幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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西の国 ヴレンデール

068 そして「事件」は起こった

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 ふたりは服を脱いで、まず盥の脇で軽く身体をすすいでから、備え付けの石鹸を泡立てて洗っていく。

 石鹸には意外とその土地の文化が現れていて面白い。
 ワクサレアでは、一応フィナナ以外の街では可能なかぎりお風呂に入っていたが、薬草を使った健康志向のものが多かった。
 イキエスにいたころは花や果物の香りがするものとか。

 ヴレンデールの石鹸はとろりとした半透明の卵色で、はちみつの匂いがする。だいたいどこの町でもそうだったが養蜂が盛んなのだろうか。
 この宿のものも同様で、しかも白い花びらが練りこまれている、ちょっと高級そうな石鹸だった。

「受付の横に、同じものが置いてありましたね。売ってるんでしょうか」
「なるほど。たしかにこれいいなって思ってて会計のときに目に入ったら、そのまま買うよね。いい匂い~♪
 スニエリタ、背中洗ったげるからあっち向いて」
「あ、ありがとうございます」

 入浴にあたってスニエリタは長い髪をまとめているので、今は首から下があらわになっている。

 その白一色だったはずの背中に浮かんでいる、黒々とした紋様の上を、優しく泡を載せた手で撫でていく。
 こんなになめらかできれいな肌なのに、痣にも刺青にも見える歪な模様が台無しにしている。

 やっぱりタヌマン・クリャのやつ最低だな、と改めて思った。まったく碌なことをしない神だ。

 ふとその下の、腰のところにある淡い痣が目に入る。これは前からあったものだ。
 ハーネルで尋ねたとき、操られていたころのスニエリタは、ミルンと戦ったときのものだと答えた。

 でもミルンとの戦闘で負ったにしては、そのときすでに薄くなりすぎていた。
 今から思うに、それよりずっと前、スニエリタが自殺を図ったときのものではないだろうか。そう思うと胸が痛む。
 泡を洗い流しながら、一緒にぜんぶ流れ落ちてしまえばいいのに、なんて思ったりもした。

「ララキさん、今度はわたしが洗ってもいいですか?」
「ぜひ! ありがとー」

 位置を交代し、今度はララキが背中を洗ってもらう。ちょっとくすぐったいがなんか楽しい。

「あの、ララキさん。……ミルンさんの、ことなんですけど……」

 洗いながらスニエリタが話しかけてくる。

 なぜ今ミルンの話を、と思ったが、もしかすると顔を見ずに話せる機会を探っていたのだろうか。
 そういう奥ゆかしさはお嬢さま特有のものなのか、スニエリタ独自なのか、どっちだろう。

 ともかく相槌をうってその先を促す。──うん、なあに?

「彼は、どういう人なんでしょうか」
「……うん? どういう、ねえ……まあ悪いやつではないよね。いい人だよ。紋唱術は安定してるし、ケチだけどしっかりしてるし、まあいろいろ雑だけどわりと真面目だし」
「頼りに、なりますよね」
「そうだね。で、急にどうしたの? 今夜のことが不安なんだったら」
「あ、いえ、そうではなくて」

 ララキの背中を擦っていた手が、そこでふと止まる。

「あの……わたし、眼を醒ましたときのことを、覚えてなかったんです。
 その、ずっと意識がなくなっていて、気づいたら"外の神"に操られていたって、信じられないような話を聞いたので、驚いて……」
「そりゃそうだ、しかもそれを言ってくるのが見知らぬあたしたちだもんね。わけわかんなかったよね」
「その節はほんとうにありがとうございます。
 ……それでその、最近になって、そのときのことを思い出せるようになって……あのとき……わたし、いちばん最初に見えたのが……ミルンさんのお顔で……」

 うむ。言わんとしていることはわかった。

 あのときララキが紋唱係を担っていたため、ミルンは心臓マッサージ及び人工呼吸による心肺蘇生係をやっていたのだ。
 ララキが紋章について質問したせいでそういう流れになったのだが、そもそもララキに心肺蘇生の心得はないので、どっちにしろその立ち位置にしかなりえなかった。

 でもスニエリタにはたぶんそれがわからない。

 だから目覚めた瞬間に視界に飛び込んできたであろうやつの顔のことを、今ようやく落ち着いて思い出せるようになって、改めて静かに混乱しているのだろう。

 あれは一体なんだったのだ、と。

 状況を察したララキはすっぱりと事実を伝えた。人工呼吸してただけだよ、と。
 夢も希望もない回答ではあるが、どのみちスニエリタは婚約者を持つ身、他の男と何かあったかもしれない疑惑は無用だろう。
 余計な誤解は長く持たせないほうがいい。

 ……ミルンはもしかしたらもしかするかもしれないが、もし本気で好きならちゃんと自分で言えばいい。
 たぶん本人も遣獣と同じで自分の力で掴まえたい性質だろうし。

「……そうですか、じゃあ……彼が、その、以前の私と何かその、あったわけでは、ないんですね……」
「うん、まあ、そうだね」
「わたし……信じられないくらい優しくしていただいて、今日も事故のとき、庇っていただいて……もしかして、なんて思ってしまったんです。でも、勘違いなんですね。なんだか恥ずかしい……わ、忘れてください」

 いや、ある意味それは勘違いではないかもよ、と言いたいところだが、ぐっと堪える。
 言ってみたいけど。言って、なおかつミルンのほうもつついてみたい気持ちはやまやまだけど。

 しかしララキにはもうシッカという大切な相手がいて、もはやシッカ以外の男性などすべてじゃがいもかとうもろこしに見える勢いなのでなんとも思っていなかったが、もしかしてミルンって男性として魅力的なのだろうか。
 それとも下心というか裏に隠したものが滲み出ている結果、スニエリタには実際よりよく見えているのだろうか。

 というか、スニエリタ、これ、脈あるんじゃないの?
 ミルン? ねえミルン聞いてる?

 身体を洗い終えて盥に入りながら、このあとミルンが戻ってきたらどうしようと今さら猛烈に悩み始めるララキだった。

 スニエリタとこの会話をしたあとでまともにミルンの顔を見られる気がしない。
 絶対笑う。
 笑うっていうか、噴き出す感じではなくて、たぶんにやける。

 でもってスニエリタが気にしてたよって言って反応を見たい。

 だめだ、想像するだけで面白すぎる。あ、あのミルンが、本気にして照れたりしたらどうしよう……!

 これまでの反応からするときっと最初は怒るけど、あとからじわじわ気になってきて、それで言動に滲んでくるんだ、きっとそうだ。
 それをララキは笑わずに見ていろと? 絶対無理。

 いや、違う、決してミルンを笑いものにしたいわけではない。そこは勘違いしないでほしい。

 ララキにとってミルンは大事な仲間であり、あと同年代で彼ほど好き勝手に話せる相手が今までいなかったこともあって、なんとなく兄弟がいたらこんな感じなのかもな、と思えるのだ。
 そういう意味でなく、人間としては好きなので、もし恋をしているなら応援したい。その気持ちに偽りはない。

 ただ、女の子の扱いかたが雑で、いかにも妹以外の女の子とあんまり接してきませんでした、みたいなあのミルンが恋をしているかもと思うと、どうしても面白がってしまうのだ。

 なんというか、あんまりにも微笑ましくて。

 とか考えてひとりにやにや笑っていたので、スニエリタがなんとも言えない表情でこちらを見る。

「……あの、ララキさん?」
「あ、ごめんごめん、スニエリタのことじゃないから気にしないで。……ふふっ」

 とにかくミルン、スニエリタは婚約者のことを好きではないみたいだし、略奪するなら応援するよ!

 ……って、言いたい。本気でこれはいつか言いたい。

 スニエリタにしたって、ぜんぜん好きじゃない相手と結婚なんてするの、きっと嫌だろう。
 でも厳しそうな家みたいだしなあ、きっとミルンも大変な

「ただいま、おまえら何はしゃいで……」

 ?

 ???

 ?????


 ……!?


 その場の空気が、一瞬にして凍りついた。

 ララキが眼にしたのは、衝立の上からひょいと顔を出したミルンであり、その手前で肩にお湯をかけているスニエリタである。
 ミルンの顔はすぐさま引っ込み、一瞬遅れてスニエリタがかわいらしい悲鳴を上げた。

 ララキはすっくと立ち上がり、タオルを一枚体に巻いて、衝立の外へと飛び出した。

 部屋の床に、小さくなっているミルンである。
 なぜか正座をしている。態度で反省を示しているつもりなのかもしれないが、とりあえずララキは息を吸い込むと、いちばん低い声で言った。

「……覗いたね?」
「悪い……そういうつもりじゃなかったんだ、つまりその、事故だ」
「あのさあ、衝立あるの見て察せないかな? 水の音しなかったかなあ??」
「いや、あの、ほんと……すいません……」
「もっと大きい声で」
「……すいませんでした!」

 ああ、やれやれ。

 頭に上った血がだんだん下がっていって、冷えてくると、ララキも落ち込んできた。
 シッカ以外の男に身体を見られてしまった……しかもこんな紋章だらけの汚いのを……。

 とぼとぼと浴室に戻り、もう一度タオルを解いて盥に入る。

 スニエリタはちょっと泣いていた。無理もない。
 とりあえず〆ておいたよと慰めたが、それでどうにかなるものでもないだろう。

 というか、見られた。スニエリタの背中を。

 風呂から上がったあと、たぶんミルンはそのことを聞きたかったのだろう、何度かララキのほうをちらちら見てきたが、無視した。冷静に対応できる気がしない。
 スニエリタのことは極力ミルンの反対側に来させたし、彼女のほうでもミルンを避けまくっていた。
 ちょっと可哀想だけど今晩に限っては自業自得だ。

 結局その夜は、食堂に行って夕飯を摂っている間も、部屋に戻ってから寝るまでの間も、ずっと三人とも黙り込んでいた。
 未だかつてないほど重苦しい沈黙に包まれた夜になった。

 ちなみにミルンはスニエリタに避けられたショックからか、長椅子を借りるのを忘れてしまっていたので、その晩は盥で寝たらしい。というか確認しなかったが別の宿は見つからなかったようだ。

 でも、ララキとスニエリタは狭いのを我慢して一緒の寝台で寝た。スニエリタがそうしてほしいと言ったのだ。
 この状況でひとりで寝るのが心細かったのか、それともあんなことがあってなおミルンのことを思いやったのかは不明だが、とりあえず無駄に寝台をひとつ空にしただけで終わった。
 寝台が空いたことをミルンに言わなかったからだ。

 こんな狭い室内でも、まともに会話が成立しなければたったそれだけのことすら伝わらない。
 悲しいことだが、今晩に限っては自業自得だ。ミルンが。

 そんな心穏やかでない状態で眠ったララキは、すっかり今夜の約束のことを忘れていた。

 夢で、ララキはどこかの山の上をうろうろしていた。雰囲気が寂しげなハールザ山ではなく、どちらかというと、緑の豊かなイキエスの野山という感じがする。それに、なんとなく見覚えがあるような。

 どこだろうと思いながらとりあえず昇っていると、巨大な岩が見えてきた。

 ここを知っている。前に来たことがある。
 この、やたら大きな岩が積み上げられた遺跡は間違いない、この旅で最初に訪れたカムシャール遺跡だ。

 ようやく思い出したララキは、そこで遺跡の前に何かが佇んでいることに気づく。

 ハヤブサだ。青みがかった濃い色と、白の羽毛に覆われた猛禽。
 ただなぜかそのハヤブサの顔には布が巻かれていた。くちばしは出ているが、眼が見えない。
 布にはイキエスでよく見る柄の刺繍が施されていて、その色柄から女性だとわかった。

 メスのハヤブサ、つまり女神ヴニェク・スーだ。

 緊張しながらその前まで歩いていく。いつ攻撃されるかと内心びくびくしていたが、ヴニェクはぎりぎりまでぴくりとも動かなかった。
 が、ララキがある程度近づいたところで威嚇するようにいきなり翼を広げたので、びっくりして声が出た。

『呪われた民の娘よ……どういうつもりでこのわたしを呼びつけた? 理由によってはこの場で八つ裂きにしてくれる』

 そして、第一声がめちゃくちゃ物騒だった。
 あなたのことは呼んでないです……なんて言おうものならほんとうに八つ裂きにされるだろうなと思い、ビビリながら口を開いた。

 フォレンケにはあとでめちゃくちゃ文句言ってやる。

「スニエリタの背中に、変な模様が浮かんでて、それを相談したかったんです」
『模様? 紋章の類か?』
「わからない。見たことない図形で、ぐにゃっとしてて……」
『要領を得ないな。フォレンケから、タヌマン・クリャに絡んだ話だと聞いたが、その根拠は何だ』
「あの子は最近までクリャに操られてて、そのときはそんな模様なかったの。解放されたその日に出たから、きっと何か関係があると思う」

 ヴニェクはしばらく何か考えていたが、見てみないことにはわからない、と言った。

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