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西の国 ヴレンデール
084 双刀の断罪者
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その後、カイさんとは別れた。別れ際に彼はミルンの肩を叩いて言った。
「またどっかで会おうな。なんてったって我らが神は"旅人の伴"でもあるんだからよ」
スニエリタはその言葉の意味がわからなかったのでミルンに尋ねたところ、西ハーシ人の主神であるカーシャ・カーイという神の異名のひとつにそういうものがあるらしい。
その神の名はスニエリタも聞いたことがある。
クシエリスルの七柱の盟主にも数えられていることが多い、有名なオオカミの神だ。
なんでもカイさんもハーシ西部の出身なので、それでミルンと主神が同じらしかった。
「そういう異名がつくってことは旅好きの神さまなの? なんか楽しそう」
「夏場はな。冬になると豪雪地帯だろ、毎年けっこうな数の人死にが出るんだが、それを慣用句的に『カーシャ・カーイに呑まれた』って言うぐらいだから」
「怖いですね……」
「ガキのころはよく『いたずらしたらカーシャ・カーイが食べに来る』って脅されたしな。
それにハーシの西部には他の神がほぼいねえんだよ。南のほうには多少忌神の文化圏に入ってるけど、表の神は駆逐されたんじゃねえかと思う。そういうような神話もけっこうあるし」
「……なんでそんなやばい神さま祀ってんの?」
「凶悪だからこそ祀るんだよ。それだけ強いってことでもあるし、祀ることで穏やかにさせるって意味合いもある」
そういうものなのだろうか。
スニエリタの故郷アウレアシノンは、ペル・ヴィーラという神を主神として祀っている。こちらも七柱の盟主に数えられることが多い。
半人半魚、あるいは魚そのものの姿で描かれ、大本の神体はマヌルドの国土を流れる大河ペルとされている。
ペル・ヴィーラは豊穣と豊漁を司る神だ。
マヌルド東部は長い海岸線を保持しており、漁業従事者にとっては漁の安全を護る存在としても厚く信仰されている。
恐ろしい逸話はあまり聞かない。神話において彼が他の神と敵対したときも、その頑強な鱗でいかなる攻撃をも跳ね返した、というような防戦寄りの話が伝わっているくらいだ。
逆に不思議だなと思う。そんな温厚な神を祀っているマヌルド人が大陸でも屈指の軍事国家を築き、かたや恐ろしいカーシャ・カーイを主神としたハーシ人は永らく奴隷の立場に甘んじていた。
神と民との性質が真逆だ。
民族としての立場が弱かったからこそ、強い神に縋ったのかもしれない。
そんなことを考えながら遺跡をあとにした。さすがに疲れが出てきていたのか、行きより帰りのほうが道が長く感じる。
すっかり歩みが遅くなってしまったスニエリタを、ララキもミルンもちょくちょく振り返っては立ち止まって待っていてくれたので、申し訳なさに泣きそうになった。
もっと体力をつけなくちゃ。本日三度目ほどになるその思いを噛みしめながら、スニエリタはもう一歩進もうとした。
──え?
そこで、なんとも言葉にしがたい違和感に襲われて、思わず踏み出した足が止まってしまう。何かが変だ。
上手く言えないが、喩えるならその感覚は、よく知っているはずの道を歩いていたのに、間違えるはずのない曲がり角をひとつ誤ってしまったような、急に知らない場所に入ってしまったような……そんな不安感だった。
慌てて顔を上げる。
ララキもミルンもちゃんとそこにいる。でも、彼らの表情も固い。スニエリタと同じ違和感に囚われているのだろう。
結界だ、とララキが言った。ミルンも頷いた。
これがそうなのか、と思った。まともに意識がある状態で体験したのは初めてかもしれない。
もしかしたら蘇生されたときもそうだったかもしれないが、あのときはそれどころではなかったし、入る瞬間を経験してはいなかった。
何がくるのだろう。不安を抑えつつふたりに駆け寄る。
まわりは異様なほど静かで、風の音ひとつしない。
やがて、カシン、という冷たい音がどこからともなく聞こえた。
その音がだんだんこちらに近づいてくる。
カシン……カン、カリッ……カシン、カシン、カシン……。
音が鳴る間隔も次第に短くなっている。
刃物の音だ、と思った。刃物同士を擦り合わせている光景が頭の中に広がった。
「……ひっ!?」
そしてそれは、唐突に姿を現した。音がほとんど目前に迫ったかと思った瞬間、あるはずのない霧が晴れるような感覚とともに、巨大な黒い物体が三人を見下ろしていたのだ。
あまりに大きいので一瞬何かわからなかったが、よくよく見ているとそれは、身の丈五、六メートルほどもあろうかという、常識はずれな巨体のサソリだった。
身体と同じくらいの長さのある尾の先には、もちろん巨大な鎌が備えられている。人間に掠りでもしたら間違いなく一撃で死んでしまう。
スニエリタは眩暈に襲われ、遠のきかけた意識の中で誰かに抱き止められたのを感じた。
ララキたちが心配して声をかけてくるのも感じたが、都会育ちのスニエリタには、巨大なサソリをこれ以上直視しているのは無理だった。
「ちょっとちょっと! その外見どうにかしてよ、スニエリタが気絶しちゃってるでしょ!」
ララキが神に向かって盛大に文句を垂れ流している。
申し訳ないようなありがたいような複雑な感情に襲われながら、スニエリタはなんとか意識を保とうと心の中でもがいた。
『いや、どうにかと申されても……』
「せめてもうちょっと小さくするとかあるでしょ! でかすぎ! さすがにあたしでも怖い!」
「悪いけど俺もちょっときつい……」
『失敬な! ああもう致し方あるまい、これならば文句はござらんな!?』
サソリは苛々しながら両腕の鋏を叩き合わせた。あのカシンという音がもう一度鳴ったかと思うと、その巨体がみるみるうちに小さくなり、いつしか人間の姿へと変わっていた。
黒髪を後ろに束ね、ヴレンデールの民族衣装を纏い、両手に刀を持った出で立ちの男性だ。
よかった、これならスニエリタも直視できる。
支えてくれていたミルンに礼を言い、彼の手を離れると、スニエリタも試験に参加するべく姿勢を整えた。
『うむ、では改めて。……拙者、ヴレンデールが西の地神、オーファトと申す! 人の身でありながらアンハナケウを目指す者たちよ、いざ力比べと参ろうぞ!』
刀を構え、神はまるで古い劇の口上のような台詞を高らかに唱えた。
だが三人は顔を見合わせた。そしてララキが言った。
「……あたしたちが会う予定なの、あなたじゃないんだけど」
『えっ……何と?』
「いやだから、フォレンケがあたしたちに会えって言ったの、あなたじゃないんだってば。……あれ? あたしが言ってること何かおかしいかな……」
『何を申すかと思えば。ここは拙者の所領ゆえフォレンケの管轄にはござらん。然らば主らとフォレンケの口約束など無効! では、いざ参る!』
「いやいやいやちょっと待ってー!!」
ララキは叫んだが待ってくれるはずもなく、オーファトは刀を構えたまま詰め寄ってきた。
そのまま振りかぶって刃を三人に叩き込んできたため、ララキとミルンは飛びのき、スニエリタはミルンに突き飛ばされる形で難を逃れる。
地面に転がってしまったので立ち上がろうとして、頭上で金属を打ち鳴らす音が響いてぞっとした。
オーファトの刀がスニエリタに振り下ろされようとしていたのだ。それを防御の紋唱がすんでのところで押し留めている、両者がぶつかり合って鳴った音だったらしい。
「真っ先にスニエリタを狙うなんて卑怯者っ!」
『弱い者から狙うのは戦術としても至極真当にござる。己が身も護れぬほうが悪かろう!』
「っ……」
まったくそのとおりだ。
スニエリタは歯噛みしながら紋章の下を這って出、少しでもオーファトから距離をおこうと走る。
その背後を金属音が追いかけてきた。
あくまでスニエリタを狙い続けるオーファトの刃と、それを阻もうとララキとミルンが交互に放った防御とが衝突しているのだ。
自分でも何かしなければと思いつつも、走りながらでは紋章が描けないし、息をするのに精一杯で招言詩を唱えるのもできそうにない。歪な音に追われながらスニエリタは泣きそうだった。
何か、何かこの状況を脱する手がないか。
必死に考える。もう涙が零れていたがそれを拭うのすらせずに、走りながら己の両手を見た。
──手に、描ける?
かなり線がぶれてしまうが、そしてスニエリタの手では面積が小さすぎるが、空中に描くよりまだまともに紋唱を作れる気がする。
だが、この小さな面で描ける図形は少ない。小さくても機能して、できるだけ短時間で描ける単純なものでなければ。
一瞬でも攻撃を受け止められたら、隙ができてララキやミルンが何かしてくれる。それに賭けるしかない。
涙が次から次へと溢れてくるけれど……逆に言えば、ここには、わずかにでも水がある。
指を動かす。息を吸う。そしてスニエリタは、振り返った。
「──結鏡の紋……!」
手のひらの紋章から放たれた光が、風に散るスニエリタの涙を飲み込んで、氷の鏡を作り出した。
もちろんただの鏡ではない。オーファトの刃を受け止めたあと、その衝撃をも鏡写しにして跳ね返す。
もちろん手のひらという小ささで、しかも神を相手にそれほどの効果は望めないものの、オーファトをたじろがせることくらいはできた。
急いで防御の紋章を描く。スニエリタさえやられっぱなしにならなければ、活路は開けるはず。
「風船(ふうせん)の紋!」
『ふむぅ、思いのほかやりおるなぁああ!? やはり手合わせはそうでなければ!』
「そろそろこっちの相手もしろや、──流閃の紋ッ!」
『なんの!』
オーファトは身を翻し、ミルンの術を刀で捌きながら彼へと突進する。
スニエリタはそれを追おうとした。大して役には立てないかもしれないが、黙って見ているわけにはいかなかったからだ。
防御の手伝いでもなんでもいい。できればミルンを護りたい。さっき自分がしてもらったように。
その脚が、がくりと思わぬ衝撃に見舞われた。そしてそのまま動かなくなった。
驚いて見下ろすと、足首まで地面に埋まっていた。
いや、今も埋まり続けている──砂漠でもないのに、荒野の大地に巨大な流砂が発生していた。
オーファトがやったのかと思いきや、なぜか神も困惑している。
『邪魔をするな、……カジン!』
神は叫んだ。
彼の視線の先、流れ続ける砂の中から、何者かの眼だけがふたつ並んで覗いているのをスニエリタは見た。
→
その後、カイさんとは別れた。別れ際に彼はミルンの肩を叩いて言った。
「またどっかで会おうな。なんてったって我らが神は"旅人の伴"でもあるんだからよ」
スニエリタはその言葉の意味がわからなかったのでミルンに尋ねたところ、西ハーシ人の主神であるカーシャ・カーイという神の異名のひとつにそういうものがあるらしい。
その神の名はスニエリタも聞いたことがある。
クシエリスルの七柱の盟主にも数えられていることが多い、有名なオオカミの神だ。
なんでもカイさんもハーシ西部の出身なので、それでミルンと主神が同じらしかった。
「そういう異名がつくってことは旅好きの神さまなの? なんか楽しそう」
「夏場はな。冬になると豪雪地帯だろ、毎年けっこうな数の人死にが出るんだが、それを慣用句的に『カーシャ・カーイに呑まれた』って言うぐらいだから」
「怖いですね……」
「ガキのころはよく『いたずらしたらカーシャ・カーイが食べに来る』って脅されたしな。
それにハーシの西部には他の神がほぼいねえんだよ。南のほうには多少忌神の文化圏に入ってるけど、表の神は駆逐されたんじゃねえかと思う。そういうような神話もけっこうあるし」
「……なんでそんなやばい神さま祀ってんの?」
「凶悪だからこそ祀るんだよ。それだけ強いってことでもあるし、祀ることで穏やかにさせるって意味合いもある」
そういうものなのだろうか。
スニエリタの故郷アウレアシノンは、ペル・ヴィーラという神を主神として祀っている。こちらも七柱の盟主に数えられることが多い。
半人半魚、あるいは魚そのものの姿で描かれ、大本の神体はマヌルドの国土を流れる大河ペルとされている。
ペル・ヴィーラは豊穣と豊漁を司る神だ。
マヌルド東部は長い海岸線を保持しており、漁業従事者にとっては漁の安全を護る存在としても厚く信仰されている。
恐ろしい逸話はあまり聞かない。神話において彼が他の神と敵対したときも、その頑強な鱗でいかなる攻撃をも跳ね返した、というような防戦寄りの話が伝わっているくらいだ。
逆に不思議だなと思う。そんな温厚な神を祀っているマヌルド人が大陸でも屈指の軍事国家を築き、かたや恐ろしいカーシャ・カーイを主神としたハーシ人は永らく奴隷の立場に甘んじていた。
神と民との性質が真逆だ。
民族としての立場が弱かったからこそ、強い神に縋ったのかもしれない。
そんなことを考えながら遺跡をあとにした。さすがに疲れが出てきていたのか、行きより帰りのほうが道が長く感じる。
すっかり歩みが遅くなってしまったスニエリタを、ララキもミルンもちょくちょく振り返っては立ち止まって待っていてくれたので、申し訳なさに泣きそうになった。
もっと体力をつけなくちゃ。本日三度目ほどになるその思いを噛みしめながら、スニエリタはもう一歩進もうとした。
──え?
そこで、なんとも言葉にしがたい違和感に襲われて、思わず踏み出した足が止まってしまう。何かが変だ。
上手く言えないが、喩えるならその感覚は、よく知っているはずの道を歩いていたのに、間違えるはずのない曲がり角をひとつ誤ってしまったような、急に知らない場所に入ってしまったような……そんな不安感だった。
慌てて顔を上げる。
ララキもミルンもちゃんとそこにいる。でも、彼らの表情も固い。スニエリタと同じ違和感に囚われているのだろう。
結界だ、とララキが言った。ミルンも頷いた。
これがそうなのか、と思った。まともに意識がある状態で体験したのは初めてかもしれない。
もしかしたら蘇生されたときもそうだったかもしれないが、あのときはそれどころではなかったし、入る瞬間を経験してはいなかった。
何がくるのだろう。不安を抑えつつふたりに駆け寄る。
まわりは異様なほど静かで、風の音ひとつしない。
やがて、カシン、という冷たい音がどこからともなく聞こえた。
その音がだんだんこちらに近づいてくる。
カシン……カン、カリッ……カシン、カシン、カシン……。
音が鳴る間隔も次第に短くなっている。
刃物の音だ、と思った。刃物同士を擦り合わせている光景が頭の中に広がった。
「……ひっ!?」
そしてそれは、唐突に姿を現した。音がほとんど目前に迫ったかと思った瞬間、あるはずのない霧が晴れるような感覚とともに、巨大な黒い物体が三人を見下ろしていたのだ。
あまりに大きいので一瞬何かわからなかったが、よくよく見ているとそれは、身の丈五、六メートルほどもあろうかという、常識はずれな巨体のサソリだった。
身体と同じくらいの長さのある尾の先には、もちろん巨大な鎌が備えられている。人間に掠りでもしたら間違いなく一撃で死んでしまう。
スニエリタは眩暈に襲われ、遠のきかけた意識の中で誰かに抱き止められたのを感じた。
ララキたちが心配して声をかけてくるのも感じたが、都会育ちのスニエリタには、巨大なサソリをこれ以上直視しているのは無理だった。
「ちょっとちょっと! その外見どうにかしてよ、スニエリタが気絶しちゃってるでしょ!」
ララキが神に向かって盛大に文句を垂れ流している。
申し訳ないようなありがたいような複雑な感情に襲われながら、スニエリタはなんとか意識を保とうと心の中でもがいた。
『いや、どうにかと申されても……』
「せめてもうちょっと小さくするとかあるでしょ! でかすぎ! さすがにあたしでも怖い!」
「悪いけど俺もちょっときつい……」
『失敬な! ああもう致し方あるまい、これならば文句はござらんな!?』
サソリは苛々しながら両腕の鋏を叩き合わせた。あのカシンという音がもう一度鳴ったかと思うと、その巨体がみるみるうちに小さくなり、いつしか人間の姿へと変わっていた。
黒髪を後ろに束ね、ヴレンデールの民族衣装を纏い、両手に刀を持った出で立ちの男性だ。
よかった、これならスニエリタも直視できる。
支えてくれていたミルンに礼を言い、彼の手を離れると、スニエリタも試験に参加するべく姿勢を整えた。
『うむ、では改めて。……拙者、ヴレンデールが西の地神、オーファトと申す! 人の身でありながらアンハナケウを目指す者たちよ、いざ力比べと参ろうぞ!』
刀を構え、神はまるで古い劇の口上のような台詞を高らかに唱えた。
だが三人は顔を見合わせた。そしてララキが言った。
「……あたしたちが会う予定なの、あなたじゃないんだけど」
『えっ……何と?』
「いやだから、フォレンケがあたしたちに会えって言ったの、あなたじゃないんだってば。……あれ? あたしが言ってること何かおかしいかな……」
『何を申すかと思えば。ここは拙者の所領ゆえフォレンケの管轄にはござらん。然らば主らとフォレンケの口約束など無効! では、いざ参る!』
「いやいやいやちょっと待ってー!!」
ララキは叫んだが待ってくれるはずもなく、オーファトは刀を構えたまま詰め寄ってきた。
そのまま振りかぶって刃を三人に叩き込んできたため、ララキとミルンは飛びのき、スニエリタはミルンに突き飛ばされる形で難を逃れる。
地面に転がってしまったので立ち上がろうとして、頭上で金属を打ち鳴らす音が響いてぞっとした。
オーファトの刀がスニエリタに振り下ろされようとしていたのだ。それを防御の紋唱がすんでのところで押し留めている、両者がぶつかり合って鳴った音だったらしい。
「真っ先にスニエリタを狙うなんて卑怯者っ!」
『弱い者から狙うのは戦術としても至極真当にござる。己が身も護れぬほうが悪かろう!』
「っ……」
まったくそのとおりだ。
スニエリタは歯噛みしながら紋章の下を這って出、少しでもオーファトから距離をおこうと走る。
その背後を金属音が追いかけてきた。
あくまでスニエリタを狙い続けるオーファトの刃と、それを阻もうとララキとミルンが交互に放った防御とが衝突しているのだ。
自分でも何かしなければと思いつつも、走りながらでは紋章が描けないし、息をするのに精一杯で招言詩を唱えるのもできそうにない。歪な音に追われながらスニエリタは泣きそうだった。
何か、何かこの状況を脱する手がないか。
必死に考える。もう涙が零れていたがそれを拭うのすらせずに、走りながら己の両手を見た。
──手に、描ける?
かなり線がぶれてしまうが、そしてスニエリタの手では面積が小さすぎるが、空中に描くよりまだまともに紋唱を作れる気がする。
だが、この小さな面で描ける図形は少ない。小さくても機能して、できるだけ短時間で描ける単純なものでなければ。
一瞬でも攻撃を受け止められたら、隙ができてララキやミルンが何かしてくれる。それに賭けるしかない。
涙が次から次へと溢れてくるけれど……逆に言えば、ここには、わずかにでも水がある。
指を動かす。息を吸う。そしてスニエリタは、振り返った。
「──結鏡の紋……!」
手のひらの紋章から放たれた光が、風に散るスニエリタの涙を飲み込んで、氷の鏡を作り出した。
もちろんただの鏡ではない。オーファトの刃を受け止めたあと、その衝撃をも鏡写しにして跳ね返す。
もちろん手のひらという小ささで、しかも神を相手にそれほどの効果は望めないものの、オーファトをたじろがせることくらいはできた。
急いで防御の紋章を描く。スニエリタさえやられっぱなしにならなければ、活路は開けるはず。
「風船(ふうせん)の紋!」
『ふむぅ、思いのほかやりおるなぁああ!? やはり手合わせはそうでなければ!』
「そろそろこっちの相手もしろや、──流閃の紋ッ!」
『なんの!』
オーファトは身を翻し、ミルンの術を刀で捌きながら彼へと突進する。
スニエリタはそれを追おうとした。大して役には立てないかもしれないが、黙って見ているわけにはいかなかったからだ。
防御の手伝いでもなんでもいい。できればミルンを護りたい。さっき自分がしてもらったように。
その脚が、がくりと思わぬ衝撃に見舞われた。そしてそのまま動かなくなった。
驚いて見下ろすと、足首まで地面に埋まっていた。
いや、今も埋まり続けている──砂漠でもないのに、荒野の大地に巨大な流砂が発生していた。
オーファトがやったのかと思いきや、なぜか神も困惑している。
『邪魔をするな、……カジン!』
神は叫んだ。
彼の視線の先、流れ続ける砂の中から、何者かの眼だけがふたつ並んで覗いているのをスニエリタは見た。
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