「おやすみなさい」

ツヨシ

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「おやすみなさい」

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目が覚めたら森の中にいた。

地面にうつぶせで倒れていたのだ。

――ここは、どこ?

わからない。

どこだろうと考えていて、ふと気づいた。

――私は……だれ?

ここがどこだかわからない。

その上に、自分が誰なのかわからないのだ。

一瞬、頭が真っ白になった。

――と、とにかく、誰か見つけないと。

不安とあせりから、森の中を闇雲にさ迷った。



ずいぶんさ迷っていたのはわかるが、どこをどう歩いたのかは、まるで見当がつかない。

木々の間から見える空が、うっすらと赤に染まりつつある。

このまま夜になってしまうと、いったいどうなってしまうのだろう。

――ここに、危険な動物とか、いるのかしら?

もしいたとしたら、私ではどうすることもできないだろう。

――このままだと、ひょっとしたら……。

死んでしまう。その言葉が頭に浮かんだ。

――誰か、誰か助けて。

思わず走り出す。

しかし木の根に足をとられて、飛び込むように倒れてしまった。

――痛い。

体中のあちこちが痛かった。

それでもなんとか立ち上がり、ありったけの大声を出した。

「誰か、助けて!」

記憶はないが、おそらく生涯で一番の大きな声だっただろう。

そのまま待った。

期待は多くはなかったが、それでも待った。

するとこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。

「どうしました?」

――助かった……。



来たのは優しそうな目をした若い男の人だった。

「道に迷ったのですか?」

私は全力で肯定した。

すると男の人が言った。

「私の家はすぐ近くです。今夜はそこに泊まるといいですよ」

そう言ってくれたのはありがたいのだが、一つ心配なことがあった。

この男の人は一人で住んでいるのだろうか。

そうなると、私はこの人と二人っきりになってしまう。

その状況は、はっきり言ってしまえばよくない状況である。

でも「あなたは一人住まいですか?」なんて聞くのは失礼だし、一人住まいでない可能性も十分にある。

私は意を決っして、うなずいた。



しばらく歩くと、それはあった。

山小屋に毛のはえた程度の小さな家。

見た瞬間、一人住まいという単語が頭をよぎった。

でもここまで来て今さら引き返すわけにはいかない。

行く当てもないし、ここで去ってしまうのはあまりにも失礼だし。

それにもしこの人がその気であれば、たとえ逃げたとしてもすぐに追いつかれてしまうだろう。

そうなれば、わたしに抗うすべはない。この人が、そういう気を持っていないことを祈るだけだ。

「ただいま」

入り口の戸を開けながら、男の人が言った。

中に誰かいるようだ。

「おかえりなさい」

聞こえてきたのは若い女の声。

私の不安は一気に消し飛んだ。

「そこで、道に迷った人を見つけてね」

男の人は私を見た。

「さあ、中にお入り」

導かれるまま中に入る。

そこには赤ん坊を抱いた若い女の人が立っていた。

この男の人の子供なのだろうか。

そして奥には、老人と呼ぶにはもうすぐといった年齢の女の人が座っていた。

「たいへんでしたね。どうぞここにお座りください」

若い女の人に言われて、みすぼらしい椅子に座った。

つづいて男の人と女の人も座る。

男の人が言った。

「迷ったそうですが、いったいどこから来たのですか? この森は詳しいですから、なんなら家まで送りましょうか」

うれしい提案だが、私はどこから来たのかも、自分が誰なのかもわからない。

考えたが、正直に言うことにした。

「すみません。私は自分がどこから来たのかが、わからないんです。それに自分が誰なのかもわからないんです」

男の人と女の人はぽかんと口を開け、お互いの顔を見た。



しばらく話をして、いくつかのことがわかった。

男の人はトムという名で、女の人はエリーという名前だ。

二人は夫婦で、女の人が抱いていた赤ん坊は二人の子供で、名前はぺティと言う。

老人に近い女の人はキャサリンで、男の人のお母さんだ。

トムは猟師で、森の動物を狩っている。

狩った動物は一部は自分たちが食べて、残りを近くの村に売りに行っているそうだ。

エリーは家事をし、それ以外の時間で森から山菜や木の実を採ってきて、これまた一部は自分たちに使い、残りを村で売っていて生計を立てている。

ところがエリーは最近生まれたばかりのぺティの世話に追われて、山菜採りがおろそかになっており、その分自分たちの食料と山菜の売り上げが減っているのだとか。

「そういったわけで、あなたが山菜採りや家事を手伝ってくれるのなら、こちらとしても助かります。行く当てがないのなら、それが見つかるまででいいですから、ここに残ってくれませんか」

私はトムの言葉に同意した。



早速、エリーと山菜採りに出かけた。

エリーが山菜採りを私に説明しながら見せる必要があるため、必然的にぺティは私が抱くことになる。

ここで生まれ育ったというエリーは、若いにもかかわらずこの森を知り尽くしていた。

どこに何が生えているのか。

何が食べられて何が食べられないのか。

どれがおいしくて、どれが高く売れるか、などなど。

「特にキノコには気をつけてくださいね。変なキノコを食べたら、腹痛くらいじゃすみませんから。一番やっかいなのは、食べられるキノコとよく似た食べられないキノコがあることですね」

エリーの説明は丁寧だった。

トムに負けないくらいに穏やかに語るエリーに、私は好感を抱いていた。

キャサリンといい、ここにいる人はみないい人ばかりだ。



帰ってエリーと一緒に夕食の準備をし、みんなで食べた。エリーの料理はおいしかった。

後片付けをするころには、さすがに暗くなってきた。

夏でもこれなら、冬はいったいどうなるのだろうか。

なにせこの家の灯りは、ろうそく一本なのだから。

考えていると、トムが言った。

「もうすっかり暗くなりましたね。それじゃあもう寝るとしますか」

「ええ、そうしましょう」

「……」

「わかりました。それではみなさん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「……おやすみ」

横になった。

私のベッドはないので、とりあえず今日は床の上で寝ることになった。

床の上に薄いシーツを敷いただけだが。

ベッドは明日トムが作ってくれると言う。

本当に今が夏でよかった。

冬だったらいったいどうなっていたことか。



眠れない。

慣れない家でしかも床の上で寝ているからなのか。

それとも今日の出来事。

昨日までのことはおろか自分の名前すら忘れて、見知らぬ人たちに囲まれて眠ることに不安があるのかもしれない。

これまでのことは全くわからないし、明日からのことも今のとろよくわからない。

いきなり私のことを知っている人が現れるかもしれないし。

そしてそれが私にとっていいことであるとは限らないし。

なにもかも、なにもわからないのだ。

ただ不安を打ち消すものがあるとするならば、三人の笑顔だ。

若い夫婦もそうだが、ほとんどしゃべらない老夫人もいつも笑顔を絶やさない。

それだけが私にとって、大きな救いである。



泣き声が聞こえてきた。

ぺティだ。

エリーが起きてきて、ぺティをあやす。

暗くてよく見えないが、どうやら乳をやっているようだ。

ぺティも泣き止んだ。

エリーはそのままぺティをあやしていたが、やがて静かになった。



そのうち眠れるだろうと思っていたが、そのまま朝を迎えた。

「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

「……おはよう」

エリーと二人で朝食の準備にとりかかった。



トムが狩りに出かけた後、エリーと二人で後片付けと家の掃除をした。

こんな時は家が小さくてよかったと思う。

すぐに終わるのだから。

そして昨日と同じく山菜採りに出かけた。



トムが帰ってきた。

獲物はウサギが二匹だ。

一匹はみんなで食べて、もう一匹は明日村に売りに行くと言う。

「名前をつけたほうがいいですね」

なんの前触れもなくトムが言った。

私の名前のことだ。

私が自分の名前を覚えていないので、今のところ私は名前では呼ばれていない。

それが不便なのだそうだ。

「それがいいわね」

エリーがそう言って、私に名前がつくことになった。

トムが続ける。

「なにがいいですかね。自分でつけたほうがいいですかね」

それを聞いて、私は言った。

「それじゃあローズがいいです」

私の名前はローズになった。

なぜ私がローズと言ったのか。

それは最初に思いついたからだ。

最初に思いついたということは、それが本当の名前なのかとも思ったが、もちろんそれはわからない。



私にローズという名前がついた以外は昨日とほぼ同じ時間をすごし、夜がやってきた。

一本しかないろうそくが消される。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」



眠れなかった。

昨日一睡もしていないのだ。

いくらなんでも今日は眠れると思った。

しかしまるで睡魔がおそってこない。

――いったい、どうしたのだろうか?

夜中に二度ほどぺティが泣き、エリーが乳をやった。

私はその前も、その間も、そしてそのあともずっと起きていた。



日が昇った。私は眠らなかった。昨日と同じく。

「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

「……おはよう」

全く寝ていないのに「おはよう」と言うのは、ちょっと心苦しかった。

自分でもよくわからないが嘘をついているような、みんなをだましているような。

そんな気分になるのだ。

「行ってきます」

トムがエリーにキスをして、出て行った。

朝食の片づけがすんだ後、私たちはいつもの山菜採りだ。

「これとこれは絶対に間違わないでね」

やはりキノコが難しいようだ。

キノコの説明になると、いつも穏やかなエリーの口調がきつくなる。

下手をしたら命に関わるのだから、当然といえば当然なのだが。

「それじゃあもう、帰りましょうか」

今日も一日の大半が滞りなく終わった。後は食べて寝るだけだ。



「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」



やはり眠れない。

今日眠らなかったら、三日間眠らないことになる。

覚えているだけで三日だ。

それより前のことは、わからない。

森の中で倒れていたが、果たしてあれは眠っていたのだろうか。

どうも違うような気がしてしかたがない。

――ひょっとして私、ずっと眠っていないのだろうか?

そう考えるとなんだか不安になってきたが、どうしようもない。

いつものようにぺティが泣き、エリーが乳を与えた。

それが二度繰り返された後、朝日が昇った。

「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

「……おはよう」

やはり「おはよう」と言うのが言いづらい。



昨日と同じ日々をすごし、夜を迎えた。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」

私は気づいた。

「おはよう」と言うのも心苦しいが、「おやすみなさい」と言うのはもっと抵抗があることに。

なにせ私は寝ないのだから。

「おやすみなさい」が私は今から寝ます、という意味だけではないのは、私も知っている。

自分はまだ起きているつもりでも、今から寝る人に対して言うこともあるのだから。

しかし私がみんなに言っている「おやすみなさい」は、私は今から寝ますという意味に他ならない。

なんだか嘘をついているような、なんだか三人をだましているような、そんな気がしてならない。

――とにかく、眠らないと。

覚悟はしていたが、全く眠れなかった。



「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

「……おはよう」

四日転属で一睡もしていない。

だというのに私は全く疲れを感じていなかった。

眠たくもないし、体の不調もない。

そのまま一日中森を歩いても、それが変わることはなかった。



夜になった。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」

「おやすみなさい」を言うのに、これほどまでに罪悪感を覚えるとは、考えてもみなかった。

そしてその罪悪感が、日々確実に増してゆく。

――今日こそはちゃんと眠って「おやすみなさい」が嘘にならないようにしないと。

私はそれこそ必死で眠ろうと試みた。

が、私が眠ることはなかった。



私がここに来てから一ヶ月ほどが経ったある日、エリーに声をかけられた。

「ローズ、あなた最近寝てないんじゃないの」

「えっ、そんなことないわよ」

二人の会話は以前ほど堅苦しいものではなくなったが、私が一度も眠っていないことは、ずっとかわりがなかった。

でも私が眠っているふりをしている時は、エリーはぺティの世話をのぞけば本当に寝ているはずなのに。

いくら家が小さいからといって、そのことに気がつかれるとは思わなかった。

エリーは何も言わなかったが、疑っていることはその目が十分物語っていた。

――これは、よくないわ。

一日の始まりで「おはよう」と嘘を言い、一日の最後で「おやすみなさい」と嘘を言い、みんなが寝ている間も寝たふりという嘘を重ねている。

起きてから寝るまでどころか、起きてから起きるまで嘘で成り立っている。

それだけでも嫌で嫌でたまらないのに、そのことでエリーに変な目で見られているのだ。

こんなことは、とても耐えられない。

「ちゃんと、寝てるわよ。毎日。今日も寝るから、心配しないで」

これまた嘘だ。

嘘だ嘘だ嘘だ。

――今日こそは、今日こそはちゃんと眠らないと。

私は決めた。

今日眠ることができなかったら、この家を出て行こうと。

これほどまでに暖かい人たちに囲まれて、こんなにも居心地がいいところを出て行くなんてこと、絶対にしたくない。

しかし、このまま眠っていないことを隠し通すのも、眠っているふりをし続けるのも、眠っていると嘘を言い続けるのも、絶対にしたくない。

「そう。それならいいけど」

エリーは私を心配してくれているのだ。

それが痛いほどわかる。

だから今日こそはどんなことがあっても眠らないと。

なにがなんでも眠らないと。

――私は眠れる。私は眠れる。今日こそ眠れる。今日こそ眠れる。いくらでも好きなだけ、眠れるんだ!

言い聞かせた。

強く強く自分に言い聞かせた。

これ以上はないと言えるほどの強い意志で心の底に刻み込み、私はベッドに入った。



ふと気がつくと、朝だった。

ベッドに入り、横になった記憶はある。

が、その後の記憶がない。

そして今は朝だ。

――やった! 私、とうとう眠れたんだわ!

思わずベッドから上半身を起こした。

その時気がついた。

ベッドの横に老婆が立っていた。

キャサリンではない。

別のもっと年老いた老婆だ。

その老婆が目をこれ以上ないほどに見開いて、私を見ていた。そして言った。

「起きた。ローズが起きたわ!」

私がなんのことだかわからずに見ていると、老婆が顔を近づけて言った。

「やっと起きたのね。私、わかる? わかるわけがないわね。あなたが眠りについた時、私はまだ赤ん坊だったから。私、ぺティよ。トムとエリーの子供の」

――ぺティ?

この人は何を言っているんだろうと思った。

しかし目の前の老婆は、とても嘘を言っているようには見えなかったのだ。

「ぺティ……なの?」

「そうよ。ぺティよ。ローズ、あなたずっと眠っていたの。ずっとずっと長い間」

――ずっと……長い間……。

それを聞いた私は、キャサリンはもちろんのこと、トムとエリーももういないのだと理解した。

すると私の両の目から涙が溢れ出してきた。

「どうしたの、ローズ。大丈夫?」

私はぺティを見た。

そしてにっこりと微笑むと言った。

「おはよう」

そう、私はやっと言えたのだ。

本当の「おやすみなさい」と「おはよう」を。



           終
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