銀の皇太子と漆黒の聖女と

枢氷みをか

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第一章 始まり 第五部 ユルングル編

夢の中の決意

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 ウォクライの手を借りてユーリシアの部屋に入ると、まるで申し合わせたように全員が揃っている事に、ユルングルは失笑した。
 
 これは意思表明をしろとでも言っているのだろうか。だとしたら、無茶ぶりもいいところだろう。

 ユルングルは少しばかり上がった呼吸を整えながら、こちらを見る懐かしい顔を視界に入れた。
 久しぶりに見た顔にはどれも、心配と不安、それから困惑の色が窺える。不意打ちで現れたユルングルに面食らったのだろう。妙な緊張感が漂う中、そのどれもが声をかける事に二の足を踏んでいるように見えた。
 誰も彼もが同じような顔でこちらを不安そうに見つめるその様子に、ユルングルは再び、今度は呆れたように笑みをこぼす。

「…なんて顔してるんだ、揃いも揃って。幽霊にでも会ったか?」

 いつものように揶揄するユルングルに、一同はようやく安堵して緊張を解く。

「…ダスク、急患が出たと聞いたが大丈夫か?」
「…はい、大事ありません」

 微笑んで答えるダスクに満足そうに頷くと、今度は車いすに座るラヴィに視線を移した。

「…ラヴィ、怪我の具合はどうだ?」
「まだ歩けませんが、それ以外はさして問題はございません」
「歩けるようにはなるんだな?」

 ダスクに視線を移して問う。笑顔で頷くダスクを見て取って、ユルングルは安堵したように小さく息を落とした。

「そうか…。悪かったな、俺の身代わりをさせた。……すまない」
「…いいえ、自分の意志でした事です。ユルングル様がお気になさる事ではございません」

 責めるわけでもなく笑顔でそう答える心遣いが嬉しい。

「ラン=ディアも世話をかけたな。…俺の相手は疲れるだろう?」
「シスカよりはまだましです」
「…あいつは俺よりも強情なのか?」
「それはもう」
「…ディア、話を盛らないでくれ」

 バツが悪そうに、そして若干、窘める色を載せて告げるダスクを面白がって、ユルングルは軽く、くつくつと笑う。

 そうして一呼吸置いてから、いつまでも不安そうな顔で物言いたげにこちらを見ているダリウスにようやく視線を移して、ユルングルは不安を拭うように小さく微笑んだ。

「…心配をかけたな、ダリウス」
「…いえ、お体の具合はいかがですか?」
「…正直立っているのがやっとだ。…キリア、悪いが座らせてくれないか?」

 ずっとウォクライに支えられて何とか立っていたが、もう限界に近かった。足に力が入らず、あとわずかもすればその場に座り込んでいただろう。
 ウォクライは言われてようやくその事に思い至って、慌ててソファにユルングルを座らせた。

「申し訳ございません…!気を遣うべきでした」
「…いや、力が入らないだけだ。大したことはない」

 言ったが、皆一様に不安そうな顔を向けているところを見ると、自分は今酷い顔色をしているのだろう。とりわけダリウスの不安は顕著で、眉根を寄せて今にも涙を流しそうなほど不安そうな表情を浮かべている。

 この顔は、もう何度も見てきた。
 うんざりするほど見てきて、もう見たくはないと思っていたのに、この顔を懐かしいと思うのはなぜだろうか。心配をしてもらう事がこれほど嬉しいと思った事は、おそらく今まで一度たりともないだろう。

 それは多分、自分の肩書に関係なく大事に思ってくれている事の証左だと気付いたからかもしれない。

「…なんて顔をしているんだ、ダリウス」
「…ですが……」
「…安心しろ、お前の作った料理を腹いっぱい食べれば、すぐに動けるようになる」

 言外に食事を摂ると宣言している事を悟って、ダリウスは思わず笑みをこぼす。

「…しばらくは粥とスープになりますよ?」
「ははっ、まあ、自業自得だな。我慢するしかないだろ。…もう腹が減って仕方がないんだ。用事が終わったら食べるから、用意しておいてくれ」

 頷くダリウスを待ってから、ユルングルは皆と同じように心配そうに顔を窺うミルリミナを視界に入れた。その手は、まるで祈りを捧げるようにユーリシアの手を握っている。

「…待たせたな、ミルリミナ。ユーリシアを迎えに行ってくる」
「……っ」

 ユルングルの言葉に、ミルリミナはたまらず泣きそうになった。それでも必死に涙をこらえて、ただ頷いて見せた。声を出したら堪えた涙が溢れそうで、ミルリミナは何度も頷くだけで精いっぱいだった。

 その顔に笑顔を返して、ユルングルはゆっくりと全員の顔を見渡す。

「必ずユーリシアを連れて帰る。待っててくれ」

 ソファに座ったままユーリシアの腕に軽く触れて、ユルングルはゆっくりと瞼を閉じた。

**

 鼻をくすぐる、むせ返るような花の香りで、ユルングルは自分が今どこにいるのかを悟った。

 扉を通った記憶はない。
 ダスクは扉があると言っていたが、ダスクを迎えに行った時も今回も、扉を通った記憶はなかった。いつも必ず気付けば花園の中にいる。それはただ通ったという記憶がないだけなのか、それとも本当に通っていないのかは判らなかったが、現状、目的地には着いているので気にするほどの事でもないのだろう。

 三度目の花園を、ユルングルは不快気に見渡す。
 相変わらず不愉快な景色だと、たまらず舌打ちをした。

 ユルングルはどちらかと言うと自然の物に心を動かされる傾向にあったが、ここの景色だけはどうしても好きにはなれなかった。敷き詰められた花々も、目が覚めるような青空も、その青空を際立たせるように舞う色とりどりの花びらも、そのどれもが得体の知れないものでできているような気がして、いっそう底気味が悪かった。正直迎えに行くという目的がなければ、一生足を踏み入れたく場所だろう。

 ユルングルは不承不承とため息を落として、足を一歩踏み出す。
 その足が、妙に軽かった。足だけではない、体全体がひどく軽かった。現実の体とは違うからだろうか。衰弱して動く事すらままならない体だったが、夢の中では何の枷もなく自由に動けた。
 それが堪らなく嬉しい。不快な夢の中にあって、それだけが唯一救われたような気分だった。

 ふと、視界に花以外のものが入ったような気がして、ユルングルは視線をそちらに向けた。
 視界に入ったのは、茫然と立ち尽くすユーリシアと、そのユーリシアをまるで逃がさないように手を握る、無表情な聖女の姿____。

 そのユーリシアの顔からは、何の色も窺えなかった。まるで聖女のそれと同じように、無機質で冷たい表情しかない。
 ただ人形のように茫然と立ち、前を見据えてはいるが、まるで視界に入るもの全てを認識していないかのように、ひどくうつろだった。

 ユルングルは、ダスクを迎えに行った時の事を思い出す。
 迎えに行った当初、ダスクはユルングルの事を認識できていなかったように思えた。誰か判らず、必死に記憶をまさぐってようやく『ユルングル』と言う存在に辿り着いたような、そんな感じだろうか。
 ならば今のユーリシアも記憶がないのかもしれない。あるいは記憶はあるが感情がひどく鈍麻しているような状態だろうか。どちらにせよ、ここは本人に出る意思がなければ出られないのだ。まずはユーリシアの意識をはっきりさせて説得する必要がある。

(……世話が焼けるな)

 その手間を考えるとうんざりする、とたまらずため息をついた。

「…ユーリシア」

 声をかけてみると、ゆっくりだが視線をユルングルに向ける。とりあえず自分の名前は把握しているようだ。

「迎えに来た。帰るぞ」
「………どうして、ユルンが……?」

 呟くように告げたユーリシアの表情は相変わらず何の色もない。だが記憶はあるのだろう。ユルングルの存在をしっかりと認識して、見つめ返してくる。
 内心、忘れてくれればいいのに、とユルングルはわずかばかり落胆した。自分の事だけ忘れてさえいれば、ミルリミナを餌に連れ帰る方が正直手っ取り早い、と軽く期待をしていた。

(…まあ、そう都合よくはいかないか)

 不承不承とため息を落として、多少面倒くさそうに言葉を続ける。

「…ここは俺しか来られないんだ。不満だろうが我慢してくれ」
「……私は、行かない」
「……なぜだ?」
「…私にはもう、居場所はない」
「…居場所がない……?」

 ユーリシアの言葉に、わずかに眉間にしわを寄せる。

「……私は………私は、ラヴィを傷つけた………ずっと傍に居てくれたラヴィを……私は……私は……」

 どうやら心に引っかかるのは、ユルングルの存在ではなくラヴィらしい。

「…あれは不可抗力だろう。お前はラヴィを傷つけようと思ったわけじゃない」
「違う……っっ!!!」

 ユルングルの言葉に強く反応する。ようやくユーリシアの顔に感情の色が現れたが、それは後悔とも悲しみとも取れる感情と、そして何より自分自身をひどく嫌悪し、憎悪を向けているようにも見えた。

「…違う……っ!私は……っっ、……私は、殺そうとしたんだ……ラヴィを……裏切られたと…思い違いをして………短剣を握る手に、力を込めた……力を…っ、込めたんだ……っっ」

 あの時の感触が忘れられない。
 ラヴィの腹部を刺した感触も、刃を伝って流れて来るラヴィの暖かい血の感触も。
 忘れようと思っても、頭から決して離れてはくれなかった。
 それが、自分の罪を責め立てているようで、逃げても逃げても、どこまでも追ってくるのだ。

 絞り出すように告げながら悄然と顔を手で覆うユーリシアを、ユルングルは複雑な表情で視界に入れた。

 まるで自分を見ているようだ、と思う。
 憎しみに我を忘れて他者を傷つけ、後々になって後悔する、自分。
 たまらず目を背けたくなったがユルングルはそれを躊躇った。
 目を背けてはいけない。全てを受け入れると決めた。弱い自分も、情けない自分も、全て受け止めて強くなろうと決めたのだ。
 
 ユルングルは改めて、拒絶するように顔を覆うユーリシアに向き直った。

「…でも、止めただろう」

 ユルングルの言葉に、ユーリシアの体がピクリと小さく反応する。

「お前は止めたんだ、ユーリシア。ラヴィは生きてる。それ以上に何を望む事がある」
「違う…っ!!私が止めたわけではない…!ミルリミナが……ミルリミナがいなければ、私はラヴィを殺していた……」
「本当にそう思うか?」
「……!」
「本当に、ミルリミナがいなければ止められなかったのか?」
「……私は……」
「答えろっ、ユーリシア!!」

 判らなかった。
 あの時、確かに短剣を押し込もうと思った。それは変えようもない事実だ。
 だが、本当に押し込んだだろうか。
 押し込む瞬間、ラヴィの顔が視界に入って手を緩めたかもしれない。何を馬鹿な事を、と我に返ったかもしれない。

 だがそれは、希望に過ぎなかった。そうであってほしいという希望。
 希望は、事実とは違うのだ。

「……判らない……私は……っ」

 再び顔を背けるユーリシアに、ユルングルは小さく息を吐く。

「…待っているぞ、ラヴィも、ミルリミナも。お前が戻ってくるのを待ってる」
「…戻れない。私はもう皇太子ではなくなった。誰も…私など望んでいない」
「…皇太子じゃない……だと?」

 腹の奥底から、沸々ふつふつと何かが沸き起こるのを感じた。

「……きっと……きっと、ラヴィもミルリミナも…私を見限っているだろう……。戻ったところで、私にはもう居場所はないんだ……」

 無意識に拳に力が入るのを、ユルングルは自覚した。眉根を寄せて、足を踏み出す。

「私にもう……何も………」
「何もないだと…っっ!!ふざけるなっっっ!!!!」

 ユルングルは怒りに任せてユーリシアの胸ぐらを勢いよく掴み、力の限り声を荒げた。
 その怒気を露にしたユルングルの顔に、ユーリシアは虚を衝かれて目を見開いた。
 
 ユルングルは二十四年の人生で、人を怒鳴った事は二度しかない。
 一度目は初対面のミルリミナに、そして二度目はたまりにたまった不満を当たり散らすように怒鳴ったが、そのどちらもあまり気持ちのいいものではなかった。すっきりするどころか、後悔ばかりが先に立って罪悪感に苛まれるのだ。きっと性分ではないのだろう。
 そんなユルングルでも、今回ばかりは怒鳴ってもいい、と判断した。

「望まれてないっ?居場所がないだとっ!?本当にいらないと言われた人間の気持ちがお前に判るのかっっ!!捨てられてっっ!!命まで狙われてっっ!!居場所もなく部屋の隅で体を震わせながら怯える惨めな気持ちがお前に判るのかっっっ!!!俺から皇太子の座を奪ったんだろっっ!!周りから望まれてっ!祝福されて皇太子になったんじゃないのかっっ!!それをあっさりと手放すのか……っっ!!!」

 矢継ぎ早にユルングルの口から吐き出される言葉を、ユーリシアは呆然自失と聞いていた。そして、悟る。

 耳に入るその言葉は全て、ユルングルの事だ。
 いらない、と言われたのも、望まれた存在ではなかったのも、自分ではない。今目の前にいる、ユルングルなのだ。

 何を甘えていたのだろう、と思う。
 ユルングルに比べれば自分はひどく恵まれていた。いらない、と言われる事も、捨てられる事もない。怯える事もなく、日々穏やかに過ごしていたんじゃなかったのか。

 なのに、逃げ出したのだ。
 自分が犯した罪から逃げた。一切向き合う事もせず、拒絶するように背を向けた。弱い自分を、どうしても受け入れる事ができなかった。

(…なんて情けない……っ)

 何が高魔力者だ。どこが強いというのだろう。
 弱いのは低魔力者のユルングルではない。本当に弱いのは、魔力があっても弱い自分すら受け入れる事の出来ない、愚かな自分自身の心だ。

(…強くなりたい……私は…っ!)

 ユーリシアは、愚かな自分も含めて全てを飲み込むように、目を固く閉じる。
 
 ふと、右手に何かを感じた。包み込むような、暖かい何か。聖女がずっと手を握っているが、それではない。聖女の手は最初からずっと冷たいままだった。その冷たい手を遮るように、暖かい何かがユーリシアの右手を包んでいた。

 怪訝そうに己の右手を視界に入れているユーリシアを見止めて、ユルングルは胸ぐらを掴んでいた手を緩める。

「……お前の手を握っているのは、その女じゃない。…おそらく、お前が眠りについてからずっと、ミルリミナがその手を握っていたんだろう」
「………ミルリミナが……?」
「……ここに来る時も、まるで祈るようにお前の手を握っていた。あいつが、お前を見限る事は絶対にない」

 ユルングルの言葉を受けて、ユーリシアは再び己の右手を視界に入れる。変わらず聖女が手を握ってきたが、感じるのは優しい温かさだけだった。それが妙に嬉しく、心を安堵させた。

「……私はまだ、やり直せるだろうか?」
「…お前いくつなんだよ。それだけ若ければいくらだってやり直せるだろう」

 半ば呆れたようにため息を落とすユルングルに、ユーリシアは思わず笑みを落とす。

「…違いない」

「……帰るか?」
「……ああ、帰るよ」

 言って、聖女の手から自分の手を取ろうとした瞬間、驚くほど強い力で聖女はユーリシアの手を握り返した。

「……っ」

 痛みが走った瞬間、今まで変わらぬ無機質な表情で静観していた聖女の口端が、軽く上に上がる。

「……そう。なら、貴方はもういらないわ」

 抑揚のない冷たい声と同時に、聖女の体から突風と共に黒く禍々しい何かが螺旋を描いて立ち上がるのが見えた。それはそのまま、繋いだままになっている手からユーリシアの体内に有無を言わさず侵入する。

「っ!!…何だ…っ、これは……っっ!!?」

 体の中を不躾に這いずり回り、魔力を力任せに動かそうとする感覚がした。激痛が体を襲う中、シスカに操魔を教えてもらった時の事が脳裏をよぎる。

 あの時の感覚によく似ている。だが、あの時よりもひどく荒っぽい。
 ユーリシアの体の事など少しも頓着する事なく、荒々しく体の中を這いずり回り、体中の魔力を根こそぎ引っ張って奪われるような、不快感と恐怖がユーリシアを襲った。

「ユーリシア…っっ!!!!?」

 目の当たりにしたユルングルは、これが『魔力を奪う力』なのだと即座に理解した。

「ユーリシアっ!手を____」

 聖女から手を離せ、と言いかけて、ユルングルは妙な違和感に囚われて咄嗟に口を噤んだ。

 何か、違う。

 これは『魔力を奪う力』だ。それは間違いない。
 以前ダスクはミルリミナに触れるな、と言った。触れると魔力を奪われると。ならば手を離すべきなのだろうが、なぜかユルングルの直感が、それをしてはいけない、と強く訴えた。

 そう、してはいけないのだ。
 手を離してはいけない。そして、それはユーリシアではない。この事象は、まるでこの花園で起きているように見えるが、そうではないのだ。
 これは『外』で起こっている。
 ならば手を離してはいけないのは______。

 ユルングルは『外』がどこにあるのか判らなかったが、無意識に空を仰いだ。



「……!」

 ミルリミナは妙な胸騒ぎを覚えて、ベッドで眠るユーリシアの顔に視線を向けた。

「…ミルリミナ?どうしましたか?」

 怪訝そうにダスクがミルリミナを窺う。ミルリミナは視線をダスクに移したが、今感じているものを、どう伝えたらいいのか判らなかった。

「……判りません……何か……嫌な感じが……」

 そこまで告げたところで、体の中をぞわりと這いずる不気味な感覚を捕らえた。

 この感覚には、覚えがある。
 自分ではない何かが、自分の体を支配しようとする感覚。そして、自分の意志に反して奪う事を強制するように、鼓動が荒く波打つ感覚。

 これは、『魔力を奪う力』だ。
 そう認識したと同時に、ミルリミナの体から黒く禍々しいものが、突風と共に螺旋を描きながら現れた。

「ミルリミナっ!?」
「ダスクお兄様っ!!」

 ダスクはすぐさまミルリミナの傍に近寄ろうとしたが、黒く禍々しいものがそれを妨げた。わずかに近づいただけでも、自身の魔力まで吸われるような感覚に襲われて、ミルリミナの傍に寄る事を遮られた。

 ダスクはすかさず、周りに視線を移す。その場にいた誰もがその黒く禍々しいものを視認しているようで、怪訝そうに近づくウォクライを慌てて制した。

「いけません!!近づいてはいけないっ!魔力を奪われますよっ!!」

 ミルリミナはダスクのその言葉で、ふと我に返る。
 そしてこの力が何を狙っているのかに、ようやく思い至って、慌ててユーリシアを視界に入れた。

(このままでは、ユーリシア殿下が……っ!)

 思うと同時に、ミルリミナは急いでユーリシアの手を握っている自身の手を離そうとした、その刹那_____。

(手を離すなっっ!!!!!ミルリミナっっっ!!!!)

「……!?」

 頭の中に直接響くように届いたその言葉に小さく体を震わせて、ミルリミナは離しかけた手を慌てて再び固く握り返す。ミルリミナは反射的に、ソファで眠るユルングルの姿を視界に入れた。
 眠っているが、先ほどのそれは紛れもなくユルングルの声だった。

「…ユルンさん……?」

 茫然自失とユルングルを見つめるミルリミナを、ダスクは視界に入れた。

「ミルリミナ!何をしているのですっ!?早くユーリシア殿下から手を……っ!」
「だめです……っ!!ユルンさんが…っ、ユルンさんが手を離すな、と……っ!!」
「……!?」

 その言葉で、ダスクは瞬時に判断した。
 委細構わず近寄り、ユーリシアの手を握るミルリミナの手に触れる。

「ダスクお兄様…っ!」
「そのまま握っていなさい!」

 ダスクはそのまま、魔力を有さない空っぽのミルリミナの体内に自身の魔力を流して瞳を閉じた。

 ミルリミナの中に聖女が宿っているのなら、必ず自分の魔力も聖女がいるであろう花園に辿り着くはずだ。特に今は扉が開いている。その扉から、この黒く禍々しいものはやってきたのだろう。ユルングルのように夢として意識自体を侵入させる事は難しくても、魔力だけならば到達できる。
 ダスクはなぜだかそう確信した。

 わずかに感じる聖女の気配を頼りに、ダスクはミルリミナの体内を進む。そうして、かすかに花の香りがしたような気がして、そちらに意識を向けた。
 そこにあったのは、暗闇の中にまるで切り取られた絵画のように、澄んだ青と色とりどりの花々がある景色がぽっかりと浮かぶ、開け放たれた扉だった____。



「……!?」

 突然、聖女の体から光が溢れて、たまらず聖女は目をふさいだ。
 同時にユーリシアの体内に侵入した黒く禍々しいものは、強制的に吐き出されるように突出して、その光にかき消されるように、姿を保てずそのまま散り散りと消え失せていった。

「……今のは……?」

 ユーリシアは一連の出来事が理解できず、そしてつい先ほどまで体を蝕むように続いていた激痛の余韻を馴染ませるように、肩で荒く息をした。
 静寂の中にそのユーリシアの吐息だけを聞きながら、ユルングルはようやく安堵したように軽く息を吐いた。

 どうやらミルリミナに声が届いたらしい。先ほどの光はダスクの魔力だろう。
 なぜだか、そう確信できた。

「…残念だったな、聖女リシテア」

 立ち尽くす聖女を見据えて、ユルングルは不敵に言葉を落とす。

「ユーリシアの持つ原始の魔力は、ミルリミナの体では耐えられないんだろう。手を繋いだままだと、どうしてもミルリミナの体内に原始の魔力を吸引してしまう。ようやくできた器だからな。ミルリミナを失えば、お前はまた長い時間をかけて器を作り直すしかない」
「…貴方の力は、とても厄介です。あの教皇と同じ力……」

 呟くように告げる聖女の顔は、再び何の色も示さない無機質なものに戻っていた。

「…いいでしょう。しばらくは貴方に人形を預けておきます。いずれ、また……」

 それだけ告げてユルングルの返事も待たず、そのまま風に舞い散る花弁に身を隠すように、忽然とその姿を消した。

「…相変わらず自分勝手な女だな」

 舌打ちしながら吐き捨てて、後ろで右手を抑えながら呆けているユーリシアに視線を移した。

「大丈夫か?ユーリシア」

 ユーリシアに歩み寄って、膝をつく。

「あ……ああ、何ともない……。今のは…何だったんだ…?……まるで魔力が奪われるような感覚だった……」
「ような、じゃない。実際に奪おうとしていたんだ」
「奪う…!?そんな事になったら……」
「ああ、死ぬな。…そして、ミルリミナがお前から離れた理由が、これだ」
「………え?」

 ユーリシアは思わずユルングルの顔を視界に入れる。

「ミルリミナの体に宿ったのは聖女なんて生易しいものじゃない。あれは世界を守るという大義名分を掲げて、人間から魔力を奪おうとしている悪魔だ。ミルリミナは、そいつからお前を守るために離れたんだ」
「………私を……?」

 ふと、以前モニタから聞いた言葉を思い出す。モニタも同じように、自分を守るためにミルリミナは自ら離れて行ったと言っていた。

(……そういう事だったのか……)

 得心して、再び右手に視線を移した。

(……温かい)

 あの最中さなかにあっても、この温かさは決してなくならなかった。

 これは、ミルリミナの心だ。
 離れてはいても、きっとミルリミナの心はこの右手に感じる温かさのように、ずっと自分の傍に居てくれていたのだ。
 ユーリシアはその温かさを逃がさないように軽く拳を握り、瞳を閉じて愛おしそうに口元に近付ける。

 大事にしたい、と思った。
 ミルリミナが自分に対して想ってくれている以上に、大事にしたい。
 その為に、もっと強くありたい。
 決して迷わぬよう、疑心に囚われぬよう、強くなりたい。
 強くならなければならないのだ。

 ユーリシアは迷いを振り切るように、ゆっくりと瞼を開いてユルングルに視線を移す。
 ユルングルは何も言わないまま小さく笑みをこぼして立ち上がり、手を差し出した。
 ユーリシアもまた笑みを返して、差し出された手を取る。

 互いに躊躇いはなかった。
 手を差し出す事も、手を取る事も。
 どちらもただ、体が自然と動いた。
 そして、どちらともなく告げる。

「さあ、帰ろう」
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