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第60話 歯車
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一メートル七十七センチのバーを町野と伊吹は揃って一発で跳び越え、梅木は二回目で成功させた。
町野と伊吹はまだまだ余裕があるような跳躍だったが、梅木はマットから降りる際に首を捻っていた。
成功したとはいえ、自分の跳躍に納得がいっていなかったのだ。
それでも成功した事実は変わらない。次に進む挑戦権を確保したので調子を取り戻すチャンスは残されている。
続けて一メートル七十八センチも町野と伊吹は一発で成功させたが、梅木は失敗してしまい二度目の試技を行うことになった。
(大丈夫。私なら跳べる)
助走位置に立って理想の跳躍を脳裏に描いている梅木は、自分を鼓舞して気合を入れる。
(努力は裏切らない。今まで練習してきた自分を信じれば必ず跳べる)
努力すれば必ず報われる訳ではない。しかし努力しない者が報われることもない。
努力してきた事実が代え難い自信となる。自分のことを信じられない者が力を発揮することも、立ちはだかる障壁を跳び越えることも出来ない。
努力を実らせるのは自分次第だ、と梅木は思っていた。
(後輩達が応援してくれているのにかっこ悪い姿を見せる訳にはいかないじゃない。私は部長なのよ)
梅木は陸上部の部長を務めており、部員達から慕われている。
そんな仲間達の期待に応えてこそ部長としての示しが付く。
(みんなの期待が私の力になる)
いつも共に練習に励む部員達の姿を脳裏に思い浮かべる。
伊吹は過度の期待を寄せられると力を発揮出来ないタイプだったが、梅木はプレッシャーがあるほど燃える質だ。
自分をとことん追い込んで逃げ道を失くす。
(ついでにあの子の期待にも応えてあげるわ)
クスリと笑みを浮かべた梅木の脳裏には、屈託のない笑みを向けてくる今帰仁の姿があった。
なんだかんだ言っても今帰仁のことは可愛い妹分だと思っている。なので彼女の笑顔を曇らせたくはなかった。
(それにこのままマチに引き離されたらライバルを名乗れないじゃない)
梅木が勝手にライバルを名乗っている訳ではない。
町野も梅木のことをライバルだと認めており、周囲にも公言していることだ。
(何よりマチをひとりにする訳にはいかないのよ。絶対に孤高の女王なんかにはさせないわよ)
町野はずっと天才として女子高跳び界を引っ張ってきた。
天才は近寄り難いと良く言うが、町野は正にそれだ。
勿論、町野が壁を作っている訳ではない。周りの人間が勝手に雲の上の存在と決めつけて距離をおいてしまうのだ。
また、中にはレベルの低い者といると本人のレベルも下がる、などと抜かす輩も存在する。
それは確かに完全に否定出来ることではない。
不良といると影響を受けて素行が悪くなる、優等生といると危機感を抱いて行いを改める、といったことは良くあることだ。
しかし、それは他者が強要することではない。
誰と友人関係を築くかも、誰に指導を仰ぐかも本人が自分の意思で決めることだ。
にも拘わらず、自分の価値観を押し付けるように町野から人を遠ざけようとする輩がいる。
その結果、町野は孤立することが多くなっていた。
もしかしたら孤高の女王という肩書を作り、孤独に戦うヒロイン像を演出したい輩がいるのかもしれない。
兎にも角にも、梅木は町野のことをひとりにしてしまいたくなかったのだ。
幸い梅木も歴代屈指の実力者なので、良からぬことを考える者も町野から引き剥がそうとはしない。
梅木のようなライバルがいた方が町野も成長出来ると思っているのだろう。
だからこそ梅木は簡単に敗れる訳にはいかないのだ。
端から負けるつもりはないし、当然勝つことしか考えていない。
だが、仮に負けるとしても大差で敗れるのだけは許されなかった。
もしそうなったら町野から遠ざけようとする輩に邪魔されて孤立させてしまうかもしれないからだ。
引き剥がそうとする輩がいなかったとしても、同じレベルで競い合える同世代の仲間がいないのは孤立しているのと変わらない。共に切磋琢磨出来る相手がいないのは虚しいことだ。
(まあ、マチ本人は全く気にしていないのだけれど……)
梅木は心の中で自嘲気味に笑う。
町野本人は孤立していることを全く気に留めていない。
いや、正確には孤立している事実に気付いてすらいなかった。
それは本人の性格故でもあるが、梅木が孤立していると思わせないように振舞っているのも影響している。裏でフォローして悪印象を与えないようにもしていた。
つまり全て梅木が勝手にしていることなのだ。
面倒見が良いのもここまで行くともはや母親のようである。
(それでも私は戒めの意味も込めてマチをひとりにしないと決めているのよ)
梅木は一度だけ高跳びを辞めようとしたことがある。
幼い頃から頭角を現していた彼女は自分に才能があると思っていた。
しかし、町野と出会って自惚れていたことに気付かされたのだ。
梅木は元から真面目で自分に厳しく責任感の強い性格だったので、傍から見たら自惚れていたようには感じなかった。
実際に自惚れていたと言えるほど酷かった訳ではない。
ただ梅木が戒めの為にそう思い込んでいるだけだ。
そもそも何故戒めるようになったのか。
それは中学三年生の頃にあったとある大会での出来事だ。
町野とは何度も何度も競い合ったが、一度も勝てたことがない。
そんな中、諦めずに果敢に挑んだ大会でも町野に敗れ、優勝した彼女の姿を準優勝の立場から間近で見せつけられる羽目になり、才能の違いを思い知らされて心が折れ、自分の限界に見切りをつけてしまったのだ。
町野が優勝する姿を最も近くで何度も見てきたので慣れたものだと梅木は思っていた。
しかし、その時は訳が違ったのだ。
未だに自分でも原因はわかっていないが、何か繋ぎ止めていた糸のようなものが切れた感覚があり、「あ、もう駄目だ」という想いが胸中を埋め尽くしてしまったのである。
そしてぺたんと座り込み、肩を落として打ちひしがれている梅木のもとへ空気を読まずに町野が近寄ってきてこう言った。
「梅木さんはやっぱり凄いね。梅木さんがいるから私も負けられないと思っていつも意地を張っちゃうんだ。これからもライバルとしてよろしくね」
裏表がないとわかる真顔で告げられた梅木は、「こいつ打ち負かしたばかりの相手に何言ってんの? 嫌味?」と思いつつも、「この天才に私はライバルとして認められていたのか」と思う自分もいて、完全に切れかけていた糸がすんでのところでなんとか繋ぎ止められたのだ。
手を差し伸べられた梅木は、「ここで辞めたら自分が情けなくて嫌いになる」、と自らを叱咤し、手を取って立ち上がった。
以降、二人は自他共に認めるライバルとして競い合ってきた。
だからこそ梅木は、恩人であり、ライバルでもあり、仲間でもあり、親友でもある町野の隣に憚ることなく胸を張って立てる存在でありたかったのだ。
(すぐに追いつくからいつも通りのすました顔で待っていなさい)
町野の顔を脳裏に思い浮かべた梅木は、深呼吸をした後に右側から半円を描くように駆け出した。
会場中の注目を浴びながら最適の位置で踏み切って跳び上がった瞬間、梅木の中で二つの歯車がカチッと噛み合う感覚があった。
(あ、嵌まった)
彼女の特徴である豪快な跳躍は、バーに接触する心配がない程の高さがある。
(完璧……!)
感覚が研ぎ澄まされている時は時間の流れが遅く感じることがあるが、今は正に走馬灯のようにゆっくりと風景が流れていた。
雲の形や近くにいる人の顔まではっきりと識別出来る。
数分にも感じる跳躍の時間が終わりマットに背中から着地すると、会場が歓声に包まれた。
微動だにしていないバーに視線を向けることなくマットから降りた梅木は、平静を装いつつも心の中で盛大にガッツポーズをしていた。
今日一番の高さがあり、手応えも申し分ない。誰がなんと言おうと完璧な跳躍だった。
本来の実力を完全に引き出した眠れる獅子が、高レベルな優勝争いを繰り広げる女王と新星の首元に食らいついた瞬間であった。
町野と伊吹はまだまだ余裕があるような跳躍だったが、梅木はマットから降りる際に首を捻っていた。
成功したとはいえ、自分の跳躍に納得がいっていなかったのだ。
それでも成功した事実は変わらない。次に進む挑戦権を確保したので調子を取り戻すチャンスは残されている。
続けて一メートル七十八センチも町野と伊吹は一発で成功させたが、梅木は失敗してしまい二度目の試技を行うことになった。
(大丈夫。私なら跳べる)
助走位置に立って理想の跳躍を脳裏に描いている梅木は、自分を鼓舞して気合を入れる。
(努力は裏切らない。今まで練習してきた自分を信じれば必ず跳べる)
努力すれば必ず報われる訳ではない。しかし努力しない者が報われることもない。
努力してきた事実が代え難い自信となる。自分のことを信じられない者が力を発揮することも、立ちはだかる障壁を跳び越えることも出来ない。
努力を実らせるのは自分次第だ、と梅木は思っていた。
(後輩達が応援してくれているのにかっこ悪い姿を見せる訳にはいかないじゃない。私は部長なのよ)
梅木は陸上部の部長を務めており、部員達から慕われている。
そんな仲間達の期待に応えてこそ部長としての示しが付く。
(みんなの期待が私の力になる)
いつも共に練習に励む部員達の姿を脳裏に思い浮かべる。
伊吹は過度の期待を寄せられると力を発揮出来ないタイプだったが、梅木はプレッシャーがあるほど燃える質だ。
自分をとことん追い込んで逃げ道を失くす。
(ついでにあの子の期待にも応えてあげるわ)
クスリと笑みを浮かべた梅木の脳裏には、屈託のない笑みを向けてくる今帰仁の姿があった。
なんだかんだ言っても今帰仁のことは可愛い妹分だと思っている。なので彼女の笑顔を曇らせたくはなかった。
(それにこのままマチに引き離されたらライバルを名乗れないじゃない)
梅木が勝手にライバルを名乗っている訳ではない。
町野も梅木のことをライバルだと認めており、周囲にも公言していることだ。
(何よりマチをひとりにする訳にはいかないのよ。絶対に孤高の女王なんかにはさせないわよ)
町野はずっと天才として女子高跳び界を引っ張ってきた。
天才は近寄り難いと良く言うが、町野は正にそれだ。
勿論、町野が壁を作っている訳ではない。周りの人間が勝手に雲の上の存在と決めつけて距離をおいてしまうのだ。
また、中にはレベルの低い者といると本人のレベルも下がる、などと抜かす輩も存在する。
それは確かに完全に否定出来ることではない。
不良といると影響を受けて素行が悪くなる、優等生といると危機感を抱いて行いを改める、といったことは良くあることだ。
しかし、それは他者が強要することではない。
誰と友人関係を築くかも、誰に指導を仰ぐかも本人が自分の意思で決めることだ。
にも拘わらず、自分の価値観を押し付けるように町野から人を遠ざけようとする輩がいる。
その結果、町野は孤立することが多くなっていた。
もしかしたら孤高の女王という肩書を作り、孤独に戦うヒロイン像を演出したい輩がいるのかもしれない。
兎にも角にも、梅木は町野のことをひとりにしてしまいたくなかったのだ。
幸い梅木も歴代屈指の実力者なので、良からぬことを考える者も町野から引き剥がそうとはしない。
梅木のようなライバルがいた方が町野も成長出来ると思っているのだろう。
だからこそ梅木は簡単に敗れる訳にはいかないのだ。
端から負けるつもりはないし、当然勝つことしか考えていない。
だが、仮に負けるとしても大差で敗れるのだけは許されなかった。
もしそうなったら町野から遠ざけようとする輩に邪魔されて孤立させてしまうかもしれないからだ。
引き剥がそうとする輩がいなかったとしても、同じレベルで競い合える同世代の仲間がいないのは孤立しているのと変わらない。共に切磋琢磨出来る相手がいないのは虚しいことだ。
(まあ、マチ本人は全く気にしていないのだけれど……)
梅木は心の中で自嘲気味に笑う。
町野本人は孤立していることを全く気に留めていない。
いや、正確には孤立している事実に気付いてすらいなかった。
それは本人の性格故でもあるが、梅木が孤立していると思わせないように振舞っているのも影響している。裏でフォローして悪印象を与えないようにもしていた。
つまり全て梅木が勝手にしていることなのだ。
面倒見が良いのもここまで行くともはや母親のようである。
(それでも私は戒めの意味も込めてマチをひとりにしないと決めているのよ)
梅木は一度だけ高跳びを辞めようとしたことがある。
幼い頃から頭角を現していた彼女は自分に才能があると思っていた。
しかし、町野と出会って自惚れていたことに気付かされたのだ。
梅木は元から真面目で自分に厳しく責任感の強い性格だったので、傍から見たら自惚れていたようには感じなかった。
実際に自惚れていたと言えるほど酷かった訳ではない。
ただ梅木が戒めの為にそう思い込んでいるだけだ。
そもそも何故戒めるようになったのか。
それは中学三年生の頃にあったとある大会での出来事だ。
町野とは何度も何度も競い合ったが、一度も勝てたことがない。
そんな中、諦めずに果敢に挑んだ大会でも町野に敗れ、優勝した彼女の姿を準優勝の立場から間近で見せつけられる羽目になり、才能の違いを思い知らされて心が折れ、自分の限界に見切りをつけてしまったのだ。
町野が優勝する姿を最も近くで何度も見てきたので慣れたものだと梅木は思っていた。
しかし、その時は訳が違ったのだ。
未だに自分でも原因はわかっていないが、何か繋ぎ止めていた糸のようなものが切れた感覚があり、「あ、もう駄目だ」という想いが胸中を埋め尽くしてしまったのである。
そしてぺたんと座り込み、肩を落として打ちひしがれている梅木のもとへ空気を読まずに町野が近寄ってきてこう言った。
「梅木さんはやっぱり凄いね。梅木さんがいるから私も負けられないと思っていつも意地を張っちゃうんだ。これからもライバルとしてよろしくね」
裏表がないとわかる真顔で告げられた梅木は、「こいつ打ち負かしたばかりの相手に何言ってんの? 嫌味?」と思いつつも、「この天才に私はライバルとして認められていたのか」と思う自分もいて、完全に切れかけていた糸がすんでのところでなんとか繋ぎ止められたのだ。
手を差し伸べられた梅木は、「ここで辞めたら自分が情けなくて嫌いになる」、と自らを叱咤し、手を取って立ち上がった。
以降、二人は自他共に認めるライバルとして競い合ってきた。
だからこそ梅木は、恩人であり、ライバルでもあり、仲間でもあり、親友でもある町野の隣に憚ることなく胸を張って立てる存在でありたかったのだ。
(すぐに追いつくからいつも通りのすました顔で待っていなさい)
町野の顔を脳裏に思い浮かべた梅木は、深呼吸をした後に右側から半円を描くように駆け出した。
会場中の注目を浴びながら最適の位置で踏み切って跳び上がった瞬間、梅木の中で二つの歯車がカチッと噛み合う感覚があった。
(あ、嵌まった)
彼女の特徴である豪快な跳躍は、バーに接触する心配がない程の高さがある。
(完璧……!)
感覚が研ぎ澄まされている時は時間の流れが遅く感じることがあるが、今は正に走馬灯のようにゆっくりと風景が流れていた。
雲の形や近くにいる人の顔まではっきりと識別出来る。
数分にも感じる跳躍の時間が終わりマットに背中から着地すると、会場が歓声に包まれた。
微動だにしていないバーに視線を向けることなくマットから降りた梅木は、平静を装いつつも心の中で盛大にガッツポーズをしていた。
今日一番の高さがあり、手応えも申し分ない。誰がなんと言おうと完璧な跳躍だった。
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