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霧島レイコ編
冷たい現実と、侵入者の足音
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帰国した翌朝のオフィスは、南仏の余韻など微塵も感じさせない、乾いた空気に満ちていた。
「浅見さん、フランス出張お疲れ様。早速だけど、このデータまとめておいて」
「あ、はい。すぐに」
山積みになった書類、鳴り止まない電話、複合機のインクの匂い。
夢から覚めたような現実に、私は軽いめまいを覚えた。
久我さんのデスクは、私の席から少し離れた個室にある。
今朝、出社した時に一瞬だけ目が合ったけれど、彼はすぐに幹部たちとの会議に連れて行かれてしまった。
グラースの教会で、あんなに熱く囁いてくれた彼が、今は遠い雲の上の存在のように感じる。
(……大丈夫。私には、これがある)
私はこっそりと、自分の手首に鼻を近づけた。
微かに残る、雨とムスクの香り。彼がくれた「世界でたった一つの証」。
この香りを吸い込むと、不安な心が少しだけ落ち着いた。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。
午後、開発部全体が集められた緊急ミーティング。
会議室の扉が開き、久我さんと共に現れた人物を見て、室内の空気が一変した。
「紹介する。今日付けでマーケティング部の新統括部長として着任した、霧島レイコさんだ」
霧島レイコ。
NYの競合他社からヘッドハンティングされたという、業界の有名人だ。
モデルのようにすらりとした長身を、完璧な仕立ての紺色のスーツで包んでいる。
知性的で、隙がなく、そして息を飲むほど美しい女性だった。
「霧島です。久我チーフの作る香りは素晴らしいけれど、今のままでは市場(マーケット)に届かない。私がテコ入れをします」
彼女が動くたび、ツンとした鋭い香りが漂った。
冷たくて硬質な、金属的なバラの香り。
それは、私が纏う柔らかな雨の匂いとは対極にある、攻撃的な「できる女」の香りだった。
「早速ですがチーフ。今回の新作のコンセプト、白紙に戻しましょう」
「……理由を聞こうか」
「ターゲットが曖昧です。もっと富裕層に絞るべきよ。今夜、私のオフィスで戦略会議をしましょう。二人きりで、朝まで徹底的に」
彼女は久我さんの目を見て、挑発的に微笑んだ。
それは仕事の提案でありながら、明確な誘惑の色を帯びていた。
誰もが息を飲む中、久我さんは表情一つ変えずに答えた。
「……いいだろう。必要なことだ」
心臓が、冷たく握りつぶされたような気がした。
彼は、私を一度も見なかった。
その日の残業時間。
私は開発部のはずれにある資料室で、古い文献を探していた。
霧島さんの登場で、私の立場は危うくなっていた。開発チームから外されるかもしれないという噂も聞こえてくる。
(久我さんは、仕事のためなら私を切り捨てるのかな……)
不安で視界が滲む。
その時、背後で資料室の重い扉が、カチリと音を立てて閉まった。
「……ここにいたのか」
ビクリと振り返ると、そこに久我さんが立っていた。
いつの間に入ってきたのか、気配さえしなかった。
彼は無言のまま私に近づき、書棚と自分の身体の間に私を閉じ込めた。
「く、久我さん……? ここ、会社です」
「知っている。だから、声は出すな」
彼の声は低く、切迫していた。
昼間の会議室で見せた冷静な顔とは違う、飢えた獣のような瞳。
「一日中、あの女の冷たいバラの匂いを嗅がされて、鼻が馬鹿になりそうだ」
「霧島さんのこと、ですか……?」
「ああ。ああいう計算高い匂いは反吐が出る。……早く、お前で中和させろ」
彼は私の首筋に顔を埋めると、飢渇したように深く息を吸い込んだ。
その勢いに、私は書棚に背中を押し付けられる。
「んっ……!」
ガタガタと背後で本の崩れる音がした。
彼は構わず、私の耳元に唇を寄せた。
「今夜、彼女と二人で会議だと言ったな」
「……はい。聞きました。朝まで、って」
「そうだ。だからその前に……僕に、お前を補給しておかないと持たない」
彼の熱い手が、私のブラウスの裾から忍び込んでくる。
ひやりとした資料室の空気の中で、彼の掌の熱さだけが、火傷しそうなほど鮮烈だった。
「遥さん、だめ……誰か来ます」
「鍵はかけた。……それに、スリルがある方が燃えるだろう?」
彼が私の耳たぶを甘噛みした、その瞬間だった。
ドン、ドン、ドン!
資料室の扉が、激しく叩かれた。
私たちは凍りついた。
「誰かいるの? 開けてちょうだい。資料が出せないじゃない」
扉の向こうから聞こえたのは、冷たく張り詰めた、霧島レイコの声だった。
久我さんの手が私の素肌の上で止まる。
至近距離で向き合ったまま、私たちは息を殺した。
もし今、この扉が開けられたら。
ブラウスを乱し、上司と密着している私の姿を見られたら――全てが終わる。
「……チーフ? 中にいるんでしょう? まさか、そこで『仕事以外』のことをしているわけじゃないわよね?」
ドアノブが、ガチャガチャと乱暴に回された。
鍵一枚隔てた向こう側に、破滅が迫っていた。
「浅見さん、フランス出張お疲れ様。早速だけど、このデータまとめておいて」
「あ、はい。すぐに」
山積みになった書類、鳴り止まない電話、複合機のインクの匂い。
夢から覚めたような現実に、私は軽いめまいを覚えた。
久我さんのデスクは、私の席から少し離れた個室にある。
今朝、出社した時に一瞬だけ目が合ったけれど、彼はすぐに幹部たちとの会議に連れて行かれてしまった。
グラースの教会で、あんなに熱く囁いてくれた彼が、今は遠い雲の上の存在のように感じる。
(……大丈夫。私には、これがある)
私はこっそりと、自分の手首に鼻を近づけた。
微かに残る、雨とムスクの香り。彼がくれた「世界でたった一つの証」。
この香りを吸い込むと、不安な心が少しだけ落ち着いた。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。
午後、開発部全体が集められた緊急ミーティング。
会議室の扉が開き、久我さんと共に現れた人物を見て、室内の空気が一変した。
「紹介する。今日付けでマーケティング部の新統括部長として着任した、霧島レイコさんだ」
霧島レイコ。
NYの競合他社からヘッドハンティングされたという、業界の有名人だ。
モデルのようにすらりとした長身を、完璧な仕立ての紺色のスーツで包んでいる。
知性的で、隙がなく、そして息を飲むほど美しい女性だった。
「霧島です。久我チーフの作る香りは素晴らしいけれど、今のままでは市場(マーケット)に届かない。私がテコ入れをします」
彼女が動くたび、ツンとした鋭い香りが漂った。
冷たくて硬質な、金属的なバラの香り。
それは、私が纏う柔らかな雨の匂いとは対極にある、攻撃的な「できる女」の香りだった。
「早速ですがチーフ。今回の新作のコンセプト、白紙に戻しましょう」
「……理由を聞こうか」
「ターゲットが曖昧です。もっと富裕層に絞るべきよ。今夜、私のオフィスで戦略会議をしましょう。二人きりで、朝まで徹底的に」
彼女は久我さんの目を見て、挑発的に微笑んだ。
それは仕事の提案でありながら、明確な誘惑の色を帯びていた。
誰もが息を飲む中、久我さんは表情一つ変えずに答えた。
「……いいだろう。必要なことだ」
心臓が、冷たく握りつぶされたような気がした。
彼は、私を一度も見なかった。
その日の残業時間。
私は開発部のはずれにある資料室で、古い文献を探していた。
霧島さんの登場で、私の立場は危うくなっていた。開発チームから外されるかもしれないという噂も聞こえてくる。
(久我さんは、仕事のためなら私を切り捨てるのかな……)
不安で視界が滲む。
その時、背後で資料室の重い扉が、カチリと音を立てて閉まった。
「……ここにいたのか」
ビクリと振り返ると、そこに久我さんが立っていた。
いつの間に入ってきたのか、気配さえしなかった。
彼は無言のまま私に近づき、書棚と自分の身体の間に私を閉じ込めた。
「く、久我さん……? ここ、会社です」
「知っている。だから、声は出すな」
彼の声は低く、切迫していた。
昼間の会議室で見せた冷静な顔とは違う、飢えた獣のような瞳。
「一日中、あの女の冷たいバラの匂いを嗅がされて、鼻が馬鹿になりそうだ」
「霧島さんのこと、ですか……?」
「ああ。ああいう計算高い匂いは反吐が出る。……早く、お前で中和させろ」
彼は私の首筋に顔を埋めると、飢渇したように深く息を吸い込んだ。
その勢いに、私は書棚に背中を押し付けられる。
「んっ……!」
ガタガタと背後で本の崩れる音がした。
彼は構わず、私の耳元に唇を寄せた。
「今夜、彼女と二人で会議だと言ったな」
「……はい。聞きました。朝まで、って」
「そうだ。だからその前に……僕に、お前を補給しておかないと持たない」
彼の熱い手が、私のブラウスの裾から忍び込んでくる。
ひやりとした資料室の空気の中で、彼の掌の熱さだけが、火傷しそうなほど鮮烈だった。
「遥さん、だめ……誰か来ます」
「鍵はかけた。……それに、スリルがある方が燃えるだろう?」
彼が私の耳たぶを甘噛みした、その瞬間だった。
ドン、ドン、ドン!
資料室の扉が、激しく叩かれた。
私たちは凍りついた。
「誰かいるの? 開けてちょうだい。資料が出せないじゃない」
扉の向こうから聞こえたのは、冷たく張り詰めた、霧島レイコの声だった。
久我さんの手が私の素肌の上で止まる。
至近距離で向き合ったまま、私たちは息を殺した。
もし今、この扉が開けられたら。
ブラウスを乱し、上司と密着している私の姿を見られたら――全てが終わる。
「……チーフ? 中にいるんでしょう? まさか、そこで『仕事以外』のことをしているわけじゃないわよね?」
ドアノブが、ガチャガチャと乱暴に回された。
鍵一枚隔てた向こう側に、破滅が迫っていた。
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