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1巻

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 私の戸惑いが分かったのか、テオさんがウインクをしてそう教えてくれた。
 さすが五つ星ホテルだ。ホテルで予約を取ってもらうと、優先的に入場ができるのね。
 私が感激している間にも、彼はスタッフの方とにこやかに話しながらセキュリティチェックを受けて、ゲートを通る。

「でもいいんでしょうか? 特別扱いしてもらったみたいで申し訳ないです……」
「別に構わないよ。もともと、屋上テラス行きには優先入場口と一般入場口があるんだ。だから、これは珍しいことじゃない」

 でも――多分ホテルからの予約だから、誰よりも優先的に通れたのだと思う。テオさんは珍しいことじゃないと言うけれど、おそらく珍しいケースだろう。
 エレベーターに乗りながら、大丈夫と笑う彼をじっとりと見つめた。そして次の瞬間、ハッとする。
 私、チケット代払ってない!

「テオさん、ごめんなさい。チケット、おいくらでしたか?」
「ん? いらないよ。僕が提案したんだから費用のことは気にしなくていいって言っただろう」
「でも……。ホテル代を出していただいているのに……」
「ミーナ。君は遠慮なんてせずに、目一杯楽しめばいい」

 私がお財布を出すと、彼はクールに笑いながら首を横に振る。そして私の頭をポンポンと撫でた。
 でもそんな……。とても申し訳ない。
 テオさんは私をお人好しと言うけど、テオさんのほうが余程お人好しだと思う。出会ったばかりの私を助けてくれ、こうやって観光に連れて行ってくれるんだもの。災い転じて福となすとは言うが、こんなにも幸せでいいのだろうか。私、一生分の運をここで使い切ってない⁉
 ああでも、それでもいい。これから先良いことなんてなくても、この思い出を胸に楽しく生きていけそうだ。そんなことを考えていると、エレベーターが屋上に着いた。

「ミーナ。ほら、着いたよ。楽しもう」
「はい」

 笑顔の彼に手を引かれて屋上に出ると、一本の道が伸びていた。
 わぁ! すごい!
 美しい彫刻が視界に飛び込んできて、私は思わず感嘆の息を吐く。デザインが違う上に少し遊び心が加えられていて、とても興味深い。それに、何より景観が素晴らしい。

「とてもいい景色ですね。ミラノの街並みがよく見えます」
「気に入ってもらえて嬉しいよ」

 テオさんが嬉しそうに微笑みながら私に腕を差し出したので、その腕に自分の手を絡めた。彼の腕を取りながら、屋上からミラノの街を眺めていると、なんだか心が浮き立ってしまう。
 まるでデートをしているみたい。そこまで考えて、私はかぶりを振った。
 いけないわ、私ったら。何を考えているのかしら。

「ミーナ?」
「テオさん! こっちへ行くとテラスなんですよね? 早く行きましょう!」

 私の顔を覗き込む彼の視線を振り払うように、私はつかんでいる彼の腕をぐいぐい引っ張る。そして順路と標識に従い、テラスへ向かった。すると、無数の尖塔せんとうが並ぶ圧巻の光景に目を奪われる。

「この尖塔せんとうは全部で百三十五本あるんだ。尖塔せんとう上部にいる彫像はすべて違うデザインなんだよ」
「それはすごいですね」

 すべての彫像が、まるで外敵から大聖堂を守るように外側を向いている。そのさまに圧倒された。
 この素晴らしい光景を見ていると自分がちっぽけなものに感じられ、簡単なことでテオさんに揺れている自分が恥ずかしくなる。このあとは気をしっかりもって、テオさんの優しさを誤解しないようにしなきゃ。
 私は両方のこぶしを握りしめ、決意を新たにした。

「ねぇ、ミーナ……」
「ひゃあっ⁉」

 私が尖塔せんとうの彫像を見ていると、突然耳にテオさんの息がかかる。その吐息にゾクゾクしたものが体を走って飛び上がってしまった。
 私、今変な声出しちゃった……!
 とっさに自分の口を手で覆う私を見て、テオさんはとても驚いた顔をして、両手を上げた。

「……ミーナ、すまない。驚かせてしまったかな」
「ご、ごめんなさい。違うんです。尖塔せんとうに夢中になってしまっていて……」

 その上、今ので皆の注目を集めてしまったのか、周囲の視線が痛い。私がうつむくと、彼が私を皆の視線から隠すように腕の中に隠してくれた。

「いや、僕のほうこそ驚かせてしまってすまない。外観の装飾の中でも、一際面白いのがガーゴイルと呼ばれる排水口なんだと言いたかったんだ。天使や空想上の動物をモチーフにしているんだよ」
「そ、そうなんですね! わぁ、すごい!」

 落ち着くのよ、私。お願いだから落ち着いて、私の心臓。
 ガーゴイルを覗き込もうとすると、テオさんは抱きしめている腕に力を込める。そして困ったような声を出した。

「まいったな。ミーナ、可愛すぎだよ。耳まで真っ赤にして……。そんなに可愛い反応をされると、困ってしまうんだけど」
「……え?」

 顔を上にあげると、彼は頬を赤らめて片手で口元を隠していた。その表情に目を見張る。
 ……テオさん?
 彼のその表情に硬直していると、彼が突然私の鼻をぎゅむっとつまんだ。

「……っ!」
「ミーナ。そんな可愛い顔で見つめられたら、思わずキスしちゃうよ」
「~~~っ!」

 えっ? キス⁉ キスって言った?

「冗談だよ」

 口をパクパクさせると、彼は意地の悪い笑みを浮かべて、私のひたいを指ではじく。私はひたいを押さえて、彼をにらんだ。
 うう、揶揄からかうなんて酷い。

「テオさんなんて、もう知りません」
「怒らないで、ミーナ」

 ぷいっと顔をそむけて一人で歩き出すと、テオさんがそう言いながら追いかけてくる。その声に立ち止まって頬を膨らませながら振り返ると、彼は手を伸ばして何かを指した。

「ほら、あの大尖塔せんとうを飾るのがこの大聖堂のシンボルだよ。ミーナも聖母のごとき心で、今の僕を許してほしいな」

 あれがガイドブックに載っていた黄金の聖母マリア像……!
 私はねているのも忘れて、マリア像に見入った。両手を広げて被昇天する姿が何とも神々しい。やっぱりミラノに来て良かった。自分自身の目で見る聖母マリア像は写真で見る以上に私の心を打った。
 マリア様。私、出会って間もないのにテオさんに惹かれています。こんな私は節操なしでしょうか? 私が気をしっかり持てるように、どうか見守っていてください。
 胸の前で手を組み、懺悔ざんげと懇願が入り混じった訳の分からない祈りを捧げる。すると、テオさんも隣で私を真似て手を組み、こう言った。

「ミーナがイタリアを好きになってくれますように」
「テオさん……!」
「僕は君がこの旅を楽しめるように最善を尽くすと誓うよ。だから、もう怒らないで」
「最初から怒ってなんていません……」

 困ったようにそう言うと、彼がとても嬉しそうに笑う。その笑顔にまたもや心臓が大きく跳ねた。ブワッと体温が上がって、熱くなる。
 マリア様、ごめんなさい! 私、無理かもしれません。これ以上テオさんのかっこよさに抗えそうにありません!
 私は黄金のマリア像を見つめながら心の中で悲鳴を上げた。


   ***


「ミーナ。足元に気をつけてね」
「ありがとうございます」

 そのあとはテオさんにエスコートされながら、ひたすら階段を降りた。
 降りる時はエレベーターがないので少し大変だ。でも彼と手を繋いで降りられるのが楽しくて、全然苦にならない。テオさんの気遣いにニコリと返しながら、ハァッと歓喜の溜息を吐く。

「それにしても外観も屋上も、とても素晴らしかったです。まだ中を見ていないなんて嘘みたいに大満足です」
「そうだね。この大聖堂は完成まで五百年近い歳月が費やされ、多くの芸術家たちの想いと技術のすいが集まっている。それだけ素晴らしいってことかな」

 彼の言葉にふむふむとうなずく。
 建設に、そんなに長い時間がかけられているのね。当たり前だけど、当時は機械なんてないからすべてが人の手で造られているのよね。そう思うと、本当にすごい。
 階段を降りきって、その先にある扉をテオさんが開けてくれる。その扉を抜けると整然と並ぶ巨大な柱と厳粛な雰囲気に心が大きく揺さぶられた。テオさんから話を聞いたからだろうか。気が遠くなるくらい長い歳月、彼らが懸けた想いが伝わってくるようだった。
 聖堂の右側――南面のステンドグラスから差し込む明かりもなんだかおごそかに感じる。それに立ち並ぶ巨大な石柱が、華やかな外観とは異なり、荘厳かつ敬虔けいけんな空気を演出していた。

「テオさん! 早く中を見て回りましょう!」

 弾む気持ちが抑えられなくて、テオさんの手をぐいぐい引っ張って、ラテン十字型の大聖堂の中を進む。すると、彼は入ってすぐ右手側にある――かつてミラノの支配者であった大司教の十字架と石棺せっかんの前に私を案内してくれる。
 へぇ、牛に引かせた戦車を作らせたことで有名な人なのね。

「これはレプリカだから、あとで大聖堂付属博物館に本物を見に行こう」

 未熟な語彙力を総動員して真剣に文字盤を読んでいると、テオさんがそう言って私の頭を撫でた。

「博物館もあるんですか?」
「あるよ。それだけじゃなく、ここの関連施設には地下聖堂もあるし考古学エリアもある。それに、隣接しているサン・ゴッタルド教会も同時に見学できちゃうよ」
「そんなにたくさん見るところがあるんですね。どこから見ようか迷っちゃいますね」
「そうだね。でも、一つひとつ丁寧に見て回っていたら、日が暮れるしお腹も空くだろうから、途中で昼食を取りに一回外に出よう」

 え? でも……

「最初に関連施設に入場した時点から七十二時間は有効だから心配はいらないよ」

 私が名残惜しげに十字架を見つめると、テオさんが共通チケットを見せながら、ウインクする。その言葉を聞いてぱぁっと気持ちが明るくなった。
 それは嬉しい。再入場可能なら、一日使ってゆっくり見られるもの!

「じゃあ、もう少し見たら昼食に行こうか」
「はい!」

 次は何を見ようかしら。
 キョロキョロと大聖堂の中を見回すと、マリア様の礼拝堂を見つけて、私は彼の手を引っ張った。

「じゃあ、あの礼拝堂を見たら昼食に行きましょう!」
「はいはい。ミーナは聖母マリアが好きだね。さっきも真剣に祈ってたし」

 彼は喉の奥で軽快に笑いながら、私についてくる。

「だって……」
「だって?」
「……」

 気恥ずかしくて思わず口籠くちごもってしまったけど、この奇跡的な出会いは神様がくれた贈り物だと思うから……
 聞き返してくるテオさんに、私は照れくささを誤魔化すために礼拝堂の前までスタスタと歩く。そして立ち止まり、クルッと振り返った。彼と向き合い、ニコッと微笑む。

「テオさんとの出会いは神様からの贈り物だと思うんです。本当なら、あのまま空港で路頭に迷っていてもおかしくなかったし、泣く泣く日本に帰る選択をしていてもおかしくなかったです。いえ、そうなっていたでしょう。だから、ちゃんとお礼を言わないと……。ここは聖母マリアに捧げられた聖堂なんでしょう」

 なら、マリア様に感謝の祈りを捧げるのが一番だと思う。
 それに母なるものへの憧憬は、何世紀にもわたって、色褪いろあせないものだ。決してなくすことのできない普遍的な感情。マリア様の加護は私みたいな存在にでも等しく与えてもらえるのだと思う。
 自分を変えるきっかけになればと思って来たが、この旅行はそれ以上に素晴らしいものになった。これは失恋をして悲しんでいた私へのマリア様からの贈り物かもしれない。なら、なおのこと大切にしたい。感謝の気持ちを目一杯伝えたい。
 マリア様にも、テオさんにも……
 私がそう言うと、テオさんが小さく目を見張る。そして切なそうに私を見つめながら、自分の胸元をつかみ、こうつぶやいた。

「かつて……」
「え?」
「かつてミラノの人々は、決して終わらないものや長く続くものを指して『大聖堂ドゥオーモの建設のよう』だと言ったそうなんだ。僕もミーナ――君との縁をドゥオーモの建設のように長く続けていけたら嬉しく思う。君が空港で自分のことを二の次にして、目の前にいる人を助けているさまは、まさしく聖母のようだった。ひどく心が揺さぶられたんだ。……こんなにも優しい君をこのまま放っておいたらダメだと、誰かに背中を押されたように、気がついたら声をかけていた。本当に神がくれた巡り合わせなのかもしれないね。それならば、僕も神に感謝するよ」

 そう言って、彼は人目も気にせず、聖母マリアの礼拝堂の前で私にひざまずいた。まるで忠誠を誓う騎士のように私の手を取り、そっと手の甲にキスを落とす。ゆっくりと顔をあげた彼の真剣な眼差しに心臓が射貫かれた。まるで本当に矢が刺さったみたいに胸が熱くて痛い。
 この恋は勘違いなのかもしれない。いつもとは違う環境に、気持ちが高揚して盛り上がっているだけなのかもしれない――ずっとそう自分に言い聞かせていたけれど、今の彼の想いに触れて、もうそんなのどうでもいいと思ってしまった。
 この時間を彼も大切だと思ってくれているなら、それでいい。それで充分だ。この旅行が終われば日本に帰らなければならないけど、私はこのミラノ旅行を一生忘れないだろう。
 彼と出会ってから過去の思い出に胸を締めつけられ、さいなまれることもなくなった。心が新しい恋を――ううん、テオさんに惹かれているなら否定せずに受け入れてあげたい。素直にそう思えて、すでに元カレのことを忘れて前向きになれている自分に気づいた。
 それに、無理に心にふたをしたらもっと想いが募ってしまいそうだわ。ミラノにいる間だけは夢を見てもいいのかもしれない。とろけるような甘い夢を――

「テオさん、ありがとうございます」
「それは僕のセリフだよ。ありがとう、ミーナ」

 テオさんは優しく笑うと立ち上がり、そっと私の頬を撫でてくれる。その手の温かさに夢見心地で彼を見つめた。

「ミーナ」

 彼が私の名前を呼ぶ。大きな手が私の頬をなぞり、わずかに唇に触れる――たったそれだけのことなのに、体に電気が走った。心臓がトクントクンと高鳴り、湧き上がる感情を抑えられない。
 ――好き。私、テオさんが好きだ。失恋を癒すためでもない。旅先で火遊びがしたいわけでもない。ただ彼に惹かれているのだ。
 それを認めると胸の中にあたたかいものが広がっていく。

「お腹空いたかも」

 私は自覚したその想いを隠すために、そう言って笑った。

「そうだね。じゃあ食事に行こうか」
「はい!」

 そのあとは大聖堂を出て、ドゥオーモ広場北側にあるミラノの巨大ショッピングアーケードへ向かった。『ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世のガレリア』と呼ばれるここは、世界的なハイブランドの店が軒を連ねている。
 本当にたくさんのお店があるのね。
 ブランド物に興味がない私でも、こんなにもたくさんのお店が並んでいると気になってしまう。
 でもそれだけじゃなく、天井のフレスコ画や床のモザイク画が優美で目を引く。正直なところ、上を見て歩けばいいのか下を見て歩けばいいのか……それとも立ち並ぶお店の数々を見ればいいのか分からないくらいで、ちょっと困る。

「ミーナ。そんなふうにキョロキョロしながら歩いていると危ないよ」
「だって、とても綺麗なんですもん。それにテオさんが言ったんですよ。アーケードの天井や床、柱などの装飾はそれぞれに意味があるって。それを聞いたら見ずにはいられません」

 私がアーケードの天井を見上げると、テオさんが肩をすくめて笑う。

「まあ僕が側にいるから別にいいよ。でも万が一、一人で出かける時は気をつけて。こういった観光地にはスリもたくさんいるからね。何かに夢中になっているうちに、財布やスマートフォンを失うのは日常茶飯事だよ」
「は、はい……!」

 私はテオさんの言葉に神妙な面持ちでうなずいた。
 そもそも空港で盛大に荷物をなくしているのだから、笑い事では済まされない。本当に気をつけなきゃ。

「肝に銘じます」
「よろしい。じゃあミーナ、もう少し行ったところにリストランテがあるから、そこに行こう。日本人観光客にも人気があるから、きっとミーナの口にも合うと思うよ」
「わぁ~、それは楽しみですね!」
「ミーナは何が好き? 何が食べたい?」
「えっと……」

 やっぱりパスタは外せないわよね。あとピザかしら? あー、でもドルチェも食べたい。
 私は今朝たくさん食べてしまった自分のお腹をさすった。
 また欲張って食べて、テオさんに食いしんぼうだと思われないように気をつけなくちゃ。でも選べないのよね……
 私はむむっと眉根を寄せた。


   ***


「わぁっ! 素敵……!」

 私はテオさんおすすめのリストランテに入り、感嘆の声を漏らした。それと同時に、覚悟が必要な高級レストランじゃなく、少し背伸びをしたくらいのお店だったので、私は身構えていた体から力を抜いた。
 こんなに素敵なアーケードで、食事ができるなんて嬉しい。そして何より、ここなら落ち着いて食事ができそう。

「気に入ったかい?」
「はい!」

 大聖堂を観光できて、見たかった黄金のマリア像も見られた。その上、こんなにも素敵なアーケード内で食事もできる。ミラノに来たんだ! という実感がふつふつと湧いてきて、今とてもウキウキしている。
 お店の中から外を眺め、うふふと笑う。彼は「それは良かった」と言いながら、歓声を上げる私を微笑ましそうに見つめ、日本語のメニューを渡してくれた。子供っぽくはしゃいでしまった自分が少し恥ずかしくなり、メニューを受け取りながら、居住まいを正す。
 せっかくの素敵なお店なんだから、お行儀良くしなきゃ……

「日本語のメニューもあるんですね」
「日本人観光客に人気だって言っただろう。この店は観光客の対応にも慣れているし、イタリア語が分からなくても注文がしやすい。ミーナには最適だと思ったんだ。それにいきなり三つ星のリストランテに連れて行ったら、萎縮いしゅくしちゃうだろう? 何事も段階は必要だ。君が楽しんで食事ができることが何よりも大切だからね」

 その言葉に胸がじんわりと温かくなった。彼は私が気後れしたりしないように配慮してくれたのだ。その気遣いがとても嬉しい。

「ありがとうございます」

 私はそうお礼を言いながら、メニューを開いた。
 せっかくだからミラノの郷土料理が食べたいな。

「さて、ミーナは何が食べたい? まずは前菜を注文しようか? それともコースにする?」
「えっと……」

 メニューを開けば、確かに日本語のメニューだった。でも写真がないせいか、いまいちピンとこない。当たり前だけど知らない料理名が多いわ。このブレザオラとルッコラのグラナパダーノって何だろう。ルッコラが入っているってことはサラダ?
 私は手に持って眺めていたメニューをテーブルの上に置いた。そして、気になる料理を指差す。

「あの……これは、どんな料理ですか? 無知でごめんなさい。ルッコラくらいしか分からなくて……」
「それは前菜だよ。ブレザオラは生ハムの一種で、グラナパダーノはチーズかな」

 なるほど。つまりチーズと生ハムが入ったルッコラのサラダってことね。
 私はふむふむとうなずきながら、また気になる名前の料理を指差した。

「じゃあ、このオッソブーコはなんですか?」
「それは仔牛の骨付きすね肉を煮込んだミラノの郷土料理だよ。ミラノ風リゾットと合わせるのが定番かな」

 ミラノの郷土料理!
 私はテオさんの言葉に嬉しくなった。

「郷土料理を食べてみたかったので、嬉しいです。それに、本場のミラノ風リゾットも食べてみたいです!」
「オッケー。じゃあ、それにしよう。あとは、車海老のシーフードパスタなんてどうだい? 海老、好きなんだろう?」

 私が朝食に海老を見つけて喜んでいたことがバレている!
 きっと朝のミーティングとかで共有されているんだ。宿泊客の状態を把握し、素晴らしいホスピタリティを提供するためとはいえ、さすが五つ星ホテル。情報伝達が速い。

「好きです」

 私は頬を赤らめ縮こまりながら、小さな声で答えた。今朝からはしゃぎ過ぎて、自分が落ち着きのない子供になったようで恥ずかしい。

「可愛いね、照れているのかい?」
「だって私……今朝からずっとはしゃいでる気がして、ちょっと恥ずかしくなってきました。もう少しおしとやかにしますね……」
「ノー。その必要はないよ。旅行というものは気分が高揚し、はしゃぐものだ。ホテルで働く者だけじゃなく観光に携わる皆も、そういったお客様の笑顔が何よりのご褒美なんだ。だから変に気を遣わないでほしい。僕はこの旅でミーナが色々な経験をし、大いに楽しんでくれることを願っているよ。見るものすべてに目を輝かせている君はとても美しいからね。そんな君をもっと僕に見せて?」
「あ、ありがとうございます……!」

 顔を真っ赤にして頭を下げると、テオさんのクスッという笑い声が聞こえる。
 やっぱりテオさんの褒め言葉には慣れない。でも、君は美しいだなんて歯が浮くようなセリフがバシッと決まるのは、やっぱりテオさんの醸し出す雰囲気が素敵だからなのよね。

「コースにせずに、ミーナが気になるものを注文しよう」

 視線を上にあげて彼を盗み見ると、彼はそう言って、メニューを見ていた。
 素敵な人を見ると心が躍る。いけないとは思いつつも惹かれてしまう。それって自然なことよね……

「あとはどうしようかな。ピッツァも食べる?」
「食べたいんですけど、さすがにピザは難しいかも。今朝もたくさん食べたあとですし……」
「ミラノのピッツァは生地がとても薄めなんだ。カリカリとした食感だし、イタリアピッツァの中で最も生地が薄い。そんなにボリュームもないし、心配しなくても大丈夫だよ」


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