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西の国 ヴレンデール
066 岩積都市シレベニ
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あたりは沈黙に包まれ、ややあって運転席のほうから、大丈夫だった!?という声がかかる。
はっきり言っていろいろ大丈夫ではない。
荷物が、と言おうとして、ぽかんとした顔で固まっているララキと眼が合った。
彼女の視線はミルンの顔より低いところに注がれている。そこにあるのは、ちょうどミルンに抱きついているような恰好で倒れているスニエリタの頭である。
「……、事故だからな。いろんな意味で」
「…………まあ、そうだよね。ごめんごめん。スニエリタは大丈夫? 怪我とかない?」
「はい、だ……大丈夫、です……」
せめてその言葉がけを俺にもしろ、あとその半笑いみたいな顔をやめろ、とミルンは思った。
しかしスニエリタを引っ掴むのが間に合ってよかった。もしあのまま荷物とともに放り出されていたら、周りは岩がちな荒地である、軽い怪我では済まなかっただろう。
恐らく今の事故も岩に乗り上げるか何かしたんだろうと思いながら身体を起こすと、今度は顔を真っ赤にしたスニエリタと眼が合った。
何かあったのか、と思ったが、よく考えたらまだ抱きとめたままだった。
慌てて腕を離したが、直前まで聞こえていた忙しない心臓の音が、なぜか離れたあとまでミルンの側に残ったままだった。
まあ事故に遭遇した直後でびっくりしていることに変わりはない、別におかしなことではない。
でも香りまで残っているのはおかしいと思う。
少し甘いようなそれが、鼻腔の奥に張り付いたままだった。
「あ、あの、ごめんなさい……あっ」
「いや、危なかったな、怪我がなくてよかった、うん。……ちょっと俺、荷物拾ってくるわ」
なぜか気まずいものを感じ、逃げるように車から降りる。
外はひどいありさまだった。荷物を入れていた袋が地面に転がっているのはいいとして、そこから中身が四方八方に散っている。
拾っているとすぐにララキとスニエリタも降りてきて、結局すべて拾い集めるのに三人でそこそこの時間をかけた。
悲しいことに硝子瓶に入っていたものは容器が割れて中身が零れていた。調味料や薬など、どれも買い直せないものではなかったし、そう高いものでもなければ絶対に必要というわけでもないが、溜息が出る。
ミルン以上にララキも嘆いていた。なんか知らんが、故郷から持ってきたママさんなる人物の自家製ジャムがおじゃんになったらしい。
荷物の回収が終わったところで、問題はまだある。
紋唱車が壊れたりしたら賠償金が発生するのだ。
ミルンは車体をつぶさに調べた。車輪が歪んでいないか、どこか破損していないか、割れたり欠けたり折れたりしていないか。
いや、外見でわかるような不具合ならまだいい。中身の機巧に不具合が出てしまっていたらミルンには直せないし賠償金額も高くなってしまう、何よりここからシレベニまでの足がなくなる。
とりあえず荷台の端の欠けたところを樹の紋唱で修繕し、車輪の歪みを鋼の紋唱で調整してみた。
見た目はこれで問題ない。重要なのはきちんと動いてくれるかどうか。
いつになく緊張しながら運転席へ。そしていつも以上に丁寧に描き、唱える。──翔華の紋。
……かたかたと駆動部が動く音がして、一応、これまでどおりに車は動いた。とりあえずシレベニに行くまでは問題なさそうだった。
しいていえば、明らかにさっきまではしていなかった音が車輪の回転に混ざっているが、やはり衝撃で内部の部品に傷でもついてしまったらしい。
こりゃあ返すときになんか言われるな、と青ざめるが、もはやどうしようもない。
だいたいなんで道の真ん中に乗り上げてまずい大きさの岩が転がっていたのだろう。
荒野の中を闇雲に走っているわけではなく、道に迷わないように予め先人たちが残していった轍をなぞるようにして進んでいるので、よほど障害物になるものは予め排除してある。
それに集落が近いところの道の脇ではあの家畜の死骸を供える文化が見られるので、場所によってはちゃんとした道として整備されているところもあるのだ。
久しぶりに嫌な予感がしたのでそっと振り返ってみる。さっきは荷物を拾うのに必死で、乗り上げたであろう岩を確かめてはいなかった。
果たしてそこに転がっているのは、岩……にそっくりなリクガメだった。
車に轢かれてもなおぴんぴんしている丈夫なそいつは、なにごともなかったようにのっそりと歩いていく。
こんな生きものの気配のない荒地であれに遭遇する確率ってどれくらいなものだろうか。
たまにこの旅は、やたら低確率の何かを引き当てることがある気がするが、だいたいろくでもないのにしか中らない気がする。
ミルンが後方を見て引きつっているのに気づいたララキも振り返り、カメを見て立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってて! 契約できるか訊いてくる!」
「あれをか!?」
「あの速度なら絶対掴まえられるでしょ!」
たしかにカメは眩暈がしそうなほどのろのろと歩いている。
なるほど捕獲は楽そうに思えるが、もちろん楽に掴まえられる獣とは、さほど強力ではないということである。カエルの次がカメでいいのかおまえは。
しかしそんなミルンの考えはいろんな意味で杞憂に終わった。
ララキが迫っていることに気づいたカメは、急に猛ダッシュで逃げ出したのだ。
そう、カメは遅い動物であるという印象を持たれがちだが、意外と速く走ることができる。
それでも人間を切り離せるほどの速度にはならないのだが、完全に油断していたララキは遅れをとった。
さらにカメは後方に向けて紋章を展開するという技巧をも見せつける。ララキは咄嗟に防御の紋唱を行って、カメが放った岩弾攻撃を防ぎきった。
だがそれによって起きた激しい土煙のために視界が遮られ、それがようやく晴れたころには、カメははるか彼方へと走り去ったあとだった。
すごすごと戻ってくるララキを、唖然とした表情のスニエリタが迎え入れる。もちろんカメの思わぬ身体能力への驚愕のためである。
「あの……すごいカメさんでしたね……」
「ね、なにあれ……」
「ありゃあ素人じゃないな。たぶん一度誰かと契約して遣獣になった経験があるんだろ。あの大きさのカメなら寿命は人間より永いだろうし、人間でいうところの退役軍人だな」
「ぜんぜんおじいちゃんの走りじゃなかったよ……」
老兵は死なず、ただ去るのみ。
ちょっと意味が違うが、これもまた勉強である。
しかしスニエリタが遣獣を手放したに近い状態だということを考えると、改めて今の三人は戦力不足だ。
ララキがもう一匹増やすなり、スニエリタがせめてコミだけでも呼べるようになってもらわないと、これから戦闘のたびにミルンの遣獣たちを酷使しなくてはならなくなる。
紋唱術師が遣獣を増やそうと思ったなら、もちろん田舎へ行って自分の足で探すのがいちばんいいが、遣獣を斡旋する業者というものも存在する。
これから向かうシレベニも一国の首都であるから、恐らくそれなりに規模の大きな業者がいるはずだ。もちろん金はかかるが、決して安くはない額でもあるが、予め捕獲されているものと対面する方式なので無駄は少ない。
ミルンから言わせれば、自分で野山に分け入って獣たちと格闘する気概のないやつが遣獣なんか持とうと思うんじゃねえよ、というのが本音だが、捕獲成功率の低いララキにはそういうシステムを利用するのも手ではある。
一応提案はしておこうと思い、話を振ってみた。
そもそもそういう業者の存在すら知らなかったらしいララキは、へー便利だねえ、とえらく他人ごとじみた感想を寄越してきた。相変わらず非常識だが、たしかに獣が豊富な南部ではあまり需要がなさそうにも思える。
「なんか、たいていのことってお金払えば解決するようにできてんだね」
「そうだな。遣獣くらい自分で掴まえるべきだとは思うが」
「うん、それはあたしも同感。なんか、面倒なとこは人にやってもらって、美味しいとこだけ自分がやるのって変な感じがするし……そういうお店で遣獣を手に入れる人ってどういう気持ちなんだろ?」
「どういう気持ちでっつーか、単に金があっても探しに行く時間がないんだろ。だいたい客は都会の人間だしな」
だよな、とスニエリタにも聞くと、彼女はこくりと頷く。
ミルンやララキのように田舎生まれの人間なら、ちょっと自宅の外に出ただけでもいろんな獣に出くわすし、さほど時間をかけずに山や森や海や川などにも行ける。
しかしスニエリタのような都会で生まれ育った術師には、そもそも獣と出逢うことが少ない。
探しに行くにも時間がかかるし、できるだけいろんな属性や性質の獣を揃えようなどと思ったら、それこそ複数の場所に赴かねばならない。
出かけた先で思うような種類や能力の獣に出逢えるかどうかはわからないし、出逢えたところで捕獲できるか、契約が成功するかはまた別だ。
理想が高いほど時間がかかり、場合によっては宿代や足代などの費用も嵩む。
とくに都会に暮らす金持ちで何か役職を持っているような人間だと、そもそも自由に遠出する機会を作るのも難しかったりするので、そういう場合には業者の存在がありがたい。
それこそマヌルドの帝都アウレアシノンともなれば、そこで生活する紋唱術師の大半は貴族や大商人などの「時間はないが金ならある人間」の典型例だろう。
業者もそういう人間を喜ばせようと、できるだけ僻地の強力かつ珍しい動物を探してくる。
なので田舎の貧乏術師より都会の金持ちのほうがよほど多様な手持ちだったりする。もっと言うと、遣獣でその使い手の経済状況がわかる。
もちろん例外もいて、ミルンもその一人である。
三匹の遣獣は、どれも故郷の森や山で出逢った獣たちであるため、多様性にはやや欠ける取り合わせではあるが、どれも優秀には違いない。同じスペックの遣獣を業者に発注したらけっこうな額になる。
ミルン自身の経済状況は語るべくもないが、本人の度量と努力次第で手持ちを充実させることは可能なのだ。
ともかく、シレベニについたら一度そういう業者をあたってみよう、ということになった。
別に冷やかしに行ったっていいのだ。
そもそも買うつもりで行っても契約が成功しないことはざらにある。獣たちが見るのは経済力ではなく、あくまで紋唱術の腕前なのだ。
などと話していたら、周囲の雰囲気が変わってきた。
地面に明らかに緑が増え、風からは乾いた感じが薄れ、終いにはせせらぎの音さえ聞こえてきた。
近くに川があるということはシレベニも目前だ。
期待を胸にさらに走らせていくと、一行の前に橋が現れた。その先に鉛色をした巨大な都市が見える。
ヴレンデールが大国だったころから一度も遷都されることなく、今なお世界最古の都のひとつと言われている首都、"岩積都市"シレベニである。
その異名のとおり、巨大な岩を積み上げて造られた街であるシレベニは、こちらの想像を遥かに超えた建築技術により、内部構造が何層もに分かれているらしい。
実際に入ってみると、そこはだだっ広い洞窟のような第一層だった。
あちこちに天井を支える柱があり、昼間でも光が入りにくいためだろう、光を発する紋章がそこかしこに刻まれている。
都市自体が巨大な建築物であるため、民家や店などは壁で区切られているだけの、いわば部屋に近い状態だった。
そういう街だとはいろんな本で読んで知っていたが、いざ目の当たりにすると驚きしかない。
それぞれの出身地とはあまりにも違いすぎて、同じ大陸にある国の首都とは思えなかった。それに今まで通ってきたほかのヴレンデールの都市や街とも違う。
なぜこのような街が造られたのか、どんな人たちがこの壁や床を造ったのか、何もかもが未知に溢れている。
三人はしばらく呆然としていたが、邪魔だよ、と通行人に言われてはっとする。
あまりに異様で現実感のない場所だが、これがこの国の首都であり、当たり前だがここに住んで毎日暮らしている人間がいるのだ。
とりあえずそのへんの人を掴まえて尋ね、紋唱車を馬車屋に返却する。
予定より大幅に遅れていたのでそろそろ貸し出し期間が終わりそうだった。
返す際、途中で事故を起こしたことも震えながら伝えたが、保険の補償内だからいいよ、というありがたい言葉をいただいた。
あとはその日の宿を確保するのだが、ここでララキが提案があると言ってきた。
「今日からの宿だけど、フィナナのときみたいな激安宿は勘弁して」
「ええ? でも今までの街より物価がなあ……」
「最低限、部屋にお風呂がついてなきゃ嫌。スニエリタだって、……やだよね、お風呂なしの生活」
そんなもん銭湯でも行けよ、と言おうとしたが、スニエリタがおずおずと言った。
「すみません、わがままで……でも、わたしからも、お願いします」
「……わかった」
このやろう、スニエリタを使うとは卑怯な。
いや別に誰が言おうと関係はないが、ふたりともから言われるようなら考慮する必要があるだろう、共有資金管理者としては。
そういうわけで条件に合う宿を探す。
そもそもミルンはシレベニに来たのが初めてだったので、たとえ激安宿を目当てにしていたとしてもどこあるのかわからない。
……というかこの街の構造自体何がどうなっているのやら。一応看板は出ているが、どこの通りも見通しが悪くてわかりにくい。
ひたすらそのへんの住民に尋ねてようやく探し出した部屋風呂つきの宿は、かなり街のはずれのほうにあった。外側が近いためか、外壁の穴から差し込む光が届いており、中央部に比べて明るい。
中に入ると思ったよりも賑わっていて、もしかしたら近くで何か催しでもあるのだろうかと思いながら、とにかく宿泊受付へ。
すると案内係のお姉さんは、大変申し訳なさそうな顔でとんでもないことを言い放った。
→
あたりは沈黙に包まれ、ややあって運転席のほうから、大丈夫だった!?という声がかかる。
はっきり言っていろいろ大丈夫ではない。
荷物が、と言おうとして、ぽかんとした顔で固まっているララキと眼が合った。
彼女の視線はミルンの顔より低いところに注がれている。そこにあるのは、ちょうどミルンに抱きついているような恰好で倒れているスニエリタの頭である。
「……、事故だからな。いろんな意味で」
「…………まあ、そうだよね。ごめんごめん。スニエリタは大丈夫? 怪我とかない?」
「はい、だ……大丈夫、です……」
せめてその言葉がけを俺にもしろ、あとその半笑いみたいな顔をやめろ、とミルンは思った。
しかしスニエリタを引っ掴むのが間に合ってよかった。もしあのまま荷物とともに放り出されていたら、周りは岩がちな荒地である、軽い怪我では済まなかっただろう。
恐らく今の事故も岩に乗り上げるか何かしたんだろうと思いながら身体を起こすと、今度は顔を真っ赤にしたスニエリタと眼が合った。
何かあったのか、と思ったが、よく考えたらまだ抱きとめたままだった。
慌てて腕を離したが、直前まで聞こえていた忙しない心臓の音が、なぜか離れたあとまでミルンの側に残ったままだった。
まあ事故に遭遇した直後でびっくりしていることに変わりはない、別におかしなことではない。
でも香りまで残っているのはおかしいと思う。
少し甘いようなそれが、鼻腔の奥に張り付いたままだった。
「あ、あの、ごめんなさい……あっ」
「いや、危なかったな、怪我がなくてよかった、うん。……ちょっと俺、荷物拾ってくるわ」
なぜか気まずいものを感じ、逃げるように車から降りる。
外はひどいありさまだった。荷物を入れていた袋が地面に転がっているのはいいとして、そこから中身が四方八方に散っている。
拾っているとすぐにララキとスニエリタも降りてきて、結局すべて拾い集めるのに三人でそこそこの時間をかけた。
悲しいことに硝子瓶に入っていたものは容器が割れて中身が零れていた。調味料や薬など、どれも買い直せないものではなかったし、そう高いものでもなければ絶対に必要というわけでもないが、溜息が出る。
ミルン以上にララキも嘆いていた。なんか知らんが、故郷から持ってきたママさんなる人物の自家製ジャムがおじゃんになったらしい。
荷物の回収が終わったところで、問題はまだある。
紋唱車が壊れたりしたら賠償金が発生するのだ。
ミルンは車体をつぶさに調べた。車輪が歪んでいないか、どこか破損していないか、割れたり欠けたり折れたりしていないか。
いや、外見でわかるような不具合ならまだいい。中身の機巧に不具合が出てしまっていたらミルンには直せないし賠償金額も高くなってしまう、何よりここからシレベニまでの足がなくなる。
とりあえず荷台の端の欠けたところを樹の紋唱で修繕し、車輪の歪みを鋼の紋唱で調整してみた。
見た目はこれで問題ない。重要なのはきちんと動いてくれるかどうか。
いつになく緊張しながら運転席へ。そしていつも以上に丁寧に描き、唱える。──翔華の紋。
……かたかたと駆動部が動く音がして、一応、これまでどおりに車は動いた。とりあえずシレベニに行くまでは問題なさそうだった。
しいていえば、明らかにさっきまではしていなかった音が車輪の回転に混ざっているが、やはり衝撃で内部の部品に傷でもついてしまったらしい。
こりゃあ返すときになんか言われるな、と青ざめるが、もはやどうしようもない。
だいたいなんで道の真ん中に乗り上げてまずい大きさの岩が転がっていたのだろう。
荒野の中を闇雲に走っているわけではなく、道に迷わないように予め先人たちが残していった轍をなぞるようにして進んでいるので、よほど障害物になるものは予め排除してある。
それに集落が近いところの道の脇ではあの家畜の死骸を供える文化が見られるので、場所によってはちゃんとした道として整備されているところもあるのだ。
久しぶりに嫌な予感がしたのでそっと振り返ってみる。さっきは荷物を拾うのに必死で、乗り上げたであろう岩を確かめてはいなかった。
果たしてそこに転がっているのは、岩……にそっくりなリクガメだった。
車に轢かれてもなおぴんぴんしている丈夫なそいつは、なにごともなかったようにのっそりと歩いていく。
こんな生きものの気配のない荒地であれに遭遇する確率ってどれくらいなものだろうか。
たまにこの旅は、やたら低確率の何かを引き当てることがある気がするが、だいたいろくでもないのにしか中らない気がする。
ミルンが後方を見て引きつっているのに気づいたララキも振り返り、カメを見て立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってて! 契約できるか訊いてくる!」
「あれをか!?」
「あの速度なら絶対掴まえられるでしょ!」
たしかにカメは眩暈がしそうなほどのろのろと歩いている。
なるほど捕獲は楽そうに思えるが、もちろん楽に掴まえられる獣とは、さほど強力ではないということである。カエルの次がカメでいいのかおまえは。
しかしそんなミルンの考えはいろんな意味で杞憂に終わった。
ララキが迫っていることに気づいたカメは、急に猛ダッシュで逃げ出したのだ。
そう、カメは遅い動物であるという印象を持たれがちだが、意外と速く走ることができる。
それでも人間を切り離せるほどの速度にはならないのだが、完全に油断していたララキは遅れをとった。
さらにカメは後方に向けて紋章を展開するという技巧をも見せつける。ララキは咄嗟に防御の紋唱を行って、カメが放った岩弾攻撃を防ぎきった。
だがそれによって起きた激しい土煙のために視界が遮られ、それがようやく晴れたころには、カメははるか彼方へと走り去ったあとだった。
すごすごと戻ってくるララキを、唖然とした表情のスニエリタが迎え入れる。もちろんカメの思わぬ身体能力への驚愕のためである。
「あの……すごいカメさんでしたね……」
「ね、なにあれ……」
「ありゃあ素人じゃないな。たぶん一度誰かと契約して遣獣になった経験があるんだろ。あの大きさのカメなら寿命は人間より永いだろうし、人間でいうところの退役軍人だな」
「ぜんぜんおじいちゃんの走りじゃなかったよ……」
老兵は死なず、ただ去るのみ。
ちょっと意味が違うが、これもまた勉強である。
しかしスニエリタが遣獣を手放したに近い状態だということを考えると、改めて今の三人は戦力不足だ。
ララキがもう一匹増やすなり、スニエリタがせめてコミだけでも呼べるようになってもらわないと、これから戦闘のたびにミルンの遣獣たちを酷使しなくてはならなくなる。
紋唱術師が遣獣を増やそうと思ったなら、もちろん田舎へ行って自分の足で探すのがいちばんいいが、遣獣を斡旋する業者というものも存在する。
これから向かうシレベニも一国の首都であるから、恐らくそれなりに規模の大きな業者がいるはずだ。もちろん金はかかるが、決して安くはない額でもあるが、予め捕獲されているものと対面する方式なので無駄は少ない。
ミルンから言わせれば、自分で野山に分け入って獣たちと格闘する気概のないやつが遣獣なんか持とうと思うんじゃねえよ、というのが本音だが、捕獲成功率の低いララキにはそういうシステムを利用するのも手ではある。
一応提案はしておこうと思い、話を振ってみた。
そもそもそういう業者の存在すら知らなかったらしいララキは、へー便利だねえ、とえらく他人ごとじみた感想を寄越してきた。相変わらず非常識だが、たしかに獣が豊富な南部ではあまり需要がなさそうにも思える。
「なんか、たいていのことってお金払えば解決するようにできてんだね」
「そうだな。遣獣くらい自分で掴まえるべきだとは思うが」
「うん、それはあたしも同感。なんか、面倒なとこは人にやってもらって、美味しいとこだけ自分がやるのって変な感じがするし……そういうお店で遣獣を手に入れる人ってどういう気持ちなんだろ?」
「どういう気持ちでっつーか、単に金があっても探しに行く時間がないんだろ。だいたい客は都会の人間だしな」
だよな、とスニエリタにも聞くと、彼女はこくりと頷く。
ミルンやララキのように田舎生まれの人間なら、ちょっと自宅の外に出ただけでもいろんな獣に出くわすし、さほど時間をかけずに山や森や海や川などにも行ける。
しかしスニエリタのような都会で生まれ育った術師には、そもそも獣と出逢うことが少ない。
探しに行くにも時間がかかるし、できるだけいろんな属性や性質の獣を揃えようなどと思ったら、それこそ複数の場所に赴かねばならない。
出かけた先で思うような種類や能力の獣に出逢えるかどうかはわからないし、出逢えたところで捕獲できるか、契約が成功するかはまた別だ。
理想が高いほど時間がかかり、場合によっては宿代や足代などの費用も嵩む。
とくに都会に暮らす金持ちで何か役職を持っているような人間だと、そもそも自由に遠出する機会を作るのも難しかったりするので、そういう場合には業者の存在がありがたい。
それこそマヌルドの帝都アウレアシノンともなれば、そこで生活する紋唱術師の大半は貴族や大商人などの「時間はないが金ならある人間」の典型例だろう。
業者もそういう人間を喜ばせようと、できるだけ僻地の強力かつ珍しい動物を探してくる。
なので田舎の貧乏術師より都会の金持ちのほうがよほど多様な手持ちだったりする。もっと言うと、遣獣でその使い手の経済状況がわかる。
もちろん例外もいて、ミルンもその一人である。
三匹の遣獣は、どれも故郷の森や山で出逢った獣たちであるため、多様性にはやや欠ける取り合わせではあるが、どれも優秀には違いない。同じスペックの遣獣を業者に発注したらけっこうな額になる。
ミルン自身の経済状況は語るべくもないが、本人の度量と努力次第で手持ちを充実させることは可能なのだ。
ともかく、シレベニについたら一度そういう業者をあたってみよう、ということになった。
別に冷やかしに行ったっていいのだ。
そもそも買うつもりで行っても契約が成功しないことはざらにある。獣たちが見るのは経済力ではなく、あくまで紋唱術の腕前なのだ。
などと話していたら、周囲の雰囲気が変わってきた。
地面に明らかに緑が増え、風からは乾いた感じが薄れ、終いにはせせらぎの音さえ聞こえてきた。
近くに川があるということはシレベニも目前だ。
期待を胸にさらに走らせていくと、一行の前に橋が現れた。その先に鉛色をした巨大な都市が見える。
ヴレンデールが大国だったころから一度も遷都されることなく、今なお世界最古の都のひとつと言われている首都、"岩積都市"シレベニである。
その異名のとおり、巨大な岩を積み上げて造られた街であるシレベニは、こちらの想像を遥かに超えた建築技術により、内部構造が何層もに分かれているらしい。
実際に入ってみると、そこはだだっ広い洞窟のような第一層だった。
あちこちに天井を支える柱があり、昼間でも光が入りにくいためだろう、光を発する紋章がそこかしこに刻まれている。
都市自体が巨大な建築物であるため、民家や店などは壁で区切られているだけの、いわば部屋に近い状態だった。
そういう街だとはいろんな本で読んで知っていたが、いざ目の当たりにすると驚きしかない。
それぞれの出身地とはあまりにも違いすぎて、同じ大陸にある国の首都とは思えなかった。それに今まで通ってきたほかのヴレンデールの都市や街とも違う。
なぜこのような街が造られたのか、どんな人たちがこの壁や床を造ったのか、何もかもが未知に溢れている。
三人はしばらく呆然としていたが、邪魔だよ、と通行人に言われてはっとする。
あまりに異様で現実感のない場所だが、これがこの国の首都であり、当たり前だがここに住んで毎日暮らしている人間がいるのだ。
とりあえずそのへんの人を掴まえて尋ね、紋唱車を馬車屋に返却する。
予定より大幅に遅れていたのでそろそろ貸し出し期間が終わりそうだった。
返す際、途中で事故を起こしたことも震えながら伝えたが、保険の補償内だからいいよ、というありがたい言葉をいただいた。
あとはその日の宿を確保するのだが、ここでララキが提案があると言ってきた。
「今日からの宿だけど、フィナナのときみたいな激安宿は勘弁して」
「ええ? でも今までの街より物価がなあ……」
「最低限、部屋にお風呂がついてなきゃ嫌。スニエリタだって、……やだよね、お風呂なしの生活」
そんなもん銭湯でも行けよ、と言おうとしたが、スニエリタがおずおずと言った。
「すみません、わがままで……でも、わたしからも、お願いします」
「……わかった」
このやろう、スニエリタを使うとは卑怯な。
いや別に誰が言おうと関係はないが、ふたりともから言われるようなら考慮する必要があるだろう、共有資金管理者としては。
そういうわけで条件に合う宿を探す。
そもそもミルンはシレベニに来たのが初めてだったので、たとえ激安宿を目当てにしていたとしてもどこあるのかわからない。
……というかこの街の構造自体何がどうなっているのやら。一応看板は出ているが、どこの通りも見通しが悪くてわかりにくい。
ひたすらそのへんの住民に尋ねてようやく探し出した部屋風呂つきの宿は、かなり街のはずれのほうにあった。外側が近いためか、外壁の穴から差し込む光が届いており、中央部に比べて明るい。
中に入ると思ったよりも賑わっていて、もしかしたら近くで何か催しでもあるのだろうかと思いながら、とにかく宿泊受付へ。
すると案内係のお姉さんは、大変申し訳なさそうな顔でとんでもないことを言い放った。
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蔵屋
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