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1巻
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入社してしばらく経つけれど、取引先の方とお会いする時に宗雅さんにつくのは鮎川さんかベテランの男性秘書の笹原さんばかりだ。残念だけれど私はスケジュール調整や書類作成ばかりで、宗雅さんが外に出る時に秘書として同行できたことはないのよね。というより、私は張り切ると細かいミスをしてしまうので、宗雅さんについてサポートなんて夢のまた夢だと思う。
「あ、ねぇ。これのデータもらえるかな」
「……は、はい!」
肩を落としていると、彼はパソコンを見ながら書き物をしている手を止めて、資料を指さした。いつもの柔らかい表情ではなくとても真剣な表情で指示を出す彼に、つい目を奪われてしまう。ずっと憧れてきた人なので、彼の一挙手一投足を目で追ってしまうのだ。ぼうっとしていたことを挽回しようと瞬時に頭を下げる。
「はい、畏まりました! すぐ送りまっ、きゃあっ!」
そう言って秘書室に戻ろうとしたら、足がもつれて転びそうになる。ぎゅっと目を瞑った瞬間、体がフワッと浮いた。え? と思い、目をゆっくり開けると、彼に支えられていた。理解した瞬間、慌てて数歩飛び退く。
「ももも申し訳ございません!」
「いや、いいんだけど……。体調悪い?」
「いいえ、違うんです! ボーッとしてしまって、本当に申し訳ございません。仕事中なのに……」
私は宗雅さんに頭を下げて、私のせいで散らばってしまった書類を拾った。
彼の下で働きはじめてはや三カ月。仕事中なのにちょっとしたことにときめきが止まらない。彼はいつだって真摯に仕事に向き合っているのに、これでは好いてもらえるどころか仕事ができない秘書の烙印を押されてしまう。
「って、あら。これ……」
拾い上げた紙には、今回の改装を担当する予定のイタリア人インテリアデザイナーの名前と、彼をもてなすプランが消されては書かれ、また消されては新しく書かれた跡があった。
「アベーレ・トラヴィツァさんが、どうかなさったのですか?」
「え? 立花さん、この方のことを知っているの?」
「はい。父方の祖父と懇意にしてくださっている方でして……。この方が京都のホテルにも携わるのですか? 今回も副社長とご一緒に?」
「あ、いや。違うんだ。今回は僕ではないんだけど、イタリアの改装の時に縁があったから、営業部に助けてくれって言われたんだ。少し拗れてしまったらしくてね」
営業部に助けてくれと言われた? 拗れた? 私が首を傾げると、彼は思案顔で顎に手をやり、困ったように笑った。
助けてって、アベーレおじ様となにかあったのかしら?
彼は父方の祖父が趣味でやっていたデザイン事務所によく出入りしていて、小さい時から私を可愛がってくださった。ちなみに父は入り婿なので、実家は銀行とは違う事業をしている。
昔に比べて会える回数は減ったけれど、今でも変わらず良くしてくださる優しい方だ。
「なにかあったのですか? あの、もしよろしければ、私にお手伝いできることはないでしょうか? なんでも仰ってください」
「うん、そうだね。実は、彼に内装デザインを依頼した時に、営業の子が彼の意に添わないことをしちゃったみたいで……。元々気難しい人だからね、どうしたら挽回できるか悩んでいたところなんだ。なにかいい方法はある? 君の意見を聞かせてほしいな」
「はい!」
私は初めて彼の役に立てるのだと思い、心が浮き立つようなソワソワした心持ちになった。胸の下で手を組んで小さく息を吐き、ゆっくりと頷く。
「アベーレ・トラヴィツァ様は確かに少し気難しいところがおありですが、慣れると結構気さくな方なんですよ。一度引き受けたお仕事は必ず成し遂げてくださる真摯な方なので、きっと大丈夫です。至急、先程のデータとあわせて、お好きなものや、関わり方、ややご機嫌が悪い時のお付き合いの仕方を纏めたものをお送りします」
「ありがとう。機嫌が悪い時の付き合い方まで分かるのは、とても助かるよ」
「いえ、お役に立てて嬉しいです」
頬が緩むのを抑えられなくて、ついつい笑ってしまう。すると、宗雅さんが笑顔で私を見つめたまま、もう一度「ありがとう」と言って握手をしてくれた。すぐに離されてしまったけれど、大きくて温かい手。
宗雅さん……
「立花さんって、何事にも一生懸命だよね。少し慌てんぼうさんだから心配していたんだけど、もう大丈夫そうだ。今回は本当に助かったよ。君はもう僕を助けてくれる立派な秘書だね。これからもよろしく頼むよ」
「ありがとうございます。これからはミスしないように頑張ります」
「あまり気負いすぎないようにね」
「は、はい」
宗雅さんが自分を認めてくれた。その事実に、私はもう心臓が痛いくらいだった。勘違いしてしまいそうだ。彼が本心からそう言ってくれたのが分かるからこそ、私の心は簡単に揺れ動いて彼への想いを募らせてしまう。彼に認めてもらえて嬉しい反面、ただの上司と部下という関係が遠くて苦しい。社の一員として優しくしてもらえたのに、一喜一憂する自分がいる。
いけないわ。せっかく秘書として認めてもらえたのに、彼を失望させたくない。想いを通わせることが目標なのだから……
好きになってもらう前に私の好意に気づかれたら、きっと彼は私と距離を置くだろう。そうなったらもう終わりだ。両家の計画も、私の初恋も……
私は「またなにかありましたら、なんでも言ってください」と言って、副社長室を退室した。
◆ ◇ ◆
「あぁ、もう」
私は肩を落として、バッグの中を覗く。
何度見てもない。中身をひっくり返してみてもない。
「やっちゃった……」
現在、一人暮らし中のマンションの前で、私は独り言ちた。
鍵がない。コンシェルジュが中にいるので、彼に頼めば部屋に入ることはできるけれど、会社に鍵を忘れてしまっていることには変わりはない。明日は休みだし、ないと不便だ。大丈夫だと思うけれど、誰かに拾われたらいやだし……。近いから取りにいったほうがいいかしら。
私は腕時計を見つめた。現在は二十時を少し過ぎたところ。
「会社……まだ誰かいるかしら。この時間なら大丈夫よね」
ここは父が借りてくれたマンションで、会社からとても近い。走れば五分もかからないと思う。今日は宗雅さんに仕事を任せてもらえたことが嬉しくて、定時を過ぎても仕事をしていた。いつも以上に張り切って疲れていたから、おそらくロッカーか秘書室のデスクのどちらかに忘れてきたのだと思う。
いやまあ、褒められたことに浮かれていたせいもあるのだけれど……
「ふぅ」
私は小さく息をついたあと、ひっくり返したバッグの中身を拾い立ち上がった。急いで会社に戻って裏口から入ると、警備員さんが「どうしましたか?」と声をかけてくれる。忘れ物をした旨を伝えると、快く中に入れてくれたので、私は秘書室のロッカールームへ向かった。
どこにあるかしら? ここにないとするとデスクだけれど……
「あ! あった!」
自分のロッカーを開けて隅々まで確認すると、鍵は下のほうに落ちていた。もう忘れないように鞄にしっかりしまうと、私は胸を撫でおろした。
「良かった。これで帰れるわ」
ロッカールームを出ると、ふと気になって副社長室に目をやる。ドアの隙間から光が漏れていることに気づいた私は、一瞬ドキッとした。
宗雅さん、まだ残っているのかしら……
秘書のロッカールームは秘書室の奥にある。そして、その秘書室と続きになっているお部屋が副社長室、宗雅さんのお部屋だ。
手伝えることがないかしらと思い、私は副社長室をノックした。
「副社長、立花です」
応答はない。もしかすると、電気を消し忘れているのかもしれない。そう思い、確認のために副社長室のドアノブを回す。すると、鍵はかかっておらずいつものようにドアが開いた。
「副社長、立花です。入りますよ……?」
なんとなく声をひそめながら副社長室の中を覗くと、やっぱり誰もいないようだ。
「施錠忘れかしら?」
宗雅さんは、秘書よりも遅く残って仕事をしていることが多いので、いつもご自分で施錠をしている。朝は秘書である私達が鍵を開けて、掃除をしたり準備をしたりするのだけれど……。宗雅さんでもなにかを忘れてしまうことがあるのね。
私は中に入り、誰もいない副社長室を見渡し、宗雅さんのデスクにそっと触れた。いつも仕事をしている空間だけれど、誰もいないせいか普段とは違った空間に思えて、ちょっといけないことをしている気分になってしまう。
「あら」
ふと、応接用のソファーに目をやると、宗雅さんのジャケットが無造作に置かれていることに気づいた。いけないと思いつつも、そのジャケットに吸い寄せられるように触れると、彼の温かみのある甘いホワイトムスクの香りが鼻腔をくすぐった。
「宗雅さん……」
一度も呼べたことのない名を口に出すと、体にゾクッとした痺れが走った。彼の低い声に耳元で「立花さん」と。ううん、「しずく」と呼ばれたら、私……。そんなことを考えてしまって、なんだか胸がきゅうとなった気がした。
「宗雅さん……」
私、どうかしている。ここは職場で、副社長室で、こんなこと許されないのに。私は背徳感や倒錯感に包まれながら、彼のジャケットに腕を通した。彼に抱きしめられているような感覚に酔い、ジャケットを着たまま自分のことをぎゅっと抱き締める。
「宗雅さん、好き……。好きです。お願いだから、早く私のことを見て」
宗雅さんに抱きしめてもらえたら、愛してもらえたら、私……
「誰かいるのかい?」
その声と共にガチャッと副社長室のドアが開く。
「…………」
「…………」
一瞬、時が止まる。私は着ているジャケットの前を握りしめながら、呆然と彼を見つめた。彼は、ドアを開けた状態で言葉を失ったように硬直している。
「っ⁉」
喉の奥で出そうになった「ひっ」という悲鳴は、実際声にはならなかった。私は慌ててジャケットを脱いで、少しでもその視線から逃れようとソファーの陰にうずくまった。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、僕のほうこそごめん……」
少し困ったような声がすぐ近くで聞こえ、私が隠れているソファーがぎしりと鳴った。
え? どうして、ここに座るの? むしろ、見なかったことにして退室してほしかった。彼の部屋だけれど。おそるおそる顔を上げると、彼は楽しそうに笑っていた。目が合うと、さらに笑みが深くなる。
「副社長……?」
「立花さん、邪魔してごめんね。ほら、僕のことは気にせず続けて?」
「は? え?」
彼はニコニコと微笑みながら、とんでもないことを言い出した。私が言葉の意味を理解できずに固まっていると、「どうしたの?」と顔を覗きこんでくる。その笑顔はいつもなら見惚れてしまうものだったけれど、今はさながら悪魔のよう。
「ほら、見ていてあげるから続けて? 僕のジャケットを着て、僕に愛の告白をしてくれたんだよね?」
「⁉ い、いえ! 副社長、申し訳ございません。わ、私、どうかしていたんです……。あ、このジャケット、お返しします。それでは私はこれで」
ジャケットを突き返して、慌てて逃げようとすると、ぐいっと腕を引っ張られ、ソファーに引き倒される。
「⁉」
常にない彼の行動に驚き、思わず目を大きく見開くと、彼の捕食者のような視線と絡み合う。その目が怖くて、視線から逃れるように目を逸らすと、彼は私の顎を掴んで無理矢理顔を自分のほうに向けさせた。
「副社長……」
パサッと、宗雅さんのジャケットが床に落ちた音がする。彼は私の両手を纏めてソファーの座面に押しつけ、のしかかってくる。抵抗しようともがくが、びくともしない。不安げに見上げると、彼は対照的に悠然と私を見下ろし、にやりと笑う。
「副社長じゃないでしょう? さっきなんて呼んでた? 宗雅。僕の名前を呼んでいたよね?」
指摘されて、胸が跳ねた。私が息を呑むと、宗雅さんは私の頬をなぞる。
「怯えてる? ごめんね、責めているわけじゃないんだ。ただ、さっきの姿がとても可愛かったから、また見たくて……。ダメかな?」
「っ……」
彼は耳の縁を指でなぞりながら、耳元で信じがたいことを囁いた。その言葉で一気に体温が上がる。彼の甘い声と吐息が、どうしようもなく熱くて、恥ずかしいのになんだかゾクゾクしてしまう。彼は押さえつけていた私の手を離すと、体を起こし、私を彼の膝に座らせぎゅっと抱き締めた。背中に当たる彼の胸板に心臓が跳ねた。
「ほら、さっきのをもう一回聞かせて? 次はちゃんと僕の目を見て言ってほしいな」
「い、いえ。ごめんなさい! 先程のは一種の気の迷いというか……。あの、わ、私、そんなつもりじゃなかったんです! ごめんなさい!」
私はもうパニックだった。彼に好きになってもらう前に自分の恋心がバレてしまってどうしようという思いが、ぐるぐると頭の中をまわる。
「ダメだよ、立花さん。あんなに可愛いことをしていたのに、なかったことにしようって言うの? そんなこと絶対に許さないよ。ああ、ジャケットが必要かな? 立花さんが僕のジャケットを着ているところ、すごく可愛くて思わず固まっちゃった」
首を横に振りながら身を捩る私の手を取って、彼は手の甲にチュッとキスをした。
えっ⁉ 今のなに? なにが起こったの?
動揺しすぎて状況をうまくのみこめない。理解が追いつかない。
「副社長……?」
「ねぇ、立花さん。お願いだから、もう一回言って? 君の可愛い口から、ちゃんと聞きたいんだ」
聞いてどうするんですか? と聞いてみたかったけれど、声が出なかった。彼は私のことを好きじゃないはずだ。まだふられたくないという思いが、ぐるぐると頭の中をまわる。
「ごめんね、泣かないで。立花さんも僕に見られてびっくりしたんだよね。ちょっと落ち着こうか? ゆっくり話をしたいからコーヒーでも淹れるよ」
彼は私の頭を撫でて、優しい声音でそう言う。彼の言葉で泣いているのだと気づいた私は自分の頬に触れた。確かに頬は涙で濡れている。
私、最悪だ。勝手に宗雅さんのジャケットを着て好きだと言っただけじゃなく、ただ真意を確かめようとしている彼の前で泣くだなんて……。呆れられたに決まっている。
でも、いつから好きなのかと聞かれたら、正直に答えてしまいそうでこわい。中学生の時からだなんて言ったら、私がどこの家の娘かも分かってしまうだろう。家が決めた婚約者候補が正体を隠して自分に近づいていたなんて知ったら、彼はきっと軽蔑するだろう。そうなれば彼はコーヒーでも飲みながら、私に最後通牒を下すのだ。
でも、そんなのいや。そう思った私は、彼がコーヒーを淹れるために膝から私をおろした隙に、ドアのほうに走った。
「え? 立花さん? 待って!」
「ごめんなさい、副社長っ! きゃあっ⁉」
「危ないっ!」
◆ ◇ ◆
なんだか温かい……
じんわりと伝わってくる温もりが心地良くて、私はその温もりを求めるように手を伸ばしてぎゅっとしがみついた。あまりの心地良さに、思わず口元が綻ぶ。
「温かくて気持ちいい……」
「それは良かった」
まだ夢見心地の私の頭を誰かの手が撫で、そのまま梳くように髪に指を通した。その感覚と声にハッとし、おそるおそる目を開けると、目の前には宗雅さんがいた。彼は片肘をつきながら楽しそうに笑っている。
まだはっきりしない頭が、一気に現実へと引き戻され、大きく目を見開いた。そして、弾かれたように体を起こし、ずさーっとベッドの上を後退する。
「えっ、どうして副社長が? ここは?」
どうして? 私、確か……
「ここは僕の家で、寝室のベッドの上かな。逃げようとした君が盛大に転んで気を失ったから、連れて帰ってきたんだ。どう? ぶつけたところは痛くない? 病院は大袈裟だと思ったから連れていかなかったんだけど……」
「え? え……えっと……」
そういえば私、副社長室で宗雅さんのジャケットを勝手に着て好きだって言っているところを彼に見つかって……。思い出すと血の気が引いていく。わ、私ったらなんてことを……。本当にあの時はどうかしていた。自分で自分の行動が理解できない。宗雅さんは私のこと、どう思ったのかしら? 呆れたわよね、やっぱり。
私が混乱していると、彼がゆっくりと体を起こした。その動きに体がびくっと震える。
「まだ二十三時だから、起きるのは早いよ。朝まで寝る? それとも、お腹が空いたかな? 夕食、まだだよね」
「えっと……」
「はは、その前にちょっと落ち着いたほうがいいか。温かいお茶でも淹れるよ。先に行っているから、あとからリビングにおいで。但し、次は転んだりしないようにゆっくりね」
「は、はい」
私が頷くと、彼は私に背を向けて寝室を出ていった。
彼の姿が見えなくなった瞬間、一気に「どうして? なんで?」という疑問が湧き出てくる。彼は自分に寄ってくる女性をすべて遠ざけていたはず。家が絡む縁談だって……。あんな現場を見られたら、女性にクールだという彼なら即クビにしていてもおかしくない。先輩にも、副社長は優しいけれどそういうところは厳しいので気をつけてと言われていた。それなのに、なぜ私は彼のマンションにいるの?
考えても分からない。分かっているのは宗雅さんに、私の気持ちがバレてしまったということだけだ。でも、連れ帰ってくれたということは、まさか脈あり? そこまで考えてかぶりを振る。
私が逃げて転んだから、その話ができなかったんだ。だからきっと、リビングに行けば、優しくて冷たい声音で「ああいうのは迷惑なんだよね」と今度こそ引導を渡されるに違いない。
「…………」
振り向いてくれない人を思い続けるのはつらい。父には悪いけれど、いっそ今日までのことを思い出にひっそりと生きていくのも悪くない。そのためにも引導を渡してもらって……。私は唇を噛んだ。関係を始めることもできずに、終わりを告げられるのはつらいけれど、仕方ない。でも秘書のお仕事だけは続けさせてほしいな。せめて彼の役に立ちたい。
「でも、そんなの虫のいい話よね」
はぁっと深い溜息をついて、自分の胸元に目を落とす。すると、私は着ていたスーツを着ておらず、代わりに彼のカッタウェイシャツを着ていた。
キョロキョロと部屋を見渡すが、クイーンサイズのベッドとお洒落な間接照明が目に入るのみで、私の服らしきものは見当たらない。
どうしよう。私はモジモジと裾を引っ張りながら、言われた通りリビングへ向かうことにした。これ以上、彼を待たせるわけにはいかないもの。でも、私……下着の上に彼のシャツしか着ていない。彼が着替えさせたということよね? じゃあ、まさか、まさか、腕の傷を見られた?
「顔が赤いね。まだ落ち着かない?」
リビングに入ると、お茶を淹れてくれていた宗雅さんが、微笑みながら近寄ってくる。気まずくて目を逸らしたのに、「ん?」と顔を覗きこんできた。
「ほら、ソファーに座って? お茶でも飲もう。あ、お腹が空いているなら、なにか作るよ。と言っても、簡単なものになるけど……」
「いえ、大丈夫です! ありがとうございます」
そんな滅相もない。逃げようとして気を失ってしまった私を家に連れて帰り、世話をやいてくださっただけでもありがたいのに。土下座を通り越して五体投地してお礼を言いたいくらい。スカートを穿いていないので、もちろんできないけれど……
私は深呼吸をしたあと、戸惑いながらも彼の隣に少し距離をあけて、ちょこんと座った。だけれど、彼は困ったように笑い、空いたスペースをぽんぽんと叩く。
「もう少し近くにおいで」
「えっ? ですが……」
「ダメだよ。ほら、おいで」
「きゃっ」
ぐいっと腰を掴まれて、引き寄せられる。、胸に飛びこんでしまって、慌てて飛び退こうとするが、がっちりと腰を押さえられていて離れられない。
「あの……副社長?」
「宗雅でしょう? もう忘れたの? ほら、これでも飲んで落ち着きなさい」
「は、はい。ありがとうございます……」
彼がテーブルに置いたカップを指差したので、お礼を言った。
こんな恥ずかしい恰好で宗雅さんの隣にいるだなんて……
少しでも隠したくてシャツの裾を引っ張る手に、彼の手が重ねられる。
「ごめんね。スーツは皺にならないようにかけてあるよ。シャツは今洗濯中かな。今日は泊まるだろうから洗っておいたほうがいいかなと思って」
「い、いえ。ありがとうございます」
先程のことをまた思い出してしまって、顔に熱が集まってくる。私が熱くなった顔を隠すために俯くと、宗雅さんは「立花さんは可愛いね」と笑う。
もうこのやり取りだけで、私の心臓は爆発寸前だ。
「これからはここで過ごす時間が増えてくるだろうし、自宅から君の服を何着か持ってくるといいよ。あ、それとも新しく買おうか? そっちのほうがいいかもね」
「え?」
「それとも、もう一緒に住んじゃう?」
ええっ?
あまりにも普通のことのように言われて面食らう。それなのに、彼は「そうだ、それがいい。早速、明日にでも荷物を運ぼう」と言っている。
待って、待ってほしい。展開についていけない。
「待ってください、副社長。先程のことは大変申し訳ございませんでした。ですが、その……一体どうしたんですか?」
「え? だって、君は僕のこと好きなんだよね? 僕のお嫁さんになりたいんでしょう?」
「え……?」
図星をつかれて、硬直する。それどころか手先から冷たくなっていくような感覚に襲われた。あれだけのことを本人の前でしたのだから、仕方ないと俯く。
「副社長……」
「たちばな銀行創業者一族のお嬢さん。立花しずく。僕のお嫁さん候補……」
今、なんて……?
予想もしていない言葉に、私の胸がドキンと跳ねた。でも、それ以上に血の気が引いていくのを感じて、私は気がつくとソファーの上で土下座をしていた。
「も、申し訳ございません、私……」
「いいよ、謝らなくて。父達の算段には初めから気がついていたよ。大体、父の一存で急に入社したんだから分かるよ。分からないほうがおかしいと思わない?」
「……そ、それは」
ぐうの音も出ない。私は土下座したまま肩を落とした。ソファーの座面に頭がついてしまうくらい項垂れてる。
「僕としては、いつ誘惑してくれるのかなと思って待っていたんだけど、三カ月経っても一向になにも言ってこないから驚いたよ。正直なところ、困惑したかな。まさか君は乗り気じゃないのかなと考えを巡らしていたら、今日のアレだろう? 僕としたことが、面食らってしまったよ」
「あ、ねぇ。これのデータもらえるかな」
「……は、はい!」
肩を落としていると、彼はパソコンを見ながら書き物をしている手を止めて、資料を指さした。いつもの柔らかい表情ではなくとても真剣な表情で指示を出す彼に、つい目を奪われてしまう。ずっと憧れてきた人なので、彼の一挙手一投足を目で追ってしまうのだ。ぼうっとしていたことを挽回しようと瞬時に頭を下げる。
「はい、畏まりました! すぐ送りまっ、きゃあっ!」
そう言って秘書室に戻ろうとしたら、足がもつれて転びそうになる。ぎゅっと目を瞑った瞬間、体がフワッと浮いた。え? と思い、目をゆっくり開けると、彼に支えられていた。理解した瞬間、慌てて数歩飛び退く。
「ももも申し訳ございません!」
「いや、いいんだけど……。体調悪い?」
「いいえ、違うんです! ボーッとしてしまって、本当に申し訳ございません。仕事中なのに……」
私は宗雅さんに頭を下げて、私のせいで散らばってしまった書類を拾った。
彼の下で働きはじめてはや三カ月。仕事中なのにちょっとしたことにときめきが止まらない。彼はいつだって真摯に仕事に向き合っているのに、これでは好いてもらえるどころか仕事ができない秘書の烙印を押されてしまう。
「って、あら。これ……」
拾い上げた紙には、今回の改装を担当する予定のイタリア人インテリアデザイナーの名前と、彼をもてなすプランが消されては書かれ、また消されては新しく書かれた跡があった。
「アベーレ・トラヴィツァさんが、どうかなさったのですか?」
「え? 立花さん、この方のことを知っているの?」
「はい。父方の祖父と懇意にしてくださっている方でして……。この方が京都のホテルにも携わるのですか? 今回も副社長とご一緒に?」
「あ、いや。違うんだ。今回は僕ではないんだけど、イタリアの改装の時に縁があったから、営業部に助けてくれって言われたんだ。少し拗れてしまったらしくてね」
営業部に助けてくれと言われた? 拗れた? 私が首を傾げると、彼は思案顔で顎に手をやり、困ったように笑った。
助けてって、アベーレおじ様となにかあったのかしら?
彼は父方の祖父が趣味でやっていたデザイン事務所によく出入りしていて、小さい時から私を可愛がってくださった。ちなみに父は入り婿なので、実家は銀行とは違う事業をしている。
昔に比べて会える回数は減ったけれど、今でも変わらず良くしてくださる優しい方だ。
「なにかあったのですか? あの、もしよろしければ、私にお手伝いできることはないでしょうか? なんでも仰ってください」
「うん、そうだね。実は、彼に内装デザインを依頼した時に、営業の子が彼の意に添わないことをしちゃったみたいで……。元々気難しい人だからね、どうしたら挽回できるか悩んでいたところなんだ。なにかいい方法はある? 君の意見を聞かせてほしいな」
「はい!」
私は初めて彼の役に立てるのだと思い、心が浮き立つようなソワソワした心持ちになった。胸の下で手を組んで小さく息を吐き、ゆっくりと頷く。
「アベーレ・トラヴィツァ様は確かに少し気難しいところがおありですが、慣れると結構気さくな方なんですよ。一度引き受けたお仕事は必ず成し遂げてくださる真摯な方なので、きっと大丈夫です。至急、先程のデータとあわせて、お好きなものや、関わり方、ややご機嫌が悪い時のお付き合いの仕方を纏めたものをお送りします」
「ありがとう。機嫌が悪い時の付き合い方まで分かるのは、とても助かるよ」
「いえ、お役に立てて嬉しいです」
頬が緩むのを抑えられなくて、ついつい笑ってしまう。すると、宗雅さんが笑顔で私を見つめたまま、もう一度「ありがとう」と言って握手をしてくれた。すぐに離されてしまったけれど、大きくて温かい手。
宗雅さん……
「立花さんって、何事にも一生懸命だよね。少し慌てんぼうさんだから心配していたんだけど、もう大丈夫そうだ。今回は本当に助かったよ。君はもう僕を助けてくれる立派な秘書だね。これからもよろしく頼むよ」
「ありがとうございます。これからはミスしないように頑張ります」
「あまり気負いすぎないようにね」
「は、はい」
宗雅さんが自分を認めてくれた。その事実に、私はもう心臓が痛いくらいだった。勘違いしてしまいそうだ。彼が本心からそう言ってくれたのが分かるからこそ、私の心は簡単に揺れ動いて彼への想いを募らせてしまう。彼に認めてもらえて嬉しい反面、ただの上司と部下という関係が遠くて苦しい。社の一員として優しくしてもらえたのに、一喜一憂する自分がいる。
いけないわ。せっかく秘書として認めてもらえたのに、彼を失望させたくない。想いを通わせることが目標なのだから……
好きになってもらう前に私の好意に気づかれたら、きっと彼は私と距離を置くだろう。そうなったらもう終わりだ。両家の計画も、私の初恋も……
私は「またなにかありましたら、なんでも言ってください」と言って、副社長室を退室した。
◆ ◇ ◆
「あぁ、もう」
私は肩を落として、バッグの中を覗く。
何度見てもない。中身をひっくり返してみてもない。
「やっちゃった……」
現在、一人暮らし中のマンションの前で、私は独り言ちた。
鍵がない。コンシェルジュが中にいるので、彼に頼めば部屋に入ることはできるけれど、会社に鍵を忘れてしまっていることには変わりはない。明日は休みだし、ないと不便だ。大丈夫だと思うけれど、誰かに拾われたらいやだし……。近いから取りにいったほうがいいかしら。
私は腕時計を見つめた。現在は二十時を少し過ぎたところ。
「会社……まだ誰かいるかしら。この時間なら大丈夫よね」
ここは父が借りてくれたマンションで、会社からとても近い。走れば五分もかからないと思う。今日は宗雅さんに仕事を任せてもらえたことが嬉しくて、定時を過ぎても仕事をしていた。いつも以上に張り切って疲れていたから、おそらくロッカーか秘書室のデスクのどちらかに忘れてきたのだと思う。
いやまあ、褒められたことに浮かれていたせいもあるのだけれど……
「ふぅ」
私は小さく息をついたあと、ひっくり返したバッグの中身を拾い立ち上がった。急いで会社に戻って裏口から入ると、警備員さんが「どうしましたか?」と声をかけてくれる。忘れ物をした旨を伝えると、快く中に入れてくれたので、私は秘書室のロッカールームへ向かった。
どこにあるかしら? ここにないとするとデスクだけれど……
「あ! あった!」
自分のロッカーを開けて隅々まで確認すると、鍵は下のほうに落ちていた。もう忘れないように鞄にしっかりしまうと、私は胸を撫でおろした。
「良かった。これで帰れるわ」
ロッカールームを出ると、ふと気になって副社長室に目をやる。ドアの隙間から光が漏れていることに気づいた私は、一瞬ドキッとした。
宗雅さん、まだ残っているのかしら……
秘書のロッカールームは秘書室の奥にある。そして、その秘書室と続きになっているお部屋が副社長室、宗雅さんのお部屋だ。
手伝えることがないかしらと思い、私は副社長室をノックした。
「副社長、立花です」
応答はない。もしかすると、電気を消し忘れているのかもしれない。そう思い、確認のために副社長室のドアノブを回す。すると、鍵はかかっておらずいつものようにドアが開いた。
「副社長、立花です。入りますよ……?」
なんとなく声をひそめながら副社長室の中を覗くと、やっぱり誰もいないようだ。
「施錠忘れかしら?」
宗雅さんは、秘書よりも遅く残って仕事をしていることが多いので、いつもご自分で施錠をしている。朝は秘書である私達が鍵を開けて、掃除をしたり準備をしたりするのだけれど……。宗雅さんでもなにかを忘れてしまうことがあるのね。
私は中に入り、誰もいない副社長室を見渡し、宗雅さんのデスクにそっと触れた。いつも仕事をしている空間だけれど、誰もいないせいか普段とは違った空間に思えて、ちょっといけないことをしている気分になってしまう。
「あら」
ふと、応接用のソファーに目をやると、宗雅さんのジャケットが無造作に置かれていることに気づいた。いけないと思いつつも、そのジャケットに吸い寄せられるように触れると、彼の温かみのある甘いホワイトムスクの香りが鼻腔をくすぐった。
「宗雅さん……」
一度も呼べたことのない名を口に出すと、体にゾクッとした痺れが走った。彼の低い声に耳元で「立花さん」と。ううん、「しずく」と呼ばれたら、私……。そんなことを考えてしまって、なんだか胸がきゅうとなった気がした。
「宗雅さん……」
私、どうかしている。ここは職場で、副社長室で、こんなこと許されないのに。私は背徳感や倒錯感に包まれながら、彼のジャケットに腕を通した。彼に抱きしめられているような感覚に酔い、ジャケットを着たまま自分のことをぎゅっと抱き締める。
「宗雅さん、好き……。好きです。お願いだから、早く私のことを見て」
宗雅さんに抱きしめてもらえたら、愛してもらえたら、私……
「誰かいるのかい?」
その声と共にガチャッと副社長室のドアが開く。
「…………」
「…………」
一瞬、時が止まる。私は着ているジャケットの前を握りしめながら、呆然と彼を見つめた。彼は、ドアを開けた状態で言葉を失ったように硬直している。
「っ⁉」
喉の奥で出そうになった「ひっ」という悲鳴は、実際声にはならなかった。私は慌ててジャケットを脱いで、少しでもその視線から逃れようとソファーの陰にうずくまった。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、僕のほうこそごめん……」
少し困ったような声がすぐ近くで聞こえ、私が隠れているソファーがぎしりと鳴った。
え? どうして、ここに座るの? むしろ、見なかったことにして退室してほしかった。彼の部屋だけれど。おそるおそる顔を上げると、彼は楽しそうに笑っていた。目が合うと、さらに笑みが深くなる。
「副社長……?」
「立花さん、邪魔してごめんね。ほら、僕のことは気にせず続けて?」
「は? え?」
彼はニコニコと微笑みながら、とんでもないことを言い出した。私が言葉の意味を理解できずに固まっていると、「どうしたの?」と顔を覗きこんでくる。その笑顔はいつもなら見惚れてしまうものだったけれど、今はさながら悪魔のよう。
「ほら、見ていてあげるから続けて? 僕のジャケットを着て、僕に愛の告白をしてくれたんだよね?」
「⁉ い、いえ! 副社長、申し訳ございません。わ、私、どうかしていたんです……。あ、このジャケット、お返しします。それでは私はこれで」
ジャケットを突き返して、慌てて逃げようとすると、ぐいっと腕を引っ張られ、ソファーに引き倒される。
「⁉」
常にない彼の行動に驚き、思わず目を大きく見開くと、彼の捕食者のような視線と絡み合う。その目が怖くて、視線から逃れるように目を逸らすと、彼は私の顎を掴んで無理矢理顔を自分のほうに向けさせた。
「副社長……」
パサッと、宗雅さんのジャケットが床に落ちた音がする。彼は私の両手を纏めてソファーの座面に押しつけ、のしかかってくる。抵抗しようともがくが、びくともしない。不安げに見上げると、彼は対照的に悠然と私を見下ろし、にやりと笑う。
「副社長じゃないでしょう? さっきなんて呼んでた? 宗雅。僕の名前を呼んでいたよね?」
指摘されて、胸が跳ねた。私が息を呑むと、宗雅さんは私の頬をなぞる。
「怯えてる? ごめんね、責めているわけじゃないんだ。ただ、さっきの姿がとても可愛かったから、また見たくて……。ダメかな?」
「っ……」
彼は耳の縁を指でなぞりながら、耳元で信じがたいことを囁いた。その言葉で一気に体温が上がる。彼の甘い声と吐息が、どうしようもなく熱くて、恥ずかしいのになんだかゾクゾクしてしまう。彼は押さえつけていた私の手を離すと、体を起こし、私を彼の膝に座らせぎゅっと抱き締めた。背中に当たる彼の胸板に心臓が跳ねた。
「ほら、さっきのをもう一回聞かせて? 次はちゃんと僕の目を見て言ってほしいな」
「い、いえ。ごめんなさい! 先程のは一種の気の迷いというか……。あの、わ、私、そんなつもりじゃなかったんです! ごめんなさい!」
私はもうパニックだった。彼に好きになってもらう前に自分の恋心がバレてしまってどうしようという思いが、ぐるぐると頭の中をまわる。
「ダメだよ、立花さん。あんなに可愛いことをしていたのに、なかったことにしようって言うの? そんなこと絶対に許さないよ。ああ、ジャケットが必要かな? 立花さんが僕のジャケットを着ているところ、すごく可愛くて思わず固まっちゃった」
首を横に振りながら身を捩る私の手を取って、彼は手の甲にチュッとキスをした。
えっ⁉ 今のなに? なにが起こったの?
動揺しすぎて状況をうまくのみこめない。理解が追いつかない。
「副社長……?」
「ねぇ、立花さん。お願いだから、もう一回言って? 君の可愛い口から、ちゃんと聞きたいんだ」
聞いてどうするんですか? と聞いてみたかったけれど、声が出なかった。彼は私のことを好きじゃないはずだ。まだふられたくないという思いが、ぐるぐると頭の中をまわる。
「ごめんね、泣かないで。立花さんも僕に見られてびっくりしたんだよね。ちょっと落ち着こうか? ゆっくり話をしたいからコーヒーでも淹れるよ」
彼は私の頭を撫でて、優しい声音でそう言う。彼の言葉で泣いているのだと気づいた私は自分の頬に触れた。確かに頬は涙で濡れている。
私、最悪だ。勝手に宗雅さんのジャケットを着て好きだと言っただけじゃなく、ただ真意を確かめようとしている彼の前で泣くだなんて……。呆れられたに決まっている。
でも、いつから好きなのかと聞かれたら、正直に答えてしまいそうでこわい。中学生の時からだなんて言ったら、私がどこの家の娘かも分かってしまうだろう。家が決めた婚約者候補が正体を隠して自分に近づいていたなんて知ったら、彼はきっと軽蔑するだろう。そうなれば彼はコーヒーでも飲みながら、私に最後通牒を下すのだ。
でも、そんなのいや。そう思った私は、彼がコーヒーを淹れるために膝から私をおろした隙に、ドアのほうに走った。
「え? 立花さん? 待って!」
「ごめんなさい、副社長っ! きゃあっ⁉」
「危ないっ!」
◆ ◇ ◆
なんだか温かい……
じんわりと伝わってくる温もりが心地良くて、私はその温もりを求めるように手を伸ばしてぎゅっとしがみついた。あまりの心地良さに、思わず口元が綻ぶ。
「温かくて気持ちいい……」
「それは良かった」
まだ夢見心地の私の頭を誰かの手が撫で、そのまま梳くように髪に指を通した。その感覚と声にハッとし、おそるおそる目を開けると、目の前には宗雅さんがいた。彼は片肘をつきながら楽しそうに笑っている。
まだはっきりしない頭が、一気に現実へと引き戻され、大きく目を見開いた。そして、弾かれたように体を起こし、ずさーっとベッドの上を後退する。
「えっ、どうして副社長が? ここは?」
どうして? 私、確か……
「ここは僕の家で、寝室のベッドの上かな。逃げようとした君が盛大に転んで気を失ったから、連れて帰ってきたんだ。どう? ぶつけたところは痛くない? 病院は大袈裟だと思ったから連れていかなかったんだけど……」
「え? え……えっと……」
そういえば私、副社長室で宗雅さんのジャケットを勝手に着て好きだって言っているところを彼に見つかって……。思い出すと血の気が引いていく。わ、私ったらなんてことを……。本当にあの時はどうかしていた。自分で自分の行動が理解できない。宗雅さんは私のこと、どう思ったのかしら? 呆れたわよね、やっぱり。
私が混乱していると、彼がゆっくりと体を起こした。その動きに体がびくっと震える。
「まだ二十三時だから、起きるのは早いよ。朝まで寝る? それとも、お腹が空いたかな? 夕食、まだだよね」
「えっと……」
「はは、その前にちょっと落ち着いたほうがいいか。温かいお茶でも淹れるよ。先に行っているから、あとからリビングにおいで。但し、次は転んだりしないようにゆっくりね」
「は、はい」
私が頷くと、彼は私に背を向けて寝室を出ていった。
彼の姿が見えなくなった瞬間、一気に「どうして? なんで?」という疑問が湧き出てくる。彼は自分に寄ってくる女性をすべて遠ざけていたはず。家が絡む縁談だって……。あんな現場を見られたら、女性にクールだという彼なら即クビにしていてもおかしくない。先輩にも、副社長は優しいけれどそういうところは厳しいので気をつけてと言われていた。それなのに、なぜ私は彼のマンションにいるの?
考えても分からない。分かっているのは宗雅さんに、私の気持ちがバレてしまったということだけだ。でも、連れ帰ってくれたということは、まさか脈あり? そこまで考えてかぶりを振る。
私が逃げて転んだから、その話ができなかったんだ。だからきっと、リビングに行けば、優しくて冷たい声音で「ああいうのは迷惑なんだよね」と今度こそ引導を渡されるに違いない。
「…………」
振り向いてくれない人を思い続けるのはつらい。父には悪いけれど、いっそ今日までのことを思い出にひっそりと生きていくのも悪くない。そのためにも引導を渡してもらって……。私は唇を噛んだ。関係を始めることもできずに、終わりを告げられるのはつらいけれど、仕方ない。でも秘書のお仕事だけは続けさせてほしいな。せめて彼の役に立ちたい。
「でも、そんなの虫のいい話よね」
はぁっと深い溜息をついて、自分の胸元に目を落とす。すると、私は着ていたスーツを着ておらず、代わりに彼のカッタウェイシャツを着ていた。
キョロキョロと部屋を見渡すが、クイーンサイズのベッドとお洒落な間接照明が目に入るのみで、私の服らしきものは見当たらない。
どうしよう。私はモジモジと裾を引っ張りながら、言われた通りリビングへ向かうことにした。これ以上、彼を待たせるわけにはいかないもの。でも、私……下着の上に彼のシャツしか着ていない。彼が着替えさせたということよね? じゃあ、まさか、まさか、腕の傷を見られた?
「顔が赤いね。まだ落ち着かない?」
リビングに入ると、お茶を淹れてくれていた宗雅さんが、微笑みながら近寄ってくる。気まずくて目を逸らしたのに、「ん?」と顔を覗きこんできた。
「ほら、ソファーに座って? お茶でも飲もう。あ、お腹が空いているなら、なにか作るよ。と言っても、簡単なものになるけど……」
「いえ、大丈夫です! ありがとうございます」
そんな滅相もない。逃げようとして気を失ってしまった私を家に連れて帰り、世話をやいてくださっただけでもありがたいのに。土下座を通り越して五体投地してお礼を言いたいくらい。スカートを穿いていないので、もちろんできないけれど……
私は深呼吸をしたあと、戸惑いながらも彼の隣に少し距離をあけて、ちょこんと座った。だけれど、彼は困ったように笑い、空いたスペースをぽんぽんと叩く。
「もう少し近くにおいで」
「えっ? ですが……」
「ダメだよ。ほら、おいで」
「きゃっ」
ぐいっと腰を掴まれて、引き寄せられる。、胸に飛びこんでしまって、慌てて飛び退こうとするが、がっちりと腰を押さえられていて離れられない。
「あの……副社長?」
「宗雅でしょう? もう忘れたの? ほら、これでも飲んで落ち着きなさい」
「は、はい。ありがとうございます……」
彼がテーブルに置いたカップを指差したので、お礼を言った。
こんな恥ずかしい恰好で宗雅さんの隣にいるだなんて……
少しでも隠したくてシャツの裾を引っ張る手に、彼の手が重ねられる。
「ごめんね。スーツは皺にならないようにかけてあるよ。シャツは今洗濯中かな。今日は泊まるだろうから洗っておいたほうがいいかなと思って」
「い、いえ。ありがとうございます」
先程のことをまた思い出してしまって、顔に熱が集まってくる。私が熱くなった顔を隠すために俯くと、宗雅さんは「立花さんは可愛いね」と笑う。
もうこのやり取りだけで、私の心臓は爆発寸前だ。
「これからはここで過ごす時間が増えてくるだろうし、自宅から君の服を何着か持ってくるといいよ。あ、それとも新しく買おうか? そっちのほうがいいかもね」
「え?」
「それとも、もう一緒に住んじゃう?」
ええっ?
あまりにも普通のことのように言われて面食らう。それなのに、彼は「そうだ、それがいい。早速、明日にでも荷物を運ぼう」と言っている。
待って、待ってほしい。展開についていけない。
「待ってください、副社長。先程のことは大変申し訳ございませんでした。ですが、その……一体どうしたんですか?」
「え? だって、君は僕のこと好きなんだよね? 僕のお嫁さんになりたいんでしょう?」
「え……?」
図星をつかれて、硬直する。それどころか手先から冷たくなっていくような感覚に襲われた。あれだけのことを本人の前でしたのだから、仕方ないと俯く。
「副社長……」
「たちばな銀行創業者一族のお嬢さん。立花しずく。僕のお嫁さん候補……」
今、なんて……?
予想もしていない言葉に、私の胸がドキンと跳ねた。でも、それ以上に血の気が引いていくのを感じて、私は気がつくとソファーの上で土下座をしていた。
「も、申し訳ございません、私……」
「いいよ、謝らなくて。父達の算段には初めから気がついていたよ。大体、父の一存で急に入社したんだから分かるよ。分からないほうがおかしいと思わない?」
「……そ、それは」
ぐうの音も出ない。私は土下座したまま肩を落とした。ソファーの座面に頭がついてしまうくらい項垂れてる。
「僕としては、いつ誘惑してくれるのかなと思って待っていたんだけど、三カ月経っても一向になにも言ってこないから驚いたよ。正直なところ、困惑したかな。まさか君は乗り気じゃないのかなと考えを巡らしていたら、今日のアレだろう? 僕としたことが、面食らってしまったよ」
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