 
 動けなくなった黒ローブに背中を向けて、タイトなコンバットスーツを着た女はカイトの目の前に現れた。

「見た目に合わず、甲斐甲斐しいのね。」
「な…何者?変態??」
「縛り上げるぞガキ!せっかく助けて上げたのに!!!!」
「サフミ…なんでここにいるんだ…。」

 瓦礫の中から這い出した男が、侮蔑の瞳とともに掠れた声で呼ぶ。
 男を見るや否やサフミは少し視線を外し、居心地が悪そうに話した。

「説明しないと…いけないわよね。」
「もちろんだ…。」
「けれど、とりあえずはこいつを。」


 サフミはただ眼前の「虚無」を見据えていた。

​「3908、下がれ。その男は人間ではない。」

​ サフミの背後で、数千、数万の計算式が滝のように流れ落ちる。そして瞳が青白く発光した。
 彼女は虚空に手を伸ばし、掴みとる動作をすると、黒ローブの男の輪郭が激しくブレ始めた。
 
 映像のバグのように、黒ローブの男の姿が引き裂かれ、ノイズとなって霧散していく。
​ 黒ローブの男は、最後に一度だけ3908の方を見た。
 フードの奥、光のない瞳が何かを伝えた気がした。 

『また、会おう』
 
 直後、黒い霧は完全に消滅し、浄水場にはサフミが展開した青い電子の残光だけが残された。















 サフミは演算ユニットを畳むと、ふらつく足取りで男たちの元へ歩み寄った。

​「……助かった。礼を言うト言いたいが、説明を求める。サフミ。」
「まぁそうよね。そうはなるってわかっていたんだけど…。うーん」

 答えをどう吐き出そうかと悩み、腕組みし、頭を右往左往させ、くるくると回りだした。

「所長…この人なにしてんの?」
「あまり見てやるなカイト。訳アリってのは色々悩みのタネがあるんだよ。」

 そしてアンテナのように身体を屹立させ、宣言した。

「よし!!あんた達の依頼主にあうわ!!」
「はぁ?!!?」

 男はサフミの申し出が受け入れられないものだった。

「むりむり!てめぇ、俺等を巻き込もうって腹じゃないだろうな!」
「もう既にって感じじゃない?その分析器、大気構成を分解する奴でしょ。てことは依頼主も目星つけて寄越したのよ。」
「それは___そうなんだろうが。」
「私の依頼主も、意図としては同じだろうしね。」
「くっそ何がなにやらわかんねぇ…。」

 サフミは苦しそうな男を見て笑い、衝撃的な言葉を吐き出す。

​「それとサヤカから言伝だ。『事務所のタバコ代、三倍にするから覚悟しろ』と。」

​ 男は苦笑し、隣で意識を失いかけているカイトを抱きかかえた。

(やっぱりサヤカの根回しか。俺等が通話切ったあとに連絡したんだな。)

 カイトの手には、依然として分析器がしっかりと握られている。

​「カイト……帰るぞ。ラーメン、食わせてやるからな。」
​「……特盛りで……ね……」

 カイトはそう呟くと、ようやく深い眠りに落ちた。男は、遠くに聳え立つ隔離地域の「壁」を見上げた。

 男の右腕に残る『零式』の熱、そしてあの巨大な『扉』の記憶は、消えることはない。
​ 隔離地域の霧が、朝焼けに照らされて灰色に透けていく。
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