幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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西の国 ヴレンデール

090 女神の困惑

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 魚神の怠惰ぶりにはルーディーンもたびたび呆れているが、もう目くじらを立てる段階は過ぎた。
 あの神には何を言っても仕方がない。

 それよりドドの消息のほうが今は気になる。これほど多くの神が集まっている状況で、ひとり議場を抜け出してどこに行き、何をしているのか。
 彼にも裏切り者の嫌疑はかけられているのだ。
 ルーディーンとしては考えたくもなかったが、それが現実である。

 相談会もひと段落したところだし、探しにいくべきだろうか。

「でもさ、ヴィーラもドドもカーイもさ、全員あれで根は真面目なんだよね。まあヴィーラに関しては矜持がめちゃくちゃ高いから、それを保つためには失敗を許さないって感じだけど」
「ドドもなぁ、異常に女好きなところがアレだけど……アフラムシカが一時盟主を外れるってなったときはもう南部はおしまいかと思ったもんだけど、意外と頼りになるからな。あの人たぶんバカっぽいのはだと思うよ」
「それを言ったらカーイもだね。ね、ルーディーン」
「……えっ?」

 考えごとをしていたら急にフォレンケに同意を求められたので、ルーディーンは驚いて気の抜けた声を出してしまった。
 そもそも彼らの話を聞いてもいなかった。謝りながら何の話だったかと尋ねたところ、あの軽薄なオオカミの神のことだったので、ルーディーンは肩を竦める。

 あの神は初めてルーディーンの前に立った瞬間から今日までずっと、薄笑いを浮かべて嘘だか冗談だかわからないことを言い、そうしてこちらの反応を伺っているような男だった。
 たまに顔だけ真面目そうに振舞っても口から出る言葉に真実味がない。

 だから裏切り者の話も性質の悪い冗談であってほしかった。

 だが、これまで聞かされた他の言葉はすべて、ルーディーンが冷たくあしらえば彼も笑って流したのに、あれだけはそうではなかった。
 真面目に言うのでこちらも真剣に聞いたし、同席した他の神もみんな彼を信用していた。それだけ事態が深刻だったから。

 ルーディーンももう少し彼のことを信じてやるべきかもしれない。だが、なぜかふたりきりになると冗談めかして口説いてきたりするものだから、いまいち受け入れきれていないのが現状だ。

 女好きで名高いドドでさえ彼ほどしつこくはない。
 酒が入っていればの話だが、ドドの場合はなんというか、もっと明るくてからっとしている。
 からかったり余計な演技をしたりせずに真正面から、今夜どうだい、などの直球の誘い文句を投げてくるし、はっきり断ると拗ねる。とてもわかりやすい。

 カーイは、……そう、まるで、ルーディーンのほうから彼の求める言葉を口にするように誘導しているような感じがするのだ。しかも彼はそれを遊びのような感覚でやっている。

「私にはどうもそう思える機会がありませんね。あなたやオヤシシコロほど付き合いが長くないせいでしょうか」
「そう大して変わんないよ? ……あ、カーイがこっち見た」
「心なしかおいら睨まれた気がする。ルーディーンから離れろってことかなぁ、おっかねえや……でもルーディーンって別にカーイといい関係ってわけでもないんだろ? よく口説かれてるけど」
「はは、一方的な片想いだよね。カーイらしくないというか、逆にすごくらしい気もするけど」
「フォレンケ……その冗談は面白くありませんよ」

 ルーディーンが溜息混じりに言うと、フォレンケは苦笑いした。

「カーイもしつこいよね。でもさ、ボクは彼の味方をしたいわけじゃないけど、あの熱意だけは認めてあげてもいいんじゃない?」
「熱意?」
「だって何百年も振られ続けてる相手をそれでもなお口説こうとするってすごいことだよ。それも他でもないあの、ペル・ヴィーラ並みに矜持の高いカーシャ・カーイだもの、ほんとなら一回でも振られた時点でなかったことにしたいぐらい悔しいんじゃないかな。逆にそれでムキになってるのかもしれないけどね」
「……でも、しょせんは冗談でしょう、あれは。そんな遊びにかける熱意なんて認められませんよ」
「えっ……ルーディーン、それ本気で言ってる?」

 なぜかそこでフォレンケとヤッティゴが顔を見合わせた。

 ヤッティゴは困惑しているし、フォレンケは呆れたようすで彼に頷いている。妙な空気が流れている。
 自分の言動が何かおかしかっただろうかと、ルーディーンは首を傾げた。

 フォレンケはさっきよりも気の抜けた苦笑を浮かべながら、諭すような口調で言った。

「あのね、ルーディーン。単なる冗談であなたを百年単位で口説き続けるほど、彼はバカじゃないよ」
「そうだよ。盟主だし、強いし、黙ってても女の子のほうから寄ってくるのに、靡かないひとりにしつこくする必要なんかないんだもんな。さすがにぜんぶ冗談で済ましちゃカーイが可哀想だ」
「まあ普段あれだから信じがたいのもわかるけどね。でもさあ、ルーディーンって、カーイを除いたら今までドドくらいにしか迫られたことないだろ?」
「ええ、まあ……」
「それってね、みんなカーイが怖くてあなたに近寄れないからなんだ。さっきみたいに睨みをきかせてるから」

 俄かには受け入れがたい発言の数々にルーディーンは面食らった。
 フォレンケもヤッティゴも裏表のない素直な神で、これまで彼らの言葉に嘘がなかったと知っているだけに、ルーディーンはただ困惑するしかできなかった。

 カーシャ・カーイはクシエリスル制定前、大陸北部の神をほとんど自分の腹に収めてしまったと聞いている。それゆえ精霊の出自である彼が、盟主の座を預かるまでに巨大化したのだと。

 それを聞いたとき、ルーディーンは、彼もガエムトのように力でのし上がってきた神なのだな、と理解した。武力行使に頭は要らない。
 経歴だけ先に知っていたので、実際に本人を見て驚いた。
 もっと話の通じない粗野な男だと思っていたが、思いのほか彼の性格は明るく開放的で、ときにそれは軽薄さと不真面目さとしてルーディーンの眼には映った。

 時代が下るにつれ、彼が思っていたよりいろいろ考えているらしいことにも気づいた。
 何か問題を目にしたとき、彼はすぐに対応策を考えて口にするし、それらはしばしば的を得ていた。

 確かに彼は賢い。頭の固いルーディーンよりはずっと柔軟で、それゆえ不測の事態にこそ頼りになるということは、さすがにルーディーンも認めている。

 だが、それとこれとは別だ。彼の性格についてずっと疑念を感じてきたのは事実なのだ。

 今さらあれが本気でしたと言われても信じられない。
 気まぐれにお堅い女をからかっているだけだ、こちらが真に受けでもしたら、それこそ冗談が通じないと言って笑うのではないか。
 だってそうだろう、もののついでのように女の肩を抱けるような男をどうして安易に信じられる。

 しかしながらフォレンケの指摘も当たっている。
 あのドドでさえ素面のときには変な絡みかたをしてこないし、それ以外の男神も、なんとなくいつも距離を取られているように感じていた。

 どうにも納得がいかなくて、ルーディーンはぼやくように言う。

「女神たちから、カーイに気を持たれているのが羨ましい、と言われたことがあって……そのときも、さっきのように否定しましたが、彼女たちは何も言いませんでしたよ。そういう噂が大好きな子たちなのに」
「そりゃ言わないでしょ……あの子たちのほうがカーイに気があるんだから、自分たちに不利なことはさあ……」
「どんだけ鈍感なんだいあんた……」

 フォレンケとヤッティゴがあまりにもあからさまに呆れているので、ちょっとルーディーンはむっとした。

 確かにいつもゲルメストラやラグランネからも、ルーディーンはぼんやりしすぎだ、とか言われているが、これでもルーディーンは日々いろいろなことに気を配っている。
 世界中のいろいろなことに気をつけている。

 でも、言われてみると、そのぶん自分のことは後回しにしているかもしれない。
 カーイのことにしても、他の人に迷惑がかかっているようではないからと、日常の瑣末なこととして適当に処理していた。

 ……ということは、やっぱりフォレンケたちが言っていることは事実なのか。

 カーシャ・カーイが、自分に、ほんとうに好意を持っていると。
 そしてそれを自分は今まで数百年、いや千年近くに渡って足蹴にしてきたわけだ。

 いつかの彼の言葉がふいに脳裏に蘇る。

 ──たまにはこうして、俺のことだけ見つめてくれよ。

 あのときカーイはどんな顔をしていただろうか。
 そしてルーディーンはどんな言葉を返しただろうか。いつものように、馬鹿馬鹿しいと冷たくはねつけたはずだ。

 急に申し訳なさが募ってきて、ルーディーンは思わずカーイがいるほうを見た。するとそこにはもう彼の姿はなくなっていた。
 正式に議論の終了が通知されたわけではなかったが、すでに帰ってしまった神もいるようで、いつの間にか神々の姿そのものがまばらになっている。

 カーイも帰ってしまっただろうか。いや、それなら一言かけてくれるはずだ。先に帰るときはいつもそうしている。
 だからまだどこかにいるだろう。
 探して謝ったほうがいいか、と一瞬考えて、それからかぶりを振った。さすがに周囲の情報に振り回されすぎている。

 別に彼の真意がどうだろうと、ルーディーンは彼に応えるつもりはない。それなら今後も態度を変える必要はないだろう。

 でも、ああ、どうしたものか。

 これからはきっと、冗談として受け流すことができない。
 自分でも態度に出やすい性質だとわかっている。
 次に前のような台詞を吐かれたら、ルーディーンはどんな顔をしてしまうだろう。

 表情や口調が乱れないように気をつけなければ。隙を見せないに越したことはない。

 深呼吸をして、ルーディーンは立ち上がる。

「私は……そう、ドドを探してきます。あなたがたはもう帰っていいですよ」
「え、なんでドド?」
「彼とも話したいことがあるんです」

 それだけ言ってその場を離れる。
 一応嘘は言っていない。とくにドドとしたい会話はないが、彼の動向が気になっているのは事実だ。
 せめて今どこで何をしているかを確かめなくては。

 もし何か怪しいことをしていたなら、……その、カーイにも、教えなければならない、だろう。

 切り株の広場を離れると、鬱蒼と茂る樹々がルーディーンの行く手を阻む。
 アンハナケウの大半はこうした森林に覆われている。この場所には気候や植生といったものが存在せず、東西南北のあらゆる種類の樹木と草花が混生していて、常駐する神々が手入れなどをしているそうだ。

 常駐しているというのは、つまりもう大陸に自分の居場所を持たない、人間たちから忘れられた存在ということである。
 アンハナケウはそうした名すら失った神の受け入れ場所でもあるのだ。

 森の中をうろうろしていると、そんな神とすれ違うことも少なくない。
 彼らにドドを見なかったか聞くと首を振った。ドドのように体躯も神としての力も立派な神を見落とすことはありえないので、事実このあたりには来ていないのだろう。

 探す場所を変えてまたしばらく歩き回っていると、茂みの向こうで誰かがひそひそと話しているのが聞こえてきた。
 会話しているからにはふたり以上いるようだが、声のひとつは女のものだ。

 相手がドドだとしたら、彼のことなので、単にお気に入りの女神とふしだらな関係でも持っているのかもしれない。それ自体はわりとよくあることだ。
 疑っただけ損だったか、とルーディーンは肩を落とす。
 それでも一応は怪しい企みでないことだけ確かめようと、別に聞きたくもないが耳を済ませる。

「……カーイ……」

 思わぬ名前が聞こえてきたせいだろう、他意はないはずだが、ルーディーンはたぶん動揺したのだろう、前脚が震えたのかもしれない。
 その瞬間のことはよく覚えていない。ただ、枝を折ってしまって、そこに軽く体重をかけていたものだから、少し前のめりによろけてしまった。

 もがいた両腕が茂みをかきわけ、出たくもないふたりの前に躍り出た。
 そこにいたのはカーシャ・カーイと、同じ大陸中央の女神であるラグランネで、ふたりともぽかんとしてこちらを見ている。

 ラグランネの細い前脚がカーイの首元に絡んでいて、さすがにその意味がわからないルーディーンではない。

「……、失礼しました」
「あ、っおい、ルーディーン!」

 見たくもないものを見てしまった。邪魔しては悪いからとすばやくその場を辞し、ルーディーンは反対側へとひたすら歩く。
 カーイが何か叫んだのが聞こえたが内容までは聞き取れなかったし、聞く気もない。

 何も考えずに早歩きしていたら切り株の広場に戻ってしまった。

 フォレンケたちはもう帰ったあとだった。まだ残っていた神々に挨拶をして、ルーディーンも帰ることにした。
 完全にドドのことを忘れていたと気づいたのはワクサレアに戻ってからだった。

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