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霧島レイコ編
指先が覚えている熱、引き剥がされる二人
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「……やはり、駄目か」
深夜のマンション。
久我さんは、私の首筋に顔を埋めたまま、苦しげに呻いた。
あれから毎晩、私たちは「リハビリ」と称して、こうして肌を重ねていた。
彼の嗅覚を取り戻すための、二人だけの秘密の儀式。
「少しも匂わないんですか? 今日は、久我さんが好きだったベルガモットのボディクリームを塗ってみたんですけど」
「……知識としては分かる。お前の肌がしっとりしていて、クリームを塗ったことは触覚で分かるんだ。だが、香りのイメージが脳に届かない」
彼は苛立ちをぶつけるように、私の鎖骨に強く唇を押し当てた。
痛みと快感が同時に走り、私は背中を反らせる。
「焦げ付くようだ。……目の前に、一番食べたい料理があるのに、味がしない感覚だ」
彼の指先が、私のパジャマのボタンを一つずつ外していく。
嗅覚がない分、彼の触覚と視覚は恐ろしいほど鋭敏になっていた。
肌のわずかな火照り、鳥肌、脈の速さ。
彼はその全てを指先と唇で読み取り、私を追い詰めていく。
「匂わなくても……お前の身体の反応だけは、手に取るように分かる」
「っ、久我さん……そこ、」
「ここか? 昨日の会議で、僕に合図を送っていた指先は」
彼が私の指を一本ずつ口に含み、舌先で愛撫する。
その妖艶な仕草に、私は頭が真っ白になった。
彼は匂いを感じていないはずなのに、まるで全身の毛穴から私の全てを吸い尽くそうとしているみたいだ。
「美緒。……お前がいないと、僕はもう息もできない」
その夜、彼は縋るように何度も私を求め、私たちは泥のように眠った。
この温もりが永遠に続けばいい。
そう願っていたのに。
翌朝、出社した私を待っていたのは、非常な通告だった。
「浅見さん、来週から北海道の工場へ行ってちょうだい」
デスクに現れた霧島レイコは、一枚の辞令を私の前に突きつけた。
表情は涼しいままだが、その瞳の奥には冷徹な計算が光っている。
「ほ、北海道ですか? いきなりそんな」
「ラベンダーの収穫時期に合わせた現地研修よ。期間は二週間。……拒否権はないわ。これは業務命令だから」
二週間。
血の気が引いた。
今の久我さんにとって、私は「鼻」であり、精神安定剤だ。
二週間も離れ離れになったら、彼の嗅覚障害はどうなってしまうのか。それに、今進行中のプロジェクトは――。
「……霧島部長、今は新作の発売直前です。私が抜けるわけには」
「あら、たかが事務員一人が抜けて、困るようなプロジェクトなの?」
彼女は痛いところを突いてきた。
表向き、私はただの事務員だ。ここで「私がいないとチーフが困るんです」とは言えない。
「それとも……何か『特別な理由』でもあるのかしら? あなたがそばにいないといけない理由が」
彼女は私の顔を覗き込み、意地悪く微笑んだ。
バレている。
彼女は、私たちが共犯関係にあることを確信した上で、あえて私を引き剥がそうとしているのだ。
久我さんを孤立させ、無防備な状態にするために。
「……わかりました。行きます」
「いい返事ね。フライトは今日の午後よ。急いで準備して」
彼女は満足そうに踵を返した。
その背中から漂う「冷たい薔薇」の香りが、今日は一段と鋭く、勝利のファンファーレのように感じられた。
「……行くな」
給湯室の隅。
辞令のことを伝えると、久我さんは私の肩を掴み、声を押し殺して叫んだ。
「二週間なんて無理だ。お前がいなくなったら、僕は誰を頼ればいい?」
「すみません……。業務命令なので、逆らえなくて」
「霧島の差し金か。……あの女、気づいてやがるんだ。僕の弱点を」
彼は爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、壁を叩いた。
ドン、という鈍い音が響く。
彼の目には、明らかな焦燥と恐怖が浮かんでいた。
「僕も行く。研修なんて名目で、ついていく」
「駄目です! そんなことをしたら、それこそ怪しまれます。……久我さんはここで、霧島さんの目を欺き続けてください」
「できるわけがないだろう! 鼻がないんだぞ!?」
「できます」
私は彼の両手を包み込み、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「久我さんは天才ですから。……それに、離れていても、私たちは繋がっています」
私はポケットから、小さな小瓶を取り出した。
昨夜、彼の家で作ったものだ。私の髪の毛を一房、無水エタノールに浸して香りを移した、特製の「お守り」。
「これを持っていてください。……匂いはしなくても、私がそばにいると思って」
彼はその小瓶を受け取ると、泣きそうな顔で握りしめた。
そして、周囲に人がいないことを確認すると、私の額に強くキスをした。
「……毎日、電話する。絶対に出ろよ」
「はい。……行ってきます、遥さん」
北海道へのフライト中、私はずっと胸騒ぎがしていた。
霧島レイコが、ただ私を遠ざけるためだけに、こんな手の込んだことをするだろうか?
彼女の目的は、久我さんを手に入れること。
邪魔な私が消えた後、彼女は無防備になった彼に何をするつもりなのか。
その答えは、現地に到着した夜、すぐに判明した。
ホテルの部屋で荷解きをしていると、スマホが震えた。
久我さんからだ。
安堵して通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは彼の悲痛な声だった。
『……美緒、助けてくれ』
「えっ!? 久我さん、どうしたんですか?」
『はめられた。……今、霧島と一緒だ』
バックグラウンドで、車の走行音が聞こえる。
そして、隣から霧島レイコの声が聞こえた。
『ごめんなさいね、浅見さん。チーフはこれから私と「温泉旅行」なの。……二週間、彼の面倒は私がたっぷり見てあげるわ』
「な……っ」
『これから彼のリハビリにつきあってあげるの。……あなたの安っぽい匂いじゃなくて、私の最高級の香りでね。ショック療法なら、強烈な方がいいでしょう?』
電話が一方的に切られた。
頭の中が真っ白になった。
私を北海道に飛ばしたのは、彼を拉致するための口実だったのだ。
孤立無援の彼。
嗅覚を失い、判断力も弱っている彼を、あの肉食獣のような女が連れ去った。
密室の温泉宿で、二週間。
何も起きないはずがない。
「……行かなきゃ」
私は財布とスマホだけを掴み、部屋を飛び出した。
仕事なんてどうでもいい。クビになったっていい。
彼が壊される前に、取り戻さなきゃ。
空港へ向かうタクシーの中で、私は震える手でフライト情報を検索した。
最終便はもうない。
でも、泳いででも帰ってやる。
待っていて、遥さん。
あなたの鼻も、身体も、心も、全部私のものなんだから――!
深夜のマンション。
久我さんは、私の首筋に顔を埋めたまま、苦しげに呻いた。
あれから毎晩、私たちは「リハビリ」と称して、こうして肌を重ねていた。
彼の嗅覚を取り戻すための、二人だけの秘密の儀式。
「少しも匂わないんですか? 今日は、久我さんが好きだったベルガモットのボディクリームを塗ってみたんですけど」
「……知識としては分かる。お前の肌がしっとりしていて、クリームを塗ったことは触覚で分かるんだ。だが、香りのイメージが脳に届かない」
彼は苛立ちをぶつけるように、私の鎖骨に強く唇を押し当てた。
痛みと快感が同時に走り、私は背中を反らせる。
「焦げ付くようだ。……目の前に、一番食べたい料理があるのに、味がしない感覚だ」
彼の指先が、私のパジャマのボタンを一つずつ外していく。
嗅覚がない分、彼の触覚と視覚は恐ろしいほど鋭敏になっていた。
肌のわずかな火照り、鳥肌、脈の速さ。
彼はその全てを指先と唇で読み取り、私を追い詰めていく。
「匂わなくても……お前の身体の反応だけは、手に取るように分かる」
「っ、久我さん……そこ、」
「ここか? 昨日の会議で、僕に合図を送っていた指先は」
彼が私の指を一本ずつ口に含み、舌先で愛撫する。
その妖艶な仕草に、私は頭が真っ白になった。
彼は匂いを感じていないはずなのに、まるで全身の毛穴から私の全てを吸い尽くそうとしているみたいだ。
「美緒。……お前がいないと、僕はもう息もできない」
その夜、彼は縋るように何度も私を求め、私たちは泥のように眠った。
この温もりが永遠に続けばいい。
そう願っていたのに。
翌朝、出社した私を待っていたのは、非常な通告だった。
「浅見さん、来週から北海道の工場へ行ってちょうだい」
デスクに現れた霧島レイコは、一枚の辞令を私の前に突きつけた。
表情は涼しいままだが、その瞳の奥には冷徹な計算が光っている。
「ほ、北海道ですか? いきなりそんな」
「ラベンダーの収穫時期に合わせた現地研修よ。期間は二週間。……拒否権はないわ。これは業務命令だから」
二週間。
血の気が引いた。
今の久我さんにとって、私は「鼻」であり、精神安定剤だ。
二週間も離れ離れになったら、彼の嗅覚障害はどうなってしまうのか。それに、今進行中のプロジェクトは――。
「……霧島部長、今は新作の発売直前です。私が抜けるわけには」
「あら、たかが事務員一人が抜けて、困るようなプロジェクトなの?」
彼女は痛いところを突いてきた。
表向き、私はただの事務員だ。ここで「私がいないとチーフが困るんです」とは言えない。
「それとも……何か『特別な理由』でもあるのかしら? あなたがそばにいないといけない理由が」
彼女は私の顔を覗き込み、意地悪く微笑んだ。
バレている。
彼女は、私たちが共犯関係にあることを確信した上で、あえて私を引き剥がそうとしているのだ。
久我さんを孤立させ、無防備な状態にするために。
「……わかりました。行きます」
「いい返事ね。フライトは今日の午後よ。急いで準備して」
彼女は満足そうに踵を返した。
その背中から漂う「冷たい薔薇」の香りが、今日は一段と鋭く、勝利のファンファーレのように感じられた。
「……行くな」
給湯室の隅。
辞令のことを伝えると、久我さんは私の肩を掴み、声を押し殺して叫んだ。
「二週間なんて無理だ。お前がいなくなったら、僕は誰を頼ればいい?」
「すみません……。業務命令なので、逆らえなくて」
「霧島の差し金か。……あの女、気づいてやがるんだ。僕の弱点を」
彼は爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、壁を叩いた。
ドン、という鈍い音が響く。
彼の目には、明らかな焦燥と恐怖が浮かんでいた。
「僕も行く。研修なんて名目で、ついていく」
「駄目です! そんなことをしたら、それこそ怪しまれます。……久我さんはここで、霧島さんの目を欺き続けてください」
「できるわけがないだろう! 鼻がないんだぞ!?」
「できます」
私は彼の両手を包み込み、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「久我さんは天才ですから。……それに、離れていても、私たちは繋がっています」
私はポケットから、小さな小瓶を取り出した。
昨夜、彼の家で作ったものだ。私の髪の毛を一房、無水エタノールに浸して香りを移した、特製の「お守り」。
「これを持っていてください。……匂いはしなくても、私がそばにいると思って」
彼はその小瓶を受け取ると、泣きそうな顔で握りしめた。
そして、周囲に人がいないことを確認すると、私の額に強くキスをした。
「……毎日、電話する。絶対に出ろよ」
「はい。……行ってきます、遥さん」
北海道へのフライト中、私はずっと胸騒ぎがしていた。
霧島レイコが、ただ私を遠ざけるためだけに、こんな手の込んだことをするだろうか?
彼女の目的は、久我さんを手に入れること。
邪魔な私が消えた後、彼女は無防備になった彼に何をするつもりなのか。
その答えは、現地に到着した夜、すぐに判明した。
ホテルの部屋で荷解きをしていると、スマホが震えた。
久我さんからだ。
安堵して通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは彼の悲痛な声だった。
『……美緒、助けてくれ』
「えっ!? 久我さん、どうしたんですか?」
『はめられた。……今、霧島と一緒だ』
バックグラウンドで、車の走行音が聞こえる。
そして、隣から霧島レイコの声が聞こえた。
『ごめんなさいね、浅見さん。チーフはこれから私と「温泉旅行」なの。……二週間、彼の面倒は私がたっぷり見てあげるわ』
「な……っ」
『これから彼のリハビリにつきあってあげるの。……あなたの安っぽい匂いじゃなくて、私の最高級の香りでね。ショック療法なら、強烈な方がいいでしょう?』
電話が一方的に切られた。
頭の中が真っ白になった。
私を北海道に飛ばしたのは、彼を拉致するための口実だったのだ。
孤立無援の彼。
嗅覚を失い、判断力も弱っている彼を、あの肉食獣のような女が連れ去った。
密室の温泉宿で、二週間。
何も起きないはずがない。
「……行かなきゃ」
私は財布とスマホだけを掴み、部屋を飛び出した。
仕事なんてどうでもいい。クビになったっていい。
彼が壊される前に、取り戻さなきゃ。
空港へ向かうタクシーの中で、私は震える手でフライト情報を検索した。
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2021.08.13
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