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南フランス・グラースへの出張編
グラースの風、あるいは花の牢獄
しおりを挟む「……眩しいな」
隣を歩く久我さんが、サングラス越しに目を細めた。
5月の南フランス、グラース。
香水の聖地と呼ばれるこの街は、今、ジャスミンの収穫時期を迎えていた。
見渡す限りの白い花、花、花。
その圧倒的な「白」の視覚情報と共に、脳を揺さぶるような濃厚な甘い香りが、風に乗って押し寄せてくる。
「すごい……。空気が、全部香水みたいです」
「ここが世界の香りの心臓部だからな。……浅見、足元に気をつけろ。畝(うね)がある」
久我さんが自然な動作で私の腰に手を回し、引き寄せてくれる。
日本にいる時よりも、彼の接触(タッチ)が多い気がする。
異国の開放感のせいだろうか。それとも、すれ違う現地の男性たちが、東洋人の私を珍しそうに見る視線に気づいているからだろうか。
「ボンジュール、マドモワゼル。素晴らしい日だね」
農園の案内役であるフランス人の青年、リュカが人懐っこい笑顔で私に話しかけてきた。
彼は先ほどから、花の解説をするふりをして、私の肩や手にやたらと触れてくる。
「このジャスミンは夜に最も香るんだ。まるで君のようにね」
「え、あ、メルシー……?」
フランス流のジョークに戸惑っていると、腰に回されていた久我さんの腕に、ぎゅっと強い力が込められた。
痛いほどに。
「リュカ。彼女への解説は僕がする。君は向こうの土壌データを取ってきてくれ」
流暢なフランス語だった。けれど、その声のトーンは氷点下。
リュカは肩をすくめ、「独占欲の強いボスだ」と捨て台詞を吐いて去っていった。
「……久我さん?」
「油断しすぎだ。フランスの男は息をするように口説く」
彼はサングラスを少しずらし、露わになった冷ややかな瞳で私を睨んだ。
けれどその奥には、明確な焦燥の色が見える。
「仕事に集中しろ。……この花の香りを記憶に焼き付けるんだ」
彼は私を連れて、花畑の奥、人の背丈ほどある茂みの陰へと入っていった。
周囲は真っ白なジャスミンに囲まれ、まるで白い壁に閉じ込められたようだ。
太陽の熱と、花の湿度が混じり合い、むせ返るような香気が立ち込めている。
「目を閉じろ」
命令口調。私は言われるがままに瞼を閉じる。
視覚を遮断すると、嗅覚が鋭敏になる。
土の匂い、葉の青さ、そしてジャスミンの動物的で官能的な甘さ。
ふわり。
不意に、鼻先をくすぐる香りが変わった。
花の匂いじゃない。
冷たくて鋭いベルガモットと、ビターなコーヒー、そして清潔なリネンの香り。
久我さんの匂いだ。
「……どんなに世界最高峰の花が咲いていても」
耳元で、彼の吐息がかかる。
カサリ、と衣擦れの音がして、彼の身体が私に密着した。
「僕にとっての『最高』は、これじゃない」
彼の指先が、私の首筋をゆっくりと這い上がる。
乾燥したフランスの風の中で、彼の指の湿り気だけが、生々しく私の皮膚に吸い付いた。
「このジャスミンのような、誰にでも愛想を振りまく香りはいらない。……僕が欲しいのは」
「んっ……」
唇が塞がれた。
太陽の下、広大な花畑の真ん中で。
誰に見られるか分からないという背徳感が、背筋をゾクゾクと駆け上がる。
彼の舌が、私の唇を割り、口内の粘膜を甘く舐め上げる。
ジャスミンの香りよりも濃密な、彼自身の「雄」の味がした。
「は、るかさん……ここ、外です」
「構わない。誰も見ていない」
彼は唇を離すと、私の耳たぶを甘噛みした。
「ホテルに戻ったら、覚悟しておけよ」
低く、熱い囁き。
「他の男の視線でお前が汚された分、僕が上書きしてやる。……朝まで、一睡もさせないからな」
その言葉に、私の身体の奥がきゅんと音を立てて疼いた。
南仏の太陽よりも熱い夜が、これから始まるのだ。
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