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第3話:自由の風と、招かれざる「隣人」
「……はあ。空気が美味しいわ」
屋敷を出て三日。私は、隣国の国境近くにある小さな港町にいた。
ここは公爵家の領地からも遠く、潮風が心地よい穏やかな場所。
私はここで、身分を隠して一人の『魔導師』として生きることに決めていた。
公爵家では無償で提供していた私の魔力も、ここでは立派な商売道具になる。
「お嬢さん、悪いねえ。この防腐の魔導具、あんたが直してくれてから魚の持ちが全然違うよ」
市場の魚屋の店主が、おまけの干物を包みながら笑いかけてくれる。
「いいえ、お役に立てて嬉しいわ。また何かあれば言ってね」
私は微笑んで、籠を抱えた。
誰かの顔色を伺う必要もなく、ただ自分の力で誰かを助け、その対価でパンを買う。
そんな当たり前のことが、これほどまでに心を潤してくれるなんて。
あの冷え切った寝室で、夫の帰りを待ち続けていた日々が、まるで遠い前世の出来事のようだった。
「さて、今日の夕食は何にしようかしら……」
鼻歌まじりに、新しく借りた小さなアパートへと続く石畳の道を歩く。
部屋は狭いけれど、お気に入りのリネンと、自分の給料で買った一輪の花がある。
それだけで、今の私には十分すぎるほど贅沢だった。
だが、アパートの門をくぐろうとした時、一人の男性が壁に寄りかかって立っているのが見えた。
上質な黒いコートに、銀縁の眼鏡。
一見すると穏やかな文官のようだが、その立ち姿からは隠しきれない強者の覇気が漂っている。
彼と目が合った瞬間、私は本能的に足を止めた。
「……おや。ようやくお帰りですか、公爵夫人。いえ、今はエリスさんとお呼びすべきでしょうか」
男は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
心臓が跳ね上がる。
なぜ、私の偽名を知っているのか。そもそも、私の居場所を突き止められる人間など、あの国にはいないはずなのに。
「……どなたですか。私はあなたのような方、存じ上げませんけれど」
私が警戒を露わにして一歩下がると、男は楽しげに肩を揺らした。
「冷たいですね。あなたのせいで、隣国の公爵家は大パニックですよ。結界の維持を放棄し、帳簿を真っ白にして消えた『稀代の悪女』として、指名手配寸前だ」
男は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
逃げようとした私の背中に、彼は逃げ場を塞ぐように腕をついた。
「ですが、ご安心を。私はあんな愚かな男の味方ではありません」
至近距離で見つめられるその瞳は、深い夜の海のような色をしていた。
「私はこの国の情報部を統括している者です。エリスさん、あなたの『本当の価値』を理解した上で、提案に参りました」
男の声が、耳元で低く響く。
「あの空っぽの部屋に戻る必要はありません。その代わり……私の『飼い飼い(専属)』になっていただけませんか?」
自由を手に入れたと思った瞬間に現れた、謎の男。
彼の目的は、そして私を追っているはずのレオンハルトはどう動くのか。
私の新しい人生は、思わぬ方向へと転がり始めていた。
屋敷を出て三日。私は、隣国の国境近くにある小さな港町にいた。
ここは公爵家の領地からも遠く、潮風が心地よい穏やかな場所。
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公爵家では無償で提供していた私の魔力も、ここでは立派な商売道具になる。
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市場の魚屋の店主が、おまけの干物を包みながら笑いかけてくれる。
「いいえ、お役に立てて嬉しいわ。また何かあれば言ってね」
私は微笑んで、籠を抱えた。
誰かの顔色を伺う必要もなく、ただ自分の力で誰かを助け、その対価でパンを買う。
そんな当たり前のことが、これほどまでに心を潤してくれるなんて。
あの冷え切った寝室で、夫の帰りを待ち続けていた日々が、まるで遠い前世の出来事のようだった。
「さて、今日の夕食は何にしようかしら……」
鼻歌まじりに、新しく借りた小さなアパートへと続く石畳の道を歩く。
部屋は狭いけれど、お気に入りのリネンと、自分の給料で買った一輪の花がある。
それだけで、今の私には十分すぎるほど贅沢だった。
だが、アパートの門をくぐろうとした時、一人の男性が壁に寄りかかって立っているのが見えた。
上質な黒いコートに、銀縁の眼鏡。
一見すると穏やかな文官のようだが、その立ち姿からは隠しきれない強者の覇気が漂っている。
彼と目が合った瞬間、私は本能的に足を止めた。
「……おや。ようやくお帰りですか、公爵夫人。いえ、今はエリスさんとお呼びすべきでしょうか」
男は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
心臓が跳ね上がる。
なぜ、私の偽名を知っているのか。そもそも、私の居場所を突き止められる人間など、あの国にはいないはずなのに。
「……どなたですか。私はあなたのような方、存じ上げませんけれど」
私が警戒を露わにして一歩下がると、男は楽しげに肩を揺らした。
「冷たいですね。あなたのせいで、隣国の公爵家は大パニックですよ。結界の維持を放棄し、帳簿を真っ白にして消えた『稀代の悪女』として、指名手配寸前だ」
男は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
逃げようとした私の背中に、彼は逃げ場を塞ぐように腕をついた。
「ですが、ご安心を。私はあんな愚かな男の味方ではありません」
至近距離で見つめられるその瞳は、深い夜の海のような色をしていた。
「私はこの国の情報部を統括している者です。エリスさん、あなたの『本当の価値』を理解した上で、提案に参りました」
男の声が、耳元で低く響く。
「あの空っぽの部屋に戻る必要はありません。その代わり……私の『飼い飼い(専属)』になっていただけませんか?」
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