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南フランス・グラースへの出張編
その香り(しるし)は、誰にも渡さない
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副題:その香りは、誰にも渡さない
契約が無事にまとまり、私たちはグラースでの最後の夜を迎えていた。
ホテルに戻る前、久我さんが「寄りたい場所がある」と言って連れてきてくれたのは、古い石造りの教会を改装した、貸し切りの調合室(アトリエ)だった。
「座っていてくれ。すぐに終わる」
彼はジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げると、無数に並ぶ香料瓶の前に立った。
昼間のビジネスマンの顔とも、昨夜の雄の顔とも違う。
真剣な眼差しでスポイトを操る、「創作者(クリエイター)」の顔。
カチ、コチ、と小瓶が触れ合う硬質な音だけが、静寂な空間に響く。
薄暗い照明の中、琥珀色の液体がビーカーの中で混ざり合い、旋回する。
私はその美しい指先の動きに、ただ見惚れていた。
魔法使いみたいだ、と思った。
彼は指先一つで世界を作り変え、私の心さえも自由に操ってしまう。
「……できた」
一時間ほど経った頃、彼が小さなクリスタルボトルを手に、こちらへ歩み寄ってきた。
ふわり、と空気が動く。
「手を出して」
差し出した私の掌に、彼がそのボトルを握らせる。
ひやりとしたガラスの感触。けれど、その中身は彼の体温で少し温められている気がした。
「これは……?」
「グラースの空気と、この数日間の僕たちの時間を閉じ込めた。……世界でたった一本の香水だ」
彼は私の手からボトルを取り返すと、蓋を開けた。
瞬間、漂ってきたのは華やかなジャスミンではない。
もっと深く、重く、夜の闇に溶け込むような香り。
雨上がりの土の匂いと、甘く焦げたようなバニラ、そして奥底に潜む、彼自身の肌の匂い(ムスク)。
「いい匂い……。なんだか、ドキドキします」
「当然だ。催淫効果のあるイランイランを、限界まで高濃度で配合してある」
「えっ」
「冗談だ」
彼はふっと口元を緩めた。その笑顔がずるいほど色っぽくて、私の心臓は早鐘を打つ。
「さて、仕上げだ。……じっとしてろ」
彼は指先に液体を一滴取ると、私の髪をかき上げた。
濡れた指先が、耳の裏の敏感な皮膚に触れる。
「んっ……」
「ここなら、抱きしめた時に僕が一番よく香る」
冷たい液体が体温で揮発し、ふわりと香りが立ち昇る。
彼の指はそこから離れず、うなじをゆっくりと滑り降りていく。
指の腹のざらつきと、液体の湿り気。
背筋に電流が走るような感覚に、私は思わず彼のシャツの裾を握りしめた。
「久我さん、くすぐったいです……」
「我慢しろ。……次はここだ」
彼は私のブラウスの第一ボタンを外し、鎖骨のくぼみに指を押し当てた。
脈打つ血管の上。
彼が触れるたび、私の鼓動が早くなるのが自分でも分かる。
「脈が速い。……昨夜と同じだ」
「だって、久我さんが……いじめるから」
「いじめてない。マーキングだと言ったはずだ」
彼は鎖骨に塗った香りを確かめるように、顔を近づけた。
鼻先が肌に触れるか触れないかの距離。
彼の熱い吐息が、香水の成分と混じり合って、私の脳を麻痺させていく。
「……明日、日本に帰れば、また『上司と部下』に戻る」
低い声が、鎖骨に振動して伝わる。
「お前は他の社員たちに囲まれ、僕は会議に追われるだろう。物理的な距離もできる」
彼は顔を上げ、私の瞳を射抜くように見つめた。
その瞳には、切実なほどの独占欲が揺らめいていた。
「だが、この香りがお前の肌に残っている限り、お前は僕のものだ」
「……はい」
「誰が近づこうと、お前の肌からは僕が選んだ香りがする。……その事実だけで、僕は理性を保てる」
彼は私の腰を引き寄せると、鎖骨に残る香りを吸い込むように、深く、優しく口づけを落とした。
唇の柔らかさと、吸い付かれる甘い痛みに、私はとろりと力が抜けていく。
「愛している、美緒。……帰国しても、覚悟しておけよ」
「え?」
「社長室の鍵なら、もう手配してある」
彼は耳元で、悪戯っ子のように囁いた。
「昼休み、僕の香りが切れたら……すぐに補充してやるから」
グラースの夜風が、窓の外で揺れている。
この甘く危険な香りの魔法は、日本に帰っても、一生解けそうになかった。
契約が無事にまとまり、私たちはグラースでの最後の夜を迎えていた。
ホテルに戻る前、久我さんが「寄りたい場所がある」と言って連れてきてくれたのは、古い石造りの教会を改装した、貸し切りの調合室(アトリエ)だった。
「座っていてくれ。すぐに終わる」
彼はジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げると、無数に並ぶ香料瓶の前に立った。
昼間のビジネスマンの顔とも、昨夜の雄の顔とも違う。
真剣な眼差しでスポイトを操る、「創作者(クリエイター)」の顔。
カチ、コチ、と小瓶が触れ合う硬質な音だけが、静寂な空間に響く。
薄暗い照明の中、琥珀色の液体がビーカーの中で混ざり合い、旋回する。
私はその美しい指先の動きに、ただ見惚れていた。
魔法使いみたいだ、と思った。
彼は指先一つで世界を作り変え、私の心さえも自由に操ってしまう。
「……できた」
一時間ほど経った頃、彼が小さなクリスタルボトルを手に、こちらへ歩み寄ってきた。
ふわり、と空気が動く。
「手を出して」
差し出した私の掌に、彼がそのボトルを握らせる。
ひやりとしたガラスの感触。けれど、その中身は彼の体温で少し温められている気がした。
「これは……?」
「グラースの空気と、この数日間の僕たちの時間を閉じ込めた。……世界でたった一本の香水だ」
彼は私の手からボトルを取り返すと、蓋を開けた。
瞬間、漂ってきたのは華やかなジャスミンではない。
もっと深く、重く、夜の闇に溶け込むような香り。
雨上がりの土の匂いと、甘く焦げたようなバニラ、そして奥底に潜む、彼自身の肌の匂い(ムスク)。
「いい匂い……。なんだか、ドキドキします」
「当然だ。催淫効果のあるイランイランを、限界まで高濃度で配合してある」
「えっ」
「冗談だ」
彼はふっと口元を緩めた。その笑顔がずるいほど色っぽくて、私の心臓は早鐘を打つ。
「さて、仕上げだ。……じっとしてろ」
彼は指先に液体を一滴取ると、私の髪をかき上げた。
濡れた指先が、耳の裏の敏感な皮膚に触れる。
「んっ……」
「ここなら、抱きしめた時に僕が一番よく香る」
冷たい液体が体温で揮発し、ふわりと香りが立ち昇る。
彼の指はそこから離れず、うなじをゆっくりと滑り降りていく。
指の腹のざらつきと、液体の湿り気。
背筋に電流が走るような感覚に、私は思わず彼のシャツの裾を握りしめた。
「久我さん、くすぐったいです……」
「我慢しろ。……次はここだ」
彼は私のブラウスの第一ボタンを外し、鎖骨のくぼみに指を押し当てた。
脈打つ血管の上。
彼が触れるたび、私の鼓動が早くなるのが自分でも分かる。
「脈が速い。……昨夜と同じだ」
「だって、久我さんが……いじめるから」
「いじめてない。マーキングだと言ったはずだ」
彼は鎖骨に塗った香りを確かめるように、顔を近づけた。
鼻先が肌に触れるか触れないかの距離。
彼の熱い吐息が、香水の成分と混じり合って、私の脳を麻痺させていく。
「……明日、日本に帰れば、また『上司と部下』に戻る」
低い声が、鎖骨に振動して伝わる。
「お前は他の社員たちに囲まれ、僕は会議に追われるだろう。物理的な距離もできる」
彼は顔を上げ、私の瞳を射抜くように見つめた。
その瞳には、切実なほどの独占欲が揺らめいていた。
「だが、この香りがお前の肌に残っている限り、お前は僕のものだ」
「……はい」
「誰が近づこうと、お前の肌からは僕が選んだ香りがする。……その事実だけで、僕は理性を保てる」
彼は私の腰を引き寄せると、鎖骨に残る香りを吸い込むように、深く、優しく口づけを落とした。
唇の柔らかさと、吸い付かれる甘い痛みに、私はとろりと力が抜けていく。
「愛している、美緒。……帰国しても、覚悟しておけよ」
「え?」
「社長室の鍵なら、もう手配してある」
彼は耳元で、悪戯っ子のように囁いた。
「昼休み、僕の香りが切れたら……すぐに補充してやるから」
グラースの夜風が、窓の外で揺れている。
この甘く危険な香りの魔法は、日本に帰っても、一生解けそうになかった。
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