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中央の国 ワクサレア
030 ララキの覚悟
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──永遠に続くのだと思っていた。
時間の凝ったその場所で、生きることも死ぬこともないまま、永遠にただ存在し続けるだけの自分がいるのだと。
もうずいぶん前から喚くのもやめた。前ったって、時間がないからどれくらい前なのかはわからない。
いい加減見飽きたので、結界の中を歩き回るのもやめた。
寝転んで空を眺めるのもやめた。何度見たって変わらないのだから、無駄だった。
石の上に転がって、眼を閉じて、もう何もしないことにした。
期待するのもやめた。誰かが助けてくれるなんていう夢想は、それこそ喚くのよりずっと不毛だ。
そう、思っていた。
実際ずっとそうだった。
違ったのはたった一日、結界で過ごした最後の日だけだ。
突然大きな音がして大地が揺れた。それはこれまでに一度もなかったことだったので、名もない生贄の少女は飛び起きたのだ。
何があったのか周りをきょろきょろ見渡すと、見たことのないものがあった。
それは、空を食い破って結界に侵入しようとしている、紅蓮に燃えるライオンだった。
「あなた、だれ?」
少女は尋ねる。相手は見るからに人ではないのに、言葉が通じないかもしれないとは思わなかった。
事実ライオンは答えたのだ。低く、それでいてよく通る、美しい声だった。
『私はヌダ・アフラムシカと呼ばれる者。クシエリスルの神だ』
「……なにそれ?」
『わからなくていい。私はおまえをここから逃がすために来たのだ。……歩くことはできるか?』
「うん。でもあたし、そんな高いとこには行けないよ」
『そうだな、壁も壊そう。どのみちここは跡形もなく破壊するつもりだ』
アフラムシカと名乗った神は、一旦少女のいる地面まで降りてきた。
そこで少女は気がついた。アフラムシカの身体はあちこち傷ついており、血も流れていた。
怪我をすれば痛いということは結界暮らしの少女にも理解できたので、彼女はそれを見ると自分の心まで痛んで、それでライオンの傷をそっと手で撫でた。
「ライオンさん、いたそうね。いたいのいたいの、とーんでけ……」
『……それは?』
「ずーっとずっとむかし、だれかがそうしてくれた気がするの。おかあさんだったかも」
そう言って、少女に眼にたくさんの涙が滲む。結界に入ってから初めての涙だった。
「……きっと、あえないよねえ、おかあさんとか、おとうさんとか……あえたって、あたしもう、みんなの顔、おぼえてないし……おかあさんだって、わすれてるよねえ……」
『泣いてはいけない』
「でも」
『おまえは泣いてはいけない。なぜなら私は炎の獣だから、水には弱いんだ』
ライオンはそう言って、少女の顔ごと涙を舐めた。泣き止ませるための言葉としては下手くそだったが、少女はその気遣いが嬉しくて、ライオンにぎゅっと抱きついた。
彼の身体はとても温かい。何かの温度を感じることなんて、もうずいぶん久しぶりだった。
そのあとライオンの神は結界の壁を壊した。今まで少女が何度も石を叩きつけて壊そうとしてもひびひとつ入らなかった壁の岩が、彼のひと吼えであっという間に崩れていくのは不思議な感覚だった。
このひとほんとにかみさまなんだ、と少女は思った。
──あたしを閉じ込めたのもかみさまなのに、ぜんぜんちがう。
そうして久しぶりに見た結界の外には、何もなかった。
右も左も鬱蒼と茂った密林が果てしなく続いていて、たまに虫や獣の鳴き声が聞こえるのだけが、結界の中と違うところだった。
急に身体ががくりと崩れ落ちる。少女は理解していなかったが、長いこと結界の封印によって保存されていた身体は、すでに外の世界でまともに生きていける状態ではなくなっていたのだ。
歩くどころか這うこともままならなくなった彼女を、ライオンはそっとその背に乗せた。
『……彼女を、私の加護の中に』
彼がそっと呟くと、今度はひどく眠たくなった。
ああ、眠たいなんて、何年ぶりだろう。身体が溶け出しそうなほどの睡魔に襲われながら、少女は思い出していた。自分はこれをずっと求めていたのだと。
お腹を空かせて、何かを食べて、動いて、疲れて、眠たくなって寝る。
そんな生活をずっとしたかった。特別な喜びなんてなくてもいいから、ただ毎日それを繰り返していつか死ぬ、そんな人間の当たり前の人生がほしかった。
長い間それらのすべてを取り上げられて、枯渇した身体は猛烈にすべてを欲しているのだ。
そのまま、少女は眠った。深く眠った。
どれくらい眠っていたのかはわからないけれど、ちゃんと時間は経っていた。
少女が次に眼を醒ますと、ライオンはどこかの国の町中を歩いていた。背に乗ったままあたりを見回す。
町の住民らし人たちが遠巻きに少女とライオンを眺めて呆然としている。久しぶりに人間を見た。
こんなに人間がたくさんいるところがあるんだ。なんだか嬉しくなったが、みんなはちょっと怖い顔をしている。
そういえば服装や恰好も少女のそれとはずいぶん違うようだ。彼らは身体の上と下にかちっとした形に裁断して縫い合わせた服を着ているが、少女は布を巻いただけ。みんなは角飾りも着けていないし、何より肌の上に何も模様が入っていない。
ライオンに尋ねる。ねえ、ここはどこ?
『イキエスという国のヤラムという町だ。ここに、おまえを預けるのに適した人間がいる』
やがてライオンは民家の前で立ち止まった。誰も何もしていないのにひとりでに扉が開く。
中で家事をしていたらしい女性が、少女とライオンを見て悲鳴を上げて腰を抜かした。彼女は震える声で夫を呼ぶ。
──ジャルーサ、ジャルーサ、来て!
そこはライレマという紋唱学者の家だった。彼はライオンを一目見てクシエリスルの高位の神であることを理解し、その場にひざまづいた。
『ジャルーサ・ライレマだな。私はヌダ・アフラムシカ。おまえにこの娘を預けたい』
「偉大なる神よ……、その娘は何者なのですか?」
『タヌマン・クリャに囚われていた贄だ。私が解放した。……この娘の本来暮らすべき集落はすでに滅び去っているので、おまえの元に連れてきた。人間は人間の中で生きねばならない』
「……かしこまりました」
『礼を言う』
ライオンは少女を下ろすと、ライレマに託した。少女はしかし、養父となることを承諾した学者の元から離れ、すぐまたライオンにすがりついた。
「やだ、あたしシッカといたい」
『……かの外神は滅んだわけではない。いつまた襲ってくるとも知れないから、当面は私も傍にいる』
「ほんと?」
『クシエリスルの神は嘘をつかない。……ところでシッカというのはなんだ』
「ごめんなさい、おなまえ長いから、おぼえられなくて」
『そうか。いや、好きにしていい』
それから、少女にはララキという名が与えられ、ライレマ家で暮らすようになった。
初めのうちは辛かった。少女のそれまでの生活と、ライレマの家でのそれは、あまりにも違いすぎた。
そもそも結界に閉じ込められる以前から文明とかけ離れた暮らしを営む民族だったのだ。
そこからさらに何年もの時が過ぎ去っていたこともあり、少女が馴染むにはかなり時間がかかった。
だが、ライレマとその妻は、なんとか少女を慈しんだ。もともとライレマ夫妻には子どもがいなかったこともあり、いつしか彼女はふたりの娘になっていた。
ララキの傍にはいつもシッカがいた。姿が見えなくても存在を感じられた。名前を呼べばひょいと現れ、大した用ではないとわかるとさっさと引っ込んでしまう。
それを無理やり引き止めてはおとぎ話を強請ったり、勝手に鬣を枕にして寝たりもした。
ときどきシッカは人の姿にもなった。背の高い男性で、肌は薄黒く赤みがかっていて、筋肉質のたくましい身体つきだった。髪は鬣と同じ色だ。
シッカは基本的には生真面目で冷静だが、たまに冗談を言ったりもする。鬣に涎をつけると怒るし、ララキが危険を承知で無謀なことをすると、すごく怒る。
そして、ララキが泣いていると、初めて会ったときと同じように顔をぺろりと舐める。
そんな楽しい日々が、五年くらい続いた。
終わりも唐突だった。
ある日、ライレマ家の庭で花に水をやっていたララキとそれを眺めていたシッカのもとに、凄まじい雷鳴が轟いた。シッカはすばやくララキを自分の背後に庇い、雷鳴の主を睨みつけたのだ。
それがどこのどんな神だったのかは、今となってはわからない。クシエリスルの神々を代表して来たというその神は、シッカに言った。
──これでは話が違うだろう。なぜその娘はまだ生きているのだ、ヌダ・アフラムシカ。
『わからないか。タヌマン・クリャが滅びていないからだ』
シッカは答えた。それがどういう意味なのか、ララキにはわからなかった。
『そんなものはどうだってよいだろう。アフラムシカ、娘を殺せ。そのように取り決めたはずだ。
"獣の王"たる貴様が、よもや人間の娘などに情を寄せてはおるまいな?』
シッカは吼えた。相手の神も咆哮めいた声を上げた。
炎と雷が絡み合い、震え、爆ぜる。ふたりの力は互角のようだった。埒があかぬ、と相手が言った。
そして相手の神の頭上から、歪な紋章が降ってきた。それはシッカの身体に降り注いで、文字通り彼を、彼の力を縛りつける鎖と化したのだ。
シッカはその場に倒れ、ララキは泣きながら彼に縋りついた。
『これはクシエリスルからの罰だ、ヌダ・アフラムシカ。おまえは言葉を失うだろう。どんな詩も謳えぬようになる。
私が今この場で娘を殺してもよいが、本来それはおまえの役目ゆえ、残しておこう。役目を成せば罰も解かれるやもしれぬ』
それだけ言い残してその神は去った。現れたときと同じように、雷鳴の轟きを残していった。
泣きじゃくるララキに、シッカは消え行く声で言う。──私はアンハナケウに行かねばならない。
『かの地へ行って、おまえのことを、嘆願せねば』
「あたしのことはいいよ、もう、充分生きたもん……。それよりシッカ、シッカのことも、そこに行ってお願いしたら許してもらえる?」
『すまない、……おまえを、守ってやれな……』
そのあとはもう、聞こえなかった。彼の声はどんどん小さくなって、やがて一言も喋れなくなってしまった。
ララキは毎日のように泣いて、喚いて、シッカを抱き締めては泣きつかれて眠る日々を繰り返した。
そしてそのうちシッカの姿までも薄れるようになり、最後に……消えてしまう前に、ライレマ家の書庫にあった一冊の本を、指し示してから消えた。シッカの神話が載っている本だった。
ちょうど開いていた頁に紋章と詩が載っていたのを見て、ライレマが言った。
「きっとあの方はこの紋唱を通してしか顕現できないのだろう。もし自分の力が必要ならこれを使って呼べ、と言いたかったのではないか」
「せんせー、あたし……」
「ああ、ララキ、紋唱術を覚えたいのだろう。もちろんだとも。恐らくあの方は、こうなることを予想して私におまえを預けたに違いないからね」
「……うん……! あたし、がんばって覚えるから、それで、アンハナケウってとこに、シッカを連れてく」
その日、ララキは誓った。ライレマに貰った手袋に初めて手を通した、その日に。
あたしは紋唱術師になる。
そして、シッカをアンハナケウに連れて行く。
彼の罰をなんとか他の神に赦してもらう。そのためにあたしの命が必要なら差し出してもいい。
あたしの涸れ果てた魂をシッカが救ってくれたのだから、今度はあたしが彼を助けるんだ。
何年かかっても、絶対にやりとげてみせる。
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──永遠に続くのだと思っていた。
時間の凝ったその場所で、生きることも死ぬこともないまま、永遠にただ存在し続けるだけの自分がいるのだと。
もうずいぶん前から喚くのもやめた。前ったって、時間がないからどれくらい前なのかはわからない。
いい加減見飽きたので、結界の中を歩き回るのもやめた。
寝転んで空を眺めるのもやめた。何度見たって変わらないのだから、無駄だった。
石の上に転がって、眼を閉じて、もう何もしないことにした。
期待するのもやめた。誰かが助けてくれるなんていう夢想は、それこそ喚くのよりずっと不毛だ。
そう、思っていた。
実際ずっとそうだった。
違ったのはたった一日、結界で過ごした最後の日だけだ。
突然大きな音がして大地が揺れた。それはこれまでに一度もなかったことだったので、名もない生贄の少女は飛び起きたのだ。
何があったのか周りをきょろきょろ見渡すと、見たことのないものがあった。
それは、空を食い破って結界に侵入しようとしている、紅蓮に燃えるライオンだった。
「あなた、だれ?」
少女は尋ねる。相手は見るからに人ではないのに、言葉が通じないかもしれないとは思わなかった。
事実ライオンは答えたのだ。低く、それでいてよく通る、美しい声だった。
『私はヌダ・アフラムシカと呼ばれる者。クシエリスルの神だ』
「……なにそれ?」
『わからなくていい。私はおまえをここから逃がすために来たのだ。……歩くことはできるか?』
「うん。でもあたし、そんな高いとこには行けないよ」
『そうだな、壁も壊そう。どのみちここは跡形もなく破壊するつもりだ』
アフラムシカと名乗った神は、一旦少女のいる地面まで降りてきた。
そこで少女は気がついた。アフラムシカの身体はあちこち傷ついており、血も流れていた。
怪我をすれば痛いということは結界暮らしの少女にも理解できたので、彼女はそれを見ると自分の心まで痛んで、それでライオンの傷をそっと手で撫でた。
「ライオンさん、いたそうね。いたいのいたいの、とーんでけ……」
『……それは?』
「ずーっとずっとむかし、だれかがそうしてくれた気がするの。おかあさんだったかも」
そう言って、少女に眼にたくさんの涙が滲む。結界に入ってから初めての涙だった。
「……きっと、あえないよねえ、おかあさんとか、おとうさんとか……あえたって、あたしもう、みんなの顔、おぼえてないし……おかあさんだって、わすれてるよねえ……」
『泣いてはいけない』
「でも」
『おまえは泣いてはいけない。なぜなら私は炎の獣だから、水には弱いんだ』
ライオンはそう言って、少女の顔ごと涙を舐めた。泣き止ませるための言葉としては下手くそだったが、少女はその気遣いが嬉しくて、ライオンにぎゅっと抱きついた。
彼の身体はとても温かい。何かの温度を感じることなんて、もうずいぶん久しぶりだった。
そのあとライオンの神は結界の壁を壊した。今まで少女が何度も石を叩きつけて壊そうとしてもひびひとつ入らなかった壁の岩が、彼のひと吼えであっという間に崩れていくのは不思議な感覚だった。
このひとほんとにかみさまなんだ、と少女は思った。
──あたしを閉じ込めたのもかみさまなのに、ぜんぜんちがう。
そうして久しぶりに見た結界の外には、何もなかった。
右も左も鬱蒼と茂った密林が果てしなく続いていて、たまに虫や獣の鳴き声が聞こえるのだけが、結界の中と違うところだった。
急に身体ががくりと崩れ落ちる。少女は理解していなかったが、長いこと結界の封印によって保存されていた身体は、すでに外の世界でまともに生きていける状態ではなくなっていたのだ。
歩くどころか這うこともままならなくなった彼女を、ライオンはそっとその背に乗せた。
『……彼女を、私の加護の中に』
彼がそっと呟くと、今度はひどく眠たくなった。
ああ、眠たいなんて、何年ぶりだろう。身体が溶け出しそうなほどの睡魔に襲われながら、少女は思い出していた。自分はこれをずっと求めていたのだと。
お腹を空かせて、何かを食べて、動いて、疲れて、眠たくなって寝る。
そんな生活をずっとしたかった。特別な喜びなんてなくてもいいから、ただ毎日それを繰り返していつか死ぬ、そんな人間の当たり前の人生がほしかった。
長い間それらのすべてを取り上げられて、枯渇した身体は猛烈にすべてを欲しているのだ。
そのまま、少女は眠った。深く眠った。
どれくらい眠っていたのかはわからないけれど、ちゃんと時間は経っていた。
少女が次に眼を醒ますと、ライオンはどこかの国の町中を歩いていた。背に乗ったままあたりを見回す。
町の住民らし人たちが遠巻きに少女とライオンを眺めて呆然としている。久しぶりに人間を見た。
こんなに人間がたくさんいるところがあるんだ。なんだか嬉しくなったが、みんなはちょっと怖い顔をしている。
そういえば服装や恰好も少女のそれとはずいぶん違うようだ。彼らは身体の上と下にかちっとした形に裁断して縫い合わせた服を着ているが、少女は布を巻いただけ。みんなは角飾りも着けていないし、何より肌の上に何も模様が入っていない。
ライオンに尋ねる。ねえ、ここはどこ?
『イキエスという国のヤラムという町だ。ここに、おまえを預けるのに適した人間がいる』
やがてライオンは民家の前で立ち止まった。誰も何もしていないのにひとりでに扉が開く。
中で家事をしていたらしい女性が、少女とライオンを見て悲鳴を上げて腰を抜かした。彼女は震える声で夫を呼ぶ。
──ジャルーサ、ジャルーサ、来て!
そこはライレマという紋唱学者の家だった。彼はライオンを一目見てクシエリスルの高位の神であることを理解し、その場にひざまづいた。
『ジャルーサ・ライレマだな。私はヌダ・アフラムシカ。おまえにこの娘を預けたい』
「偉大なる神よ……、その娘は何者なのですか?」
『タヌマン・クリャに囚われていた贄だ。私が解放した。……この娘の本来暮らすべき集落はすでに滅び去っているので、おまえの元に連れてきた。人間は人間の中で生きねばならない』
「……かしこまりました」
『礼を言う』
ライオンは少女を下ろすと、ライレマに託した。少女はしかし、養父となることを承諾した学者の元から離れ、すぐまたライオンにすがりついた。
「やだ、あたしシッカといたい」
『……かの外神は滅んだわけではない。いつまた襲ってくるとも知れないから、当面は私も傍にいる』
「ほんと?」
『クシエリスルの神は嘘をつかない。……ところでシッカというのはなんだ』
「ごめんなさい、おなまえ長いから、おぼえられなくて」
『そうか。いや、好きにしていい』
それから、少女にはララキという名が与えられ、ライレマ家で暮らすようになった。
初めのうちは辛かった。少女のそれまでの生活と、ライレマの家でのそれは、あまりにも違いすぎた。
そもそも結界に閉じ込められる以前から文明とかけ離れた暮らしを営む民族だったのだ。
そこからさらに何年もの時が過ぎ去っていたこともあり、少女が馴染むにはかなり時間がかかった。
だが、ライレマとその妻は、なんとか少女を慈しんだ。もともとライレマ夫妻には子どもがいなかったこともあり、いつしか彼女はふたりの娘になっていた。
ララキの傍にはいつもシッカがいた。姿が見えなくても存在を感じられた。名前を呼べばひょいと現れ、大した用ではないとわかるとさっさと引っ込んでしまう。
それを無理やり引き止めてはおとぎ話を強請ったり、勝手に鬣を枕にして寝たりもした。
ときどきシッカは人の姿にもなった。背の高い男性で、肌は薄黒く赤みがかっていて、筋肉質のたくましい身体つきだった。髪は鬣と同じ色だ。
シッカは基本的には生真面目で冷静だが、たまに冗談を言ったりもする。鬣に涎をつけると怒るし、ララキが危険を承知で無謀なことをすると、すごく怒る。
そして、ララキが泣いていると、初めて会ったときと同じように顔をぺろりと舐める。
そんな楽しい日々が、五年くらい続いた。
終わりも唐突だった。
ある日、ライレマ家の庭で花に水をやっていたララキとそれを眺めていたシッカのもとに、凄まじい雷鳴が轟いた。シッカはすばやくララキを自分の背後に庇い、雷鳴の主を睨みつけたのだ。
それがどこのどんな神だったのかは、今となってはわからない。クシエリスルの神々を代表して来たというその神は、シッカに言った。
──これでは話が違うだろう。なぜその娘はまだ生きているのだ、ヌダ・アフラムシカ。
『わからないか。タヌマン・クリャが滅びていないからだ』
シッカは答えた。それがどういう意味なのか、ララキにはわからなかった。
『そんなものはどうだってよいだろう。アフラムシカ、娘を殺せ。そのように取り決めたはずだ。
"獣の王"たる貴様が、よもや人間の娘などに情を寄せてはおるまいな?』
シッカは吼えた。相手の神も咆哮めいた声を上げた。
炎と雷が絡み合い、震え、爆ぜる。ふたりの力は互角のようだった。埒があかぬ、と相手が言った。
そして相手の神の頭上から、歪な紋章が降ってきた。それはシッカの身体に降り注いで、文字通り彼を、彼の力を縛りつける鎖と化したのだ。
シッカはその場に倒れ、ララキは泣きながら彼に縋りついた。
『これはクシエリスルからの罰だ、ヌダ・アフラムシカ。おまえは言葉を失うだろう。どんな詩も謳えぬようになる。
私が今この場で娘を殺してもよいが、本来それはおまえの役目ゆえ、残しておこう。役目を成せば罰も解かれるやもしれぬ』
それだけ言い残してその神は去った。現れたときと同じように、雷鳴の轟きを残していった。
泣きじゃくるララキに、シッカは消え行く声で言う。──私はアンハナケウに行かねばならない。
『かの地へ行って、おまえのことを、嘆願せねば』
「あたしのことはいいよ、もう、充分生きたもん……。それよりシッカ、シッカのことも、そこに行ってお願いしたら許してもらえる?」
『すまない、……おまえを、守ってやれな……』
そのあとはもう、聞こえなかった。彼の声はどんどん小さくなって、やがて一言も喋れなくなってしまった。
ララキは毎日のように泣いて、喚いて、シッカを抱き締めては泣きつかれて眠る日々を繰り返した。
そしてそのうちシッカの姿までも薄れるようになり、最後に……消えてしまう前に、ライレマ家の書庫にあった一冊の本を、指し示してから消えた。シッカの神話が載っている本だった。
ちょうど開いていた頁に紋章と詩が載っていたのを見て、ライレマが言った。
「きっとあの方はこの紋唱を通してしか顕現できないのだろう。もし自分の力が必要ならこれを使って呼べ、と言いたかったのではないか」
「せんせー、あたし……」
「ああ、ララキ、紋唱術を覚えたいのだろう。もちろんだとも。恐らくあの方は、こうなることを予想して私におまえを預けたに違いないからね」
「……うん……! あたし、がんばって覚えるから、それで、アンハナケウってとこに、シッカを連れてく」
その日、ララキは誓った。ライレマに貰った手袋に初めて手を通した、その日に。
あたしは紋唱術師になる。
そして、シッカをアンハナケウに連れて行く。
彼の罰をなんとか他の神に赦してもらう。そのためにあたしの命が必要なら差し出してもいい。
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