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優しい人・第26話
しおりを挟む「ここ、よろしいですか?」
志賀の父は、千佳史の目の前のスツールを指差した。
「はぃ…」
―震えるな…何も、怖がることなんかない。ただ、後輩に転がり込まれてただけの、先輩なんやから…、そうや。何も普通や。堂々しろ、千佳史ッ…
「あの」
「あの」
声が揃った。
「あ、どうぞ」
「何でしょうか」
声が重なる。
「じゃ、訪ねてきたのは私なので、私から…。私は志賀篤仁の父親で、志賀真之と申します。ここであれこれ自己紹介しても仕方がないので、担当直入にお伺いします。うちの息子と…篤仁とは、どういう関係ですか?」
―どういう…関係…
「あの、中学の後輩です、志賀くんが」
「それだけ?」
「それだけです」
「そうですか?」
「嘘つきなさんなっ!!アンタ、うちのあっくん誘ったんちゃうの?!婚約者に酷いフラレ方して落ち込んどうとこに付込んでッ…!男同士で…ああッ、気持ち悪いッ!口にするんも・・」
「ちょっと黙れ、お前は。そんなに騒ぐんやったら外に出ろ」
「だって、お父さん!ホモなんか皆エイズになんのよ?!あっくん、死んでまうでしょうが!このオカマが」
「オカマちゃう。男の子やろが、普通の。オカマ言うたらお前、女みたいな格好してるやろが。化粧なんかもベタベタして。それにエイズかって皆が皆とちゃう。男女でもなる時はなる」
千佳史は、何か他人事のように、ぼんやりと目前で繰り広げられる、一般的な中高年の会話を聞いた。
「そんなん言うてもお父さん、このホモが…ちょっとアンタ!何ボーッとしてんのよっ!!人の家、ムチャクチャに掻き回しといてっ!!知らん顔で済まそう思ってんのちゃうの?!息子が…息子が、ホモ…ホモやなんて……嫌…いやぁあああーーー!!!」
貴子が千佳史にビーズの巾着を思い切り投げつけた。
……ッ
巾着は千佳史の顔面に見事にヒットし、右の瞼を割った。
「こら!何しとんや、お前っ!滝君!大丈夫か?!滝君!」
志賀の父親が、カウンターぎりぎりに近づく。
手で押さえた右の瞼のあたりから、液体が溢れ、指の間をスル…と流れる感覚がある。
「救急車や!救急車呼べ、貴子っ」
返答がない。
「貴子っ」
「し、知らんわよっ!」
震える声が聞こえた―
これまでの人生で、こちらが知っている、知っていないに関わらず、様々な邪心を浴びせられてきた。
ゲイというだけで忌み嫌われたり、嘲笑されたり、犯罪レベルのセクハラもあった。
だが、憎しみをうけたことはなかった。
これは明らかな憎しみ……
大事な息子を勝手に好きになるな━━━
許されないことだったのだ。
心で思っているだけならいい、と思っていた志賀への愛…。
志賀をこの世に誕生させた母親にとって、息子がゲイに愛されることがもう、許されないことなのだ……
先ほど、萌花に、自分は志賀を好きだ、と言ったことが悔やまれる…
この感情は、どんなことがあっても、自分の中に留めるべきだった……
「お前は……ッ」
志賀真之の声がして、哀哭に呑まれ、違う所に行こうとしていた頭が現実に引き戻される。
―シャツが…ッ!
慌てて前に首を伸ばす。
今日は志賀が買ってきてくれた黄色のTシャツを着ているのだ。。
今、母親の憎しみを前にして、愛することさえ許されないと知ったからと言って、消すことの出来ない感情が、悲しみと同じ勢いを持って噴き出してくる。
もういい、等とは思えない。
どうしても汚したくない……
―『勝手に愛してごめんなさいっ!でも、これは…これは、俺の1個だけの…ッ』
愛する人からの、最初で最後のプレゼント。
千佳史は、思い切り首を前に出して俯いたまま、じっとして話す。
「大丈夫です…大丈夫…ほんまに、大丈夫ですから。あの、僕、本当に息子さんとは何でもありません。ほんとに…」
「解った。でも、君、それ…血が」
「いいです…ッ…あの、すいません。その、入り口んとこのハンガーラックにかかってる黒の上着、取って頂けませんか?すみません」
とにかくTシャツを汚したくない一心で頼む。
「お父さん!何してんのよ!」
叫んだ母親の言葉には返事はなく
「これ?」
パサリ…とビニール生地の感触が手にくる。
「はい、すみません」
「おしぼり、ある?目を、押さえとこうか?それ、着たいんでしょ?」
志賀の声とよく似た声。
鼻の奥がツンとなる。
「お父さん!いい加減して!お父さんもホモなん?!その男が気に入ったの?!」
「アホか、お前はッ!人に怪我させといて何や、その言い草は!相手が誰やと関係ない、そんなもんは!お前、これ傷害やぞ?通報したら罪なんやぞ?呆れた奴や…ッ。…滝君、申し訳ない。この通りです。ここ、これ、おしぼりや。目は、とにかく出血ようするから、早く病院行った方がいい。こちらが怪我させといて、おかしなようだが」
「いえ、いえ、ほんとに。お話しできなくてすみません」
「いや。ここに名刺と些少ですが治療代を置いて行きます。君の…電話番号聞いておいていいかな?ここにメモがあるから頂くよ?いい?何か、切れっ端やけど」
よく、見えない。
でもさっき足りないボトルをメモっていたからそれだろう。
「治療代、要りません…大丈夫です、ほんとに。メモは、どうぞ…0803××5の1×20です…あの、常連さんの予約聞いてますから、すぐ、人来ます、大丈夫ですから…」
「いや、これは返さんといて下さい。お願いします。ほんまに、申し訳なかった。話しは改めて。では、今日はこれで失礼します。本当に大丈夫かな…」
バンッとすごい勢いで最初にドアが開き、多分母親が出て行って、父親は心配してくれたようで、気にしながら
「じゃ、早く病院に」
と言って静かに出て行った。
おしぼりを目に当て、たまたま今日は着けていたヘアバンで何とか押さえて、黒いウィンドブレーカーを着込み、これでTシャツは無事、と安心すると、バカみたいに体がまた震えだす。
「……ふ…ぅぅ……ぅ……」
どうしようもない気持ちに身を捩る。
目を怪我した痛みなど、まるで感じない。
心が、痛くてたまらない……
再び勢いよくドアが開き、思わず身構える。
今日は朝から色々あり過ぎた。
誰?客じゃないんやったら…帰ってくれ!!
「チカ!チカ、どないしてん!!わっ!何やその血!救急車!!」
倉本だ。
「リク…志賀のご両親がな……リク…Tシャツ…志賀の……」
極度の緊張が一気に解け、すっと千佳史は意識を手放した。
△
「あれ?志賀のオトンとオカンちゃうん?」
山幹の横断歩道ですれ違った中年の男女が、何度か会ったことのある志賀の両親に似ている気がして2度見して、何か胸騒ぎを覚え、そこから千佳史の店にダッシュした。
そうしたら千佳史が鮮血で汚れたおしぼりを目に当てて泣いていたのだった。
千佳史が意識を失い、慌てて救急車を呼んだ。
そして、すぐ近くにある関西製鋼の関鋼病院に来て、自分は家族ではないが、患者の身内は関東に居るので来られない、と言うと、待合室で待つように言われ、暫く待っていると、看護師が呼びに来た。
担当医の説明によると、何か固く薄い貝殻のような物が叩きつけられて出来た割創だ、切創、と言ってもいいが、何か重みのある物がぶつかったようで、切れていると言うよりは、どちらかと言うと、額同士がぶつかる等して、皮膚が割れる割創に近い、ということだった。
事情を聞かれたが、自分は受傷時はその場にいなかったので、どういう経緯で受傷するに至ったかは解らない、と説明し、体についた沢山の傷のことも聞かれたが、解らない、と言うしかない…。
医者は、完全に倉本を怪しんでいる風だったが、それ以上突っ込めない、という感じで口を閉ざした。
眼帯を付けられ、点滴で眠る千佳史が可哀想で堪らない。
つい先日、あんな酷い体になっても、志賀には言わないでくれ、と泣きそうな顔で自分に懇願した。
千佳史を診た、叔父の葛原からの電話で、あの子大丈夫か?と散々聞かれ、詳しいことが解らず、答えられずにいたら
「答えんのやったら、しっかり守ったらんかい」
と責められた。
「チカ?志賀に言うで?」
倉本は、青いまでに白くなった親友の顔を見つめ、答えがないことを承知で告げた。
『お前の両親がチカの店に行ったらしい。何しに行ったかも、何があったかも知らん。けど、チカは目の上、5針も縫う怪我して、今、病院や』
「何処ですか?!何処の病院?!」
『来んな…ダボ…ッ。おんどれは、我がの親んとこ帰って、何したんか聞いて来いやッ!』
「倉本さん!!滝さんはっ!!」
『チカには俺がついとう!はよ、行け!今すぐ行けっ!!』
「解りました…ッ…そやけど、倉本さん…滝さんに…会わせてッ……後でええから…ッ…お願い…」
『それはチカの状態見てからや』
「……解りました」
滝の所にも帰れない。
実家に帰る気もしない。
で、やはり診療所に寝ることにして、近くの銭湯に行って帰ってきて、診療所のベッドに転がった時の、倉本からの電話だった。
篤仁は診療所を飛び出して、タクシーに乗った。
「鈴蘭台!山麓で行って!」
実家に飛び込んだ篤仁の目に、リビングで話しをしていた両親と、萌花の姿が目に入った。
ゴォ…と怒りが燃える。
そうか…
萌花が滝さんのことを親父とおふくろに言うたんか…
なるほどな。
先日、滝と自分の関係を問い詰めて来た萌花の嫌な顔を思い出す。
「お前やったんか、萌花。うちの親にいらんこと吹き込んだんは」
「…あっちゃん、違うの、私…」
「篤仁、萌花さんは、誤解を解きに来てくれただけや。萌花さんのご両親が」
「何の誤解や?ああ?おのれら滝さんに何したんじゃ?おお?」
「あっくん、だって、あの人はホモ・・」
母親が口を挟む。
「やかましぃわ、クソばばぁ!おう、オッサン!答えんかい!滝さんに怪我させたやろが!」
「それは…そうや。しかし、彼が大丈夫やと」
「大丈夫なわけないやろがっ!!5針も縫うたんやぞ?!眼ぇやぞ?!おんどれがやったんかい?!!」
篤仁は、父親に掴みかかった。
「あっくん止めてっ!」
「ダメ!あっちゃん!」
「やかしましぃっ!!退けっ!おい、答えろや、ワレッ!!」
ドスッ!!
父親の襟首を掴んで振り回し、答えない父にキレて拳を出した。
バキッ!
「キャッ」
ガチャン!!
「萌ちゃん!!萌ちゃん!」
篤仁と父親を離そうとして近づき、勢いで吹っ飛ばされた萌花が、ソファの固い木の肘置きに、思い切り腹から突っ込んだのだ。
「ううー…ぁ……痛い…ぁぁ……」
目を閉じて、呻いた萌花の額に、みるみる玉のような汗が浮かんだ。
・・・・・!
驚愕は、一瞬で怒りを棚上げし、目の前の状況に全神経が注がれる。
「萌花ッ!萌花ッ…!!しっかりせえ!大丈夫か?!萌花ッ!」
「…あ…ちゃん……痛い…お腹……」
途切れ途切れに、息だけのような声で萌花が言った。
「よっしゃ、解った。すぐ病院連れて行ったる。大丈夫や、安心せえ」
「…うん…あっちゃん……」
顔が真っ青で、唇の色もない。
シャワーを浴びた程、汗が出て、前髪が張り付いた額を、母親に渡されたタオルで拭う。
「車の方が早い!篤仁!車回してくるから玄関に萌花さん運べ!貴子!北上病院電話せえ!妊婦が腹強打して…出血ある、すぐ診てくれ、って言え。10分で行く、って」
「はい!」
母親が電話に飛びついた。
・・・・・ッ
膝丈スカートから見える萌花の脚の内側に、数本伝う血の筋…。
―滝さん…滝さん、ちょっと待っとって…ッ……
想定外の事態に、これから起こる何かに戦く。
それは得体の知れない…恐怖とも、不安ともつかない…1番近い感情は…失望。
まだ、自分の中でさえうまく掴めない、生まれたばかりだった柔らかく清らかな気持ちは、小さいままでカチッと固まり、篤仁は、どんどん遠くなる滝を感じていた……
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