【R18】ラストノートは、甘い独占欲で。―天才調香師の執着―

葉山 乃愛

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霧島レイコ編

二人羽織の調香台

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翌朝。
決戦の場となる大会議室には、張り詰めた空気が漂っていた。
役員たちがずらりと並び、その中心には、今日の主役である新作香水のサンプルが三つ、恭しく置かれている。

そして、その横には霧島レイコが、勝利を確信したような笑みを浮かべて立っていた。
今日の彼女の香りは、昨日までの攻撃的な薔薇ではない。
あえて香りを抑え、清潔感のあるシトラス系を微かに纏っている。それが逆に、彼女の余裕と「何かを知っている」という不気味さを際立たせていた。

「……大丈夫。私がついています」

会議が始まる直前、私はテーブルの下で、久我さんの膝にそっと手を置いた。
彼の手が、私の手を上から強く握り返す。
その手は氷のように冷たく、微かに震えていた。

「……頼む。お前だけが頼りだ」

昨夜、私たちは一睡もせずに「訓練」をした。
私が匂いを嗅ぎ、それを彼に伝えるための共通言語を作る訓練だ。
『甘い』だけでは駄目。『重たい蜂蜜のような甘さ』なのか、『乾いた砂糖菓子のような甘さ』なのか。
質感、温度、色。ありとあらゆる言葉で、私は彼の「鼻」にならなければならない。

「では、最終評価を始めます。久我チーフ、お願いします」

司会進行の声で、すべての視線が久我さんに集まった。
彼はゆっくりと立ち上がり、完璧な「天才調香師」の仮面を被った。
傲慢なほどの自信、冷徹な眼差し。
誰も気づいていない。彼が今、無臭の恐怖の中にいることに。

「サンプルAから確認しよう」

彼が指示を出し、私がムエット(試香紙)にスプレーして彼に手渡す。
ここが最初の難関だ。
彼はムエットを鼻に近づけ、嗅ぐフリをする。
その数秒の間、私は隣で同じ香りを嗅ぎ、全神経を集中させて分析する。

(……トップノートはレモンとライム。すごくフレッシュだけど、少し角がある。揮発が早すぎる気がする)

私はテーブルの下で、彼の太ももを「トン、トントン」と指先で叩いた。
事前に決めた合図だ。
『柑橘系、鋭すぎる、持続性なし』。

久我さんはムエットをテーブルに置くと、冷ややかに言い放った。

「……平凡だな。トップのシトラスが騒がしすぎる。これではミドルノートのジャスミンが顔を出す前に、客は飽きてしまう」

役員たちがざわめき、同意するように頷く。
成功だ。
私の感じた拙い違和感を、彼が専門的な言葉で見事に翻訳してみせた。

サンプルBも、同様の連携プレーで乗り切った。
私の心臓は破裂しそうだった。
少しでも私が判断を誤れば、彼のキャリアが終わる。
そのプレッシャーで、持っているペンが滑りそうになる。

そして、最後のサンプルC。
これが本命だ。霧島さんが主導して調整を加えた、自信作。

私がムエットを手に取り、香りを吸い込む。
その瞬間、眉をひそめた。

(……え? これ、昨日嗅いだサンプルと違う)

昨日までは、華やかなフローラルブーケだったはずだ。
なのに、今私の鼻を突き抜けたのは、鼻の奥が痺れるような、強烈でスパイシーな香り。クローブと、レザー(革)の匂い。

(罠だ……!)

霧島さんが、土壇場で中身をすり替えたのだ。
久我さんの嗅覚が正常なら、瞬時に気づいて激怒するはずの改悪。
でも、今の彼には分からない。

「どうしたの? 浅見さん。早くチーフに渡して差し上げて」

霧島さんが、楽しそうに私を急かす。彼女の目が、獲物を狙う蛇のように細められた。
ここで私が動揺すれば、怪しまれる。
私は震える手で、久我さんにムエットを渡した。

彼はそれを鼻に近づける。当然、無反応だ。
彼は横目でチラリと私を見た。「どうだ?」という合図。

私はパニックになりかけた。
どう伝える? 昨日と全然違う。すごく攻撃的で、バランスが崩れている。
『スパイシーすぎる』? 『レザーが臭い』?
そんな単純な言葉じゃ、この異様さは伝わらない。

「……チーフ? いかがですか?」

霧島さんが一歩踏み込んだ。

「今回のサンプルCは、少し冒険してみたの。あなたの嫌いな『ノイズ』を、あえて少し混ぜてみたわ。……気づいてくれるかしら?」

彼女は試している。
彼が本当に匂いが分かっているのかを。

久我さんが、助けを求めるように私を見る。
その目が、わずかに泳いだ。
まずい。このまま沈黙が続けば、疑われる。

私は覚悟を決めた。
テーブルの下で、彼の親指の付け根を、爪が食い込むほど強くつねった。
これは、緊急事態の合図。
そして、昨日彼と決めた、ある「比喩」を思い浮かべた。

(伝わって……! お願い!)

私は彼の耳元に、資料を渡すフリをして近づき、誰にも聞こえない声で囁いた。

「……南仏の、嵐の夜。……雷が落ちた後の、焦げた土の匂いです」

一瞬、彼の身体が硬直した。
あの夜。私たちが初めて結ばれた、激しい雷雨の夜。
停電した部屋で、彼が「この非日常的な匂いを覚えておけ」と言った、あの強烈なオゾンの匂い。

彼の中に、記憶が蘇ったのが分かった。
嗅覚は失われても、記憶の中の「感覚」は生きている。

彼はゆっくりと顔を上げ、霧島さんを真っ直ぐに見据えた。

「……品がないな」

低い声が、会議室に響いた。

「刺激を求めてクローブとレザーを足したようだが、これでは『香り』ではなくただの『悪臭』だ。……南仏で僕たちが目指した『物語』を、雷で焼き払うつもりか?」

霧島さんの笑顔が凍りついた。
図星だったのだ。

「……さすがね。その微量のレザーに気づくなんて」

彼女は悔しそうに唇を噛み、引き下がった。
役員たちも「確かに少しキツイな」「チーフの言う通りだ」と口々に言い始める。

乗り切った。
私たちは、勝ったのだ。


会議が終わり、二人きりでエレベーターに乗った瞬間。
久我さんは崩れ落ちるように壁に手をつき、荒い息を吐いた。

「……心臓が止まるかと思った」
「私もです……。手が、まだ震えてます」

私もその場にしゃがみ込みそうだった。
極度の緊張から解放され、涙が出てきそうだ。

「……浅見」

彼が、私の手を握りしめた。
汗ばんだ、冷たい手。

「ありがとう。……お前がいなければ、終わっていた」
「はい。……私たち、最高の共犯者ですね」

私が精一杯の笑顔を見せると、彼は痛々しいほど切なげな表情で、私の髪を撫でた。

「……情けないな。自分の女にこんな綱渡りをさせて。守るどころか、守られてばかりだ」
「そんなこと――」
「早く治す。……必ず治して、今度こそ僕が完璧にお前を守ってみせる」

彼は私の手を引き寄せ、その掌に、誓うようにキスを落とした。

チン、とエレベーターが1階に到着する音が鳴る。
扉が開く直前、彼はもう一度、完璧な「上司」の顔に戻った。
でも、繋がれた手の力強さだけは、彼がまだ弱い一人の男であることを私に伝えていた。

私たちは知らなかった。
エレベーターの扉が閉まる寸前、遠くの廊下の陰から、霧島レイコが氷のような瞳で私たちを見つめていたことを。

「……やっぱり、変ね。あのタイミングで、あの比喩が出てくるなんて」

彼女は自分の手首につけた、サンプルCの残香を忌々しそうに嗅いだ。

「あの二人の間には、言葉以外の何かが流れている。……もっと決定的な証拠を掴まないと」
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