【R18】ラストノートは、甘い独占欲で。―天才調香師の執着―

葉山 乃愛

文字の大きさ
15 / 16
霧島レイコ編

指先が覚えている熱、引き剥がされる二人

しおりを挟む
「……やはり、駄目か」

深夜のマンション。
久我さんは、私の首筋に顔を埋めたまま、苦しげに呻いた。
あれから毎晩、私たちは「リハビリ」と称して、こうして肌を重ねていた。
彼の嗅覚を取り戻すための、二人だけの秘密の儀式。

「少しも匂わないんですか? 今日は、久我さんが好きだったベルガモットのボディクリームを塗ってみたんですけど」
「……知識としては分かる。お前の肌がしっとりしていて、クリームを塗ったことは触覚で分かるんだ。だが、香りのイメージが脳に届かない」

彼は苛立ちをぶつけるように、私の鎖骨に強く唇を押し当てた。
痛みと快感が同時に走り、私は背中を反らせる。

「焦げ付くようだ。……目の前に、一番食べたい料理があるのに、味がしない感覚だ」

彼の指先が、私のパジャマのボタンを一つずつ外していく。
嗅覚がない分、彼の触覚と視覚は恐ろしいほど鋭敏になっていた。
肌のわずかな火照り、鳥肌、脈の速さ。
彼はその全てを指先と唇で読み取り、私を追い詰めていく。

「匂わなくても……お前の身体の反応だけは、手に取るように分かる」
「っ、久我さん……そこ、」
「ここか? 昨日の会議で、僕に合図を送っていた指先は」

彼が私の指を一本ずつ口に含み、舌先で愛撫する。
その妖艶な仕草に、私は頭が真っ白になった。
彼は匂いを感じていないはずなのに、まるで全身の毛穴から私の全てを吸い尽くそうとしているみたいだ。

「美緒。……お前がいないと、僕はもう息もできない」

その夜、彼は縋るように何度も私を求め、私たちは泥のように眠った。
この温もりが永遠に続けばいい。
そう願っていたのに。


翌朝、出社した私を待っていたのは、非常な通告だった。

「浅見さん、来週から北海道の工場へ行ってちょうだい」

デスクに現れた霧島レイコは、一枚の辞令を私の前に突きつけた。
表情は涼しいままだが、その瞳の奥には冷徹な計算が光っている。

「ほ、北海道ですか? いきなりそんな」
「ラベンダーの収穫時期に合わせた現地研修よ。期間は二週間。……拒否権はないわ。これは業務命令だから」

二週間。
血の気が引いた。
今の久我さんにとって、私は「鼻」であり、精神安定剤だ。
二週間も離れ離れになったら、彼の嗅覚障害はどうなってしまうのか。それに、今進行中のプロジェクトは――。

「……霧島部長、今は新作の発売直前です。私が抜けるわけには」
「あら、たかが事務員一人が抜けて、困るようなプロジェクトなの?」

彼女は痛いところを突いてきた。
表向き、私はただの事務員だ。ここで「私がいないとチーフが困るんです」とは言えない。

「それとも……何か『特別な理由』でもあるのかしら? あなたがそばにいないといけない理由が」

彼女は私の顔を覗き込み、意地悪く微笑んだ。
バレている。
彼女は、私たちが共犯関係にあることを確信した上で、あえて私を引き剥がそうとしているのだ。
久我さんを孤立させ、無防備な状態にするために。

「……わかりました。行きます」
「いい返事ね。フライトは今日の午後よ。急いで準備して」

彼女は満足そうに踵を返した。
その背中から漂う「冷たい薔薇」の香りが、今日は一段と鋭く、勝利のファンファーレのように感じられた。


「……行くな」

給湯室の隅。
辞令のことを伝えると、久我さんは私の肩を掴み、声を押し殺して叫んだ。

「二週間なんて無理だ。お前がいなくなったら、僕は誰を頼ればいい?」
「すみません……。業務命令なので、逆らえなくて」
「霧島の差し金か。……あの女、気づいてやがるんだ。僕の弱点を」

彼は爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、壁を叩いた。
ドン、という鈍い音が響く。
彼の目には、明らかな焦燥と恐怖が浮かんでいた。

「僕も行く。研修なんて名目で、ついていく」
「駄目です! そんなことをしたら、それこそ怪しまれます。……久我さんはここで、霧島さんの目を欺き続けてください」
「できるわけがないだろう! 鼻がないんだぞ!?」

「できます」

私は彼の両手を包み込み、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。

「久我さんは天才ですから。……それに、離れていても、私たちは繋がっています」

私はポケットから、小さな小瓶を取り出した。
昨夜、彼の家で作ったものだ。私の髪の毛を一房、無水エタノールに浸して香りを移した、特製の「お守り」。

「これを持っていてください。……匂いはしなくても、私がそばにいると思って」

彼はその小瓶を受け取ると、泣きそうな顔で握りしめた。
そして、周囲に人がいないことを確認すると、私の額に強くキスをした。

「……毎日、電話する。絶対に出ろよ」
「はい。……行ってきます、遥さん」


北海道へのフライト中、私はずっと胸騒ぎがしていた。
霧島レイコが、ただ私を遠ざけるためだけに、こんな手の込んだことをするだろうか?
彼女の目的は、久我さんを手に入れること。
邪魔な私が消えた後、彼女は無防備になった彼に何をするつもりなのか。

その答えは、現地に到着した夜、すぐに判明した。

ホテルの部屋で荷解きをしていると、スマホが震えた。
久我さんからだ。
安堵して通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは彼の悲痛な声だった。

『……美緒、助けてくれ』
「えっ!? 久我さん、どうしたんですか?」
『はめられた。……今、霧島と一緒だ』

バックグラウンドで、車の走行音が聞こえる。
そして、隣から霧島レイコの声が聞こえた。

『ごめんなさいね、浅見さん。チーフはこれから私と「温泉旅行」なの。……二週間、彼の面倒は私がたっぷり見てあげるわ』

「な……っ」

『これから彼のリハビリにつきあってあげるの。……あなたの安っぽい匂いじゃなくて、私の最高級の香りでね。ショック療法なら、強烈な方がいいでしょう?』

電話が一方的に切られた。
頭の中が真っ白になった。
私を北海道に飛ばしたのは、彼を拉致するための口実だったのだ。

孤立無援の彼。
嗅覚を失い、判断力も弱っている彼を、あの肉食獣のような女が連れ去った。
密室の温泉宿で、二週間。
何も起きないはずがない。

「……行かなきゃ」

私は財布とスマホだけを掴み、部屋を飛び出した。
仕事なんてどうでもいい。クビになったっていい。
彼が壊される前に、取り戻さなきゃ。

空港へ向かうタクシーの中で、私は震える手でフライト情報を検索した。
最終便はもうない。
でも、泳いででも帰ってやる。
待っていて、遥さん。
あなたの鼻も、身体も、心も、全部私のものなんだから――!
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つかまえた 〜ヤンデレからは逃げられない〜

りん
恋愛
狩谷和兎には、三年前に別れた恋人がいる。

密会~合コン相手はドS社長~

日下奈緒
恋愛
デザイナーとして働く冬佳は、社長である綾斗にこっぴどくしばかれる毎日。そんな中、合コンに行った冬佳の前の席に座ったのは、誰でもない綾斗。誰かどうにかして。

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?

春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。 しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。 美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……? 2021.08.13

処理中です...