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第54話 予選
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「伊吹予選突破出来て良かったね」
「割と余裕そうだったな」
「うんうん」
二人はスタンドで予選を戦っている伊吹のことを見守っていた。
予選通過には一メートル六十八センチの記録が必要だったのだが、伊吹は危なげなく突破してみせた。
まだまだ余裕があるように見えたので、十五時から始まる決勝には期待してしまう。
「とりあえず今のうちに昼食を済ませておけ」
「そうするー」
スタジアムに来る前にコンビニで昼食を購入していた。
実親は食べないので伊吹の分だけだが、飲み物はちゃんと二人分買ってある。
紫苑は買い物袋からおにぎりを取り出すと、包装を解いてかぶりつく。
もぐもぐと咀嚼する伊吹を尻目に、実親はペットボトルのお茶を飲む。
「どうせなら優勝出来ると良いね」
「それはどうだろうな。流石に厳しいんじゃないか?」
「まだ一年生だしねー」
紫苑は期待感の籠った眼差しで呟いたが、そんなに現実は甘くないと理解しているようで、すぐに肩を竦めた。
いくら決勝に残ったとはいえ、伊吹はまだ一年生だ。
決勝に臨む面々には二、三年生もいる。寧ろ上級生が殆どだ。
高校生にとって一、二年の差は非常に大きい。
女子は男子よりも成長期が早いので体格的な差はあまりないかもしれないが、技術や経験の差はどうしたって埋められない。
「でも予選を見た限りだと、他の二、三年生にも負けてないように感じたよ」
予選落ちした上級生もいるので、紫苑の見立ては間違ってはいない。
だが、それはそもそも実力が乏しかっただけだ。尤も、全国の舞台に辿り着いただけ優秀な子達なのだが。
「本当の実力者は予選で本気を出さないだろう」
「確かに……体力を温存しないとだもんね」
始めから予選突破を確実視されているような実力者はまだ本領を発揮していない筈だ。なので予選の結果だけで実力を判断するのは早計だろう。
「そもそも素人の俺達には実力など推し量れないし、烏滸がましいだろ」
「それはそうなんだけど……」
素人、経験者、指導者、それぞれの立場によって見え方は違うものだ。
少なくとも素人の眼識ほど信用ならないものはない。身の程を弁えず得意気に語るのは傲慢というものだ。
実親の真っ当な指摘に紫苑は苦笑するしかなかった。
女子高跳びの予選は終わっているが、今は女子棒高跳びの決勝が行われている。
その姿を眺めながら、二人は暫くカップルのように仲睦まじく談笑する。
やはり決勝は予選とは盛り上がりが違う。
決勝の舞台で戦っている選手と同じ学校の陸上部の面々が声援を送り、保護者や友人が見守っている。
日中になって気温も上昇してきているので選手も観客も大変だ。
選手は集中力を切らさないように努めているに違いない。体力の消耗が激しいだろう。
インドアを極めている実親は素直に尊敬の眼差しを向けていた。とてもじゃないが自分には真似できないと。
一方、紫苑は夢中でおにぎりを頬張っている。
そんなに空腹だったのだろうか?
いや、暑さでおにぎりが傷む前に食べてしまおうと急いているだけだった。
この状況でも実親との会話は怠らない。全く持って器用なことだ。
「久世さん、黛君」
二人の会話が途切れたタイミングで背後から声が掛かる。
名を呼ばれた二人が振り返ると、そこにはジャージ姿の伊吹がいた。
「あれ? こっちに来ても良いの?」
「うん。決勝までまだ時間あるからね」
「そっか」
陸上部の部員と行動を共にしなくても良いのだろうか? と紫苑は思ったが、伊吹はちゃんとコーチの承諾を得て行動しているので何も問題はなかった。
「お昼は食べたの?」
「うん。食べ過ぎると動けなくなるから軽くね」
食事もコンディション調整に関わることなので気を付けなければならない。
伊吹は実親の右隣の席に腰を下ろす。左から紫苑、実親、伊吹の並びになる。三人でいる時はすっかりこの並びが定着していた。
「二人共今日は来てくれてありがとう」
伊吹は畏まった態度で会釈する。
「気にするな。俺は無責任に椎葉の背中を押すようなことを言った手前、見届ける責任があると勝手に思っていただけだからな」
水族館でのやり取りのことだ。
実親は散々好き勝手なことを口走った自覚がある。
伊吹がどのように感じていようと、口にしたからには責任があると思っていた。
だからこそ最後まで見届ける為に遥々鳴門市までやって来たのだ。
「私はただ見たかっただけだし、黛におんぶにだっこだから気にしなくて良いよー」
そう言いながら紫苑は微笑む。
実際に彼女は交通費も宿泊費も実親に出してもらっているので大して負担にはなっていなかった。
「寧ろ黛に感謝してー。私は靴を舐めたいくらい感謝してるから」
「汚いから舐めるなよ?」
「それは靴が汚いってことかな? それとも私が汚いってことかな?」
「両方だ」
「朝チューしようとしたら逃げられたのはそれが理由か……私の口は汚物じゃないよー」
紫苑は肩を落としているが、本当に不服な訳ではない。
いつものように軽口を叩き合っているだけだ。
「チューはしようとしたんだ……」
しかし伊吹には聞き逃せない単語があった。
二人が恋人のように仲睦まじいのは知っているので、そういうことがあっても不思議ではない。寧ろ腑に落ちるくらいだ。
だが、「私も黛君とチューしたいな」と思い、無意識に羨望の眼差しを向けてしまう。
羨ましくなるという事実に、「やっぱり黛君のことが好きなんだな」と改めて自分の気持ちを噛み締めていた。
「したけどすげなくあしらわれたよー」
「それは残念だったね」
口を尖らせて拗ねる紫苑と、微笑ましそうに見つめる伊吹。
伊吹は羨ましいとは思っても、嫉妬することはなかった。
もしかしたら二人で水族館のトイレに駆け込んだ時に何かあったのだろうか。それで仲間意識でも芽生えたのかもしれない。
元々嫉妬しないタイプなだけかもしれないが。
「椎葉は調子良さそうだな」
「うん。黛君のお陰でね」
伊吹は「相変わらず久世さんのことはスルーするんだなぁ」、と思いながら頷いた。
「俺は何もしていないぞ」
「ううん。黛君は無責任なことをって言ったけど、私には凄く力になったよ」
伊吹は首を左右に振ってから頬を緩めた。
「あれから自分の気持ちに折り合いをつけたんだ。だから今は純粋に高跳びを楽しめているの」
「それは良かった」
「身体も思うように動いてくれるようになったんだ」
伊吹は前髪を耳に掛けながら今日一番の笑みを浮かべる。
「二人のお陰だよ」
重荷から解放されたような爽やかな笑顔だ。
「だから期待してて。今日の私は一味違うから」
期待が重圧になっていた者の言葉とは思えない。
「私に夢中になって目を離せられなくしてあげる」
笑みの中に妖艶さを含んだ表情で自信たっぷりに言い切った。
すっかり自信を取り戻して勝負師の顔になった伊吹の様子に、「もう大丈夫そうだな」と心の中で呟いた実親は口元を緩める。
「楽しみにしている」
「伊吹かっこいい!」
笑みを深める実親と、瞳を輝かせる紫苑。
「ちょっとかっこつけ過ぎたかな……」
自分で言っておきながら恥ずかしくなった伊吹は頭を掻く。
そんな伊吹のことを揶揄いながら、三人は暫くの間談笑した。
楽しい時間はあっという間だ。気付いた頃には一時間も経過していた。
「そろそろ身体を動かして来るね」
伊吹は名残惜しさを感じつつも席を立った。
決勝に備えてアップをしなくてはならない。準備の段階から勝負は始まっているのだ。
「うん。またね」
紫苑が手を振る。
「張り切り過ぎないようにな」
「大丈夫だよ」
やる気が空回りして決勝前に体力を使い過ぎないようにと注意する実親に、伊吹は苦笑しながら頷く。
「それじゃあね」
伊吹は胸の前で手を振ると、軽い足取りで去っていった。
彼女の姿が見えなくなるまで見送った二人は、再びカップルのような仲睦まじい様子を周囲に公開しながら決勝開始の時を待つのであった。
「割と余裕そうだったな」
「うんうん」
二人はスタンドで予選を戦っている伊吹のことを見守っていた。
予選通過には一メートル六十八センチの記録が必要だったのだが、伊吹は危なげなく突破してみせた。
まだまだ余裕があるように見えたので、十五時から始まる決勝には期待してしまう。
「とりあえず今のうちに昼食を済ませておけ」
「そうするー」
スタジアムに来る前にコンビニで昼食を購入していた。
実親は食べないので伊吹の分だけだが、飲み物はちゃんと二人分買ってある。
紫苑は買い物袋からおにぎりを取り出すと、包装を解いてかぶりつく。
もぐもぐと咀嚼する伊吹を尻目に、実親はペットボトルのお茶を飲む。
「どうせなら優勝出来ると良いね」
「それはどうだろうな。流石に厳しいんじゃないか?」
「まだ一年生だしねー」
紫苑は期待感の籠った眼差しで呟いたが、そんなに現実は甘くないと理解しているようで、すぐに肩を竦めた。
いくら決勝に残ったとはいえ、伊吹はまだ一年生だ。
決勝に臨む面々には二、三年生もいる。寧ろ上級生が殆どだ。
高校生にとって一、二年の差は非常に大きい。
女子は男子よりも成長期が早いので体格的な差はあまりないかもしれないが、技術や経験の差はどうしたって埋められない。
「でも予選を見た限りだと、他の二、三年生にも負けてないように感じたよ」
予選落ちした上級生もいるので、紫苑の見立ては間違ってはいない。
だが、それはそもそも実力が乏しかっただけだ。尤も、全国の舞台に辿り着いただけ優秀な子達なのだが。
「本当の実力者は予選で本気を出さないだろう」
「確かに……体力を温存しないとだもんね」
始めから予選突破を確実視されているような実力者はまだ本領を発揮していない筈だ。なので予選の結果だけで実力を判断するのは早計だろう。
「そもそも素人の俺達には実力など推し量れないし、烏滸がましいだろ」
「それはそうなんだけど……」
素人、経験者、指導者、それぞれの立場によって見え方は違うものだ。
少なくとも素人の眼識ほど信用ならないものはない。身の程を弁えず得意気に語るのは傲慢というものだ。
実親の真っ当な指摘に紫苑は苦笑するしかなかった。
女子高跳びの予選は終わっているが、今は女子棒高跳びの決勝が行われている。
その姿を眺めながら、二人は暫くカップルのように仲睦まじく談笑する。
やはり決勝は予選とは盛り上がりが違う。
決勝の舞台で戦っている選手と同じ学校の陸上部の面々が声援を送り、保護者や友人が見守っている。
日中になって気温も上昇してきているので選手も観客も大変だ。
選手は集中力を切らさないように努めているに違いない。体力の消耗が激しいだろう。
インドアを極めている実親は素直に尊敬の眼差しを向けていた。とてもじゃないが自分には真似できないと。
一方、紫苑は夢中でおにぎりを頬張っている。
そんなに空腹だったのだろうか?
いや、暑さでおにぎりが傷む前に食べてしまおうと急いているだけだった。
この状況でも実親との会話は怠らない。全く持って器用なことだ。
「久世さん、黛君」
二人の会話が途切れたタイミングで背後から声が掛かる。
名を呼ばれた二人が振り返ると、そこにはジャージ姿の伊吹がいた。
「あれ? こっちに来ても良いの?」
「うん。決勝までまだ時間あるからね」
「そっか」
陸上部の部員と行動を共にしなくても良いのだろうか? と紫苑は思ったが、伊吹はちゃんとコーチの承諾を得て行動しているので何も問題はなかった。
「お昼は食べたの?」
「うん。食べ過ぎると動けなくなるから軽くね」
食事もコンディション調整に関わることなので気を付けなければならない。
伊吹は実親の右隣の席に腰を下ろす。左から紫苑、実親、伊吹の並びになる。三人でいる時はすっかりこの並びが定着していた。
「二人共今日は来てくれてありがとう」
伊吹は畏まった態度で会釈する。
「気にするな。俺は無責任に椎葉の背中を押すようなことを言った手前、見届ける責任があると勝手に思っていただけだからな」
水族館でのやり取りのことだ。
実親は散々好き勝手なことを口走った自覚がある。
伊吹がどのように感じていようと、口にしたからには責任があると思っていた。
だからこそ最後まで見届ける為に遥々鳴門市までやって来たのだ。
「私はただ見たかっただけだし、黛におんぶにだっこだから気にしなくて良いよー」
そう言いながら紫苑は微笑む。
実際に彼女は交通費も宿泊費も実親に出してもらっているので大して負担にはなっていなかった。
「寧ろ黛に感謝してー。私は靴を舐めたいくらい感謝してるから」
「汚いから舐めるなよ?」
「それは靴が汚いってことかな? それとも私が汚いってことかな?」
「両方だ」
「朝チューしようとしたら逃げられたのはそれが理由か……私の口は汚物じゃないよー」
紫苑は肩を落としているが、本当に不服な訳ではない。
いつものように軽口を叩き合っているだけだ。
「チューはしようとしたんだ……」
しかし伊吹には聞き逃せない単語があった。
二人が恋人のように仲睦まじいのは知っているので、そういうことがあっても不思議ではない。寧ろ腑に落ちるくらいだ。
だが、「私も黛君とチューしたいな」と思い、無意識に羨望の眼差しを向けてしまう。
羨ましくなるという事実に、「やっぱり黛君のことが好きなんだな」と改めて自分の気持ちを噛み締めていた。
「したけどすげなくあしらわれたよー」
「それは残念だったね」
口を尖らせて拗ねる紫苑と、微笑ましそうに見つめる伊吹。
伊吹は羨ましいとは思っても、嫉妬することはなかった。
もしかしたら二人で水族館のトイレに駆け込んだ時に何かあったのだろうか。それで仲間意識でも芽生えたのかもしれない。
元々嫉妬しないタイプなだけかもしれないが。
「椎葉は調子良さそうだな」
「うん。黛君のお陰でね」
伊吹は「相変わらず久世さんのことはスルーするんだなぁ」、と思いながら頷いた。
「俺は何もしていないぞ」
「ううん。黛君は無責任なことをって言ったけど、私には凄く力になったよ」
伊吹は首を左右に振ってから頬を緩めた。
「あれから自分の気持ちに折り合いをつけたんだ。だから今は純粋に高跳びを楽しめているの」
「それは良かった」
「身体も思うように動いてくれるようになったんだ」
伊吹は前髪を耳に掛けながら今日一番の笑みを浮かべる。
「二人のお陰だよ」
重荷から解放されたような爽やかな笑顔だ。
「だから期待してて。今日の私は一味違うから」
期待が重圧になっていた者の言葉とは思えない。
「私に夢中になって目を離せられなくしてあげる」
笑みの中に妖艶さを含んだ表情で自信たっぷりに言い切った。
すっかり自信を取り戻して勝負師の顔になった伊吹の様子に、「もう大丈夫そうだな」と心の中で呟いた実親は口元を緩める。
「楽しみにしている」
「伊吹かっこいい!」
笑みを深める実親と、瞳を輝かせる紫苑。
「ちょっとかっこつけ過ぎたかな……」
自分で言っておきながら恥ずかしくなった伊吹は頭を掻く。
そんな伊吹のことを揶揄いながら、三人は暫くの間談笑した。
楽しい時間はあっという間だ。気付いた頃には一時間も経過していた。
「そろそろ身体を動かして来るね」
伊吹は名残惜しさを感じつつも席を立った。
決勝に備えてアップをしなくてはならない。準備の段階から勝負は始まっているのだ。
「うん。またね」
紫苑が手を振る。
「張り切り過ぎないようにな」
「大丈夫だよ」
やる気が空回りして決勝前に体力を使い過ぎないようにと注意する実親に、伊吹は苦笑しながら頷く。
「それじゃあね」
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